■乙案採択「穏健案」

■日本側講和条件(乙案) 「穏健案」■
◇アメリカ合衆国は満州国を承認
◇日本政府は、フィリピン群島、ハワイ諸島、
 ミッドウェー諸島、ジョンストン島、アリューシャン列島
 をアメリカ合衆国へ返還
◇日本の同占領地域からの全ての軍備の撤退
◇ハワイ諸島一帯(含むミッドウェー諸島、ジョンストン島)、
 マリアナ諸島、マーシャル諸島全域(含むウィーク島)、
 アリューシャン列島、ライン諸島の非武装化
◇フィリピンの独立準備政府設立の承認
◇ウィーク島、グァム島の日本への割譲
◇戦費賠償金5億ドルの支払い
◇日本の満州、支那市場の一部解放と経済条約の締結
◇通商条約の復活、一部改訂
◇軍備縮小会議の開催(英独を交えて海軍軍縮会議の開催)
◇捕虜の交換、資産凍結解除etc

 講和条件の中から、穏便な「乙案」が日本政府からアメリカ合衆国とその他会議参加者に提示されました。
 そして日米代表は、双方の条件をたたき台として、交渉を重ね、比較的早期に講和条約の締結に持ち込みます。
 なお、最終的な講和条件内容は以下のように決定します。

◆最終講和条約決定内容

アメリカ側負担 ・満州国の承認
・ウィーク島、グァム島の日本への割譲
・ハワイ諸島一帯(含むミッドウェー諸島、ジョンストン島)、アリューシャン列島、
 ライン諸島の非武装化
・フィリピン群島、ウィーク島、グァム島の放棄
・戦費賠償金3億ドルの支払い
・通商条約の復活、一部改訂
日本側負担 ・フィリピン群島、ハワイ諸島、ミッドウェー諸島、ジョンストン島、アリューシャン列島を
 アメリカ合衆国へ返還
・マリアナ諸島、マーシャル諸島全域(含むウィーク島)の非武装化
・日本の満州、支那市場の一部解放と経済条約の締結
・中国本土から必要最小限以外の軍備の撤退
双方負担 ・フィリピンの独立準備政府設立の承認(5年後に独立)
・アジア・太平洋の包括的な平和条約と同盟の締結
・軍備縮小会議の開催(英独を交えて海軍軍縮会議の開催)
・通商、国交の回復
・捕虜の交換、資産凍結解除etc

◆講和会議に関する補足

 双方の喧々囂々な、日米双方の権高な姿勢を英国がなだめすかすという、何とも奇妙な講和会議となりつつも、何とか結果が出されます。英国がせっせと日米の仲直りの仲介に奔走するのは、もちろん日本とせっかく同盟して何かと手助けしたので、この戦争から最大限の利益を得るために他なりません。
(何もしないで、ただ睨み付けるのも立派な援護射撃です。)
 そして結果として、日本側、アメリカ側双方やや不満を持つ結果に終わることになります。
 少し詳細について見てみると、フィリピンの独立準備政府の設置などと言うのは、日米双方の強硬な声を封じるための方便に過ぎません。実質的に太平洋の制海権を完全に失ったアメリカには、日本が実質的に支配する同地域へ少なくとも3年は何もできないというのが妥協した大きな要因となっています。一方の日本は、植民地の獲得は建前上日本の国是にありませんし、また穏健にアメリカとの仲直りをするにしても、大人しく返したのではシャクなので、「平和と自由を愛する米国民」が表面的に文句を言えないようにしてアメリカから手放させるためです。
 これをより強固にするために、勝者である日本も互いに不利益を被る事を提示し、中部太平洋全域を実質的な非武装地帯としてしまいます。日本としては、アメリカと戦争をもうする気がない以上、これで十分です。
 また、軍縮会議の開催は、せっかく減ったアメリカの軍備に足かせをつけるために他なりません。
 しかし、アジア・太平洋の包括的な平和条約と同盟の締結については、勝者側としてこれを受け入れない事は外交的にもできないので受け入れられますが、二国間協議でないからと、その危険性を察知した英国の横やりで、次の軍縮会議に事態が持ち越される事になります。
 一方英国は、当人が何もせずに大西洋の圧力を大幅に減じる事に成功し、日本に恩を売った事で、支那市場にさらに深い利権を持つことができるようになります。
 また、民族自決の名のもと、日本と共同でフィリピンの利権を獲得する事にも成功しており、この戦争の最大の勝利者となります。この講和以後、日米双方から相応の恨みを買う可能性が高くなるかも知れません。
 ちなみに、最終的にアメリカ側が戦時賠償に応じたのは、あくまで合衆国が日本に与えた損害を賠償するのであり、占領地を「買い戻した」訳でないことを強調しますが、実際はそうです。そして、買い戻した地域を政治的にはアメリカの主導で独立させる事で、既得利益を少しでも取り返すのが目的です。これが実現したのは、もちろん日本政府が譲歩したからに他なりません。

◆その後の経過・概要

 太平洋戦争の結果、日本は新たな海外領土と戦費の一部程度とは言え賠償金を得た事、そして戦争景気で回復傾向にあった経済がさらに弾みのついた事もあり、不景気脱出の大きなきっかけとなりますが、反対にアメリカでは、フランクリン・ルーズベルトが敗戦の責任を取り失脚、彼の推進しようとした政策はその性格上(全体主義的傾向が強い)、次を引き継いだ共和党政権によりことごとく中途挫折。その上、戦争時に立てられた戦時計画も敗戦で当然その大半が中止。しかも戦争債務による財政圧迫に加えて、僅かとは言え予定外の出費の戦時賠償の支払いまであります。
 このような状況にあっては、さらに大きな不景気に見まわれるのは確実で、海軍の壊滅もあり、国力が大幅に減退することになります。
 そして、もともと失敗する可能性の高かったニューディール政策が、戦争による混乱と戦費による予算の減少、推進者の喪失などの挫折を余儀なくされれば、完全に失敗するのは明白です。

 これを、実際の数値で見てみると、日本は大恐慌の影響で経済が1割程度減速しましたが、満州事変以後当地への投資や国内の景気対策の成功、そして戦時景気で再び恐慌前の水準を取り戻し、折からの景気の上昇に加え、戦勝による経済圏の拡大、海外領土(主に満州)への投資、戦後の外敵が少なくなった事からくる、軍備から民需への財政の転換により1935年後半より好景気に突入、支那内戦激化による武器輸出の増大などにより未曾有の経済成長を開始します。(これは、史実においても原因は多少違いますがほぼ同様です。)
 その数値は、世界生産にしめる日本の割合が、1929で4%に過ぎなかったのが、10年後の1939年に9%(米国の経済停滞で比率はさらに大きくなる)へと躍進する事になります。この数値は英国のそれに迫るもので、重工業力と言う点においても日本が世界列強に肩を並べた事を表しています。(史実でも、この間に1.5倍ぐらいになっています。RSBCのように、この状態が1945年頃まで続けば、それこそ1960年代ぐらいの国力をもった日本が出現しているかもしれません。)
 また、国内政治的には、軍においてアメリカ勝利に貢献したのが海軍だったと言う事もあり、日露戦争後のごとく海軍の発言権がより大きくなります。そして、限定総力戦により政府が軍部の統制をある程度取り戻し、これも無定見な軍拡への歯止めとなります。
 しかも、世相そのものは好景気に突入しつつあり、戦後と言う開放感もあり、全体主義や軍国主義的傾向は必然的に嫌うようになり、一部軍部強硬派が支持を得ることはありません。これは、経済の拡大により市民層が大きな発言権を持つようになると、軍部の勢力の一層の減退をもたらすようになります。

 一方のアメリカ合衆国は、大恐慌の震源地だった事もあり、フーバーの景気回復政策が失敗した1933年には1930年の80%にも生産指数が低下、ルーズベルトの経済政策と太平洋戦争勃発による戦争特需で一時持ち直す兆しが見えましたが、その前後に再び持ち上がった根拠のない投機熱と、ルーズベルトの無謀な戦争による海軍の完全な敗北とそれによる国際的地位の低下、市場と海外領土のかなりの喪失、戦時債務と賠償の支払いによる政府財政の逼迫、軍産複合体による戦時の投資が全く無駄になり過剰な投資による相次ぐ倒産などにより、再び急速な低下傾向に転落します。
 しかも、戦後も敗戦からくる世相の低迷感と政府の戦死者家族救済と賠償支払いのため、一時的な緊縮財政による不完全な景気対策がおこなわれ、さらなる不景気、リセッションに突入、未曾有の不景気に突入していきます。
 これは、大恐慌の10年後の1939年のアメリカの生産指数が100から60にまで低下している事が如実に物語っていると言えるでしょう。(史実でも8割程度に低下しています。)
 また、単に指数が低下しただけでなく、計画されていた大規模公共事業によるインフラ整備の停止に始まり、企業の倒産、工場そのものの閉鎖、取り壊しが相次ぎ、その基礎力そのものが著しく低下していきます。
 そして、政府財政は不景気対策のために無理な財政を組み、それで国債をさらにうずたかく積み上げ、さらなる泥沼へと転落していきます。もちろん、1939年においても、共和党政権の懸命の努力のかいなく、景気回復には成功していません。(今の日本(2001年)のような状態です。)
 このため、1929年には世界の半分を占めていた工業生産額は、世界の30%程度にまで下落し、好景気でさらなる成長に湧く日本との対照をなしていきます。
 また、日本に敗北した事で政治は共和党が占めるようになり、外交的にもモンロー主義がより強くなり、戦争を裏から糸で引いていた英国に対英不信をいだきつつも国際社会から自ら孤立し、国内に閉じこもる事になります。場合によっては、不況の中アメリカ・ナチスが台頭して、あさっての方向に向かっていくかも知れません。

◆戦争遂行能力比較(全世界=100)(1938〜39年統計)
国名 指数
アメリカ
ドイツ
ソ連邦
イギリス
日本
フランス
イタリア
その他
合 計
28.8
15.9
15.4
11.2
10.1(史実ではせいぜい4%)
4.6
2.8
11.2
100

(アメリカ経済が停滞した事で、相対的な比率も変化している。)

 なお日本の経済成長率は、この時点で東京オリンピックを目指して大躍進中で、1936年以後成長率は7〜15%と言う未曾有の数値を示し続けています。つまり、そのまま成長を続ければ、1941年に史実のように戦争を迎えている時、国力は12〜14程度、RSBCのように1948年の開戦時期となっていれば、19〜22程度にまで上昇する可能性があります。(ただし、1948年の数値は数字のトリックがあるので、この数字になるのはほぼ不可能ですが。)

■ロンドン海軍軍縮条約(1935年8月)
 太平洋戦争の結果とその惨禍による反省から、イギリスと日本の主導により再び海軍軍縮会議が開催されます。
 参加するのは、日米と欧州側からは英国、そして軍備復活を宣言し英国と交渉を続けていたドイツ第三帝国です。
 この会議で英国は、せっかく減少した米国の軍備をある程度押さえ込む事を画策します。日本もホンネは英国と同じ意見ですが、自分たちがアメリカの船をボカスカ沈めた前歴があるので、これ以上恨みを買わないように、この会議ではむしろアメリカ擁護の側に回ります。
 同時に英国は、日本、ドイツの軍拡にも歯止めをかけようとします。これが、日本をアメリカ擁護に走らせる事になったのです。
 結果としては、いつもながらの各国の現在保有している艦艇の調整と言う方向でまとまり、実質的に海軍の壊滅している米軍は大きくその力を封じられ、日本は世界第二位の海軍国として浮上します。
 ちなみに、ドイツがこれに参加するのは、軍備復活を宣言しても、国際社会の一員として振る舞うというポーズを取るためですが、公然と軍備の復活を行えるので、それだけで大きな外交的勝利になります。

◆条約内容
今後五年間は、認められた艦以外の建造禁止
主力艦保有比率と排水量上限の改訂
航空母艦保有比率と排水量上限の改訂
補助艦艇の保有比率の決定
戦艦の大きさの制限改訂:排水量3.5万頓以下、主砲16吋以下
空母の大きさの制限改訂:排水量2.5万頓以下、主砲6.1吋以下
主力艦の定義:1万t以上の戦艦・巡洋戦艦・航空母艦
主力艦の改装制限の撤廃
参加国の一国でも脱落した場合は、全ての制約を無効とし、再び会議を開催する。
5年後に再び会議を行い新たな軍縮会議を開催する
補助艦定義
重巡洋艦:1万頓以下 主砲8インチまで
軽巡洋艦:1万頓以下 主砲6.1インチまで
駆逐艦:600頓以上の1850頓以内
潜水艦の全て
※依然として10000頓以下の空母は制限外

◆主力艦の新たな保有制限比率
英:日:米:独=5:4:2.5:1.5

◆補助艦の保有制限比率
英:日:米:独=5:4:3:2.5

◆新規戦艦建造枠
(今後5年内に計画してよい隻数(日英は代換艦))
英:日:米:独=5隻:2隻:4隻:4隻
※以後は、次の話し合いで決める。

◆戦艦から空母への代換艦の特別枠
英:日=2隻:2隻(双方合計6万頓まで)

◆条約第一期達成時(1940年末)の戦艦数
英:日:米:独=24隻:19隻:12隻:7隻

◆条約第一期達成時(1940年末)の空母数
英:日:米:独=8隻:7隻:5隻:2隻

■次なる盟友
 ロンドン海軍軍縮会議において、英国の勧めで会議に無理矢理参加したような形のドイツが、この会議中、反共の立場から日本に急速に接近を図るようになります。
 そして、この会議中に別の場所で、アジア・太平洋の包括的な平和条約と同盟の締結のための会議が、日英米そしてそれ以外からもいくつかの列強が集まり会議が持たれます。

 ここで次に日本政府が選択すべき事は、アメリカが太平洋戦争の講和で出した、「アジア・太平洋の包括的な平和条約と同盟の締結」についてどうするかです。
 これは表向き、アジア・太平洋での平和のため、二国間だけの軍事同盟をいつまでも結んでいるのはおかしいと言うのが理由となりますが、アメリカが太平洋戦争で放った最後の反撃の矢で、日英を離反させる事により両国に溝を作り、太平洋のバランスを変化させると共に、支那市場への参入の可能性を残そうと言うものです。そして、日英両国も建前上これを受け入れざるをえず、また、日本も戦勝によりさらに大国意識が大きくなり、英国が支那を席巻している事からくる英国離れがこの同盟解消を助長します。英国としても、彼らの視点から見れば、番犬として日本は大きくなりすぎています。

■新たな条約を結ぶ

■新たな条約をばない
 太平洋条約という何だかよく分からない各国間のアジア・太平洋の中立条約が結ばれます。
(史実の太平洋に関する「4カ国条約」のような条約になります。)
 また、同時にこれにより日英同盟の破棄が決定します。
(なお、この日英同盟解体に英国は基本的に史実と同様の態度を示しています。)
 日英同盟を堅持します。
 アメリカが提案した懸案については、英国と歩調を合わせて、日英同盟は明確な軍事同盟でないと難癖を付けて日英同盟をそのままとした、他の国(仏蘭)も抱き込んで実行力のない条約を締結します。
(史実の支那大陸国家に関する「10カ国条約」のような外交儀礼的な実行力のない条約)