■オーバー・ザ・レインボー・プラン

 1941年夏、正確には日本軍がインド洋、セイロンへの侵攻を成功させ、ほぼ同じくして枢軸国の全てがソ連に対して戦争を吹っかけた時点で、アメリカ合衆国は政府も産業界も市民もチャンスが到来したと考えます。
 それは、日本帝国が英国とソ連の二正面戦争を始め、アジア・太平洋地域の防備が著しく手薄になっているからです。
 対する合衆国軍は、この5年ほどの血の滲むような努力により、ようやく海軍の再建を果たし、アジアへ再び向かうための最低限の準備が揃いました。しかし、合衆国の財政は不景気の中軍備に不必要な予算を投入し、民需にあまり予算を投入しなかった事などから財政は火の車、あまり裏付けのない国債でどうにか持たせているという状態です。
 つまり、この状態を打破するには、短期の戦争で新たな市場を確保し、その市場での交易と投資を起爆剤として経済を立て直すしかありません。また、その短期戦争で仮想敵国に対し決定的な勝利をつかみ取り、軍備負担を軽減できれば言うことはありません。

 そして、この二つの目的に合致するのが、日本帝国に対する短期戦争による支那市場の獲得です。
 もちろん、軍備もそのために再建したのであり、マスコミなどによる市民の世論誘導も、対日憎悪を煽るために努力が重ねられて来ました。
 そこにきて、日本の対英・対ソ開戦です。
 戦争を先に吹っかけたのが、悪辣な東洋の帝国たる日本なら、それを倒す合衆国が正義の戦士としてその責務を果たすのは当然の義務であり、合衆国市民が最も望む姿です。それによって大きな利益が得られるのですからなおさらでしょう。

 アメリカ合衆国という正義の騎士は、自らの意志により帝国主義的侵略を繰り返す東洋の悪の帝国を打破し、その後に、それまでの事をとりあえず忘れ、存亡の危機にある英国も助け、世界に新たな光をもたらし、自由と平和な社会を作り上げるのです。
 しかし、それまでの仇敵の英国と急に仲直りするのもお互いのプライドが許さないので、特にこちらから連携などは行いません。傲慢な英国人が頭を下げてくればその時点で応えてやればよいと言う程度になります。
 また、全体主義も共産主義もどっちもどっちなので、ソヴィエトがナチス・ドイツに打倒される事など、合衆国市民は気にもしません。両者が勝手に潰しあうのなら、好きにさせておけばいいのです。
 それに、ドイツが支配する欧州もロシアも当面は市場にする事は難しいのですから、なおさらです。
 なお、正義の騎士が、奪われた美姫と財宝(旧植民地の奪還と新たな市場の獲得)を得る事は当然の権利であり、最早義務ですらあるのは言うまでもありません。

 と、誠に手前勝手なマスコミの宣伝と、各個人の心の奥底のロマンチズムに後押しされつつ、アメリカ合衆国全体で戦争参入の雰囲気が醸成されます。
 そして、それは日本の印度への本格的侵攻の開始、ソヴィエトの首都モスクワ陥落などにより、今こそ枢軸同盟を打破すべく合衆国は立ち上がるべきだという論調がにわかにわき起こります。
 当然、最初に倒すべきは、先年の雪辱を晴らす目的もあり、合衆国市民の多数が憎悪を向けやすい有色人種の国、悪辣な東洋の軍事大国、大日本帝国です。
 彼の国を今度こそ正面決戦で打倒し、正義の御旗である星条旗をアジアにへんぽんと翻させるのです。

 しかし、そうした合衆国国内の論調に後押しされつつ、合衆国軍が太平洋への兵力の集中を極秘裏に開始すると、それがたとえ極秘裏であろうとも全てを隠しきれるはずもなく、それに敏感に反応するように日本軍、とりわけ日本海軍が日本本土へと兵力の集中と再編成を始めます。
 当然、実質的に日本が実行支配している最前線のハワイも極度の緊張状態に入り、それ以外の島嶼など共々濃密な偵察行動も始まります。
 日本軍の反応は、合衆国軍でもある程度予想された事ですが、短期決戦の要訣は奇襲にこそあるという戦術原則を考えると非常にやっかいです。
 ここで合衆国軍は、どこをファースト・ストライクするか悩む事になります。戦術的に順当に考えればハワイ諸島ですが、ここは守備兵力こそ、ここ1、2年にある程度派遣されてきただけで知れていますが、日本軍の最前線拠点として警戒はそれなりに厳重です。これはマーシャル諸島や中部太平洋随一の拠点たるトラック諸島攻撃も似たり寄ったりです。
 かと言って、艦隊が集結しつつある日本本土の攻撃など、距離的な問題から考え及びもつきません。
 それに結局、ハワイを攻略しないと太平洋を押し渡ることなど出来ないので、やはりまずはここを攻撃対象とするしかありません。
 しかし、大艦隊をしたてて真っ正面に攻撃しては、日本側の索敵網と迎撃網に捕まるのは必至で、それにより時間をロスするわけにもいかないので、ここは日本が成功した航空機を活用しての攻撃が採用されます。
 これは、史実と同様に英国のタラント奇襲の成功が遠因であり、また日本海軍の活躍が影響しています。

 では、ここからはいささか緊張感に欠ける客観的な視点から、文面を変えて「第二次太平洋戦争」の顛末を追っていきましょう。なお、一部小説などからのオマージュ(+パロディ)が含まれていますが、「お遊び」と言うことでご了承ください。

◆奇襲
 現地時間1941年12月7日・日曜日。突如としてアメリカ合衆国海軍・太平洋艦隊に所属する空母機動部隊は、日本帝国海軍真珠湾軍港を奇襲攻撃した。
 日本軍も近々米軍の攻撃が発生する可能性を当然予想していたが、まさか戦術理論的に遅れたアメリカ軍が、大規模な航空機の利用をしてくるとは思ってなく、ほぼ完全な奇襲攻撃を受けることとなった。
 布哇は、ウィリアム・ハルゼー中将貴下の4隻の正規空母「エンタープライズ」、「ホーネット」、「ヨークタウン2」、「ワスプ」から飛び立った3波、のべ400機による攻撃により、他の地域への補給と警戒などのため出港していた軽空母部隊を除く遣布艦隊と、警戒のために前進していた潜水艦隊である第六艦隊の一部、そして布哇王国海軍部隊ならびに、軍港施設、航空基地が壊滅的な打撃を受ける事になる。
 この攻撃により、遣布艦隊の中核として真珠湾に在泊していた戦艦「伊勢」、「日向」が大破着底したのを始め、その他10数隻の艦艇が大破着底するか撃沈していた。それ以外にもオワフ島に展開していた百数十機の航空機も破壊され、日本軍は漸減邀撃作戦の当初戦力として予定されていた戦力の過半を失うことになったのだ。
 特にアメリカに対してブラフとして急遽配備されていた二隻の戦艦は、米艦載機から徹底した爆撃を受け、上部構造物が原型を留めない程の破壊と炎の洗礼を受けていた。
 例外として、さまざまな任務により真珠湾を離れていた4隻の軽空母とその護衛艦だけが生き残ることになり、この戦力は連合艦隊の緊急退避命令に従い、ただちに布哇を離れ捲土重来を期して本土への長い後退を開始する事になる。

 この奇襲攻撃に、帝国海軍を始め全枢軸国が激怒した。これは、大日本帝国の今上帝ですら「遺憾である」であるとの言葉を残しているのだから、当時の枢軸国の感情が如何なるものであるか想像できよう。
 一方のアメリカ合衆国は大いなる凱歌をあげ、時のロング大統領による合衆国の「正義」を歌い上げた宣戦布告が高らかに宣言された。なお、日本軍が先年の講和条約を無視してハワイに大きな兵力を駐留させた事が開戦の大きな一因であることを、この時点で初めてアメリカが非難していた。そして、この点に関する限り事実であり、戦後日本が逆に非難される事にもなる。

 そしてこの奇襲攻撃は、合衆国海軍にとって大きな喜びであった。それは日本海軍の漸減戦術を、本来の自らの伝統的海軍戦思想により撃砕したからだ。
 もちろん、合衆国海軍の伝統的海軍戦思想とは、圧倒的大兵力による渡洋侵攻による敵兵力の各個撃破及び艦隊決戦兵力比の優位の確立にあったからだ。
 喜びが通常以上だった原因は、この戦術思想を先の戦争で日本海軍に完全にお株を奪われたと言う事が大きい。
 また、先の第一次太平洋戦争での雪辱を幾らかでも晴らしたと言う点も、その喜びを大きくさせていた。
 しかも、新兵器たる航空機によりそれを実現したのだから、その嬉しさもひとしおだった。
 しかし、それは合衆国海軍が自己の作戦を完璧に成功させることにより、新たな戦術が支配する海にロクな準備もなく突き進むことになり、そして新戦術なら日本海軍の方が戦訓として大きなものを持っている事をこの時完全に忘れていた事が、戦争中盤での彼らの悲劇を大きくする事になる。

 その後、米軍の実質的に奇襲となったハワイ攻撃の影響と印度作戦の後遺症で、まとまった艦隊を出すことの出来ない連合艦隊を後目に、合衆国海軍はその総力を挙げて侵攻作戦を実行し、開戦から2カ月で雪辱の戦場のひとつであるマーシャル諸島を占領する事に成功する。
 そして、明けて42年の2月にマーシャル群島のひとつエニウェトク環礁に大規模な拠点を建設すると、次なる戦場へとその歩みをさらに早めた。
 全ては、準備の整わない日本海軍に決戦を強要し、彼らに各個撃破の悲哀を味あわせるためだった。
 なお、戦場では常に空母が活躍した。せっかく揃えた新造戦艦は、日本のご自慢の八八艦隊が出てこない以上、艦砲射撃ぐらいにしか使い道がなく、日米両軍の将兵にも新しい戦争がどういうものかを体感的に理解させる事になる。そして、これを合衆国軍上層部も認め、大西洋に配備されていた空母を全て太平洋に回し、その進撃速度をなおいっそう早めるよう前線部隊に指令した。特に、旧合衆国勢力範囲の奪取を強く要請してきていた。旧領土の奪回は、納税者に訴える点が大きいからだ。
 そう、上層部が「若干」の方針の変更をした理由は、政府の戦争と自らの国民からの支持を強くするためと言う、いかにもアメリカ合衆国らしい政策が影響していた。
 もちろん、侵攻部隊の指揮官達もそれ程経済に明るくない者でも、今の合衆国が短期決戦しかないできない経済状態だという事を十分理解していたが、まさか政治家が前線の作戦にまで大きく口を挟んでくるとは思ってなく、合衆国政府と前線部隊との間に少なからぬ亀裂を作る最初の傷となった。
 しかし、合衆国軍人にとって国家と政府からの命令は絶対であり、このため政治的要求に従い各地へとその兵力を派遣する事になる。そう、自由と正義を標榜とする合衆国軍人は、帝国主義や全体主義の軍人たちとは違うのだ。
 そしてこれは、ウィーク島、グァム島、フィリピンへの侵攻を意味しており、しかも短期攻略を目指していた事から、必然的に大兵力を抱えるはずの太平洋艦隊は、兵力の小出しをせざるをえなくなる。
 また、十分に準備していたとは言え、西海岸からたった数ヶ月でマーシャル諸島にまで侵攻したことは、補給面で非常に大きな負担となっており、この補給線の維持のためにさらに兵力の分散も行わなくてはならず、これは日本海軍が思いもよらないぐらい通商破壊に熱心だという事もあり、見えないところで合衆国海軍の力をそぎ取っていた。
 また、ここまで侵攻してきたのに、いまだに日本の有力な艦隊が現れないため、合衆国海軍が夢にまで見た、日本海軍を正面決戦で粉砕するという戦闘は全く発生せず、前進すればするほど前線将兵のいらだちを少しずつ大きくさせていた。

 一方、アメリカ合衆国から、突如として(当人達から見れば)いわれのない戦争を吹っかけられた日本帝国と連合艦隊の側は、大混乱の渦中にあった。
 それは開戦理由よりも、日本軍が実質的に三つも前線を抱えてしまったという、国家としてはもはや悪夢という言葉ですら語れない事態に陥っている事が最大原因だった。
 幸いにしてドイツを初めとする枢軸国は、日本との同盟を履行するべくアメリカへの宣戦布告をおこなってくれたが、当面のところは大西洋での通商破壊以外アテにはできず、頼みの帝国海軍はインド洋での長期の作戦の整備・補修がまだ終わっていないと言う体たらくだった。
 そして、その帝国海軍も、合衆国海軍が自らが金科玉条としていた漸減戦術を実質的に無力化し、戦力の希薄なこの時を狙って突進してきたことから大混乱だった。その影響は全く持って致命的と言え、合衆国海軍が立て続けに繰り出してくる攻撃に対して、帝国海軍はただ翻弄されていただけというのが実状だった。
 もちろん、それでも遅滞防御のための潜水艦による通商線への攻撃などは泥縄式に実施され、特に後方部隊や補給線への攻撃は大きな成果を上げていたが、どこかで彼らの鼻面をへし折る必要があった。
 しかし、帝国海軍がその準備を整えるには、早くても1942年5月を待たねばならなかった。空母機動部隊はその強大さ故に、その準備に時間がかかるのが大きな原因だったからだ。これは、ナポレオン時代の騎兵師団にたとえて良いかもしれない。それとも織田信長の鉄砲隊と言うべきだろうか。

 そうして、双方の(決戦の)思惑が一致したのが、合衆国によるウィーク島、トラック諸島攻略に引き続いて発起された、マリアナ諸島攻略作戦だった。
 この時、帝国海軍の主力は沖縄に集結しつつあり、一部先遣部隊が今や最前線となったマリアナとパラオで陣を張っていたのだが、合衆国海軍は政府の政治的要求を満たすため、その双方に対して大兵力を差し向けて来たのだ。
 まさか、両方を同時攻撃してくると思っていなかった帝国海軍は、双方に展開していた艦隊と航空隊に対して、「取りあえず、防衛に徹しろ」とだけ命令した。
 これは、遅滞防御をしつつ自らの艦隊を以て各個撃破しようという欲張った連合艦隊の思惑があったが、合衆国海軍もそこまでバカではなく、艦隊の主力を日本本土に近いパラオに向け、マリアナ諸島には、半ば陽動を目的とした1個任務部隊と別に攻略部隊が付属していただけだった。
 そして命令に従い、マリアナ近海で行動中し、濃密な索敵で敵艦隊を確認した日本第二機動艦隊が、ただちに麾下部隊に攻撃を指令。
 1942年5月8日の事だった。
 ここに太平洋で初めてのまともな海戦が発生する。俗に言う「マリアナ沖海戦」である。
 この戦闘の特徴は、インド洋での日英の戦闘と同様に空母とそれに搭載される艦載機によってのみ戦闘が行われた事になる。
 日本側は、第二機動艦隊に所属する最新鋭の大型空母「翔鶴」、「瑞鶴」、「千鶴」と、軽空母「祥鳳」、「瑞鳳」で、艦載機数は常用で270〜280機、対するアメリカは第十三任務部隊に所属する、「ヨークタウン2」と「ラングレー」で、艦載機数は常用で170機程度だった。
 日本側にはその上、マリアナの基地機からの偵察部隊などもあり、その優勢は明らかだったが、米軍もそれをあえて知った上で、陽動部隊として行動すべく果敢に戦闘を挑んだ。
 これは、日本にとってマリアナは本土防衛の要であり、アメリカにとってはフィリピン奪回のための陽動という作戦目的の違いから発生した兵力差だった。
 そして、アメリカの挑戦を受けた立つ日本側は、陽動戦力だからと言って無視できる戦力でないので、これを全力で迎撃する事になる。また、日本側がマリアナに襲来した敵が陽動だとは考えていなかった事も、艦隊に苛烈な防戦をさせる事となっていた。
 戦闘は、5月8日と5月9日の二日間にわたって行われたが、双方の艦隊はついに相手を視認する事はなく、戦闘は全て航空機により決せられると言う、軍事史上初めてのものとなった。
 その結果は、日本側は航空機約50機と軽空母「祥鳳」を失ったが、米軍は全ての航空機と空母「ラングレー」を失い、「ヨークタウン2」は大破、随伴していた戦艦「サウスダコタ」をも大破、他戦艦数隻も中破するという大損害受けていた。
 日本側の攻撃が戦艦に集中したため、空母を取り逃がしたと後世の史家は多く言うものがいるが、ここではその是非はあえて問わない事とする。
 それに、ここでアメリカが投入した戦艦の半数がドック入りせねばならないほどの損傷を受けたことは、後の戦局に少なからなう影響を与えたのだから、結果論としてもどちらが良かったかはそれぞれの主張の違いだろう。
 なお、もう一方の作戦だったパラオ攻略は、合衆国海軍がそのほぼ全力を投球しただけに、日本側は各個撃破を恐れ、形だけ抵抗しただけでロクに迎撃もせずこれを明け渡していた。
 日本側があっさり引き下がったのは、まだフィリピンがあると言う点と、やはり兵力差にあった。日本軍も精神論は影を潜め現実的に戦争をするようになった何よりの証拠だろう。

 そしてこの二つの戦闘の顛末は、双方にさまざまな影響を与える事になる。
 日本としては、本土防衛の要であるマリアナを防衛できた事と、なによりこの戦争で初めて目に見える勝利をした意義は大きく、後の日本軍が積極的になったという点において、個々の戦闘にまで大きく影響するようになる。
 また、合衆国の目標としてフィリピン作戦が大きなウェイトを占めている事が分かった事も大きな成果だった。
 対する合衆国にとっては、一方ではフィリピン奪回のための大切な橋頭堡を確保したが、その一方で今回の戦争で初めての敗北を喫し、この敗北が政府の焦りを大きくするとともに、また小癪な東洋人を叩きつぶせという市民の声を大きくし、これに応えるべく本来なら十分な準備を必要とするはずの、次の作戦を早急に行う事につながる。
 そして、その作戦とは「フィリピン」奪回だった。

◆反撃開始
 第二次太平洋戦争の初戦において、最も有名な海戦が「フィリピン沖海戦」であろう。
 それは、この海戦こそが戦争の流れを大きく変えてしまったと言われるからだ。もちろん、他の意見も多々あると思うが、ここでそれを論ずるつもりはないので、この戦闘の経過だけをここでも見ていきたいと思う。

 「オペレーション・マゼラン」。合衆国がフィリピン奪回作戦につけた作戦名である。
 作戦の目的は、究極的にはフィリピン全土の奪回にあるが、それだけの陸兵を運ぶ輸送船舶が当時の合衆国軍になかった事事から、当面はフィリピンの中心近くにある島、レイテ島が攻略目標とされた。なお、物量戦を旨とする合衆国が船舶を用意できなかったのは、急速に前線を拡大しすぎたと言う実に単純な理由があった。何事にも限度と言うものが必要と言うことだろう。
 そして、この侵攻対してあらゆる日本軍兵力が頑強な抵抗を示す事が予想されたため、作戦目的そのものは『フィリピン周辺を制圧すること』と言うあまりにも漠然としたものであった。
 このため、作戦に参加した部隊指揮官により、作戦の重点理解に隔たりが存在し、作戦部隊が日本軍と接触した時点で、効果的な対応がとれない状態となっていた。
 このような事態となったのは、この作戦にあまりにも膨大な戦力が投入された事が大きな原因だった。
 大規模な作戦ゆえに、作戦に参加した兵力はあまにも多く、重点の存在しない作戦だったため、それぞれの戦力も分散して投入されるという結果になった。もちろん、最初から最後まで分散されたわけではなく、本来なら日本軍が現れる時に主力艦隊は集結しており、本格的な上陸作戦をする時点で全ての兵力がレイテ島周辺に集中されるはずだった。
 そう、急な作戦だったため、実に合衆国らしくないこの手前勝手で緻密な作戦が、実戦での取り返しのつかない失敗を引き起こしたのだった。
 しかも作戦を前にして実に合衆国軍らしく揃えられた、膨大な物資を運ぶ輸送部隊もこの混乱に拍車をかけることになる。恐らく当時の日本軍なら、この輸送部隊を割いて侵攻部隊を編成していただろう。
 また、日本軍が合衆国軍の作戦を正確に見抜いていた事(と言うか、日本側も一方的に米軍がフィリピンに来ると思い込んでいた節があるのだが)、日本軍の方が本土から近く戦力の集中が容易だった事なども大きな要因だったと言えるだろう。
 では、その経過を見てみよう。

 6月3日、パラオから高速輸送船で不意を突いた合衆国海兵隊第一海兵師団は、護衛の高速艦隊と共に未明をレイテ島上陸を果たした。日本軍の奇襲に成功した同部隊は、その後占領地を拡大、後発の陸軍第一師団を待つための持久体制に入った。
 それに驚いた日本軍は直ちに行動を開始するが、複雑なスケジュールで動く米艦隊主力をこの時点では捕捉しておらず、むなしく時を過ごす事になる。
 そして、日本軍の焦燥をよそに、スプールアンス、ハルゼー両提督率いる、正規空母「エンタープライズ」、「ホーネット」「レンジャー」、「ワスプ」からなる合衆国空母機動部隊は、1942年6月4日午前6時30分、フィリピン近在の航空基地に対する空襲を開始する。第一次攻撃隊として放たれたのは128機で、同時にパラオから攻撃を開始した陸軍のB-17約100機と共にフィリピン南部の航空基地を攻撃した。
 同時に、攻略本隊の輸送船団がパラオを出発、一路レイテ島へと向かった。
 そして、米空母部隊の空襲を打電するダバオ基地からの報告を受けて、日本艦隊が本格的な活動を開始、そして待望の米機動部隊捕捉の報告が二式大艇からもたらされると、この報告を待ちかまえていた帝国海軍の機動部隊、南雲提督の第一機動艦隊と小沢提督の第二機動艦隊はただちに対応行動を開始する。
 なお、このとき付近海面には、日本海軍のほぼ全力である第一、第二艦隊が空母部隊の後を追って進撃しており、合衆国海軍も再建なった新鋭戦艦の群が一部がレイテにとりつき艦砲射撃をしており、さらに空母部隊とは別ルートからレイテ目指して決戦のための本隊が進撃していた。
 しかし、双方が投入した合計40隻にもなる海上の女王であるはずの戦艦は、結局この戦闘に大きく寄与する事は最後までなかった。
 この海戦の主役は、あくまで空母と航空機だった。
 この時日本側が投入した空母は、正規空母が「蒼龍」、「飛龍」、「雲龍」、「翔鶴」、「瑞鶴」、「千鶴」の6隻で、軽空母が「龍驤」、「龍鳳」、「瑞鳳」、「千歳」、「千代田」、「千早」、「千景」の7隻にも達していた。これは、全くもって一種類の兵種を一カ所に集中的に集めて使用するという、日本海軍の決戦思想に則した兵力配置で、インド洋などで実証された戦術をここでも再現したに過ぎないものだったが、それだけにその威力はインド洋にも増して大きなものとなる。これは、日本側が運用する艦載機数が常用で600機を上回る事からも分かって頂けよう。
 午前10時23分、ようやく合衆国機動部隊上空に達した、第一次攻撃隊約250機は、強引に米インターセプターを突破、「ホーネット」「レンジャー」、「ワスプ」に次々に投弾、これらを大破する事に成功する。
 戦術的に不意を突かれた格好になった米艦隊も、この時遅ればせながら日本艦隊を発見これに対して攻撃隊を放っていたが、基地攻撃で大きな部隊を編成できず、何とか編成した120機の攻撃隊も、日本側の「蒼龍」、「翔鶴」を大破させるに止まっている。日本側の空母で撃沈艦が出なかったのは、基本的に日本側の防空隊の数が多かった事と、日本空母の中で最も大きく防御力の高い艦に攻撃が集中したからで、米海軍パイロットの技量がこの時点で決して低いわけではない。
 しかし、日本側の攻撃は第一波だけでなく、自らが攻撃を受ける前に第二波を放っており、その数は200機に達していた。
 この二度目の攻撃で米空母でただ一隻無傷だった「エンタープライズ」もついに大きく損傷し、ここに合衆国海軍が投入した全ての空母は戦闘不能となった。
 その後も、日本空母機動部隊の執拗な攻撃は続き、結局合衆国海軍は、「ホーネット」「レンジャー」、「ワスプ」を完全喪失し、「エンタープライズ」も被弾数魚雷2本、爆弾3発という深い傷を負う事になる。
 また、米軍の他の部隊も日本側の濃密な索敵網の前に、その姿を完全に発見され、午後に入る頃には合衆国主力艦隊が攻撃の対象とされ、周辺基地からのものも含めて多数の攻撃機からの雷撃を受けることとなった。この結果多数の戦艦が大きな浸水や速力低下などの大きな損害を受けた。しかも、偵察情報から北から日本の主力艦隊が迫っている報告も寄せられていた。そして、この情報に接し爾後の作戦が極めて困難な事を認めた合衆国太平洋艦隊司令部は作戦の中止を決定、全部隊のパラオへの退却を命令した。
 ここに、アメリカの「オペレーション・マゼラン」は完全な失敗に終わり、同時にそれまでの快進撃を支えていた合衆国空母機動部隊の大半を失うという大打撃を受ける事となった。
 一方、インド洋での再来を目指して、今回ものの見事に漸減された敵艦隊に対する砲雷撃戦を挑もうとしていた日本海軍は、この米軍の撤退に肩すかしを食らうことになる。
 この時の日本主力艦隊の落胆は大きく、これが後の異常なまでの奮闘へとつながる事になる。

 この一連の戦闘の結果、米軍の意図を完全に粉砕した。この意義は非常に大きく、それを知ってか知らずか、日本政府はことのほかこの勝利を大きく宣伝した。

■ユーラシア戦線1942