■日本側 「甲案」講和修正案

■日本側講和条件(甲案) 「修正案」■
◇アメリカ合衆国は満州国を承認
◇アメリカ合衆国は、ウィーク島、グァム島の日本へ割譲
 日本は、アリューシャン列島をアメリカ合衆国に返還
◇フィリピンの国連委任と独立準備政府設立の承認
◇ハワイ諸島(含むミッドウェー諸島、ジョンストン島)の
 国連委任と独立準備政府設立の承認
◇ハワイ諸島一帯、マーシャル諸島全域(含むウィーク島)、
 アリューシャン列島、ライン諸島の非武装化
◇アメリカ合衆国は日本に戦費賠償金10億ドルの支払い
◇日米間の通商条約の復活および一部改訂
◇アメリカ合衆国の関税障壁の改訂
◇軍備縮小会議の開催(英を交えて海軍軍縮会議の開催)
◇捕虜の交換、資産凍結解除etc

 日本政府の新たな講和条件は、最初よりいくぶん緩和されたものになります。
 アメリカ政府からすればまだまだ不満がありますが、日本がこれ以上譲歩する気がない事から、ようやく双方の条件をたたき台として話し合いが始まります。
 そしてダラダラとした交渉を重ねる事で、ようやく講和条約の締結に持ち込みます。会議は日本側の再提案があったので半年以上に及び、そのまま英国の代表を呼びつけて、海軍軍縮会議が行われる事になります。
 なお、最終的な講和条件内容は、以下のように決定します。

◆最終講和条約決定内容(1935年6月)
アメリカ側負担 ・満州国を承認
・ウィーク島、グァム島の日本へ割譲
・アリューシャン列島の非武装化
・フィリピン、ハワイ諸島、ウィーク島、グァム島、ミッドウェー諸島、ジョンストン島の放棄
・ライン諸島の非武装化
・戦費賠償金5億ドルの日本への支払い
・アメリカ合衆国の関税障壁の改訂
日本側負担 ・フィリピン、ハワイ、アリューシャンからの全ての軍備の撤退
・アリューシャン列島をアメリカ合衆国に返還
・中国本土から必要最小限以外の軍備の撤退
・マーシャル諸島全域(含むウィーク島)の非武装化
双方負担 ・通商、国交の回復
・フィリピンの国連委任と独立準備政府設立の承認
・ハワイ諸島(含むミッドウェー諸島、ジョンストン島)の国連委任と独立準備政府設立の承認
・捕虜の交換、資産凍結解除etc
・日米間の通商条約の復活および一部改訂
・アジア・太平洋の包括的な平和条約と同盟の締結
・軍備縮小会議の開催(英を交えて海軍軍縮会議の開催)
・捕虜の交換、資産凍結解除etc

◆講和会議に関する補足

 ようやく進展し始めた講和会議は、双方の喧々囂々な、日米双方の権高な姿勢を仲介役の英国がなだめすかすという、何とも奇妙な講和会議となりつつも、何とか結果が出されます。
 英国がせっせと日米の仲直りの仲介に奔走するのは、もちろん日本とせっかく同盟して何かと手助けしたので、この戦争から最大限の利益を得るために他なりません。
(何もしないで、ただ睨み付けるのも立派な援護射撃です。)
 そして結果として、日本側、アメリカ側双方やや不満を持つ結果に終わることになります。特に大きな負担を強いられたと考えるアメリカ合衆国の不満は大きなものとなります。一方の日本の不満は、海での完全勝利が全く講和条約に反映されていないと考えている事からアメリカよりもむしろ仲介した英国への不満が大きなものとなるかも知れません。
 しかし、実質的に太平洋の制海権を完全に失ったアメリカには、少なくとも3年は何もできません。日本は、英国に便宜を図っておく必要もあるので、何とかこの線で話がまとまる事となりました。
 また、軍縮会議の開催は、日本側(英国側)がせっかく減ったアメリカの軍備に足かせをつけるために他なりません。
 ただし、英国はすでに軍備復活を宣言したドイツとの間で英独海軍協定を結んでしまっているので、この会議には参加せず日米だけのものとなります。
 そして、アジア・太平洋の包括的な平和条約と同盟の締結については、勝者側としてこれを受け入れない事は外交的にもできないので受け入れられます。日本としては、戦争に勝った以上もう争う必要もないのだから当然と、同盟国の英国に相談もせずに決めてしまいます。別にこの時点で日本が嫌英になっていたわけではありません。

 そして英国は、当人が何もせずに大西洋の圧力を大幅に減じる事に成功し、日本に恩を売った事で、支那市場にさらに深い利権を持つことができるようになります。さらに、日本が実質的に新たに獲得したフィリピン、ハワイの利権に食い入る事にも成功しており、この戦争の最大の勝利者となります。この講和以後、日本から恨みを買う事になるでしょう。

◆日米軍備会議(1936年2月)

 ホノルル講和会議により規定された日米による海軍軍縮会議が、サンフランシスコ市で執り行われます。
 当然会議の目的は、この太平洋戦争で大きな役割を果たした主力兵器「戦艦」をいかに制限するかです。
 そして、予想されたように、当然日米代表の主張は大きな食い違いを見せます。
 アメリカ代表は、当然とばかりに10年ほど前に締結されたジュネーブ会議と同程度の保有比率を要求し、そのためにすでに戦時計画艦の建造続行を行っているとまでの強気な発言をしてきます(実際、してなくてもしていると言うのは外交の駆け引きだからです)。
 一方の日本代表は、戦勝者としてどれだけ譲歩したとしても自国と同程度までの保有しかアメリカに認めようとしないのはむしろ当然であり、さらに自らの沈んだ戦艦の代艦の建造も、戦勝に貢献した海軍の要請もありこれを要求します。
 そして、どちらも太平洋戦争で「戦艦」の威力を目の当たりにした事から、譲る気配すらありません。
 そして、オブザーバーで顔を出していた英国が、さも当然とばかりにテーブルを挟んで睨み合う双方の政府に提案してきます。
 曰く、「我が国もかつての敵国だったドイツとの間に協定を結び、半ば一方的に軍縮すらしたのだから、近代国家として日本、合衆国政府も、国際社会に対して誠意ある態度を示すべきである」と。
 さらに英国は、ドイツとの間に結ばれた個々の規定を、日米も採用すべきだと「勧めて」きます。
 これに最初に折れるのは勝者の日本です。それは英国とはそれまでの関係と戦争での多数の借款もあり無下にできないのと、その規定が極めて日本側に有利に働くからに他なりませんでした。
 一方の合衆国は、英国の発言を受け入れる姿勢を示しつつも、その条約における日本(英国)が有利な点(巨大戦艦を既に多数保有している)を指摘し、個艦制限の一部をジュネーブ会議レベルに抑える事を要求してきます。そして、それなら艦艇保有数において譲歩してもよいと返事を返します。
 あわせて、英国の出した制限条項を全面的に受け入れるならば、保有枠の上限を設けないことも伝えてきます。

 そして、軍縮会議は、結局双方の提案をある程度受け入れた、玉虫色的なものに収まります。
 以下がその条約内容です。

■日米海軍軍縮条約(1936年2月)

今後五年間は、認められた艦以外の建造禁止
主力艦保有比率と排水量上限の改訂
航空母艦保有比率と排水量上限の改訂
補助艦艇の保有比率の決定

戦艦の大きさの制限改訂:排水量3.5万頓以下、主砲16吋以下
(ただし合衆国は、規定の半数までは排水量4.5万頓以下、主砲18吋以下まで拡大しても良い。)
空母の大きさの制限改訂:排水量2.5万頓以下、主砲6.1吋以下
主力艦の定義:1万t以上の戦艦・巡洋戦艦・航空母艦
参加国の一国でも脱落した場合は、全ての制約を無効とし、再び会議を開催する。
主力艦の改装制限の撤廃

補助艦定義
重巡洋艦:1万頓以下 主砲8インチまで
軽巡洋艦:1万頓以下 主砲6.1インチまで
駆逐艦:600頓以上の1850頓以内
潜水艦の全て
※依然として10000頓以下の空母は、日本の訴えもあり制限外

◆新規戦艦建造枠
(今後5年内に計画してよい隻数(日は代換艦))
日:米=2隻:12隻
※以後は、次の話し合いで決める。

◆旧式戦艦の廃棄(ただし、練習戦艦か標的艦として保有可能)
日:米=1隻:2隻

◆条約第一期達成時(1940年末)の戦艦数
日:米=20隻:20隻 (英国の戦艦数は24隻)

◆条約第一期達成時(1940年末)の大型空母数
日:米=6隻:6隻 (英国の空母数は6隻)

◆補助艦比率
日米とも英国の8割を目標とする。

 要するに、英国の「提案」を最大限盛り込んだと表面的に装って、双方英国の8割程度の海軍で我慢するが、その代わりアメリカは新造戦艦のうち半数は大型戦艦を建造してもよく、お互い空母は英国と同数保有しようと言うことで手打ちとなります。最終的には英国は基本的に蚊帳の外で、それ以上文句もつけれないのをいい事に勝手なものです。
 なお、8割で我慢した理由は、双方の国庫的にそれ以上の予算を組めそうにないと言う実に現実的な判断があります。その補完として、せめて後々役に立つかも知れない空母だけでもと、多数の保有枠が設定されます。

◆その後の経過・概要

 1935年6月にホノルル講和会議は何とか結ばれ、戦争は終結しました。軍縮条約も取りあえず結ばれ、めでたしめでたしです。
 そして太平洋戦争の結果、日本は実質的な新たな海外領土と5億ドル(約10〜12億円)というかなり多額の賠償金を得た事、そして戦争景気で弾みのついた経済もあり、不景気脱出のさらなる大きなきっかけとなります。
 反対にアメリカでは、フランクリン・ルーズベルトが敗戦の責任を取り失脚、彼の推進しようとした政策はその性格上(全体主義的傾向が強い)、次を引き継いだ副大統領から大統領になった政権によりことごとく中途挫折。その上、戦争時に立てられた戦時計画も敗戦で、後の軍縮条約で取り決められた分以外は大半が中止。しかも戦争債務によるさらなる財政圧迫に加えて、かなりの額の戦時賠償の支払いまであります。
 このような状況にあっては、さらに大きな不景気に見まわれるのは確実で、海軍の一時的な壊滅もあり、国力が大幅に減退することになります。
 そして、もともと失敗する可能性の高かったニューディール政策が、戦争による混乱と戦費による予算の減少、推進者の喪失などの致命的な挫折を余儀なくされれば、完全に失敗するのは明白です。
 これを実際の数値で見てみると、日本は大恐慌の影響で、経済が1割程度減速しましたが、戦時景気で再び恐慌前の水準を取り戻し、折からの景気の上昇に加え、戦勝による経済圏の拡大、海外領土への投資、戦後の外敵が少なくなった事からくる、軍備から民需への財政の転換により1935年後半より好景気に突入、支那内戦激化による武器輸出の増大などにより未曾有の経済成長を開始します。(これは、史実においても原因は違いますがほぼ同様です。)
 その数値は、世界生産にしめる日本の割合が、1929年で4%に過ぎなかったのが、10年後の1939年に9%(合衆国の経済停滞で国際比率はさらに大きくなる)へと躍進する事になります。この数値は英国のそれに迫るもので、重工業力と言う点においても日本が世界列強に肩を並べた事を表しています。(史実でも、この間に1.5倍ぐらいになっています。RSBCのように、この状態が1948年頃まで続けば、それこそ1960年代ぐらいの国力をもった日本が出現しているかもしれません。)
 また、国内政治的には、軍においてアメリカ勝利に貢献したのが海軍だったと言う事もあり、海軍の発言権がより大きくなります。
 しかも、日本の世相そのものは、好景気に突入しつつあり、その上戦後と言う開放感も手伝い、全体主義や軍国主義的傾向は、必然的に嫌うようになります。
 一方のアメリカ合衆国は、大恐慌の震源地だった事もあり、フーバーの景気回復政策が失敗した1933年には1930年の80%にも生産指数が低下、ルーズベルトの経済政策と太平洋戦争勃発による戦争特需で一時持ち直す兆しが見えましたが、その前後に再び持ち上がった根拠のない投機熱と、ルーズベルトの無謀な戦争による海軍の完全な敗北、海外領土の大半の実質的な喪失、戦時債務と戦争賠償の支払いによる政府財政のさらなる逼迫、さらに軍産複合体による戦時の投資の多くが無駄になり、過剰な投資による相次ぐ倒産などにより、再び急速な低下傾向に転落します。
 しかも、戦後も敗戦からくる世相の低迷感と政府の戦死者家族救済、賠償支払いのための一時的な緊縮財政による不完全な景気対策などのため、さらなる不景気、リセッションに突入、未曾有の長期的な不景気に突入していきます。
 これは、大恐慌の10年後の1939年のアメリカの生産指数が100から65にまで低下している事が如実に物語っていると言えるでしょう。(史実でも8割程度に低下しています。)
 また、単に指数が低下しただけでなく、計画されていた大規模公共事業によるインフラ整備の停止に始まり、企業の倒産、工場そのものの閉鎖、取り壊しが相次ぎ、その基礎力そのものが著しく低下していきます。

 しかし、民主党政権が依然として政権をになっていた影響もあり、外への外交の手段としての海軍の再建だけは最優先され、日本との軍縮条約で大規模な戦艦など艦艇の建造枠を確保していた事と、戦時にすでに確保された資材を元手に海軍の再建が押し進められます。
 これは、鉄鋼造船に対する一種の大規模公共事業となり、再生産を生み出さない事業ながら、ある程度雇用などに貢献できる事になります。
 しかし、この造船の軍からの受注は、他の産業から強い非難を浴び、これをかわしきれない政府は、他の産業に対しても特に目的もないのに兵器の発注を行い、泥縄的に一種の景気対策としてしまいます。商品のはけ口は、軍の近代化として連邦軍に吸収された後、アジア・中南米などに輸出や援助されます。
 そして、このために無理な財政を組み、それで当面返済の見込みのない国債をさらにうずたかく積み上げ、どうしようもない泥沼へと転落していきます。もちろん、1939年においても、民主党政権の懸命の努力のかいなく、景気回復には成功していません。(今の日本(2001年)のような状態です。)
 しかし、この工業分野への政府の投資は、僅かながらアメリカの工業生産と経済全体への貢献を果たし、工業生産額の低下に若干の歯止めをかけることに成功します。
 ですが、不景気による打撃を僅かな財政支出と平時の軍需だけで全て賄うことが出来るはずもなく、1929年世界の半分を占めていた工業生産額は、世界比率35%程度にまで下落し、武器輸出と民需中心の好景気でさらなる成長に湧く日本との対照をなしていきます。
 また、日本に敗北したが、そのまま副大統領が昇格して大統領となった事から、政治は民主党がそのまま政権運営を行い、共和党への対抗から外交的には以前外に向けての姿勢を強く出らざるをえず、戦争を裏から糸で引いていた英国に大きな不信をいだきつつも、この巨大な不景気を長引かせた直接的な原因とされた日本に対する恨みをさらに深くし、数年後目的もなく再建される予定の軍備をもって、再びアジアへの進出強化を図る方向に向かっていきます。もちろん、戦後の外交政策そのものも膨張外交を旨としたものとなります。

◆戦争遂行能力比較(全世界=100)(1938〜39年統計)
国名 指数
アメリカ
ドイツ
ソ連邦
イギリス
日本
フランス
イタリア
その他
合 計
33.9
15.1
14.3
10.6
9.6(史実ではせいぜい4%)
4.4
2.7
9.4
100

合 計 100
(アメリカ経済が停滞した事で、相対的な比率も変化している。)

 なお日本の経済成長率は、この時点で東京オリンピックを目指して大躍進中で、1936年以後成長率は7〜15%と言う未曾有の数値を示し続けています。つまり、そのまま成長を続ければ、1941年に史実のように戦争を迎えている時、国力は12〜14程度、RSBCのように1948年の開戦時期となっていれば、18〜21程度にまで上昇する可能性があります。(ただし、1948年の数値は数字のトリックがあるので、この数字になるのはほぼ不可能ですが。)

■After the War
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