■後半戦開始

 1942年6月28日、ドイツ軍はロシア戦線での新たな大攻勢を発起します。
 作戦名称は「ブラウ(青)」。
 作戦の最終的な目的は、コーカサス資源地帯、中でもバクーの油田地帯をドイツの支配するところとして、反対にソ連の石油供給を絶ち、東部戦線に事実上の終止符を打つことでした。
 この作戦は、ドイツ軍部首脳と違いモスクワを軽視していたドイツ総統ヒトラー自身の本来のプランの回帰であり、それ故にドイツの命運を賭けた作戦とも言えました。
 また、この作戦はコーカサスを抑えるだけでなく、ロシアの大動脈たるヴォルガ川を制圧する事で、イラン方面からも流れている連合軍の支援物資の大きなルートを裁ち切りる事も目的としていました。なお、ヴォルガ川の中核都市にスターリングラードと言う街が存在しています。
 そして、英国とソ連、そして日本軍主体による地中海戦線、北大西洋の通称破壊戦など多方面の戦線を抱えるドイツにとって、本来の決戦地であるロシアに勝利を収める事は、この戦争に勝利する事を意味しており、その逆も然りです。

 進撃開始当初、作戦は順調でしたが、それまでのソ連軍と違い、ドイツ軍に包囲殲滅されると言う事態は少なくとも大部隊においては発生する事はなく、またドイツ軍部首脳の腰の定まらない大戦略のため、戦力を無為に転用され同方面の攻撃力を落とし、さらにパルチザンなどの後方兵站に対する活躍によりドイツ軍の進撃は徐々に鈍くなっていきます。
 そして、9月に入りドイツ軍は、ようやくスターリングラードに突入しますが、この戦いはドイツ軍にとって全く不本意な事に泥沼の市街戦となり、本来機動戦に投入される戦力までを無駄に消耗していく事になります。
 また、コーカサスに対する進撃も継続していましたが、秋が深まってもその目的を達せずいました。
 ドイツ軍精鋭部隊は、ソ連の事実上の遅滞防御のためコーカサスで釘付けにされ、その腹背は貧弱な装備の枢軸国同盟国軍が守っている状態になります。
 そして、11月19日、ソ連軍はついに全面的な反攻に討って出ます。
 ソ連軍は、貧弱な枢軸軍の側面を突く形で理想的なまでの二重包囲作戦を展開し、スターリングラードにドイツ軍の精鋭25万人を閉じこめることに成功しました。
 その後、ドイツ首脳部の無理解により包囲下となった友軍を救うべく、ドイツ軍による決死の反撃が行われます。
 幸いにしてと言うべきか、北アフリカで一度二重包囲により軍団を失った経験を持つドイツは、この戦線においてその二の舞を避けるべく、限定条件付きながらある程度の撤退を認め、北アフリカでの敗北より復権を賭けて奮闘するロンメル将軍や、マンシュタイン将軍のねばり強い作戦指導により、最悪の事態である大軍が包囲されると言う事態は避けられましたが、それでもさらに攻勢を強めるソ連軍は、コーカサスに存在する全枢軸軍の包囲を行うべく攻勢を続け、一度崩れた戦線の建て直しのできないドイツ軍は、コーカサスからの全面退却を余儀なくされる事となります。
 このロシアの南の大地での戦いは、世界史上ではよく第二次世界大戦のターニング・ポイントと呼ばれますが、連合軍に対して国力の劣る枢軸側の攻勢力が限界に達していた事を物語る事例としては、非常に的を得ていると言えるでしょう。

 一方、地中海戦線でも、満州と日本本土から膨大な兵力を持ち込んでいた日本軍主導により新たな動きが見られます。
 この当時東地中海は、アレキサンドリアを中心に英国への戦略物資補給のルートの最後の集積地としての役割と、ドイツの下腹部への反撃の拠点として、膨大な兵力の連合軍(日本軍)が存在していました。
 陸軍戦力だけでも、欧米での一個軍にあたる日本軍が後方に存在しており、次なる作戦の準備をしていました。
 また、北アフリカからの枢軸軍駆逐作戦も、補給ルート確保のために用意された、膨大な数の航空戦力の余剰戦力を活用して進められ、また、俗に言う「カエル飛び」と呼ばれる、海上からの強襲上陸を繰り返す事で、主力崩壊からいまだに立ち直れない枢軸軍を、孤立させ、降伏させていきます。
 その後、増援の送れなかった枢軸軍を後目にさらなる平定を進め、42年の夏までにはチュニジアの完全制圧を完了します。
 なお、枢軸軍の空の脅威が連合軍の当初の予想より減少していたのは、枢軸軍が欧州の防空とロシア戦線を重視していた事もさることながら、枢軸軍の石油供給源に大きなダメージを与えた事が影響していると見られます。
 特にイタリア軍全軍の活動は低調となり、ドイツ側がどれほど口酸っぱく言おうとも、物理的に活動が制約されどうしようもない状態でした。その中でも海軍における大型艦艇の活動は低調で、イタリア海軍の活動は終戦までついに活発化する事はありませんでした。
 また、せっかく投入されたドイツ第二航空艦隊も、より逼迫している戦線に戦力を無理矢理引き抜かれるなどして戦力を低下させており、この方面に圧倒的物量を投入している連合軍の航空撃滅戦に対抗することは、日を追うごとに難しくなりつつありました。これは、名将を謳われるケッセルリンク元帥の手腕を以てしても、物量という差の前に覆すことは適いませんでした。
 なお、地中海でこれ程早く枢軸軍が追いつめられた原因は、もちろん自らの対ソ開戦でしたが、やはり日本軍がここを反撃拠点、そして何より英国への最も重要なルートとして認識し、それを維持するために膨大な戦力を投入したからでした。また、日本が第二次大戦開始当初から積極的な参戦をして、ドイツ軍と激しく戦っていた事も無視できない要素でしょう。
 この状態をこの当時のアレキサンドリアでは、週に一度は(護衛のための)日本の大型艦が出港するのが見られたと言う逸話からも分かっていただけると思います。

 そして、そうした地中海での情勢を踏まえて、連合軍は予定していたよりも遙に早いシチリア島侵攻を計画します。
 この作戦を成功させる事により、地中海の制海権、制空権を完全に握り海上交通を安定化させ、また欧州本土への橋頭堡を確保するのが目的でした。
 また、この作戦が早期に実現できたのは、この年の夏に早くも日本海軍の新鋭艦艇が就役し、さらに強襲上陸のための戦力が到着していた事が大きな理由となっています。
 ではここで、もう一度この作戦での連合軍の戦力を見てみましょう。

◆◆シチリア島攻略部隊序列◆◆

●本隊(日・第八艦隊、海上護衛総隊)(艦載機:常用約120機)
戦艦:「富士」、「雲仙」、「浅間」
重巡洋艦:「鳥海」、「摩耶」、「伊吹」、「鞍馬」
軽巡洋艦:「酒匂」
護衛空母:「雲鷹」、「沖鷹」、「熊鷹」、「蒼鷹」
艦隊型駆逐艦(DD):16隻
護衛駆逐艦(DDE):20隻
海防艦(DE):22隻
各種輸送・揚陸船舶:約300隻(上陸部隊18万名)

●打撃戦力(英・地中海艦隊他)
戦艦:「紀伊」、「尾張」、「駿河」、「近江」
戦艦:「St. デイヴィット」、「St. グレゴリー」、「St. パトリック」
戦艦:「クイーンエリザベス」、「ウォースパイト」
軽巡洋艦:5隻 駆逐艦:8隻

●支援艦隊(K部隊)
巡洋戦艦:「フッド」、「ロドネー」
重巡洋艦:2隻 軽巡洋艦:2隻 艦隊型駆逐艦:12隻

●空母機動部隊
 第一機動艦隊:(艦載機:常用約300機)
第十三戦隊:「高千穂」、「穂高」
航空母艦:「蒼龍」、「飛龍」、「雲龍」
航空母艦:「伊勢」、「日向」
重巡洋艦:「利根」、「筑馬」
軽巡洋艦:「能代」 艦隊型駆逐艦:12隻

 第二機動艦隊:(艦載機:常用約200機)
巡洋戦艦:「金剛」、「榛名」
航空母艦:「翔鶴」、「瑞鶴」
軽空母:「千歳」、「千代田」
軽巡洋艦:「大淀」、「仁淀」
防空駆逐艦4隻、艦隊型駆逐艦:8隻

 第三機動艦隊:(艦載機:常用約200機)
巡洋戦艦:「比叡」
航空母艦:「千鶴」、「神鶴」
軽空母:「日進」、「瑞穂」
重巡洋艦:「最上」、「熊野」、「鈴谷」
防空駆逐艦4隻、艦隊型駆逐艦:8隻

 英機動部隊(英・H部隊)(艦載機:常用約70機)
巡洋戦艦:「インドミダヴル」、「インディファティガヴル」
航空母艦:「フォーミダヴル」、「ヴィクトリアス」
重巡洋艦:2隻、防空巡洋艦:2隻、艦隊型駆逐艦:8隻

◆上陸部隊18万名
 英第8軍、日本第25軍(団)、日本第2機甲軍(団)
(3個機甲師団、3個機械化師団、2個歩兵師団、2個空挺旅団ほか多数)

◆作戦参加基地航空戦力:約2600機
 英国空軍
 日本海軍航空隊
 日本陸軍航空隊
 自由フランス空軍など

 以上、総数戦艦・巡洋戦艦21隻、大型空母9隻、軽空母4隻、護衛空母4隻、巡洋艦26隻、駆逐艦100隻、そして輸送船舶など約300隻を中核とする文字通り史上最大規模の上陸作戦となります。
 これは、後の欧州反攻作戦の第一陣に匹敵する規模の強襲上陸作戦であり、本来史上最大の上陸作戦の名誉はこの作戦にこそ冠せられるものと言えるかも知れません。
 特に日本の海軍力は、護衛艦隊を除けばドイツ海軍封鎖のために北海にいる巡洋戦艦を中核とした部隊と本土に残る留守部隊以外の全てが参加していると言っても過言ではなく、この作戦に賭ける連合軍の意気込みを感じさせるものと言えるでしょう。
 また、この作戦の総指揮官は英国のモンゴメリー将軍で、その下に日本軍など全ての部隊が隷属する事になりました。これは、大上陸作戦を少しでも円滑に進めるために採られた措置で、各国の意地や面子を押し殺した上で実施された事は、その反動を加味しても非常に評価されるべき事です。これは、その後英国主導で全ての作戦が実施される先鞭となり、常に大兵力を派遣していた日本の不満は大きなものとなりますが、大戦略上非常に有効だった事は歴史が証明している通りです。
 作戦名称は「ハスキー作戦」。作戦目的は先述した通り、シチリア島を圧倒的戦力で電撃的に攻略する事にあります。
 対する枢軸軍は、シチリア島にはイタリア軍を主力として30万人の陸上兵力、シチリア島と南イタリアに1000機近い航空機を保持しており、数の上から見れば防戦に徹するなら、それも不可能でないと見られていました。
 しかし、陸上戦力では、機動力を持つ戦力は全体の3分の1に過ぎず、航空戦力の方も燃料不足に悩むイタリア空軍が半数以上を占めており、実際の防衛は北アフリカからかろうじて後退し、その後若干の補充を受けたドイツ陸軍と、ケッセルリンク将軍麾下の第二航空艦隊にその双肩がかかっていると言っても過言ではない状況でした。
 また、連合軍の進行速度が非常に早く、シチリア島防衛のための準備が十分にできていないでいた事も、枢軸軍に大きく不利に働いていました。

 こうした状況の中、1942年8月19日に「ハスキー作戦」は決行されます。また、時を同じくして、フランス沿岸に対する奇襲上陸作戦の「ディエップ作戦」も実施されていました。
 上陸作戦は、当然まず制空権獲得競争から開始されますが、枢軸軍の奮闘虚しく圧倒的戦力を投入した連合軍が押し切る形で、シチリア島と南イタリアの枢軸軍航空戦力を一時的に壊滅に追い込むことに成功します。ここでも、空母機動部隊の機動性、集中性は極めて有効に機能し、ルールの違う航空戦を枢軸軍に強要しました。
 もちろん、枢軸軍もかかんに抵抗しましたが、もともと洋上攻撃があまり得意でない上に、一カ所に膨大な数を集中した連合軍の航空戦力に押しつぶされてしまったのです。それでも、日本軍の空母2隻を損傷、後退に追い込んでおり、このドイツ空軍の奮闘は高く評価できると言えるでしょう。
 その後すぐに行われた上陸作戦そのものは、圧倒的戦力を投入した連合軍の優位の上に推移しますが、上陸時にドイツ機甲部隊の一部が海岸堡に突撃し崩壊寸前まで追い込み、これを艦砲射撃で撃退すると言う局面もありました。
 しかし、その後は枢軸軍の機動戦力が少ないことが大きな原因で、連合軍の進撃は比較的順調に伸展します。そして、枢軸軍(ドイツ軍)のねばり強い防戦に苦戦を強いられながらも前進を続け、約一ヶ月かけてシチリア島全島の制圧を行います。

 シチリア島攻略の後、連合軍は西地中海のサルジニア島、コルシカ島などを攻略しましたが、終戦までシチリア島攻略で指呼の位置となったイタリア本土に侵攻する事はありませんでした。
 これは、連合軍が基本的に地中海での戦いは、安全なシーレーン確保が第一目的であったと言う理由もありましたが、原因は他にあったのです。
 それは、日英を中心とする連合軍の地上戦力が、これからの西欧反攻を考えると、それ以外の方面に回せる戦力はどこにもなったからです。これは、日英の同盟国に兵力を拠出させても大きな変化はなく、戦争全般に渡って連合軍の脚を引っ張ることになります。


■ドイツの斜陽