■フェイズ7「大国日本」

 1950年頃、第二次世界大戦以後に新たに構築されつつあった「米ソ冷戦構造」の中で、日本の立ち位置は微妙だった。
 欧州大戦(第二次世界大戦)に参加することがなかった大日本帝国だが、戦後は自らの生き残りのために大戦前までの仇敵だったソビエト連邦ロシア率いる共産主義陣営陣営側に大きく寄りかかることになっていたからだ。一見これは、主流派(アメリカ+西欧)から爪弾きにされた国同士の連携と見ることもできる。かつての独ソ不可侵条約同様に、いずれ破綻する関係だとも当時はまことしやかに言われていた。一見、十年ほど前のナチスドイツとソ連の関係に似ているように思われたからだ。しかも歴史的経緯を見ても、日本人とロシア人の対立の方が自然な状態ですらあった。日本とソ連が、いずれ近い内に全面戦争を起こすと断定した当事国以外の専門家も一人や二人ではなかった。
 だが現時点では、日本とソ連の関係は良好と言わざるを得なかった。
 そしてイギリスに代わり新たに世界の警察官となったアメリカ合衆国にとって、反ロシア、反共産主義国家だった筈の日本の動きは大きな誤算だった。と言うより、理解できなかった。そして何よりツケは大きかった。
 日本が完全ではないにしても東側陣営に与した事で、太平洋の主防衛線は予定よりはるかに後方の日付変更線まで後退させねばならなかった。日本単独で考えれば従来通りの防衛線なのだが、後ろにソ連が付いていることを考えると、日本だけで考えても実体は今まで以上に重くなっていた。なぜなら日本は、今までと違って後背のロシア(ソ連)をあまり気にせずアメリカに向かえるからだ。事実日本は、アメリカとの関係が冷却化し始めた1948年頃から海軍重視の軍備に戻っていた。アメリカ海軍が脅威と感じたと言われる巨大戦艦も、発展型を含めて6隻も就役した。
 勢力圏と経済圏から見ても、北東アジアのほぼ全てと1億6000万人もの域内人口、日本の持つ相応の国力と市場を、アメリカは手にすることができなくなった。しかも日本は、相対的に弱体化したとは言え、欧州のほとんどの国よりも強大な軍備と近代国家、列強としての最低限の国力や工業力、そして軍事力を保持したままだった。
 1位と決定的以上の差があるとはいえ、国力や経済力、工業力は列強五指に入る。しかも大戦中の戦争特需で経済力と工業生産力を大きく伸ばし、主にソ連経由で手に入れた技術で工業分野の弱点の幾つかも克服していた。大戦中などは、アメリカにとっても工作機械や石油生成物などの輸出先としてお得意さまだった。このため多数が輸出されており、実質的に流出した技術も多いと考えられていた。実際この頃の日本は、自らの生産拡張のため工場をラインごと買い取ったりしている。
 加えて軽工業分野では、アメリカはともかく欧州各国よりも有力なものを自ら手に入れていた。これは軽工業が不足するソ連や東欧諸国にとって、大きな補完効果があった。さらに日本が促成栽培した満州国の工業力を加えると、工業生産力の規模は既にイギリス本土を凌駕していた。また今までのように資源問題で日本を追いつめようにも、ソ連からいくらでも重要資源が手に入るようになったため、まるで効果がなくなっていた。
 そして大戦中の日本は戦争特需にわき返り、国共内戦激化と中華人民共和国(共産中華)成立のおかげで、大戦後の景気後退もくい止める事に成功していた。そして国外から得た血に濡れた資本を元手に、さらに軍備を増強すると共に国内社会資本の整備や産業基盤の拡充にも相応の努力を払って内需も大きく拡大していた。一部ではソ連の戦災復興にも協力しており、この部門での外需も大きな要素を占めていた。
 GDPの伸びは、30年代、40年代を平均7%台で維持。約二十年でGDPと一人当たり国民所得は、ほぼ三倍の規模に拡大した。この数字を他国と比較すると、世界経済の約一割にも達している事になる。日本は、1930年代の軍拡から国共内戦、第二次世界大戦による約20年間の間に、軍備が突出した新興列強国家からバランスの取れた一流の列強国家へと変貌しつつあったと言えるだろう。
 現に日本の主要都市は、戦争の疲弊から立ち直れていない欧州諸国よりも栄えていた。街の様相は30年代半ば以降の十数年間で大きく変貌を遂げて、かなり先進的な装いを見せるようになっていた。都市部を中心に消費経済も発展し、中産階級や中流層には大衆消費財としての家電製品の広範な普及が発生していた。第二次世界大戦中の1940年には、アメリカよりも早くテレビジョン放送開始すら実現し、1947年には独立電波鉄塔として高さ世界一の座を維持し続けた『帝都タワー』と『新通天閣』が同時に建設されているほどだ。しかも1949年には、新世代の鉄道と言われた高速鉄道「新幹線」を、完全高架式の新規路線として東京=大阪間で完成させた。日本の物流体制も、一流のものへと変貌を始めていた。総力戦となった大規模な戦争を行わなかったからこその、民間部門の発展と繁栄であった。
 無論いまだ新興国であり、一流国と呼ぶには先端工業分野などで足りないものも多数あった。二度目の大戦でも大量の債権を持ったとはいえ、金融面もまだまだ弱かった。都市と農村の格差についても、列強の中ではいまだ最悪の部類に入った。都市のスラム街についても、アメリカとは比較にもならない酷さだ。
 だが、少なくとも今後十年間は、いまだ戦乱での破壊と疲弊にあえいでいる欧州の全ての国々よりも日本は有力な国だった。何しろ日本は、軍国主義国家であるにも関わらず、日露戦争以後半世紀近くもまともな大規模戦争をせず国が疲弊していないのだ。また軍国主義や軍備優先財政と言われていたが、本当の戦争をした列強に比べれば年平均での軍事費や戦時中に作られた軍備はたかが知れていた。だがそれでも、軍備の中でも海軍力は大きく、多数の巨大戦艦や大型空母に象徴されるように、今や事実上の世界第二位だった。もし軍備に必要以上にお金をかけていなければ、経済的には短期的にもっと成功していただろう。そのぐらい巨大な軍備だった。また逆を言えば、経済活況にあって軍備に十分予算を配分していた事こそが、日本を第二次世界大戦後も覇権型の大国の地位に置いていたと言えるかもしれない。少なくとも戦後の動員解除後に米ソに次ぐ常備軍を抱えていたのは、間違いなく大日本帝国だった。そして日本の大きな軍備に米ソ共に警戒感を抱き、それなりの慎重さで外交を展開したと言えるだろう。
 つまりアメリカ、ソ連に次ぐ国は、実質においてイギリスやフランスではなく日本となっていた。しかも皮肉なことに、資本主義国としてアメリカに次ぐ地位にあったのは日本という事になる。そして世界ナンバー3の日本は、ナンバー2のソ連とナンバー1に対抗するための協力関係を結んでしまっていた。
 それでもナンバー1たるアメリカの圧倒的という以上の優位は動かないのだが、アジア・太平洋での東側(ソ連共産主義)陣営の動きが極めて活発になった事は間違いなかった。また日本も、ソ連との事実上の同盟関係によって、後背の安全を確保してアメリカに対抗するようになっていた。さらには、ロシアの大地からもたらされる安価で無尽蔵の地下資源によって、資源問題の多くを解決して強大化していた。ソ連と日本がつながったことで、アメリカは日本に対して資源外交を展開することができなくなっていた。しかも新たなライバルとなったソ連も、日本の工業力とアジア各地から日本経由でもたらされる極めて安価な東アジアの人的資源を用いて、シベリア開発を積極的に進めるなど相乗効果も現れ始めている。加えて当時軽工業や民政技術でそれなりに優れるようになっていた日本の存在は、重工業に大きく偏重していたソ連産業にとっては無くてはならなくなりつつあった。事実大戦以後のソ連の国営商店の陳列棚には、日本の製品が多く並ぶようになっている。そしてソ連への輸出が象徴するように、1940年代後半の日本では、白黒テレビ、冷蔵庫、電気洗濯機(+日本圏でのみ必要な電子炊飯器)など様々な大衆家電商品が生産され、日本中の中流階層以上に広まりつつあった。日本は間違いなく資本主義国家だったのだ。
 しかも反アメリカ、反西欧で共産主義を無視できる国々にとって、日本の立ち位置は実に都合がよかった。反アングロ、対白人列強の同志として、インドと日本との現在に至るまで続く友好関係がその典型だ。ロシア人に飲み込まれつつある東欧諸国にとっても、ソ連と一線を画した日本の立ち位置は利用価値があった。
 アメリカとしては、ドイツ東部以東のヨーロッパが共産主義陣営に組み込まれた事よりも、日本が自らの勢力圏を抱えたまま東側陣営に与したことの方が戦略的ダメージが大きかったのだ。
 しかも日本は、東西どちらでもない独自路線の道も捨てていなかった。欧州大戦後には、新たに独立したインドなど反アングロ的もしくは中道路線に近い国々との関係を強めていた。政体の違いを盾としたソ連との関係は、常に互いに国内問題や政治形態を対象としないことと強く定義されていた。さらに時代を経ると、1957年にはアメリカ、ソ連、イギリスに次いで4番目の核保有国となって、軍備増強を図ると共に力による国際的発言権を強めていた。また大戦中から、国内に多数の各地の独立運動家に資金援助や軍事訓練、匿うなどの支援を行い、準備が整った段階で次々とそれぞれの母国へと送り込んでいた。この動きはソ連もアメリカも掴んでいたが、アメリカの不利益であり混乱の中からこそ革命が生まれるとして、ソ連はむしろ協力的だった。対するアメリカは、日本のターゲットが欧州の植民地であるため後手後手に回らざるを得なかった。英仏蘭などが、自国植民地へのアメリカの干渉を嫌ったからだ。そうした地域の一つに、後に大きな政治問題となるベトナムが存在していた。
 一方ソ連も、革命の輸出には日本以上に熱心で、各地に共産主義を輸出していった。日本と進出場所がかぶる地域もあったが、敵対的行動となっても互いに行動に変化はなかった。
 そうした東側陣営の二重車輪となった複雑な動きに神経を尖らすアメリカだったが、その動きは緩慢といえた。
 大戦終結から3年もすると、第二次世界大戦のような無尽蔵な物量戦をしかける時代は既に過ぎ去っていた。それ故にいまだ巨大な常備軍を抱えるソ連と日本に、正面から全面戦争を吹っかけるわけにはいかなくなっていた。アメリカは文明の進歩が進んでいただけに、総力戦の時代を一番早く駆け抜けてしまっていたのだ。対する日本は国家形態や民度、動員力、財政状態などから、第二次世界大戦以後十年間、世界でほとんど唯一総力戦が可能な国家であった。
 しかも1949年以後は、ソ連が未だ効果が未知数の原子力爆弾(核兵器)を保有するようになり、安易な全面戦争はより一層難しくなっていた。核兵器が強力な武器であることは無数に繰り返された実験で分かっていたが、いまだ実戦使用されていないため兵器としてとても不安定な事を意味していたからだ。
 しかも悪いことは続いた。1949年には、中華地域の主要部に中華人民共和国(共産中華)が建国され、東側陣営の力は明確な脅威として浮かび上がってくる事になる。
 ロシア、日本、中華、それに中間勢力のインドなどを合わせれば、ユーラシアの三分の二以上が自分たちではない陣営になった事を意味していた。いや、自分たちが自由に使える市場でなくなったと言うべきだろう。しかも世界総人口で半分以上を占めている事になるから、西側の深刻度合いはかなり強かった。水面下では、第三次世界大戦について真剣に討議されたと言われている。西ドイツの独立と軍備再建が早まったのは、東側の脅威があればこそだった。
 1950年頃の世界の対立構造は、東側と西側ではなく、ヨーロッパ文明とそれ以外の文明の勢力争いという図式になっていたのだ。
 ただし、東側陣営で主要な大国となるロシア、中華、日本の三つ全てが共同歩調を取れた時期は、あまり長い時間ではなかった。イデオロギーすら統一できていない呉越同舟状態なのだから当然だろう。言うなればこの頃の東側陣営は反アメリカ同盟であって、ソ連を中心にした社会主義陣営ではなかったのだ。アメリカやイギリスもその事を理解していたので、日本や印度が求めるのなら普通に貿易も行っていた。そうする事で、ソ連とそれ以外の国々との関係がほころぶのを画策していた。
 共産中華は、日本が牛耳ったままの満州や台湾をいずれ「取り戻す」と考えていた。日本は、自らが中央官僚専制で疑似軍国主義ながら徹底的に共産主義を嫌っていたため、ソ連や中華は利害関係の一致を見ない限り共同歩調を取る相手とは見ていなかった。そしてソビエト連邦ロシアにとっての日中は、自らの覇権拡大のために利用すべき相手であり、共通のパートナーではあり得なかった。しかもロシア人の見るところ、共産中華はイデオロギーの原点が同じであるにも関わらず遅れた思想を元にした原始共産主義でしかなく、しかも民族主義的すぎた。主義の違う日本に至っては、王権(帝権)すら維持する政治的後進国であり、軍国主義の亡霊に過ぎなかった。
 ただし三つの勢力にとってアメリカ率いる資本主義陣営と妥協できるラインが存在しないため、欧州大戦終結後にひとつの陣営として形成するに至ったのだ。まさに同床異夢、呉越同舟の典型例だった。一時期西側では、この三国の関係を『新三国枢軸同盟』と言っていた。
 だが、中華中央部を共産主義政権が誕生した事で、国際環境に大きな変化が訪れる。アメリカを始め多数の資本主義諸国が、日本が求めて止まなかった満州国を承認する動きを見せたのだ。


フェイズ8「満州国承認?」