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妖しの王都、春爛漫の頃…。
晴明の館で、簡単な酒宴の席が設けられていた。いつものように客は将之ただ一人。
「遅くなったが、花見はどうか…」と誘ったのは晴明だが、酒と酒肴のほとんどは将之の土産だったので、どちらが主で客なのかと問うのも意味がないように思える。
薄い曇り空の下、十六夜の月だけが階に淡い影を落とし、星天の動きは知れようもない。
宮中における春の様々な儀式は過日滞りなく行われ、巷でも人々の心を騒がせる花の美はすでに盛りを過ぎたのか、都は静かな夜に包まれている。
共に生業に忙しく、やっと二人で飲み明かす時を得た夜であった。
正面に広がる庭は、手入れがよいというには野趣が勝ちすぎているが、藤哉が丁寧に掃き清めているらしく、清しい印象である。若葉が緑を濃くして、そこ、ここに小さな花も見受けられた。
その中で不思議なのは、さほどに大きくはない桜木が、他の桜は散り果てているにもかかわらず、白い花をたわわに咲かせていることだった。
なぜ、晴明の館にある一本の桜だけが満開の花を残しているのかと、将之は聞かなかった。
花の美しさをのんびりと愛でていられる時間を持てなかった晴明にそれを聞いたところで、かなり偏屈な返事がもたらされるのにきまっている。
春のけだるい濃密な空気と、けれど僅かな風に花びらを散らすいっそ潔い花の香りが微妙な均衡を保ち、杯を傾ける二人はいつもより心持ち無口であった。
藤原の家に献上された貴重な清酒が、ゆっくりとした調子で杯に満たされ、喉に落ちていった。
将之といい勝負をするはずの晴明の目元が、今日はもうほんのりと赤い。
春の訪れは命とともに疫神をも運ぶ。都の霊的守護力を高めるために陰陽寮も忙しい。その忙しさがやっと一段落ついたばかりである。
しかも、晴明の抱えるものは、繁忙な陰陽寮の仕事だけではない。
(疲れてるんだろうなぁ)
それとも気心の知れた友人と飲む酒が、晴明の張りつめた心を緩めたのだろうか。
(だったらいいがな……)
幾度もの生死の縁に立った熾烈な戦いの後、「影連どのが憎むことに疲れ果てる前に…私は滅せる!」と晴明は断言した。その時からの晴明は、どこか冴え冴えとしすぎている。
出会った頃に比べれば格段に明るくなった表情にも、時折怜悧な影がよぎり、細面の美しい顔の下に、悲痛な決心が透いて見えた。
今夜はなお艶やかな髪が淡い月明かりを写し、張りつめた琴線を思わせる。
口にした決心にどこかで迷いながらも、多分晴明は戦い抜くであろう。だが、その決心の裏にある追いつめられた孤独に、将之は危うさを感じていた。
親友と自他共に認める将之にしたところで、晴明と影連の確執と憎悪、他者の介入を拒む執着に関して、そのすべてを理解しているとはいい切れない。
(何も聞くまい。いいたきゃこいつは話すだろうしな)
そう将之の腹は決まっている。けれど晴明のこの危うさには、不安がつきまとうのだ。
(俺たちは負けない…あきらめない…だが…)
自分の杯を飲み干すために、弓なりになった晴明の白い喉元が闇に浮かぶ。
案ずるほどには酔っていないのだろうが、飲み干して漏らした長い息は、わずかに湿って聞こえた。
「綺麗だな」と、将之がつぶやくようにいった。
「ああ、無事に厄災もなく散ってくれるとね」
そういった後に晴明は「くくっ」と喉を鳴らす。
「猪の少将殿も、さすがにこの風情には惹かれるんだな」
「猪で悪かったよ」
むくれたようにそっぽを向くが、将之が「綺麗だ」と形容したのは花ではない。
晴明はふと立ち上がると桜木に向かって印を結び、小さく何かをつぶやいた。
ぬらりとした春のものではない涼やかな風が一陣、屋敷へと吹き込むと同時に、桜の梢が揺れて花を散らせた。わずかな灯明に照らされて、小さな白い花弁が闇に散華する。
「おい、そういうのも雅だって言うかもしれんが、無理にも散らすことはないだろう」
「確かに、花は散るから美しいなんて悲観的な考えは向かぬな」
(散るのは自らの意志ではない…けれど…)
いたずらっぽく笑うと晴明はくしゃみを一つした。
「ほら見ろ。お前が風を呼ぶからだ。そろそろ中に入って飲み直そうぜ」
男同士の気楽さで、各々の膳と酒器を御簾の内に運び込み、そこでまた酒宴が続けられた。
したたかに酔うというにはまだ足りないが、酒は心地よい開放感をもたらせていた。
数えきれぬ程、互いに注ぎ交わし、残りも僅かとなった酒を晴明の差し出した杯に満たそうとして、将之はその杯を溢れさせた。
「おっと、すまん」
「まったく、繊細さに欠ける奴だな」
なみなみと杯を満たす酒は、晴明が身動きしようものならこぼれてしまいそうだ。
「動くなよ晴明。これ以上はもったいない」
将之は躊躇いもせずに晴明の杯の酒をすすった。顔を近づけると指先だけを酔いに染めて、晴明の手が零れた酒に濡れていた。
どういう衝動だったのか…。
ただ、濡れた白い手が、春の中にあって凍えて見えた。
将之は晴明の腕を掴むと自分に引き寄せ、酒に濡れた指先を自らの口元に運び含んだ。
「馬鹿、何を…」
予想外の行動に、晴明は呆然とする。
慌てて自分の腕を引き戻そうにも、将之の晴明を捕らえる力はそれを拒んでいた。
「ふざけるなよ、将之」
酔いの回った将之の口内は熱く、凍えて見えた晴明の指先はやはり冷たい。
「将之…! いいかげんにしないと」
晴明の言葉が終わるより先に、将之は掴んでいた晴明の腕をなおも引きずり、軽々と晴明の肢体を組み伏せていた。
「将之?」
驚きに見開かれた薄茶の瞳、床に広がる銀糸の髪、酒に濡れた唇は紅を引いたかのように紅い。押さえつけた四肢は抵抗するかのように筋肉を緊張させ、白い肌がわずかに上気していた。
どこをどう見ても晴明は、若々しい生命力に満ちている。
それでも将之は、晴明の中に凍えた小さな魂を見てしまったのだ。
そしてその魂が、春の嵐に浚われてしまうに違いないという恐怖。
もちろんそれを言葉にできる程には、将之は世慣れていない。
「やめろ…」と理性をのこした晴明の声は、将之の口唇で塞がれた。
将之の口づけは無遠慮でぎこちなかったが、その性格さながらに熱く一直線だった。苦しげに眉根をつめていた晴明の表情が、やがてその情熱の下で和らいでいく。
実のところ今宵も飲むほどに酔いは廻った。けれど枷をかけられたような晴明の心は、酩酊したいと欲する四肢を拒んでもいた。
強張っていた手足からゆっくりと力が抜けた。
その変化に気が付いて将之は、貪るように乱暴な口唇を離して、組み敷いた晴明を見つめた。
瞬きの音さえ聞こえそうな距離で、二人の双眸が互いの瞳だけを写していた。
「お前を抱いていいか?」
「莫迦! そんなこと聞くな!」
(こんな時まで、直球勝負な奴…)と、晴明は呆れたが、その目元に一層の朱を浮かばせる。
つぎに交わした口づけは、想い合う二人のそれであった。
(望んでいたのは、私の方だったのだろうか…)
乱れた胸元に将之のぬくもりを感じながら、晴明は春に酔っている。
後にその日のことを、「なんとなく感だな」と将之はいい、晴明は「野生の感のくせに」と小さく一人ごちたのではあった。
了
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