彩色不帰

篠塚 玲

 

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 九月の声を聞いて間もないとはいえ、街では残暑というにはうだるような日が、まだまだ続いている。
 それが、汽車とバスでほぼ半日を費やして山の中に入ったとたん、そこはすでに豊穣の秋であった。
 民家と呼べるものからはそれほど離れてはいないが、登山ルートでもなく、ましてや観光地などとはおよそ縁遠い、ただ山深い所である。
 大学が休みであろうとなかろうと、遠慮無くどこそこへ行こうと誘う羽佐間に、夏中連れ回されたあげく、ここを最後にするからとやってきた場所であった。
 里の者でも、滅多とは使わない荒れた山道を登っていくと、絹を薄く広げたような滝を横においた小さな祠にぶつかり、道はそこで終わっていた。
 猿渡遼太郎は今、その滝の脇にある崖を登っていた。
 崖は高さも傾斜も、見た目ほどきつくはない。けれど水気を含んだ土や苔生した岩肌が、足下を危うくしていた。
 羽佐間の、冒険とも風来坊ともつかない旅に同行するのは楽しかったが、流石に、休み明けには提出しなければならない論文もたまっていた。
 そろそろ、慣れた土地へと引き返す頃合いだと猿渡は考えている。なのに、わずかな抵抗感を感じるのは、旅の終わりの寂寥感なのか、このあたりの秋めいた空気のせいかは、計りかねた。
 気を抜くつもりはなかったが、雑念は猿渡の足を数度滑らせた。踏みとどまったのは、ひとえに若さと、放浪のあげくに鍛えられた筋肉のおかげである。
 登り切って、狭い平地に出たところで、二人は背負っていた荷物をおろし、煙草を燻らせた。
「ま…これで終わりにすっからよ、しゃんしゃんとつき合ってくれや」
 羽佐間が、紫煙をうまそうに吹き出して言った。
「今更、何を…」
 ジャンキーな喫煙家である猿渡も、せわしなくニコチンを肺に送っている。
「三回、滑った」
「数えてたのか、お前」煙とともに吐き出すように言った。
「さっきの祠の主さんに、連れて行かれないようにしてくれよ」
「こんな色気のない男に、誰が目をつけるもんか」
「あれ? 遼ってば、まだ自分の色気に気がついてない? 俺なんか、もうとっくに魅せられてのに」
 羽佐間はほとんど初対面の時から、猿渡のことを姓では呼ばず、「遼太郎」と名を呼んだ。この頃では「遼」と呼び捨てるか、「遼ちゃん」の後にハートマークを付けて呼ぶ。
 ハートマークは嫌だったが、羽佐間のあけっぴろげな好意の一つである呼び方は、嫌いではない。もっとも猿渡自身は羽佐間を「雄大」と名前で呼んだことはなかった。
 いつの間にか、羽佐間の顔がすぐ横にある。陽に透けるようなライオンヘアが、さわさわと猿渡の顔にかかっていた。
「ああっ! 気を入れなおすから、そうやってすり寄ってくるのはやめろ!」
 猿渡は、鬱陶しそうに、羽佐間をはねのける。
「それにさぁ、ここの伝承に興味をもったのは、遼なんだぜ」
「ああ…」と、猿渡は煙草の火を、携帯灰皿で押し消した。
「ここには、何かあるさ。それがなんだかは、まだわかんねぇよ。この山系を北に辿ると、古墳がぞろぞろどころか、ほとんど墳墓の上に家がのっかっているような場所だろ。だからこそ、こんな所に、佐保姫の宮があるなんてのは変だ」
「なんで、そのお姫さんじゃ変なんだよ」
「佐保姫だぞ…。佐保姫っていえば春を司る女神なんだよ。春と言えば方角は東。ここは当時の都から言っても東じゃない。ここを祀っているあの集落から見ても東には思えない。まぁ、多分、このあたりの豪族の墓あたりだとは思うんだが」
「未盗掘だったらラッキーってか?」
「盗掘されたからこその、伝承さ。古事記の内容にも合わねぇし、佐保姫の名前があがるはずはない。ただちょっと面白いと思っただけだ」
 二人が一服している狭い平地から先は、川幅も一段と狭く、岩ばかりがごろごろとして、獣道すら見受けられなかった。
「あるとすれば、この近辺だ。もうこれ以上奥じゃないな。」
 見まわすと特に変わった様子もなく、どこにでもあるような川の光景と、山の斜面があるばかりだった。
「じゃあ、とりあえず、うろうろしてみようぜ」
 羽佐間はそう言うと、斜面を軽く登っていく。登山になれた羽佐間にすれば、この程度の運動は余裕である。
「遼〜! ここは、ちょっと見晴らしがいいぞ〜」と猿渡の頭上から声が降ってきた。
「そういう所は、気をつけろ。神域ってことが…」(多い)と羽佐間を見あげようとして、目前の景色がなくなった。
 猿渡は、深い闇の中に滑り落ちていた。転落したのは身の丈の半分ほどであったが、そのまま堆積していた腐葉土に足下をすくわれて、一気に斜め下方へと滑り落ちたらしい。昼間の光の中にいた瞳孔が、暗闇に反応できずに猿渡の視覚を奪っていた。
「遼〜!」羽佐間の声は真剣だった。猿渡が地中に消えたのが見えたのだろう。
「大丈夫だ。怪我は、多分ない…」
 あちらこちらをしたたかに打ったが、幸い捻挫もないようだった。闇の中で身じろぐようにして、自分の体の動くことを確認する。
 やがて闇に目が慣れてきたのだろう、猿渡自身が落ちた所からも薄明かりがもれているせいもあって、どうやらそこが人工的に造られた場所であると知れた。
「遼! 自力で登れるのか」
「ロープを下ろしてくれ、足場が悪い」
「待てるか?」
「ああ、切羽詰まった危険はない」
「じゃあ、荷物をここに上げるから、待っていろ」
 羽佐間の斜面を下りていく気配が感じられる。地面からそれほど深くはないらしい。
 ベストのポケットを探り、オイルライターに火を点ける。
 わずかな明かりで充分だった。そこは間違いなく古墳の玄室、死者の眠る奥津城であった。
 中央に据えられた石棺の蓋が、割れて床に置かれている。
 被葬品らしい物も、いくつか散らばっていた。
 猿渡は、自分が落ちた穴が盗掘坑であったのだろうと思う。いつとはわからないが、この墓は盗掘され、その坑道は埋め戻されないまま時が流れ、土の流入により蓋をされていたらしい。考えなしに歩いた自分の不用意を、猿渡は自戒していた。
「遼〜!」とまた羽佐間の声が聞こえた。
「下ろすぞ〜!」という声とともに、ロープだけではなく、羽佐間の体が狭い石室の中に現れていた。
「無茶をするなよ。下りてきていいなら声をかけるさ」
「お前一人じゃ心許なくてね。冒険は俺の得意分野なんだから、まかせときって」
「ここには、もう冒険は必要ないな。発掘調査の実地測量を待つしかない」
「なんだ、妖しいからくりや、トラップはないの? 残念だなあ」
「そうだな、浪漫があるとしたらこの被葬者と佐保姫の関係だな」
 猿渡は、ライターを羽佐間から渡された懐中電灯に切り替えて、あたりを照らした。
「みごとに盗掘されているな」
 石棺の中には朽ち落ちた人骨が少しと、数個の玉が散らばっているだけである。
「盗掘するやつらは、身ぐるみまで剥いでいくのか」
「繊維は分解されやすいからな。あまり残らんよ。まあ盗掘された時期が埋葬のすぐ後だと、衣類だって豪華なままの物が残っているから持って行かれる可能性は大きいな。服飾品ってやつは、お宝としちゃ価値は低いが、資料としちゃおそっろしく価値のあるものなんだから、せめて手加減してほしいところなんだがな」
 羽佐間の懐中電灯は、石室の四方の壁を浮かび上がらせていた。
「お…、ちゃんと聖獣が描かれている」
 猿渡は、のぞき込んでいた石棺から頭を上げて、羽佐間が投げる光の方に目を移した。
「玄武…四神だ。ならば東に青龍、西に白虎、南に朱雀。天上には…やはり天文盤があるか………いや、これは…?」
 猿渡が示したのは四神の描かれた上部、天上との境あたりに絵が描かれていた。
 仙女の飛来図であった。沢山の仙女が雲の間で、思い思いのポーズをとっていた。
 四神もそうであったが、この天女達はひときわ色鮮やかな衣を纏っている。壁に崩落箇所が多数あるので、完全な状態とはいえないが、その色彩は長い時を経たとは考えられない。
 考古学上、第一級の資料と言える。
「単純に考えると、この壁絵のせいで、ここの被葬者が、佐保姫と呼ばれるようになったんだろう。佐保姫は、染色と機織りも司るからな」
「よくまあ、こんなに鮮やかな色が、残っているもんだ」
「顔料ってやつは鉱物が多いからな。割合、変退色に強い。天敵は酸化だ…」
 そこまで言って猿渡は、自分が落ちた穴を振り返る。羽佐間も続いて下りたので、穴は大きく地上に口を開けている。
「しまった、酸素が…」
「遼! 色が…消える」
 壁面の色鮮やかだった絵が、見る間に色褪せ、薄くなっていく。
 何か手だてはなかったかと、猿渡は自分の記憶を忙しく探る。けれど、壁画の変退色は猿渡のスキャニングを待ってはくれなかった。
 すっかりと色を失い、まさしく朽ち果てたような線画だけが残っていた。
 猿渡は唇を噛みしめて、その線画を見つめていた。
「俺は…莫迦だ…」
「遼………」
「資料をあたっていない。予備調査をしていない。不用意に現場に踏み込んだ。それがこの結果だ……」
 自分の落ち度ゆえに招いた失態だ。失ってしまったものの価値が、まだ一介の学生である猿渡にのしかかっていた。
「これを止める方法があったのか?」
「いや…。この墓の中に入れば、早いか遅いかはあっただろうが、変退色は免れない。だが…」
「じゃあ、お前のせいじゃない」
「俺の浅はかさのせいだ。予想も立てないまま、踏み込んだ俺のせいだ。こんなことで貴重な資料を失ってしまった。もう少し用心深くしていれば」
「してても、失っていたんだろ? それならせめて、学者の卵であるお前がその目で見たんだ。お宝は他の誰でもない、お前の中に眠った。そう考える方が、せめてもの手向けにならんかな」
「そんなに、簡単に思えるか。あの鮮やかな古代の色。朱か、いや丹、紺青、緑、黄色…それだけじゃなかったな。あの色…色は…」
 猿渡の声は自分自身への激昂で、玄室の中に響き渡る。
 ふいに羽佐間が振り向いた。猿渡の胸ぐらを掴みあげる。
(殴られる…)そう思った。
 けれど羽佐間のとった行動は、意外なものだった。
 ぐいっと引き寄せられたかと思うと、羽佐間の顔が近づいた。冷たい口唇が重ねられる。
 猿渡は目を見開いたまま、立ちすくんでいた。
 あっけにとられている猿渡の口唇をやすやすと割開き、羽佐間の舌が侵入した。
 逃げ出そうとする猿渡を、羽佐間は力強く引き留めて放さない。
 息の仕方を忘れたように、猿渡の呼吸が止まる。苦しみに眉根が寄り、瞳が閉じられた。
 そうしてやっと、羽佐間は猿渡の口唇を解放した。
 猿渡は大きく息を吐き出し、吸った。
「キスする時は、鼻で息するんだよ」
「な…なにを…」
「一人で熱くなるんじゃねぇよ! お前一人の失態だと。冗談じゃない。誘ったのは俺だ。それなら、お前の失態の原因は、俺ってことになる!」
「俺はそんなことをいってるんじゃない! 今のキ……は、なんなんだよ!」
「遼のこと愛してるもんね」
「あい…って、お前…お前は……」
 乏しい明かりの中で、羽佐間には猿渡が顔を真っ赤にしているだろうと容易に想像できた。
「お前が地中に消えた時、俺がどんだけ自分自身に憤ったかわかるか」
 それでも、羽佐間の猿渡を呼ぶ声は、冷静だった。いや、自己抑制が利いていたのだ。
「すまん…」
 猿渡は、うつむいて羽佐間からの視線をはずす。
 失ったものを嘆いても虚しいばかりだ。
 失敗を思い悩んでも取り返しはつかない。
(今はあの色を、自分の内に秘めていよう)
(いつか…あの鮮やかな彩色を、多くの人が見るなんてことはあるのだろうか)
 猿渡のその思いが達成されるには、まだ数十年の時が必要であった。
 二人がその墳墓を後にしたのは、それからたっぷり数時間後のことだった。簡単にではあったが、猿渡は羽佐間をフルにこき使って、内部の計測を行っている。

 今は、秋津州大学で教鞭をとる猿渡遼太郎講師の研究室の引き出しに、一つの色褪せた管玉が眠っている。自戒の意味をこめて墳墓から持ち帰ったものだ。
 その菅玉をどうしたのかと尋ねられれば、猿渡は学生時代の記念だと言った。
 それから彼はこう付け足す。
「誰かが持っていくなら、俺がもらっておくね。俺はそれだけの仕事はしている」
 そして、羽佐間は時折こっそりと耳打ちする。
「遼。あの愛の記念はちゃんと持ってる?」
 猿渡はその都度、あの玉を粉々に砕いてやろうかと思っていた。