■アメリカの一番長い日

 4月14日の海戦は、当然と言うべきか連合国の勝利で幕を閉じましたが、双方にとっての本命である上陸作戦はまだ始まってもいませんでした。
 そして、米艦隊の撃滅を前衛艦隊から報告を受けた連合国軍太平洋軍集団司令部は作戦の最後のGoサインを出し、ここに『カリフォルニア上陸作戦』として後世に知られる「決号(別名:ジャッジメント)作戦」が発動されました。
 時に1946年4月15日午前零時五分の事です。
 
 と言ってもこの日一日は、洋上を埋め尽くすかのような艦隊は目標海域に向けての進撃を行うだけで、実際の上陸作戦そのものは翌日未明からが予定されていました。
 また、それよりも少し早く始められる空挺作戦もこの日の深夜からの降下を予定しており、陸上で双方の将兵が血を流すのはもう少し先の事となります。
 ですが、何もされないわけではありませんでした。
 午前5時をもって、攻略部隊よりも大きく前進していた日英合同の大機動部隊からの一斉攻撃が開始されたのです。
 この空母の群から放たれた艦載機の数はおおよそ1700機。艦隊防空用の直衛戦闘機を除いた全ての機体が参加していました。
 もちろん一度に全てが放たれたわけではなく、空母の航空機運用能力などの関係で三波にわけてのものでしたが、一箇所に3個航空艦隊が丸々殴りかかった事は、防空を担当するものにとっては悪夢以上の出来事でしかありませんでした。しかもそれが強固に防衛され高速で機動する洋上移動基地から放たれたとあっては、事前阻止の攻撃すら叶わず、ただただ波状的に押し寄せる敵の大群を防ぐしかないのが現状です。
 また、これに呼応してシアトル方面からの膨大な数の戦術爆撃機と戦略爆撃機による攻撃も同時に開始され、その数は空母艦載機をはるかに上回る4000機もの機体が断続的に参加していました。こちらはこの一日でのべ約7000回の出撃を記録しています。

 これまでカリフォルニア州は、ワシントンからロスアンゼルスへ首都が疎開した事と、アメリカ最後の産業地帯と言う事で非常に厳重に防衛され、特に戦略爆撃は連合国側にとっても距離的に重荷であった事も重なり、西海岸都市部における損害はそれ程大きくなく、特にロサンゼルスは実質的に相手首都と言うことで連合国も爆撃そのものを控えていたので、徹底的に破壊された五大湖周辺や東海岸北中部に比べればはるかに軽い損害しか受けていませんでした。
 そしてそれは軍事施設に関しても同様で、オレゴン一帯に展開する米陸空軍戦力以外は一部の特殊な施設以外は目標とはされておらず、海岸部の防衛地帯はほぼ放置されていました。
 しかしこの日は、連合国軍はまるで手のひらを返したようにカリフォルニアの北部、サンフランシスコ湾一帯のありとあらゆる交通機関と海岸部の陣地を爆撃します。
 特に長距離沿岸砲と軍民双方のある程度の規模を持った飛行場、対空陣地が重点的に狙われ、24時間続いた空陸2方面からの爆撃により基地のかなりが数日間機能を停止し、米軍事力そのものにも大きな損害がでていました。
 連合国軍は、まず大艦隊の上陸を阻むもの全て吹き飛ばしてしまったのです。

 ですが、アメリカ政府中央にとって重大な問題だったのは、そのような前線や街の個々の施設の破壊ではなく、連合国が明確に最後の人口地帯にして産業地帯であるカリフォルニアに侵攻しようとしている事と、それを防ぎきる事はどう考えてもできないだろうと言うことでした。
 ここでの米政府の選択肢は、大きく2つあります。
 ロッキー山脈奥地に後退してでも徹底抗戦し、あくまで停戦の可能性を模索しつつ戦うか、今更であるが両手を挙げて連合国側の提示した無条件降伏を受諾するか、です。
 そして、アメリカが停戦を求めたテキサスでの作戦が、連合国のさらなる一手のために戦略的に失敗しつつあり、連合国側が異常なほど急な作戦展開をしてきた以上、もはや生半可な事では条件付き停戦など連合国側が認める筈はなく、かと言ってもし無条件降伏を認めたなら、神に選ばれた国である筈のアメリカ合衆国は完全に解体され、恐らく列強各国の分割占領の後、いいように骨抜き去れ属国同然で分離独立と言う形で独立復帰できれば良いほうだろうと思われていました。
 これは、日英はそれまでの外交関係からアメリカ合衆国をDNAのレベルから憎んでおり、旧枢軸側は裏切ったという負い目の裏返しで過剰な反応を示し、そして全ての国がこの豊かで巨大な大地に一つの国があると言う事そのものを恐れていたからだと、当のアメリカも理解していたからでした。
 その全てを具現化したのが、これまでのアメリカに対する連合国の攻撃であり、このファイナル・アタックに如実に現れていると考えられていました。
 また、過度とも言える連合国側の攻撃は、アメリカ合衆国市民の間に、連合国全てに対する強い敵愾心と憎悪を醸成させ、一方では度重なる敗北と領土深く侵攻されている事などから既に敗戦は確定だろうとモラル・ブレイク(士気崩壊)も起こしており、民意を反映することが特徴だった合衆国の政治を麻痺させ、全ての決定は合衆国大統領と政府中央の決断にかけられる事になります。
 そして、全ての面で追いつめられたアメリカ合衆国大統領ヒューイ・ロングの決断は、連合国があと一日でカリフォルニアに上陸しようという決定的瞬間を迎えようとしていたのにも関らずついておらず、戦争という巨大な歯車は、全ての人間を引き潰すための動きを続ける事になります。

 1946年4月16日を迎えたばかりの深夜、ほぼ満月の月が傾きながらも夜空を照らしている中、連合国側の大上陸部隊がカリフォルニアの水平線上の沖合に姿を現しました。
 まさに海を埋め尽くすかのような大艦隊です。
 そして、ここで些細な失敗ひとつ許されないとして、連合国の上陸は非常に慎重で、実に教科書通りに軽艦艇による海岸部の制圧と同時に機雷掃海とその間隙を付く形での特殊部隊(本来はもっと違った言い方をするが、便宜上こうします。)による隠密上陸から始められます。
 この特殊部隊には、連合国のほぼ全ての列強部隊が参加しており、これほど各国の特殊部隊が共同で作戦にあたるのは、最初で最後だと言われています。
 このため参加した兵力も多く、日本海軍特務陸戦隊(SNLF)、英国海軍コマンド(SBS)は当然として、ドイツ、イタリア、フランスはてはソ連などからも多数が参加し、このため特殊部隊であるにも関らず、司令部機能には異例の軍団規模のものが用意され、参加兵力も数千人の単位に達していました。なお、この軍団の特異な点は、兵長以上の階級の兵士しかいなかった事と最高指揮官も少将でしかなかった事でしょう。全員が熟練の兵士であり、指揮官すら銃をとって戦える戦闘部隊でした。
 彼らは、選抜された兵士達にのみ可能な機敏な動作で、上陸の邪魔になるありとあらゆるものの破壊と妨害活動を行うと共に、友軍を引込むための活発な活動をその日一日継続する事になりました。

 特殊部隊が各所で活発な活動を開始した頃、作戦の第二段階が動き出します。
 そして、この段階の発動により、作戦は引き返すことが不可能なラインを越えることになります。
 二番手は、バンクーバー一帯に移動していた連合国の全ての空挺部隊を集めた、第一空挺軍です。
 この軍は、空挺師団9個師団規模を基幹とした、純粋に空挺部隊のみを集めた極めて特殊な編成の部隊で、空挺兵ばかりが約12万名も所属していました。
 もっとも、一度に運べるのは、グライダーを用いてもこの4割程度でしかなく、全てを空挺降下させるには最低でも全力で三回の空輸が必要でした。
 しかしそれでも、一度に4個師団もの空挺降下が可能なだけの輸送機、グライダー、グライダー曳航用爆撃機が集められた事(合計で約3000機)は特筆に値する事柄で、連合国軍中からありったけの輸送機を集めた一大空輸部隊でした。
 ちなみに、この一部は皮肉にも連合国の占領地域にあるアメリカの生き残った工場で生産された機体も含まれていました。

 部隊の出発から米軍に察知され、オレゴン一帯に展開していた米航空部隊の防空部隊による阻止活動が行われましたが、それまでに同地域に展開する部隊のかなりが失われており、さらに前日から行われていた空爆でそのほとんどが一時的に活動を停止していた事から、この大空挺部隊をほとんど阻止する事はできませんでした。
 当の兵士達にとっては些細などころの問題ではありませんでしたが、空中での犠牲はごくごく僅かで、膨大な数の輸送機はカリフォルニアの夜空一面に落下傘の花畑を造りだす事に成功します。
 空かの第一波としてカリフォルニアの大地に降下したのは、日本軍から2個、英国とドイツから各1個の空挺師団で、これにイタリアとフランスが大隊規模での降下を行う事になります。
 これだけで、5万人近い数の空挺兵が一斉に降下した事になり、もちろん1回で見ても史上最大規模の空挺作戦でした。
 しかも、装備の面でも大きく進歩しており、空挺兵たちはグライダーに搭載された多数の空挺用軽戦車、高機動車などで武装され今まで空挺兵の欠点とされた機動力を持つようになり、また砲兵兵力ですら軽量の75mm榴弾砲や112mm重迫撃砲、各種無反動砲など重さの制限こそありましたが豊富な砲兵火力を持ち、しかも歩兵の火力もドイツ生まれの各種簡易ロケット砲、対戦車ライフル、軽迫撃砲、日本製の重擲弾筒などで強化され限定的ながら戦車にも対抗できるようになり、後方警備用の合衆国軍州兵程度では排除できないだけの存在へとなっています。
 しかも、米軍にとって運の悪いことに、この日は風が全般的に弱く、連合国側の空挺兵たちは、その大半が自らの望んだ所に降下し早々に兵力を整えると、要地の占領、破壊工作の実施などを行ない、合衆国軍の内部に癌のように浸透していきました。

 そして、空挺兵が当初の目的を達しようとしていた頃にようやく夜明けを迎え、上陸作戦そのもののゼロ・アワーを迎えることになります。
 深夜から、各種の揚陸専門艦艇や上陸舟艇を搭載した輸送船舶から、多数の上陸舟艇が兵士や武器を満載して解き放たれ、それらが日本海軍陸戦隊特有の水陸両用戦車などの装甲車両を戦闘にして、隊列を整えていました。
 その数は、三波に分かれており総数約5000隻。
 過半数が日本軍の鋼製大発と呼ばれる積載量30トンの大型舟艇でしたので、完全装備の歩兵120名か中戦車一両を搭載する事ができました。
 単に歩兵だけを運べば、60万人を一度に上陸できる数が夜明けを前に展開していた事になります。
 もちろんそんな事はなく、それぞれの役割が割り振られた舟艇には実にさまざまなものが積載されていました。
 そして、上陸部隊の総指揮艦からの前進命令を受理すると、第一梯団からゆっくりと前進を開始します。
 数にして約1500隻。もちろん、この梯団は極めて広範な海岸線を目指し、いくつものグループに分かれており、一度に全てが同じ海岸に殺到するわけではありませんでしたが、沿岸陣地からこれを眺めていた米軍の下級将校が悲鳴のように「なんてこった! 海は20パーセントしかないぞ。他は全部ジャップだ!」と司令部に叫んだ言葉がこの有り様を端的に現していると言えるでしょう。

 連合国軍の最初の舟艇が砂浜に着岸したのが、朝日が完全に上り周囲を明るく照らし出した午前06時08分。
 この前後から、美しいカリフォルニアの海岸は、戦場で発生するありとあらゆる喧騒をBGMとしたこの世の地獄となりました。
 連合国側の臨時編成のオーケストラは、沖合からの戦艦の主砲の咆哮が遠雷に似た轟きと火焔を間断なく発生させ、それが目的地の水際の米軍陣地を最大級の音量の発生と共に直径30メートルもの巨大なクレーターを量産し、海岸ギリギリまで接近した巡洋艦、駆逐艦、火力支援艦がさまざまな口径の主砲を放ち、中でも中型の揚陸艦を改造したロケット砲艦は、一斉射で戦艦のオールファイアに匹敵する破壊を振りまいていきます。
 また、装軌式水陸両用車両による砲撃、舟艇に搭載された射撃可能な車両による射撃、狙いが定められず気休め程度でしかない舟艇からの迫撃砲、各舟艇に搭載された重機関銃の唸りが仕上げをしていました。
 当然反対側からは、連合国側の舟艇が近寄るにつれて、米軍の沿岸陣地から激しい攻撃から生き残っていた重砲、軽砲、迫撃砲、機関銃、小銃などが有効射程の順番に戦場演奏へと加わっていきました。
 そしてこれに、攻撃により破壊されていく全ての者たちのコーラスが、他の大きな音にかき消されながらも加わります。もちろん、人間の怒号や絶叫、悲鳴などはこの戦場の喧噪にあっては余程傍で聴かねば聞こえるものではありませんでしたが、このコーラスの重要なパートを占めることになります。
 
 そして午前10時を迎える頃、海に放り出されれればそのまま溺死してしまうほど重装備を背負った連合国の兵士達が場所によっては5km程度の縦深を確保し、後続の部隊が次々に送り込まれるようになると、連合国側の優位は確かなものとなります。
 特に、位置をさらしてしまった米軍の火砲の過半は、艦砲射撃か爆撃により粉砕された効果が大きく、他にも事前に展開したコマンド達の働きにより進出が容易だった事、水際陣地のいくつかが後方を連合国側の空挺部隊により孤立していた事も比較的スムーズな強襲上陸に影響していました。
 また、正面から上陸した部隊も米軍の激しい抵抗を予想して、それまで以上に重武装で上陸を仕掛けていた事も無視できない要素でした。
 水陸両用戦車はもちろん、第一波に多数投入された歩兵を満載した装軌式の水陸両用舟艇、上陸舟艇に積載され無理やり第一波で投入された多数の装甲車両など、それまでの常識をはるかに越えた機械力の投入がそれです。
 さらに、航空部隊が米軍の機動防御用の兵力を激しく叩いていた事による効果は言うまでもないでしょう。
 絵に描いたような大兵力を投入した上陸作戦。それこそが米軍最後の牙城への強襲上陸を順調に運ばせたのです。

 そして、D-day一日目の夕闇が迫ろうとしていた時、連合国側はカリフォルニアの大地に早くも盤石と言える橋頭堡の確保に成功し、上陸作戦司令部も『アメリカ最後の砦の城門は、今開け放たれた』と作戦の成功を宣言しました。
 この日上陸した将兵の数は、夜半まで合計すると26万人に及び、空挺部隊の第二波を含めると30万人を優に超える数が、カリフォルニアの大地にひしめくことになります。
 そして、圧倒的空海戦力に支援されたこの兵力を、海に叩き落とす兵力を米軍はもはや持ちませんでした。

 これで、総力戦という新時代の戦争の、理性として許容できる範囲での戦争の決着はついた。
 この上陸作戦が行われた日は、全ての人にそう感じさせた日でした。
 そしてそれは、ロスアンゼルスに本拠を移したアメリカ政府、議会、国民も同様でした。
 仮の議事堂で徹底抗戦と即時停戦を叫びあう生き残りの議員たち、連日の爆撃に防空壕や地下鉄の駅深くでおびえる市民、どうにもならない戦局を前に義務と絶望の狭間に立たされている軍人、今も戦っている前線の兵士達。
 アメリカ合衆国の全ての人々が、連合国側の最後の大攻勢とそれに対する大統領の決断を待ち望んでいました。
 例外は、政府からの指示を無視し無軌道なゲリラ戦を行っている「デス・ボランティア」と呼ばれた合衆国特有の風土が生み出したゲリラ(自分たちでは20世紀の騎兵隊と呼んでいたが)だけだったと言えるでしょう。
 そして、連合国の上陸作戦での勝利宣言が出されてから、ちょうど一時間後、午前零時をもって臨時放送を行うと、生き残っている全ての通信回線を使い、合衆国全土に放送が出されました。

 当然これは、連合国側でも傍受され、また連合国側に対しても別の呼びかけが行われました。
 もっともこれは、連合国側から密かにアメリカ政府代表に送られた書簡に応えるもので、内容は当然どちらのものもこの未曾有の戦争の終らせ方に関する事柄です。
 なお、連合国からどう言った事実上の最後通告を送るかについて、主要各国の間でかなりの議論となりました。
 この最後の審判に発言権を持っていた国は、北米戦で主要な役割を果した大英帝国、ドイツ第三帝国、フランス共和国、イタリア王国、ソヴィエト連邦、そして欧州以外の唯一の大国である大日本帝国でした。
 会議は、英国と独国の二つの大国が提示した案に大きく別れ、イタリアは統領の意思はともかく事実上ドイツの衛星国のためドイツ派、フランスは北米戦で自国の復活の兆しが見えた事もあり、独自外交方針を展開すべくいまだ結論を出さずに保留中、後方支援と武器商売に徹していたソヴィエトは反独と当面の国家としての生き残りを日英側に委ねている事もあり英国寄り。
 つまり、決断は日本がどの意見に賛同するかにかかっていました。しかも、対米戦となると戦争初期から常に最も大きな負担をしている事から、どの国も無視できませんでした。
 そして、日本さえ決断してしまえば、その他大勢として戦争に関ったアジアの過半の国もそちらに流れ、英国とドイツも対等の立場にある国がどちらかにつけば、もう一方も文句を言いつつもそちらに従うのが外交の流れです。
 なお、日本案が存在しないのは、日本政府が単に以前の決定通り無条件降伏で良かろうとして、この時点での妥協や強硬案を腹案としてすら持っていなかったからです。
 つまり、日本政府は恐怖心に裏打ちされた生真面目さを以て、アメリカを無条件降伏させるべく戦争を頑張ってきていたと言うことになるでしょう。

 さて、日本政府としてはどちらの案を支持すべきか。
 どの案を断末魔のアメリカに突き付けるべきか。
 次の二案が両国の腹案になります。

 ◆イギリス案
 主旨:統一再独立案・事実上の条約付き降伏
    安上がりなアメリカの占領・統治
現時点での降伏を促進する条件を提示し、降伏・分割占領の後、関係国との間の話しあいにて、時機を見てのアメリカ合衆国の独立復帰を図る。

 詳細・提案側の目的:
 アメリカ政府に、理性的に降伏しやすいように、以前の無条件降伏と言う条件をある程度緩め、一時的占領の後の国体の復活を内約しようと言うもの。
 また、それにより高度な近代国家にして産業国家であるアメリカをある程度存続させ、独立復帰と共に産業などの復興を援助し、そのプログラムの中で自分たちのコントロール下に置いてしまい、独立復帰後は資本主義陣営の1地方国に再構成しようという意図がある。そしてその為にも、米本土以外の全ての領土は国連委任と言う形で全て割譲するものとする。
 そしてこれにより、二つの大洋に囲まれている地の利を利用して、大陸国家の影響力を小さくしようと言う目的も強くある。
 なお、この場合、後に忠実な同盟国を作り上げるため、占領を主導した者の負担が強くなる事が懸念である。

 ◆ドイツ案
  主旨:分離独立案・完全無条件降伏
     採算度外視のアメリカの破壊
全てを蹂躙しつくし、分割占領の後、未来の禍根を完全に絶つために時機を見て広大なアメリカ合衆国を各地域事情に合致した政府を樹立し分割する。

 詳細・提案側の目的:
 あくまでアメリカが降伏できない条件を提示し、このままアメリカを近代国家として一度抹殺してしまい、その後自分たちの都合の良い地域として再構成してしまう事にある。
 最低でも四半世紀の間は、農業生産と鉱業生産のみを行う産業後進国(経済的植民地)にして、自分たちのコントロール下に置き、二度と世界の覇権を挑めないようにしてしまうのも大きな目的。
 また、分割占領により、統一占領・独立だと制海権を持っている日英に過半を持っていかれる恐れがあるが、分割独立により自分たちの勢力圏を維持する意図が強くある。
 なお、この場合ドイツが東部・南部地域を担当し、英仏が北部・東部の残り、日本などアジアが中西部・西海岸地域と可能なかぎり均等な占領を行ない問題を最小限に留め、10年後程度の分割独立に向けて占領と共にその準備を進める。

 では、審判を下す時です。
 日本はいったいどちら選択すべきでしょう。

 

 1. 大英帝國案を支持する。

 2. 第三帝國案を支持する。