数学の試合と三次方程式の公式

    【方程式の起源】

     一次方程式や二次方程式は、潜在的には(ピタゴラスの定理など)ユークリッドの『原論』にもあるし、ピタゴラスより千年以上も前の古代バビロニアや古代中国にもありますが、それまでは無理数を数として認めるまでには至っていません。数の概念を正の無理数まで一般化したのは9世紀のイスラム哲学者アル・ファーラービーで、その頃のバクダッドで方程式を対象にとする代数学(algebra)が生まれました。そして移項とか同類項簡約といったものも生まれていますが、なぜイスラムに代数学が生じたかについて、イスラムが商業都市として発展していたことに起因するのではないかという説があるくらいでよくわかっていません。代数学はこれから600年以上アラビア世界で発展した後、16世紀のイタリアの数学者によってイタリア代数学として生まれ変わりました。



    【数学の試合と三次方程式の公式】

     16世紀の中頃、イタリアでは問題を出して、解いて、討論する一種の公開討論会めいた数学の試合が流行しました。ここでは賞金が稼げるし、数学師としての評判をとれるのです。こんなこともあり、当時は数学者が”ある事実”を発見しても、すぐには公表しないというのが一般的でした。つまり、試合に勝った者が”ある事実”の優先権を確保することができたのです。

     さて、そんな数学の試合において、当時もっともよく出題されたのが「三次方程式を解きなさい。」という問題でした。この方程式の術はイスラム代数学に端を発するアラビア渡りの秘術であり、ボローニャ大学の数学教授のシピオーネ・デル・フェルロ(Scipione del Ferro 1465〜1526)がその術を会得していましたが、それを公表しないで弟子のフロリドに教えて亡くなってしまいました。

    フロリドは三次方程式を解けることを吹聴し、この試合にタルタリア(Niccoloo Tartaglia 1499〜1567)が挑戦しました。タルタリアは努力家で独学で数学を身につけた、当代随一の数学者でした。タルタリアはフロリドとの試合のとき、密かにフロリドの秘蔵していた術を探索し、そこに自分の創意を加えた新しい方法をも身につけていたので、タルタリアは圧勝して三次方程式のチャンピオンになりました。

    当時の秘密主義の風習から、タルタリアは三次方程式の術を公表しなかったのですが、この試合のあとに彼のもとにその方法を教えて欲しいと申し入れる人が殺到しました。

    その中にイタリア代数学の中心的存在で、医師、占星術師、賭博師でも(悪徳で)有名であったジェロラモ・カルダノ(Gerolamo Cardano1501〜1576)という人物がいました。カルダノはうるさいほどにタルタリアにつきまとい、だましたり、ときには脅したりして頼み込み、とにかく「絶対に他には公表しない」 と誓って、証明を教えず方法だけを教えてもらいました。ところが、カルダノは約束を破って自らの著書である『Ars Magna(大いなる術)』(1545)にこの術を掲載し出版してしまったのです。

    これにタルタリアが黙っているはずがありません。怒ったタルタリアは、カルダノの誓約違反を責めまくり、カルダノと試合をすることになったのですが、カルダノは逃げ、 弟子の若いロドヴィゴ・フェラリ(Lodovico Ferrari 1522〜1565)を代役にたてました。 しかし、タルタリアは、不覚をとってフェラリに負けてしまったのです。というか、フェラリはのちに四次方程式の術(これも大いなる術に入っています)も会得するほどの実力者で、数学の才能についてはタルタリアやカルダノ以上であったといわれています。

    そんなわけで、これがのちに三次方程式の公式の別名として『カルダノの公式』と名付けられたのはいうまでもありません。四次方程式の一般解については『フェラリの公式』」となっています。カルダノにしてみれば、タルタリアはいつまでたっても公表しないので、他のフェロ派などの術も加味して整理したということでしたし、タルタリアもフロリドの術を探索したのですから、五十歩百歩という感じがしますが...

     以上のことから、現在伝わっている三次方程式の解法はタルタリアの解法ということになりますが、実際は誰が最初に三次方程式の一般解を求めたかは定かではありません。


    【複素数の萌芽】

    方程式は複素数を生み出しましたが、これは二次方程式から生まれたのではなく、三次方程式から生まれたのです。
    (複素数のうち、虚部が零でないものを実数でないことを強調して虚数と呼びます。)

    二次方程式だけなら、高校一年生までの数学のように、実数解の範囲で「解なし」で済んでいたのですが、三次方程式の公式の途中の二次方程式に虚数解の出てくるところがあるのです。(→注目)
    カルダノは虚数解を「ありえない解」として書いていたのですが、三次方程式の公式は、複素数への確かな扉が開かれる結果となったのです。カルダノは虚数解について、次の言葉を残しています。

    「それによって受ける精神的苦痛は忘れ、ただこれらの量(根号内が負の解)を導入せよ」

    こうして、二乗して負になる新しい「数」が数学上の概念として導入されることとなりました。ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz 1646〜1716)はこれを「負の単位の架空の平方根」と呼びましたが、1777年にオイラー(Leonhard Euler 1707〜83)が、『ルート−1』の代わりにi(imaginaryの頭文字)という記号を導入し、ガウス(Carl Friedrich Gauss 1777〜1855)もこれを採用しました。



    カルダノの著書「大いなる術」で示されている三次方程式の解法は、アラビアの代数と同じように言葉で説明され、幾何学的な証明が与えられています。ちょっと難しすぎるので、読み飛ばしていただいて結構ですが、三次方程式の解法のなかに、2次方程式の出てくるところがある(→注目)のだけはチェックしておいて下さい。 式の変形が複雑なので、現代使われている代数記号(x,yなど)を使って、その解法を説明します。では、始めます。


    【三次方程式の解法】

    3次方程式は一般に x3+ax2+bx+c=0と表すことができます。
    しかし、次のような変形をすると、3次方程式は,最初からx3+px+q=0という形に表せます。
    (ただし、この時代は,「係数はすべて正」でなければならなかったし、まだ,負の解は採用されていません。)

    x3+ax2+bx+c=0 について、x+a/3=yとおくと

    x3+ax2+bx+c

    =(y−a/3)3+a(y−a/3)2+b(y−a/3)+c

    =y3+(−a2/3+b)y+2a3/27−ab/3+c

    となって、2乗(y2)の項が消えます。
    ゆえに、3次方程式は、最初から2次の項のない、x3+px+q=0という形で表せるということになります。

    そして,当時は,次の3つの3次方程式が考えられていました。

    x3+px=q (p,qともに正)(1)
    x3=px+q (p,qともに正)(2)
    x3+q=px (p,qともに正)(3)

    タルタリアが知っていたのは(1)の型のみでした。



    それではx3+px=qについて公式を求めてみましょう。

    x3+px=qについて、x=u+vとおくと

    x3+px

    =(u+v)3+p(u+v)

    =u3+3u2v+3uv2+v3+p(u+v)より、

    x3+px=qはu3+v3+(3uv+p)(u+v)=qという形で表せます。

    したがって、u3+v3=qとなるようにu,vを選べば、3uv=−pからu3v3=−p3/27ということになり、

    二次方程式の解と係数の関係からu3とv3は二次方程式t2−qt−p3/27=0の二つの解であることになります。

    ゆえに、u3とv3は二次方程式の解の公式から求まります。(→注目)

    uの三乗根をα、vの三乗根をβとすると、求める解x=α+βとなります。


    【最後に】

    フェラリは数学の才能を認められ,カルダノの書記として、またのちにボローニャ大学の教授となりました。
    彼の発見した4次方程式の解法は,4次方程式の解法を3次方程式の解法に還元し,平方根,立方根によって解くものでした。

    また、アーベルは1824年に『代数方程式に関する論文(一般的な5次方程式を解くことの不可能の証明)』の中で、5次以上の代数方程式は一般に 代数的には解けないこと、 すなわち加減乗除と累乗根に開くという代数的操作だけで 解く一般的方法は存在しないことの証明しました。

    数学者たちのゲームにすぎなかった方程式の術から複素数の世界が生まれ、それはいまや電子部品の設計や量子力学の定式化など、現代の最先端技術に絶大なる貢献をしています。先人の知恵が私達の暮らしに恩恵を与え、永遠に生き続けている現実を考えると、数学が本当に興味深いことだと思うのですがいかがでしょうか?

     


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