■連合国側の持久体制の強化と独ソ戦勃発

 1941年3月15日、日本の佐世保鎮守府では、第二次遣欧艦隊の出発式典が行われます。また、那覇ではすでに陸軍の第一次遣欧軍団を満載した輸送船を含む大規模な護送船団がすでに待機しており、この到着を待っていました。
 この時編成された日本軍の概要は、第二艦隊を再編成したものです。なお、欧州での戦訓を取り入れ、空母と戦艦を織り交ぜ以下のように編成されます。

●第二機動艦隊
第十三戦隊:「高千穂」、「穂高」
第五航空戦隊:「翔鶴」、「瑞鶴」、「千鶴」
第九戦隊:「最上」、「熊野」、「鈴谷」
第四水雷戦隊:「酒匂」 艦隊型駆逐艦:16隻

 これにより本国に残るのは、念のためアメリカ合衆国を警戒する必要があるので残留する第一艦隊のみとなり、日本がいかに欧州を重視しているかを内外に示すことになります。なお、当初予定されていた「富士」級戦艦の派遣は、東太平洋でのアメリカのプレゼンス増大により結局中止されましたが、それ以外はほぼ計画通りが欧州に派遣される事になりました。こと高速発揮が可能な空母に関しては、正規空母、軽空母を問わずその大半が派遣された事となり、日本軍の決意の高さを内外に示します。
 また、戦時急造の軽空母がようやく前線に姿を表し、陸軍の護衛に付き従って初めて欧州へと赴くことになります。
 なお、この軽空母は低速で防御力も極めて低いので「護衛空母」と別に呼ばれ、その全てが海上護衛総隊の所属か英国への貸与艦となりました。
 しかし、それだけでは当面は足りないので、潜水母艦や特殊母船として就役ないしは建造中だった複数の艦もことごとく軽空母に改装されます。これらも、航空機を飛行甲板に満載して第二艦隊と共に欧州へ赴きます。

 第一護衛艦隊
第十一航空戦隊:「千歳」、「千代田」
第十二航空戦隊:「千早」、「千景」
第五水雷戦隊:3000t型:1隻 睦月型駆逐艦:8隻

 第二護衛艦隊
第二十一航空戦隊:「大鷹」、「沖鷹」
第二十二航空戦隊:「雲鷹」、「海鷹」
第六水雷戦隊:3000t型:1隻 護衛駆逐艦:12隻

 そしてこれに陸軍の第25軍に属する第二師団、第五師団、第二戦車師団など合計7万もの陸兵とその装備を満載した船団を伴っており、これらの船団だけで船舶100隻に達し、支援部隊を含め200隻近いこの大船団は、遠距離遠征を行う部隊としては日本史上最大規模のものとなります。
 なお、船団がこれ程巨大になったのは、陸軍の部隊の全てが高度に機械化された陸軍の精鋭部隊だった事と、多数の補給物資・弾薬などを同時に持ち込んでいたからでした。
 この船団はその気になれば、ちょっとした変更でどこかの拠点に強襲上陸すら可能な編成が取られており、これは日本軍がこの事を強く意識した陸海共同の作戦とこの移動作戦を認識していたからです。
 ちなみに、これらの戦力が到着すれば欧州・地中海方面に展開する海軍の合計は、戦艦7隻、正規空母6隻、軽空母6隻、護衛空母4隻、巡洋艦13隻にまで増強され、単独でもイタリア海軍を完全に圧倒する程増強される事になります。ただし、この勢力がこの戦争での欧州に派遣された日本海軍の最大戦力であり、以後はアメリカとの緊張激化に従いむしろ減少していくことになります。
 また、この艦隊に随伴していた軽空母・護衛空母の75%は、欧州での消耗戦のための航空機輸送任務に当たっており、ためにこの艦隊が運ぶ航空機は空母だけで600機にも上っていたことが資料などから知ることができます。
 もちろん、到着後全てが護衛空母任務に就き、ドイツ潜水艦隊との熾烈な戦いを始める事となります。
 もっとも、日本海軍がこれほど空母を重視したのは、先ほども紹介した通りドイツ潜水艦隊に対して空母が有効だったからではなく、ドイツの空軍戦力を極端に恐れていたと言うことが戦後判明しています。
 なお、日本艦隊の到着予定は地中海には1941年4月末で、陸軍と航空部隊はアレキサンドリア到着後ただちに揚陸され、英国のエジプト防衛を支援する事になっていました。
 また、海軍は、地中海方面にある部隊と糾合したのち、圧倒的な戦力でもって、北アフリカ、シシリー島、南イタリア半島の航空撃滅戦を予定していました。

 さて、その頃東欧へと駒を進めつつあったドイツ軍ですが、その大半は「友好的」なものであり、何事も問題なく進展します。
 唯一、ユーゴスラビアが一時期問題になりましたが、東地中海にあふれ出すほど展開している連合国側(正確には日本軍)の存在が、この地域全体の国際情勢を左右する事になります。
 また、イタリアの動きも大きく制約する事になります。
 東欧では、連合国側の動きに敏感だったドイツ軍の特に軍警察組織が、早々にそれぞれの国家中枢に入り込んでいた事から、3月末にあったユーゴスラビアのクーデターを失敗に追いやり、エジプト側からの大きな援護を受けられる連合国側の大軍がひしめくギリシアの侵攻を中止させる事になりました。
 また、イタリアが、リビアからエジプトに侵攻し、アルバニアからギリシアを攻撃していましたが、日本軍の大量投入で息を吹き返した英国軍が主導して、この地域の反撃と攻勢を強めていき、これにより政治的理由から北アフリカで苦戦するイタリア軍を救援する予定の兵力や人員をルーマニアの油田地帯の防衛に回さざるを得なくなり、石油に関してドイツよりも逼迫していたイタリアも本格的救援の断念と北イタリアでの戦線縮小を受け入れる事になります。
 もっとも、地中海への兵力移動を、結果的に東欧そして来たるべきソ連への戦いへシフトできたドイツは、南ロシア戦線方面での機甲兵力と前線補給部隊を得ることになり、これが独ソ戦初期において大きな役割を果たすことになります。

 そして、この戦況の変化に連合国側も反応を示し、有利な地域での地固めと戦線の安定化を進めます。また、地中海方面はこの後、攻勢や防御よりもシーレーンの確保を第一とした戦力配置が行われるようになりまる。
 そして、そうした中アレキサンドリアに日本の大護送船団、これから続々と続く部隊のその第一陣が到着します。これを英国は殊の外喜び、この時のことをチャーチル首相は日記に「東洋の友人から希望の松明が届いた」と記し、これを非常に喜んでいます。
 しかし、連合国側はこの大兵力を当面は防衛の為に使う事を決めており、せっかく持ってきた陸上兵力も、一緒にやって来た各地の英連邦軍ともども、後方に留め置かれるか、北アフリカやギリシアの要衝に送られました。
 連合国側にとって、この時期は防備を固める時期であり、攻勢に出る時期でなかったため、このような措置が採られました。
 ただし、日本の増援戦力の詳細は、相手に手を読ませない為単に大軍が到着したとだけ威嚇して、内容については厳重に秘匿されました。
 また、各種の偵察情報から、ドイツ軍がソ連ないしは東欧に対する何からの軍事的な行動に出る兆候が見られていたからで、その見極めが付くまで行動を控える方針があったからに他なりません。

 では、この当時の欧州に派遣されていた、日本軍の兵力を少し紹介しておきましょう。

●大西洋方面
◆海上兵力
 第3艦隊
第四戦隊:「葛城」、「赤城」、「愛宕」、「高雄」
第六戦隊:「鳥海」、「摩耶」、「伊吹」、「鞍馬」
第二水雷戦隊:「矢矧」 艦隊型駆逐艦:12隻

 第二機動艦隊:(艦載機:常用約280機)
第十三戦隊:「高千穂」、「穂高」
第五航空戦隊:「翔鶴」、「瑞鶴」、「千鶴」
第十二航空戦隊:「千早」、「千景」
第九戦隊:「最上」、「熊野」、「鈴谷」
四水雷戦隊:「酒匂」 艦隊型駆逐艦:16隻

◆基地航空戦力(在英本土)
 日本海軍航空隊・第12航空艦隊
第21航空戦隊貴下の約300機
第23航空戦隊貴下の約300機
 日本陸軍航空隊
第5飛行集団貴下の約250機

●地中海方面
◆海上兵力
 第一機動艦隊:(艦載機:常用約250機)
第五戦隊:「金剛」、「榛名」、「比叡」
第一航空戦隊:「蒼龍」、「飛龍」、「雲龍」
第四航空戦隊:「龍驤」、「龍鳳」
第二十一戦隊:「大淀」、「仁淀」 艦隊型駆逐艦:12隻

◆基地航空戦力(在アレキサンドリア、もしくは移動中)
 日本海軍航空隊・第12航空艦隊
第24航空戦隊貴下の約300機
 日本陸軍航空隊
第3飛行集団貴下の約250機

◆陸軍
第25軍(団):機甲1個師団、機械化2個師団
他:空挺1個旅団、海軍陸戦隊1個旅団

●その他
 海上護衛総隊
 第一護衛艦隊
第十一航空戦隊:「千歳」、「千代田」
第五水雷戦隊:3000t型:1隻 睦月型駆逐艦:8隻

 第二護衛艦隊(英本土に航空機輸送任務中)
第二十一航空戦隊:「大鷹」、「沖鷹」
第二十二航空戦隊:「雲鷹」、「海鷹」
第六水雷戦隊:3000t型:1隻 護衛駆逐艦:12隻

他に地中海以西に到着していた洋上兵力
神風級駆逐艦:2隻
護衛駆逐艦:8隻
海防艦:8隻
(旗艦任務に軽巡洋艦「香取」が、コロンボまで進出)

 海軍潜水艦部隊
2個潜水戦隊(母船2 潜水艦24隻)

 日本軍については以上ですが、日本軍の増援に前後して、アジア、太平洋、インド洋地域の英連邦軍も同時に軍を進めており、その中継集結地点だったアレキサンドリアは、それらの兵力で溢れかえっていました。
 なお、最初に欧州に派遣されていた第一機動艦隊が地中海に移動しているのは、日本本土からの増援により水上兵力で余裕が出たのに対して、太平洋でアメリカの圧力が増大していた事から、急遽本土への帰還が決定されたからです。
 これに英国も、各種の増援が日本から到着していた事から特に異議は唱えず、増援艦隊とすれ違うように本土への帰還を始めていました。もっとも、連合国内での協議により、一度地中海艦隊への転属と言う形を経ての帰投となっており、ためにスエズを通過する6月一杯は欧州派遣軍に編入される形になっていました。

 そして、連合国側が不気味に沈黙するドイツ軍の動向を見守っているさなか、欧州の情勢は激変します。
 一つは、海で大きな動きがみられました。
 ドイツ海軍による水上艦による通商破壊、「ライン演習作戦」が決行されたのです。これは、有名な「ビスマルク追撃戦」とも呼ばれています。
 これまでの大型水上艦による通商破壊の成功に、ドイツ軍首脳はもっとこれを大規模に行い、連合国側の海上交通を大混乱に陥れようとしたのです。
 このため、最新鋭の「ビスマルク」級戦艦や、それまでにも活躍していた巡洋戦艦や重巡洋艦などを合同させ、大兵力での破壊を行おうとしました。
 しかし、連合国側の爆撃により2隻の巡洋戦艦は、作戦の前に軍港内で損傷してしまい、この作戦は「ビスマルク」と重巡洋艦の「プリンツ・オイゲン」の二隻によって行われる事になりました。
 これに対して連合国側は、ドイツ大型水上艦の動向に非常に注意を向けており素早く対応します。2隻の出撃が確認されると、さっそく追跡のための巡洋艦が派遣され、同時に多数の水上艦がこの2隻を追撃するために北大西洋上に解き放たれました。
 この中には、英艦隊と共にスカパ・フローで待機していた日本海軍の第3艦隊と、ジブラルタルで補給中だった第2機動艦隊、第1護衛艦隊も含まれ、それぞれ出動準備が行われたり、追跡任務が割り振られたりしました。
 なお、第1護衛艦隊は本来は海上護衛が任務で、改装空母(千歳、千代田)と旧式駆逐艦(睦月級)から構成されていましたが、元々30ノットクラスの高速艦で構成されていたため、高速と航空機による偵察能力を買われて急遽追跡任務に投入されたものでした。
 「ビスマルク」の追撃は、英国がすでにRDFの艦載型を広範に実戦配備していたので当初はほとんど問題なく行われ、その結果、巡洋戦艦の「フッド」と最新鋭の「プリンス・オブ・ウェールズ」が捕捉に成功しました。しかし、その時行われた海戦でドイツ艦隊の攻撃により「フッド」が撃沈され、「プリンス・オブ・ウェールズ」も大きく損傷し後退を余儀なくされます。しかし、巡洋艦による追撃はその後も継続され、「フッド」撃沈に慌てた英本国艦隊のほぼ全力を投入した、本格的な追撃作戦が開始されます。
 投入された兵力は、本国艦隊だけで旗艦「キングジョージ5世」と「I級」巡洋戦艦2隻、「フッド」級巡洋戦艦2隻に空母「ヴィクトリアス」にも及び、それ以外にもH部隊の「I級」巡洋戦艦2隻、空母「イラストリアス」が加わっていました。他にも船団護衛を一時中断して「レナウン」もこれに加わります。つまり、英海軍が有する大型高速艦の大半がこの任務に投入されたのです。
 これに加えて3個艦隊、戦艦6隻、大型空母3隻、軽空母4隻を投入していた日本艦隊の姿もありました。
 連合国側とドイツ海軍の兵力差は、圧倒的と言う言葉ですら表現できないほどありましたが、ドイツ艦隊、正確には「ビスマルク」の巧みな逃避行により、連合国側の追撃の大半が空振りに終わります。
 しかし、ドイツ軍のミスもあり何とか「ビスマルク」の行方を突き止めた事で追跡戦が最終段階に入ります。
 「ビスマルク」を最初に捕捉したのは、ジブラルタルから進撃していた日本第1護衛艦隊で、護衛艦隊にも関わらず果敢に艦載機による攻撃を開始しました。この時出撃したのは、軽空母2隻から戦闘機6機、艦上攻撃機18機でしたが、この攻撃は、軍艦にとってのアキレス腱である舵を破壊する事に成功します。
 その後さらに、同じようにジブラルタルから出撃し、他の地域を捜索していたH部隊日本第2機動艦隊がこの捕捉に成功します。
 そして、当然のように大規模な航空攻撃を行いました。
 この時、英艦隊から出撃した機体はそれ程多くありませんでしたが、正規空母3隻、軽空母2隻からなる日本機動艦隊は、ある目的を達成するため全力攻撃をしかけました。
 ある目的とは、洋上作戦中の戦艦を空母が撃沈し、時代の変化を世界に知らしめる事です。これは、空母の指揮にあたっていたある参謀の意見が通された事から実現したと言われますが、戦術原則的に一度に大兵力を投入するのは正統的な兵力運用方法だったので、この説に異論を唱える向きもあります。
 ともかく、日本の5隻の空母からは2波220機もの攻撃機が放たれました。そして約150機にものぼる攻撃機は、「ビスマルク」の強靱な船体に魚雷7本、爆弾9発、至近弾多数の命中弾を叩き付ける事に成功します。
 しかし、残念な事にこの大規模な攻撃をもってしても、強固な「ビスマルク」の撃沈はかないませんでした。
 結局、「ビスマルク」の撃沈は、その後押っ取り刀で駆けつけた日英の高速戦艦の群による、滅多打ちにより撃沈されます。
 しかし、この時には「ビスマルク」は事実上戦闘力を喪失し、ロクに走ることすら出来なかったのですから、事実上の撃沈は航空機によって達成されたと言ってもよいでしょう。もし、第3波の攻撃が行われていれば、そうなったはずです。

 そして、この「ビスマルク」撃沈はドイツ海軍首脳部に、大型水上艦による交通破壊の難しさを痛感させる事となり、以後の水上艦の運用には今まで以上に慎重にさせる事になります。

 そしてもう一つの動きは、第二次世界大戦のひとつの宿命的な転換点となりました。
 1941年5月15日午前3時15分、ドイツ軍の精鋭160個師団、300万人が4000kmにも及ぶソ連国境を一斉に突破したのです。
 ドイツ軍最大の賭け「バルバロッサ作戦」の発動です。
 これを迎え撃つのは、200個師団以上、450万人にも及ぶソ連赤軍ですが、ソ連特有の硬直した指揮系統、将校が粛正されつくした赤軍が組織として弱体だった事、ドイツの奇襲、スターリンの大きな誤断など様々な理由から完全な形で成功をおさめた事、ドイツの航空機と機甲兵力を用いた機動戦術が極めて有効だった事などから、ソ連の防衛網は大きく食い破られ、4週間足らずでソ連は、国境から700kmも内陸にあるスモレンスクをドイツ軍に奪い取られる事になります。

 このドイツのソ連奇襲攻撃に際して、日英を主体とする連合国側は文字通り一息付くことになります。特に各方面でのドイツ航空戦力圧力の減った事は大きく、各戦線は完全に立て直す事に成功します。また、そればかりでなくドイツ本土に対する戦略爆撃すらも比較的優勢に行えるようになり、二正面戦争を始めてしまったドイツに対して戦略的だけでなく、初めてと言っていいぐらい、戦線全般での戦術的優位を獲得します。
 そして、ドイツがソ連侵攻を始めると、ただちに英国そして連合国各国はソ連との同盟を画策します。
 これに、ドイツに呆気なく前線を突破されたソ連政府も積極的に乗ってきます。
 当初、ソ満国境の対立などからこれを渋っていた日本政府も、アメリカとの対立が再び激化している事などを踏まえて、英国の説得に折れる形でこれを受け入れる事になりました。
 この時、日本国内ではソ連と同盟を組む事への反発が吹き荒れますが、マスコミによる誘導で徐々にこの流れを変えていきました。
 そして、ソ連の連合国参加は、連合国側、特に日英に大きな福音をもたらすことになります。
 ドイツの陸空軍の戦力の過半が、ソ連戦線に傾注されるのはもちろんのことですが、ソ満国境にあった巨大な日本の戦力がフリーになったからです。同時に、1個航空艦隊以上の航空戦力も別の戦線に転用できる事をあらわしていました。
 また、ソ連に対する援助物資の受け渡しは、最も安全な極東=シベリア鉄道ルートが主に使われることになり、7月に入ると西に向かうソ連極東軍と共に欧州ロシアへと送られるようになります。
 日本からの援助物資は、当初は基本的な兵站物資以外は、日本である程度余剰としてキープしていた輸出用兵器や旧式兵器などが主でしたが、巨大なソ連軍に対する援助を前にしては、そのようなものだけでは到底足りず、日本の余剰生産の大半が援ソ物資生産のために稼働するようになるまで、たいした時間はかかりませんでした。

 しかし、ソ連参戦の喜びは長くは続きませんでした。
 それは、10月2日にドイツ軍がモスクワ占領に成功したからです。ソ連最大の将軍たち「泥将軍」と「冬将軍」が援軍に現れる前の出来事でした。
 この時、レニングラードもウクライナの主要部も維持されていましたが、首都を失ったと言うショックは極めて大きく、軍事的な劣勢ばかりでなく、ソ連の指導体制と各防衛線は大きく揺らぐことになります。
 また、この当時のソ連にとってのモスクワは、単に政治的中枢と言うばかりでなく、工業の中心地域の一つであり、また交通の要衝でした。
 さらに、ソ連ひいてはロシアの政治、経済、軍事などがまだ前近代的な部分を多分に残しており、硬直化した共産主義一党独裁体制がこの混乱に拍車をかけていました。
 首都陥落の混乱は極めて大きく、その後泥濘に苦しみつつもドイツ軍が達成したウクライナ全域の占領もレニングラード占領も止めることも出来ず、ソ連赤軍は欧露の過半をドイツに占領されることになります。
 その後、ようやく到着したシベリアからの増援などを主力とした反撃が12月に入ってから行われましたが、それまでのモスクワ攻防とウクライナ失陥で欧州方面の予備兵力の過半を失っていたソ連赤軍に対して、10月以降南方以外では越冬体制と防衛準備に全力を投入していたドイツ軍を退けるには至りませんでした。
 しかも、この無理な反撃作戦で、せっかくシベリアから持ってきた新規兵力も消耗してしまい、以後の防衛計画にすら齟齬をきたすようになります。

 しかし、一方では満州、日本本土の兵力フリーを与えられた日本軍の戦略的柔軟性は極めて高いものとなり、これをいかに有効に活用するかが日本だけでなく、英国からの助言を受け入れつつ検討されました。
 この時点でソ連に備えて日本近辺や満州にあった兵力は、陸上兵力が約20師団の精鋭師団とそれを構成する50万人の第一線級の兵員、航空兵力が各種約1500機でした。この兵力は日本陸軍のもだけで、派兵予定の衛星国などの兵力や本土で編成中の兵力を含めれば、その数は100万にものぼりました。
 しかし、この膨大な兵力の欧州への移動に「待った」がかけられます。
 アメリカ合衆国が原因でした。

■アメリカの膨張外交と混沌の欧州