■フェイズ3「第二次世界大戦と日本 1」

 第二次世界大戦(欧州大戦)勃発時点の日本は、ソビエト連邦ロシアに対する恐怖から満州及び北方の防衛に強く傾倒していた。日本にとって欧州での二度目の争乱の始まりよりも、露助(ロシア人)との対立激化の方がはるかに重要だった。近隣ながら、内乱中のシナ中央も事実上眼中に入らなくなっていたほどだ。
 しかし戦乱は遠く彼方の欧州での出来事のため、日本が戦争に関わる必要がないのと同時に、戦争勃発による軍備拡張という錦の御旗も使うことはできなかった。それでも日本は、ソ連の動きに対応する形で大陸各地の陸軍の各部隊を増強までして、ソ連への備えを強めようとした。ノモンハン事変は、それほど大きなショックを日本軍に与えていたのだ。
 そしてソ連側は、軍拡の原則に従って日本の動きに対応して極東軍備を増強した。ノモンハン事変が法的に解決した後も、満州・極東ソ連国境は緊張度合いを強めていった。紛争の一年後には、日ソ双方の国境地帯には今までの二倍近い規模の軍が動員されていたほどだ。さらにソ連は、共産党への対日テロ、ゲリラを命令し援助を送った。対する日本も、汪兆銘率いる国民党に対する支援や援助を増やすようになった。何しろ彼らは、ドイツからの輸入と支援が突然とぎれ軍事顧問までが居なくなり、イギリスなどからの支援が減少し窮していた。そして中華民国は、数年前の蒋介石を中心とした対日反発など忘れたかのように、中華民国の側から日中防共を叫ぶようになった。ただし日本側の主な目的は、軍備増強費用をまかなうための外貨獲得だった。国民党が相手では、防共の効果は限定的すぎると判断されていたからだ。
 一方では主にイギリスなどが、対日関係の改善を図ると同時に、最低でもアジアでの相互不可侵条約の締結、できうるなら日本の対独参戦を行わせようと外交画策を展開するようになる。この動きはソ連にも伝わり、ノモンハン事変後の日本に対する工作をどうするか混乱が見られた。この頃ソ連中央では、独ソ不可侵条約と日本の三国防共協定離脱を受けて、日本に対する限定戦争の計画が存在していたからだ(※ソ連崩壊後の情報開示の結果判明。)。故にイギリスの日本に対する接近は、ソ連の動きを躊躇させるに十分な要素だった。ソ連は、既に戦争状態に入ったイギリスとまで事を構える気はなかった。イギリスがドイツと不可侵条約を結ぶソ連を潜在的敵国と見ていたことからも、ソ連にとって慎重を期すべき行動であった。元領土のフィンランドに戦争を吹っかけただけで、国連を追い出されてしまったのだから。
 対する日本は、欧州各国との関係改善に前向きながら、ソ連の脅威を全面に押し出して対独参戦は強く否定していた。日本は、対独参戦して欧州に派兵すれば、ドイツとソ連の不可侵条約からソ連が日本に攻め込む可能性が高いと強調して譲らなかった。事実満州国境は、独仏国境よりも緊迫度は高いほどだった。また欧州諸国も、日本のそれまでの行い特に中華地域での行いから不審の念が拭えず、1940年春までは日本をどうしても連合国に引き込もうという動きにまでは至らなかった。満州事変の例を見るまでもなく、政府の軍に対する統制は弱く、ドイツのようにいつ手のひらを返して裏切るとも限らないからだ。また欧州での戦争の方も、『フォニー・ウォー』と呼ばれたように一種の膠着状態にあり楽観的要素すら見られていた。
 そして大戦勃発後の日本は、主に経済面・貿易面での関係改善と対ソ戦備のため、東アジアでの相互不可侵や平和関係の強化にはかなり積極的だった。欧州各国も、ナチスドイツとの全面戦争という背に腹は代えられない状況のため、当面日本との融和外交展開を行うこととした。日本を無闇に追いつめて、この時期に敵にでもなられたら目も当てられないからだ。実際ドイツは、水面下で日本との復縁を図ろうと活発に工作もしていた。ソ連も軍事面はともかく、政治面では日本への接近を図っており西欧諸国の動きを急がせる事になる。そしてイギリスは、ドイツやソ連の行動を見透かしていた。
 かくして、短期間の内に双方が合意に至る。1940年4月、イギリス、フランス、オランダと日本の間には、期間を区切ったアジア限定の相互不可侵条約が結ばれた。またそれらの国々とは、日本側が必要な資源を欲しいだけ得るのと引き替えに、ドイツとの貿易を事実上停止し、連合国各国が戦争で必要な物資の優先的な貿易促進を決める。このドイツに対する動きは、日本の防共協定破棄に強く反発した枢軸側の対日政策と、防共協定破棄により旗幟を現した日本に対する欧州諸国の好感情が影響してもいた。
 また一方で日本は、国内の八紘一宇の精神に従うとして、ドイツの人種差別政策への反発を意図的に強める政策を行った。ただし防共協定破棄後の、日本及び日本人へのドイツの反日的態度及び人種差別政策に対する反発から起きた感情的な対抗外交という政治的動きでしかなかった。しかしここで日本は、中立国という立場を利用して、ユダヤ人、ポーランド人、ロマ(ジプシー)などナチスに虐げられている人種への人道的救済や亡命、移民の援助に動いた。助け出せた人数は統計数字で見るまでもなく知れていたが、外交的には大きなポイントとなった。日本の動きは、人種問題や人道問題の点で欧米特にアメリカ市民から好意的に見られ、日本に対する評価を好転させる大きな一因となったからだ。また日本国内では、軍部ではなく外務省が強い指導力を発揮し、日本人に軍事を用いない外交というものを考えさせるようにもなる。
 加えて日本では、対ソ戦備の陸軍重視の軍備計画により、海軍の主に艦艇建造が大きく圧迫され続けていた。海軍休日終了以後行われていた建艦競争は、39年秋以降は日本が勝手に競争から下りた状態になっていた。また同時に、主に国共内戦の飛び火を警戒して、華北での軍事活動も最低限のものとなっていた。軍事費全体も、別の理由で多くの国費と資材が使われていた事もあって、平時の状態を何とか維持していた。これらの要因も、アメリカが日本への態度を軟化させざるを得ない一因となる。
 アメリカ政府は、国内の景気対策としてより大規模な海軍拡張・軍備拡張を行いたかったが、有力な仮想敵国である日本の現状から民意の点で否定されたのだ。この結果、アメリカ海軍の両用艦隊法案全ての可決は、自らの大戦参戦後にまでずれ込んでしまう。欧州での戦乱勃発が、逆に太平洋では軍縮をもたらしていたのだ。そしてアメリカは、当面日本へ強く当たるのを止めて、戦争を開始したドイツへのネガティブキャンペーンを強く実施するようになり、欧州の戦乱の飛び火を防ぐための軍備拡張へと方向を変えていく事になる。
 そして日本は、西欧がナチスドイツに飲み込まれていく中、ドイツが突如ソ連に攻め込む1941年6月まで、満州にソ連が攻め込んでくることを恐れる毎日を過ごすことになる。フランスやベネルクス諸国、北欧諸国などの降伏も、日本にとっては大きな変化ではなかった。変化で言うなら、本国を失った国々との関係強化とアジア植民地との貿易がむしろ促進されたぐらいだろう。

 なお、大戦序盤の日本を取り巻く国際環境の中で、一つ追記すべき事件が起きている。1940年夏の東京オリンピック及び札幌冬季オリンピック、そして東京万国博覧会の開催中止である。
 夏冬オリンピックと東京万国博覧会の中止そのものは、大戦勃発後の1939年10月に国際的に決められた。そして日本では、開催決定からそれまでの数年間、準備のための社会資本の整備や各会場の建設などで、東京及び札幌の街そのものが改造されるのではと言われたほどだった。しかも建設景気とも呼べる好景気にも結びつき、1930年代後半部分の好景気を牽引していた。交通網一つとっても、1954年東京=下関間で開通予定の弾丸列車計画(新幹線計画)、少し遅れて完成予定の弾丸道路(東名高速道路)と帝都高速道路、オリンピック合わせの豪華客船の多数建造など目白押しであり、多数の鉄鋼需要は軍備の拡充にしわ寄せがいったほどだ。何しろ当時の日本、まだまだ鉄鋼生産力が低く民需と軍需双方の要求全てに答えることができないでいたからだ。事実この時期、慌てて播磨の広畑製鉄所が開業され、満州の昭和製鉄は鉄鋼の中間材料となる銑鉄を大増産している。
 また五輪開催を契機として日本人の間に、様々なスポーツへの関心が増し、冬季種目のスキーやスケートは俄にブームとなり、温泉などと結びついた冬のレジャーとしての地位を獲得し、これまで遅れていた地方開発の目玉ともなった。そして1940年2月には『紀元二千六百年祭』が国際情勢に関係なく盛大に催され、国を挙げての祭りとして祝われた。1936年以後大戦勃発までの間は、軍需だけが景気を牽引していたわけではなかったのだ。だからこそ、この時期にある程度高い経済成長率が維持できたのである。そしてこの時の景気を維持するための連合国との関係改善であり、貿易面での関係の進展という事にもなるだろう。
 つまり日本は軍国主義に傾いたとされながらも、相変わらず経済が国の方針を決めていた事になる。
 外交面でも、万博と五輪のための観光客の誘致など宣伝に余念がなかった。万博や五輪での宣伝では、日本各地のピーアールが大きな割合を占めていたほどだ。政府としては、二つの平和の祭典を国際社会復帰の大きな足がかりにしようとしていたので、力の入りようもかなりのものであった。実際日本と同じく戦乱から遠いアメリカでは、市民の間に日本への好意的な関心が大きく高まっている。
 しかし第二次世界大戦の勃発で、世界は平和の祭典どころではなくなってしまう。
 当然ながら、日本が受けた経済的、外交的打撃は大きかった。また、日本国民全般に対する落胆と衝撃も大きく、戦争を起こしたドイツに対する反感が、国民の間で大きくなる原因ともなっている。一部では、大戦勃発による万博とオリンピックの中止が、ドイツとの決別、防共協定の破棄を決定付けたとすら言われているほどだった。
 なお、イベント自体が全く何も行われなかったわけではなかった。せっかく建設が進んでいた施設を使わない手はなかったからだ。そして主に日本圏内と南北アメリカ大陸を対象とした、環太平洋競技大会と国内博覧会が開催され、建設の進んでいた施設の多くが利用されている。期日通り就役した日本最大級の豪華客船も、北太平洋航路で大いに活躍した。世界初の電子受像型テレビによる放送の準備も着々と進められた。

 しかし欧州は戦争のまっただ中であり、戦いの炎は収まるどころかさらに拡大していった。



フェイズ4「第二次世界大戦と日本 2」