■関東軍北進セズ?

※途中までは、国力、軍の進軍度合いなどから他のルートと同じです

 インド洋での艦隊戦は、日本軍の大勝利で幕を閉じます。御味方大勝利。まったくもって、大戦力を投入した側の勝利と言う、ごく当たり前の結果です。
 日本の海軍力の半分、つまり日本の軍事力の3分の1を叩き付けられた英東方艦隊こそたまったものではなかったでしょう。兵力差的に、約束された勝利だったのです。
 そして、制空権も制海権も失ったセイロンはその後の地上戦を行い、一ヶ月程度で攻略されます。
 かくして、日本側のセイロン攻略作戦は終了し、次の段階に移行します。
 順序としては、セイロンを新たな前進基地としての雨期の終わった印度東部に対する侵攻と、インド洋全域に対する徹底した通商破壊です。
 特にセイロンを押さえた事により、ベンガル方面だけでなくインド洋全域が日本海軍の活動拠点になった事は、大英帝国の通商航路、戦争資源、兵力の移動を考えると致命的な結果をもたらす事になります。
 そして、東南アジア、インド洋と大敗を続けている英国に、これを跳ね返し、セイロンを奪回する余力はありません。
 ドイツとの総力戦を継続している英国に、そのゆとりは全くないはずです。

 しかし、世界的な大事件が発生します。
 時間的には、現地時間で1941年6月23日の事です。
 そう、ドイツ第三帝国がソビエト連邦に対して、突如大規模な侵攻を開始したのです。
 ドイツ第三帝国とソヴィエト社会主義共和国連邦は、同じ軍事に偏重した大陸国家であり、その指導体制も事実上の独裁体制、さらに異なる社会主義を標榜とし、どちらの指導者も世界史的にはその侵略性においては人後に落ちないとされます。
 さて、大日本帝国にとっても、この事件は一大事です。
 それは単にドイツが、自ら望んでしては絶対いけないとされる二正面戦争を始めたと言う事に止まりません。
 この結果、自らへの圧力の低下英国は息を吹き返す事になり、日本にとっての不倶戴天の的であるソ連(ロシア)は極東での軍事プレゼンスを大きく低下、それどころか初戦で大敗を喫し、しばらくは極東で大きな動きを取ることすら不可能となりました。
 もっとも、日本とドイツの間には確たる外交関係はありません。せいぜい、普通の国家同士としてのつき合いだけで、共に英国と戦争をしていても、東亜新秩序のもと英国の権益を奪いとる戦争をしている「だけ」の日本にとって、ドイツはまあせいぜい頑張ってくれぐらいの気持ちしかありません。
 もっとも、それ故に東亜解放では多少世話になっています。
 そして今回のドイツの相手は、日本陸軍にとっても宿敵と言えるソビエト連邦です。ここは軍事的圧力をシベリアに加えるなどして、借りの一つもしておきたいところです。今後の国際外交を考えれば、ドイツ人に大きな顔をされないためにも、一手打っておきたいところでしょう。
 そして、このどさくさに極東・東シベリア地域をソ連(ロシア)からかすめ取れるのなら、今後のアジア安定を考えると非常に魅力的な状態とも言えます。
 しかし、当然というべきか、日本はドイツから何も聞いていません。ですが、開戦するやドイツ第三帝国は、後背からソビエトを攻撃して欲しいと虫のいいことを言ってきます。
 それでも日本軍による満州防衛(戦争)の準備は、それまでの軋轢と、満州の重要性、ノモンハン事件の影響、そして独ソ不可侵条約により数年前から準戦時体制、対英開戦後はなし崩し的にほぼ戦時体制に移行しつつあります。
 しかし、日本にとって、この独ソ開戦が寝耳に水である事には変わりありません。

 普通なら、外交的信義をまるで無視した(独ソ不可侵条約と言う軍事同盟を一方的に破っている。)ドイツに対する不審を大きくするのですが、ここで日本はソ連撃滅による極東の安定という夢を見る事でしょう。たしかに、海軍の主力と陸軍の一部(3割程度)は、対英戦で動かせませんが、元から満州に駐留している大部隊に増援を送れば、対独戦で戦力の低下した極東ソ連軍を撃滅する事ぐらい容易そうに思えます。
 はたして、日本陸軍に対ソ開戦は可能でしょうか?

 では、ここで八八艦隊の鋼鉄の戦乙女たちから離れる題材ですが、この当時の日本陸軍について見てみましょう。
 1941年夏頃の日本陸軍は、25個師団体制の元整備されています。そして、40年の対英開戦と共に戦時動員が開始され、さらなる大規模な陸軍の建設が進んでいます。
 つまり、動員可能師団25個、動員中師団もほぼ同数程度と言えるでしょう。近代国家の戦時動員ですから、この程度が常識に沿った軍備となります。
 1個師団は支援部隊を含めて2万人程度と考えると、全ての動員が完了すれば100万人、陸軍全体で考えるとさらにその五割り増し、その上各種支援部隊や陸軍航空隊も加算されるので最終的に日本陸軍全体で200万人にも及ぶ、巨大な軍事力が出現する事になります。この最終的な状態は、総力戦開始の2年後、つまり1943年ぐらいに出現する事になります。
 ただし、1941年夏の時点で日本が使える陸戦用師団は、あくまでそれまでに準備された25個師団だけです。衛星国を含めても30個師団を少し越えるぐらいでしょう。(この世界では韓国も建国10年程度の満州国も、装備や実体はともかく独自の軍隊を有しています。)

 そしてその内、すでに4個師団がビルマ=インド戦線、2個師団がセイロンに投入されています。さらに、占領地などの警備と後詰めとして1個軍(団)3個師団程度が東南アジアで待機している事になります。
 つまり、残りは16個師団です。早期に動員開始された師団を頭数に入れても20個師団が精一杯でしょう。この新設師団の中には、史実よりも多少機械化の進んだタイムスケジュールなので、本格的な機甲師団もある事でしょう。
 さて、このうちいくらが満州に配備できるでしょうか。動員中の師団も早期に新設されたものは、国内警備任務ぐらいには使えるでしょうから、その気になれば20個師団丸々が投入できそうですが、国内の予備として最低限2個軍(団)6個師団程度は置いておきたいところです。
 つまり満州に派遣できるのは、せいぜい14個師団前後となります。さらに、衛星国状態の韓国軍が朝鮮半島側に1個軍団、韓国よりのソ満国境に1個軍団程度、つまり6個師団、12〜20万人ぐらいは配備できるでしょう。これに、建国10年程度の満州軍が、国内警備師団や国境守備隊程度ですが、数個師団を含めて15〜20万人程度動員可能です。
 つまり、対ソ戦備は合計して、陸軍25個師団程度、前線50万人、全てを含めて100万の兵力が用意できる事になります。
 また、これ以外に砲兵旅団や各種支援部隊が各軍(団)に配備され、これら全てを陸軍航空隊が全面的に支援します。海軍も内地で修理が完了したばかりで、実質的に待機状態となっている第一艦隊と1個航空戦隊が協力できます。

 ちなみに、史実の関特演に動員された師団数は、満州の防衛に必要最小限とされた歩兵16個師団、戦車団3個(ただの戦車集団)、これに陸軍航空隊の主力です。さらに他からの転用などにより侵攻を開始するなら、最大25個師団が投入予定だったとされています。総兵員数85万人と言われる、関東軍100万と言われた時代の、関東軍が最も充実していた時期です。
 そして先述した通り、無理をすれば日本(+衛星国)が総力を挙げれば、この25個師団と言う数字が確保できる事になります。その上、史実より遙かに機械化と火力重視の装備がされている部隊ですので、実質的には歩兵師団でも最低でも史実の本土決戦時の決戦師団かアメリカの歩兵師団ぐらいの戦力を保持しています。
 そう、五割り増しの予算で作られた陸軍なので、史実より機械化、重武装化が進んでいるのです。しかも、日支事変などにより余分な予算も浪費されていません。そして、基本的にソ連の狙撃師団よりも規模の大きな師団編成をしているので、単体での戦闘力はソ連軍の最低でも3割増はオーダーしてもよいでしょう。
 なお満州を守る満州駐留軍(日本軍以外も含めると「関東軍」と言う呼称は相応しくないので)を日本軍14個師団で見てみると、史実の配備から考えて大きく西部国境を守る第六軍(1個師団基幹)、北部国境を守る第四軍(1個師団基幹)、そして東部に第三軍(4個師団基幹)と第五軍(4個師団基幹)があり、機動打撃力となる第二十軍(4個師団基幹)ぐらいとなります。
 なお第二十軍は、進撃予定路の地形的要因から完全な機械化部隊となっており、機甲師団と機械化された歩兵師団から編成された極めて強力な機動打撃集団に編成されています。
 英独とさして変わらない国力で作り上げられた部隊ですので、余程陸軍が歪んでいなければ、同程度のソ連軍部隊の撃破も可能でしょう。
 さらに、韓国第一軍(3個師団基幹)と後から予備で追加される満州国師団が各軍に1個ずつぐらいも各戦線に配備可能です。そしてこれらの部隊の大半が、ソ連のウスリー州制圧を目的とした部隊配置をしており、当然その軍事目標もウスリー、沿海州地方の制圧となります。

 しかし、重大な問題が一つあります。
 これらの部隊が配置に着くには、史実のスケジュールと同じなら8月半ばか後半と言う事になります。でなければ、満州に存在するのは25個師団ではなく、せいぜい20個師団程度と言う事になります。しかも、装備が優秀な日本陸軍の比率は、その基本的な配備位置の関係から低い数となります。
 果たして、見切り発車で対ソ極東侵攻を行っても作戦を完遂できるでしょうか。史実では、10月までに第一目標を達成し、12月までにハバロフスクを攻略する事になっていました。同時に、アムール河流域も制圧予定でした。
 陸軍の機械化が進んでいる分、進行速度が速く設定されるかもしれませんが、恐らくここでも作戦目的そのものに大きな変化はないでしょう。
 なお、いかに史実より機械化が進んでいても、最初からチタ方面が攻撃目標にされる事はありません。それは、この方面に50〜100万もの軍隊が展開したら、継続的に十分な補給を行えないからです。この方面からの第一撃を加えるには、日本の国力がもう五割り増しはないと不可能です。

 そして、さらに問題もあります。
 問題は戦争予算です。
 すでに南進がめいいっぱい始まっており、日本陸軍の目標も、ソ連極東侵攻よりも印度解放にシフトしつつあります。日本が掲げた「東亜新秩序」や「大東亜共栄圏」と言うお題目を考えれば、極めて順当な軍事力の投入と言えるでしょう。
 そして、内地で待機している師団や、場合によっては満州方面にある精鋭師団の一部も、今後予定されているインド本土作戦などのために、装備や乗船のための準備をしていることでしょう。
 しかも、ドイツがソ連と開戦して、英国にゆとりが出ているのですから、英国が生命線たるインド奪回のための兵力を派遣してくる可能性も高く、それに対抗する戦力も整えなければいけません。
 それに、大日本帝国はすでに英国と戦争をしている現状で、さらにソ連との戦端を開くと言う事は、軍事的タブーである二正面の戦線を抱える事になってしまいます。戦争好き好きの総統閣下の治めている独裁国家ではないのですから、好きこのんで戦争を始める事はありません。
 また、大日本帝国とソヴィエト連邦は「日ソ不可侵条約」を結んでおり、これを破ることは外交的信義に関わります。そして、日本、ソ連、ドイツとの間にある国際条約がこれだでです。ですから、たとえソヴィエト(ロシア)が伝統的に、外交的信義をあまり重視しない国であったとしても、日本も同じ行動をしてよいと言う理由はありません。特に、東亜解放と言う外交的正義を必要とする戦争を継続している現状で、外交条約の横紙破りと言う、どこかの大陸国家やイデオロギーを信奉する人たちのように「革命外交」などする事は、日本の正義に関わります。
 ついでに言えば、太平洋戦争後経済的な妥協から、それなりに仲良くなりつつあるアメリカ合衆国は、主に市民レベルで外交の横紙破りを許してくれるような風潮にはありません。
 日本としても、商売相手の意向は大切にしないといけないので、外交的にこれも無視出来ない要素です。
 つまり、結論として東亜解放と太平洋の安定を第一義とする以上、ソ連に戦争を吹っかける事はしてはいけない、と言う事です。ですから、陸軍がいかにいきり立とうが、運動家が叫ぼうが政府としては聞く耳を持つ訳にはいきません。
 何か文句を言うようなら、自説をまげてでも陛下から勅命いただいてもいいでしょう。
 すでに英国に対して、実質的な侵略戦争を吹っかけている以上、これ以上の国際的な失点を日本は犯すわけにはいかないのです。
 もっとも、ソ連に対して何かしてやる義理はどこにもありません。日本とはイデオロギーの違う国どうし、仲良く潰しあってくれればいいのです。
 日本としては、ドイツからの要請を日ソ不可侵と言う外交条約を盾にしてやんわりと断り、ソ連にスキを与えない程度に満州防衛をしつつ、インドにさらに進軍する方針がこの時点でも選ばれる事になります。もちろん、ソ連にも義理も何もないので、援助などはしません。軍事同盟など以ての外です。
 つまり、独ソ戦は傍観です。

 日本不参戦の結果、独ソ戦そのものはソ連が早期にシベリアの精鋭軍をドイツ戦線に投入できるので、この点ではソ連有利と言えますが、物資を支援してくれる国はイギリスしかない上に、大切な援助ルートの一つのインド洋=イランルートが日本軍により完全に封鎖されており、わずかな援助すら期待できない状態です。しかも、日本軍は満州国境からそれ程兵力を引き抜く訳ではないので、ソ連としては万が一を考えると兵力を引き抜く事はためらわれます。なぜなら、ソ連は独裁国家であり、それ故に猜疑心の強い国と言えるからです。
 はたして、ソ連赤軍は悪逆なるナチスドイツの魔の手から、モスクワを護りきる事ができるでしょうか? 
 まあ、陸戦で八八艦隊の彼女たちとはあまり関係ないので、スパーっと詳細は飛ばしましょう。
 ドイツ第三帝国は、独ソ戦を予定通り41年中にケリを付けようとしますが、例年より早い冬の到来、軍中央の誤断など史実同様の展開により、12月にモスクワ前面で攻勢が停止し、以後後退しつつ守勢を維持する事になります。
 つまり、史実通りってヤツです。
 要するにドイツにとっての最大の敵は、「泥将軍」と「冬将軍」であり、この最も偉大な将軍たちがソ連赤軍の増援に現れる前に戦争にケリをつけない限り、戦争はまさに泥試合となってしまうわけです。
 また、結局冬にはソ連極東軍が反撃に使えるのですから、多少史実よりも鈍くとも、ソ連軍の反撃は可能となります。

 この独ソ戦は、英国、日本、米国、全ての国にとって、共倒れになってくれればという気持ちを込めて注目こそしますが、この年のうちは、結果として丁度いいところで両者がにらみ合いに入ったので、英国以外は傍観姿勢崩さずです。
 なお、日本も米国も戦乱渦巻く欧州で笑いの止まらない商売したくても、ドイツはイギリスが封鎖していて、ソ連は援助しか欲しがっていない始末ですので、どちらも商売相手として適していると言えず、むなしく指をくわえる事になります。
 まあ、アメリカとしては、船がやってくるので英国との貿易はそれなりにしていますが、ドイツがいつ何時この国を蹂躙するか分かったものでないので、結果として控えめとなります。
 ああ、共和党政権の合衆国に参戦とかの意志はまるでありません。
 もちろん、日本は己が欲望・・・もとい理想に向かって勝手に戦争を継続するだけです。

 北の大地で血みどろの地上戦が行われている頃、セイロンを攻略した日本海軍が体制を整え第二段階に作戦を移行させようとします。
 東部インドにも11月には再び乾期が訪れるので、この時にインド東部に対する侵攻が行われます。その間連合艦隊は、通商破壊に従事する艦艇をのぞいて、いったん内地に帰り整備補修を行います。
 その代わりに、日本軍はセイロンとビルマから海軍航空隊による航空撃滅戦と、潜水艦、一部の水上艦による通商破壊がせっせと行われます。もちろん、大英帝国の最重要交通線を完全に遮断するためです。
 そして史実のようにアメリカからの援助もなく、インド洋からの資源を入手できない英国には、この破壊に耐えることはまず不可能です。史実の三倍の国力を持った日本の実力は、その全力を発揮しなくても現在の英国にとっては大きなものとなっています。
 しかも、英国はインド洋でリンクする各地に増援を送りたくても、インド洋も地中海も交通線、補給線ともほぼ遮断されているので、送ることすらままなりません。
 秋が終わる頃には、日本の執拗な航空撃滅戦により、在インドRAFの壊滅はほぼ間違いないでしょう。
 王立海軍もカナダとの大西洋の交通線の維持と地中海の激戦にあり、強大な日本軍と対峙できるだけの戦力を派遣する余裕がないので、インド洋の制海権は完全に失われます。そしてセイロンが日本軍の占領下にある以上、「一時的」などと言う状態ではありません。
 なお、日本軍によるインド東部に対する侵攻は、チッタゴンに対する海上からの強襲上陸が企図されますが、これを阻止すべき英国の戦力ももはや枯渇しています。出来ることは、現地の陸上部隊が地の利を活かした遅滞防御をするのが精一杯でしょう。
 対する日本艦隊は、1個戦艦戦隊、1個航空戦隊を中核とした圧倒的な戦力を持ってこれを攻略、爾後当地に臨時インド政府を設立して、全インドに対する揺さぶりを行います。
 そうこうしているうちに怒濤の1941年は過ぎ去っていきます。
 なお、この年のうちは、我らがアメリカ合衆国は、日本に後でアジアの利権の分け前をもらうために若干の援助はしてきますが、貿易で不景気回復の糸口を探しつつ完全な傍観姿勢です。

■第二次世界大戦終局(1941冬〜)