■・フェイズ12「ベトナム戦争と日本」

 東西冷戦の代理戦争の象徴となったベトナム戦争は、教科書などでは1965年に始まったとされる。ただしこれは、アメリカ軍がベトナムに対して本格的戦闘を開始した年に過ぎない。
 インドシナ植民地化後の独立と争乱の火種は、フランス降伏の1940年にまで遡る。第二次世界大戦中のフランス降伏によって、インドシナの植民地支配に大きな揺らぎが生じたと考えられているからだ。実際、阮愛国と偽名を使っていたホー・チ・ミン(胡志明)が帰国して活動を開始した。もっとも欧州での戦乱は欧州でのみ終息し、アジアに大きく波及する事はなかった。連合国は欧州に係り切りであり、当時のアメリカは見向きもしなかった。唯一中華民国の国民党が警戒感を持ったが、強力な指導体制にないため中華民国国内に潜伏していたホー・チ・ミンの活動を監視する以上の行動に出なかった。またアジア唯一の大国である日本も、インドシナ地域に対してはあまり積極的ではなかった。
 かつてロシアに勝利した日本は、一等国の幻想におぼれアジア及び有色人種を啓蒙するという意識に欠けており、第二次世界大戦でも欧米諸国やソ連と妥協してあまり何もしなかった。しかしフランスやオランダ本国が一時的にでも倒れた事で、自分が代わって主人になれるかも知れないという考えの一派が軍部・政府内部に発生し、徐々に活動を活発化するようになる。東南アジア各地から人材を募って匿い、教育と訓練を施してその後各地の独立戦争の中核となる人物を育てた。
 この時期日本人の一部と独立運動家の間で流行った言葉に、『大東亜共栄圏』というものがある。
 しかし第二次世界大戦中の日本は、表面上欧米諸国と政治的に妥協しているため活動は水面下で、規模も小規模だった。最大級でも、極秘裏に工作員を送り込んで現地独立運動勢力と接触して日本に招き入れ、そして再び彼らが戻るまでに潜水艦を用いてまでして武器や必要なものを運び込むという以上の行動には出なかった。しかしそうした活動の結果、インドネシアのスカルノ、ビルマのアウンサンなどが率いる独立勢力が独立を勝ち取った国々が、体制や東西陣営にあまり関わることもなく後の親日国家となっていく。日本が重視したインドネシアでは、一時期勢力を増した毛派共産党勢力打倒に日本が徹底的に協力したほどだった。他にも、イギリス植民地のインド各地域やマレーに与えた影響も無視できないだろう。特に、自勢力圏に招いた他国の人間をまとまった数で教育を与えて軍事訓練までしたことの意義は大きい。
 なお日本にとっての活動の例外は、東アジアの逆キューバ状態となったフィリピンだった。アメリカが大戦中に独立させた事などから、干渉する理由やスキがなかったからだ。またインドシナ半島も、当初は日本にとってはほとんど例外だった。フランスが植民地支配に旧支配階級を利用し、国内の独立勢力がホー・チ・ミンに代表されるようにソ連に通じる共産主義者だったからだ。
 故にフランスによるインドシナ紛争からアメリカとソ連の代理戦争となったベトナム戦争でも、当初日本は大きな役割を果たそうとしなかった。というより、東南アジアのソ連寄りの共産主義政権相手の場合、共産中華の影が弱いのならば積極的に何かを果たす気がなかった。
 しかもベトナムへは、1958年夏以後宿敵となった共産中華までが彼らの建国時から支援しているとあって、直接的な援助は政治的にも選択できなかった。加えて東南アジアには共産主義国ではない日本の友好国がいくつかあり、それらの国々が共産主義に対して強い警戒感を持っていた。わけてもインドネシアは親日国家であると同時に、重要な資源輸入国だった。またインドネシアなどでも、日本を利用することで間接的に共産主義の自国への拡大を防いでいた。しかも奇妙な事に、アメリカも共産主義の広がりを防ぐという点で日本の動きと一致しており、東南アジアでは日本とアメリカが自らの思惑から紙一重で共存するという事態が第二次世界大戦後長らく続いていた。
 とはいえ日本も、ソ連へのつき合いとアメリカの疲弊を狙うため、徐々にベトナム情勢にまったく介入しないわけにもいかなかっていく。これは日本が、満州紛争でソ連に大きな貸しを作り、自らも東側陣営の一角として行動する事を是とした事も影響していた。またベトナムとフィリピンの間にある南シナ海の小さな島々のほとんどが、第二次世界大戦前から自国領と宣言していた場所なので、国の面子として徐々に出張ってきたアメリカに対して今更引き下がるわけにもいかなかった。島によっては小さな飛行場すら作って、力で南シナ海に楔を打ち込んでいたから尚更だった。
 しかも1958年からは、共産中華が海外での活動を決定的に縮小し、入れ替わりにソ連がベトナムへの大幅支援に乗り出した。満州紛争と大躍進政策で共産中華が半ば自滅した事と、東西冷戦構造の中で共産中華の孤立が進んだことが原因していた。そしてソ連とのつながりが一層強まっていた日本も、ソ連と歩調を合わせる形でベトナムへの支援を強めざるをなくなっていく。
 当然と言うべきかアメリカが文句を言い立てたが、満州紛争での国際的孤立やキューバ危機という重大事件が重なっていた時期でもあり、日本はむしろアメリカに対する反発を強めるようにベトナムへの支援やソ連とベトナムの橋渡しを行うようになる。満州紛争からベトナム戦争最盛期にかけては、日米関係が実質的な面で最も険悪化していた時期だといえるだろう。
 そうして1964年にアメリカでジョンソンが大統領に当選するとベトナム戦争が本格的に始まるのだが、日本にとっての政治的環境が整ったのもこの頃だった。ソ連では同年にフルシチョフが失脚してベトナムへの積極支援に乗り出し、ソ連との関係が悪化した中華人民共和国(共産中華)がベトナムへの積極介入を後方支援以外の面で否定したからだ。

 一方戦争当事者となったアメリカ合衆国だが、ベトナム戦争はアメリカが体験するアジアで初めての戦争だった。これまでは日本とにらみ合いをして、中華情勢に対して軍隊を示威的に動かす以上の事をした事がなかった。このため当初アメリカは、ベトナム介入にひどく慎重だった。
 アメリカにしてみれば、日本と共産中華を中心としたアジア情勢は、複雑怪奇な世界だったのだ。
 一方でアメリカは、第二次世界大戦においてたった二年半、実質二年でドイツを叩きつぶした自らの国力に深い自信を持っていた。自分が本気になれば潰せない国家は存在せず、アジアの小国など鼻息一つで吹き飛ぶと考えていた。少なくとも第二次世界大戦頃のアメリカの総力戦能力が全ての面において圧倒的という以上だったのは間違いなく、60初頭の頃はまだその力が維持されていると考えられていた。キューバ危機では、ソ連と日本が束になってかかっても押し倒すことができなかった相手なのだ。
 また米ソによる東西冷戦構造の出現が、アメリカをアジア情勢にかり出させることになる。インドシナ紛争でのフランスへの重厚な支援がその実質的デビューであり、その後のジュネーブ会議によって実質的な主役へと躍り出る事になる。しかも満州紛争、キューバ危機などを経てアメリカ国内での反共、反東側機運は急上昇。世論も、「ドミノ理論」による共産主義勢力の拡大阻止を強く肯定するようになった。
 なおベトナムの場合アメリカが危惧すべきは、ソ連など東側陣営が積極的に肩入れしている事だった。ソ連や日本の持つ核軍備は脅威であり、東側との全面的な対決はアメリカが作り上げていた国際経済を破壊する可能性を持っていたので、可能な限り避けるべき事象だった。
 このためアメリカの戦争介入は常にソ連の動きを気にするものになり、ソ連もアメリカに合わせてステップを踏むようになる。そのためアメリカは、自らに代わって共産主義と戦う国として南ベトナムを準備して、その全面的支援をアメリカ行うことで東側との対決姿勢を整えた。無論ソ連の支援国は、北ベトナムだ。
 かくして『冷戦』と言われる対立の最も典型的な状況が、ベトナムで出現する事になる。そしてソ連の動きを見ながら冷戦構造の中でのステップの練習をしていたのが、アジア随一の大国である大日本帝国だった。

 日本は、ベトナム戦争勃発の翌年になると、秘密裏に軍事顧問団を送り込んだり、戦訓確保のため一定の規模で特殊部隊などを派遣するようになっていた。日本政府はいまだに認めていないが、義勇空軍も派遣されていたと言われている。無論アメリカは日本の行いを見ない振りをしており、ソ連共々日本が必要以上にベトナムに介入したり血圧を上げないよう政治的に気を遣った戦争を行うようになる。またソ連も日本の動きを調整すると共に、自国ではまかないきれないサポートを日本に行わせるようになった。またアメリカ政府は、相対的に優位に運んでいたベトナムでの戦局を過信しているところがあり、東側陣営の間接的支援を政治上ではあまり重視していなかった。
 だがアメリカが受ける損害は、決して無視できるものでもなかった。加えて、アメリカの足元を見透かすようになった日本も、ソ連同様に嫌みな行動を徐々にエスカレートさせていく。南シナ海の小さな島々(主にパラセル諸島)を使って、日本領での他国の軍艦や航空機の通過を認めないとアメリカに嫌みをしてみたりもした。北ベトナムとの貿易も可能な限り通常通り行い、破格の条件で貿易を行ったり様々な物品を援助した。人材育成という建前で、ベトナムからの留学や移民も積極的に受け入れた。無論この中には多数の軍人が含まれていた。そうした活動の一環に国際赤十字を介した大規模な医療援助があり、日本にわざわざ治療に来た人々が日本に滞在していた西側報道関係者に紹介され、アメリカでの反戦機運を大きく高めた。
 また、自分たちが世界から忘れられないよう、目立つ軍艦をカムラン湾に入れたりもした。西側のテレビを賑わせた、日米の巨大戦艦《大和》と《オハイオ》の有視界内でのにらみ合いが有名だろう。他にも、ソ連が資金や物資を出す形での物資援助の主な面を、日本が担わざるを得なかった。何しろ日本は、世界有数の海軍国にして海運国であるからだ。一方では、ソ連からの発注の形で日本ではベトナム戦争特需も発生しており、戦争で唯一恩恵を受けた国だという評価も一部に存在している。
 しかし日本単独で見た場合、ベトナム支援の全ての規模は小さなものでしかなかった。
 結果も、半ば気まぐれで行こなったような戦艦派遣のおかげで、ベトナム国民や反米国家での親日感情が妙に高まったのがうれしい誤算なぐらいだった。しかもこの点では、逆にアメリカ海軍の太平洋での軍拡と対日警戒が進んだ事による実質的なマイナス面の方が大きかった。満州紛争以後にアメリカ海軍がやたらと増強されたのは、間違いなく太平洋の半分を我が物顔に動き回る日本海軍の存在があったからだ。
 なおベトナム戦争において、日本がアメリカに与えた最も大きな実質的損害は、アメリカの船舶と航空機に日本の勢力圏を大きく迂回させた事になるだろう。
 しかもアメリカが東アジア・西太平洋で日本に対して気兼ねなく使える拠点は、実質的に存在しなかった。
 西太平洋のグァム島やフィリピンのルソン島(スービック基地)は日本本土に近すぎた。日本人が比較的気にしないミンダナオ島は治安が悪いことで有名で、共産主義者も原住民を積極的に支援していた。国民党のいる海南島は敵のど真ん中すぎるし、共産中華を過度に刺激しないためにも必要以上に軍を送り込むことは控えるべきだった。インドネシアは対ベトナム戦争では中立国を宣言していたので、第三世界を刺激しないためにもそっとしておく必要性があった。イギリスの勢力圏であるマレーや、東南アジアの優等生であるタイを積極的に利用するのも当初は控えるべきだと考えられていた。
 このためアメリカ空軍のB52は、はるばるオーストラリア南部やインド洋のディエゴガルシアなど遠方からベトナムを爆撃している有様だった。ヤンキーステーションを設置する海軍の空母部隊も、ハワイを拠点とせざるを得なかった。何しろ巨大空母が入れる軍港は限られていた。しかも道中日本の領域に近づくと、これ見よがしに日本軍の艦艇や航空機が近づいてきて、スズメバチのような警戒行動を見せつけていた。
 また巨大な消費をもたらす軍事力への兵站拠点もハワイやアメリカ西海岸に置くしかなく、アメリカのベトナム戦費をもの凄い勢いで引き上げていた。すべては、日本が東アジアの半分と西太平洋を抱え込んでいるからだった。アメリカも、策源地や補給拠点が遠く経済的航路が使えない戦争行為が、いかに疲労をもたらすかを身を以て知らされることになる。北太平洋の大圏航路が使えない事がこれほど大きな損失があるのかと、アメリカは改めて思い知った。50年代あれ程元気だったアメリカの国家財政は、覚醒剤で病んでいった米兵のように見る見る弱っていった。
 満面の笑み状態のソ連が、日本にもっと嫌みなことをしてくれと、様々なアイデアを持ってきたほどだった。そのせいか、この時期の日本海軍はやたらめったら西太平洋で演習したり、他国の親善訪問を行っている。
 そして日本の存在そのものと日本によるベトナムでの数々の行動の積み重なりが、68年のテト攻勢以後のアメリカの態度変化を産んだとも言われる事から、結果論的に日本の影響は極めて大きかったと言えるだろう。遠洋航海訓練後にインド各地から始め、ビルマ、インドネシア、最後に北ベトナムと「表敬訪問」した日本の巨大戦艦に、西側のメディアと国民が釘付けになったのがその象徴となった。カリブがアメリカの海であるように、両シナ海は日本の海だったのだ。
 ちなみにアメリカがベトナムで使った戦費のうち、約二割が日本の有形無形の妨害による影響による増加だと言われた。これは直接的な軍事援助よりも、アメリカの経済と財政に打撃を与えたとすら言われている。今日まで続くベトナムの親日的態度も、当然と言えば当然だった。
 そして軍事的に勝利しするも政治的に完敗したアメリカは、身も心もそして財布の中身も疲弊しつくしてベトナムから逃げ出した。海兵隊的に言えば、『戦友を見捨ててトンズラ』していったのだ。そしてそれを最後に見届けたのも、南シナ海島嶼群の領海侵犯を警戒していた日本軍の艦艇と航空機だった。
 『米軍退却ヲ確認セリ』は、東側のプロパガンダとしてその後大いに活用されることになる。

 なお、ベトナム戦争に関連したインドシナでの日本の行動には、例外が存在していた。
 1970年以後、カンボジアでクーデターにより孤立しかけていた王族のシアヌークを手厚く援助した事だった。この時、シアヌークを共産中華と半ば奪い合う事になったが、シアヌーク自身が古くから日本の皇族とつき合いがあった事が心理面での決め手となった。そして日本においてカンボジアの亡命政府が誕生する。
 ただしここで問題が発生した。カンボジア国内には親米右派政権と毛派共産主義勢力しか武装勢力が存在せず、シアヌークを支持するのは小さな勢力の民族派と主に農村部の大多数の民衆達だけだったのだ。
 このためシアヌークの威を借りた日本工作員と日本で訓練された民族ゲリラの幹部が、カンボジア各地へと送り込まれた。
 そして1975年12月、それまで政府を握っていた親米右派政権を軍事力で打倒し、ソ連も嫌った毛派共産主義のクメール・ルージュもタイ国境に駆逐した新政府がプノンペンで成立した。新政府は14世紀から続く王政を維持しつつも立憲君主制とされ、共産党も社会党も政治参加を許された「先進的な」民主主義国家となった。
 そしてソ連以下東側陣営の過半の国が新生カンボジアを承認し、その中には驚くべき事にベトナムの姿もあった。ベトナムとしては、依然として親ソ政策を取る日本が後ろ盾となったカンボジアの方が、親米政権や毛派共産政権よりもはるかにマシだったからだ。加えてカンボジアは農業国で、ベトナムの必要とする米を産していたので、友好国である方が利益が大きかった。しかも後援国の日本はベトナム自身の重要な支援国でもあるから、疎略に扱う事など出来るわけがなかった。当時日本は、単にベトナムの経済援助を行うばかりでなかった。アメリカによりベトナム中に撒かれたダイオキシン(枯れ葉剤)対策や医療活動を行っているのは、何故か勝手に押し掛けてきた日本人達なのだ。
(※ダイオキシン対策は、悪名高い日本陸軍の『石井学校』による化学兵器研究と、日本国内の公害対策研究の一環であった事が後日明らかになった。)
 反対にカンボジア政策で困ったのは、西側自由主義陣営だった。依然として日本の扱いは東側社会主義陣営に飼われた狂犬であり、その国が支持した政府を認めるわけにはいかなかったからだ。このため半ば本末転倒したように、タイ国境に逃れた毛派原始共産主義のクメール・ルージュを『ポル・ポト派』反政府組織と呼んで西側は支持した。そして以後カンボジアでは、長らく日本とベトナムの支援を受けた民主主義政府の政府軍と、主にアメリカの支援を受けた毛派共産主義勢力による小規模な内戦が続く事になる。

 なおベトナム戦争後だが、日本とベトナムは親密な関係をより強くしていく。
 ダイオキシン対策に日本が熱心なのは、日本国内の公害問題の延長にあると分かったが、経済支援や技術援助、軍事支援などソ連よりも日本の方が関係が強まった。
 また日本政府は、ベトナム国内の共産主義や共産党には一切触れずに、ベトナム政府の官僚団の育成、それを後ろ盾するベトナム教育制度、社会制度の普及を熱心に行う。またベトナムが自立できるような経済開発や、経済特区を設けさせての日本企業の進出など至れり尽くせりの支援を行ってきた。
 この背景には、共産中華を裏から包囲するという日本の国家戦略があると同時に、70年代以後国内及び域内で不足始めていた安価な労働力をベトナムに求めていたという背景が存在していた。
 世界的には狂犬や悪の軍事国家と言われていようとも、日本そのものが資本主義国家としてそれなりの順調さで発展を続けていた証拠であった。


・フェイズ13「満州国承認と中ソ対立」