■フェイズ15「オイルショック前後の日本経済」

 話を少し戻してから、進んでいきたいと思う。
 日本の近代経済は明治維新と共に始まり、各戦乱ごとに発展と拡大を続けていた。しかし1930年代に入ると満州事変に始まる軍部台頭による軍事費の大幅な増額によって、経済発展に常に一定以上のブレーキがかかるようになったと言われている。実際のところは、1920年代を除いて日本は常に軍備優先の財政を組み上げていた。それでも経済発展するだけの余地が、常に存在していたという事になるのだろう。
 30年代からの好景気、第二次世界大戦(欧州大戦)、中華内戦(国共内戦)による特需で経済も一定以上に成長していたが、その分軍事費も伸びていた。
 しかも欧州大戦の終息に伴い元の軍備主導の偏った財政のため、躍進的ではないごく一般的な経済と財政に戻ってしまう。1949年まで続いた国共内戦による特需も限定的でしかなかった。元が自国資本の限られた新興国家であるため、ケインズ理論の実践は限定的でしかなかったのだと言われている。逆に新興国であったからこそ、限定的に成功したとも言われた。
 そして日本では、軍事費に予算を取られながらも新興国特有の経済発展速度が維持され続けた。1950年頃の日本経済は、世界的に見ても五指に入るほどの規模に拡大していた。対世界GDP比率も、一時期10%を越えた。何しろアメリカ以外の欧米列強各国は、軒並み二度目の世界大戦で疲弊しきっていた。要するに『鳥無き里のコウモリ』というわけだ。しかも日本は、欧州諸国のどの国よりも多くの本国人口を抱えているのだから、GDPの大きさはある意味当然の結果でもあった。
 しかし1950年代からは、アメリカ率いる自由主義陣営との対立から共産主義諸国との関係を強化したため、日本経済の根幹の一つである海外貿易の相手不足に悩むようになった。何しろ1940年代後半に入るまでの日本の主な貿易相手国は、世界で最も裕福な市民を持つ先進国であるアメリカとイギリス(とその勢力圏)であったのだ。このため輸出で大きく伸び悩み、経済成長率も停滞を余儀なくされた。先端技術も欧米列強から吸収する事ができなくなり、諸外国との競争による淘汰と進歩も停滞した。自国内での競争や自助努力のみでは限界があり、技術面でも全体的な停滞を始めた。

 一方では、共産主義の盟主であるソビエト連邦ロシアとの関係強化には良い面もあった。石油、鉄鉱石、石炭、穀物(後にウランやチタンが追加)など近代国家として最低限必要とする重要資源の輸入が、同盟国価格として格安かつ無尽蔵に入手できるようになった点だ。ソ連が産する他の資源についても同様だ。またソ連が持っている技術のかなりも安価で輸入できたため、1940年代のうちに完全な重工業化を実現できた。急速な発展のため1950年代前半には、工場の出す煤煙と排水などのため、多数の公害病患者と公害病訴訟や事件が発生したほどだ(※ただし欧米と違って、車の排ガス公害はほとんど発生しなかった。)。
 3億人(冷戦終幕頃には約4億5000万人)に達する東側の市場としての価値も、相手がたとえ社会主義経済であったとしても日本経済には欠かせなかった。ロシアや東欧諸国の市民は、少なくとも後進国や各国植民地の人間よりは購買力があるのだ。加えてロシアの無尽蔵な地下資源や穀物、東ドイツやチェコからの工作機械や工業製品の輸入は、1960年代までの日本の産業と経済に大きな貢献を果たしている。
 事実日本の総合的な経済力と工業力は、20世紀半ばまでの最盛期となった満州紛争(1958年)の頃にアメリカ、ソ連、西ドイツ、イギリスに次ぐほどとなっていた。明治以来夢見ていた本当の『一等国日本』は、1950年代初頭においてようやく完成したと言えるだろう。
 輸出の方も、英米への輸出がほぼ途絶した代わりに、重工業以外の様々な加工製品が不足しがちな東側諸国に、綿にしみ入る水のように輸出されていった。最初は当時の日本が得意とした繊維・加工食材など軽工業製品が中心で、後に家庭用電化製品や自動車を含む大衆消費財が主力を占めるようになる。どれも計画経済下の東側諸国では様々な理由により著しく不足するものばかりで、主に日本国内の競争である程度洗練されていた日本企業のもたらす製品は、西側製品には洗練度や先端技術分野で及ばないまでも東側の多くを凌駕していた。何より、ロシア人が作ったものより信頼性が高く小型だった。安価な鉱石ラジオなどは、一時期西側諸国ですら密輸してでも欲しがったと言われている。
 そして工業化の進展に伴い、東側と第三世界に対する貿易拡大を行うようになる。特にアメリカや西欧諸国と距離を置いている国、インドなどとの貿易は日本には欠かせないものとなっていた。70年代半ば以後は、インド、インドネシア、ベトナム、カンボジアなどへの企業進出と現地生産は日本経済の拡大に大きな貢献も果たしている。逆にそれらの地域の発展も促した。
 もちろん第三世界に対する貿易品の中には、武器輸出が大きな比重を占めていたりもしたが、ソ連製でなく欧米の同種のものより安いため海外市場で売り上げを伸ばしていった。この点は、兵器以外の各種工業製品も同様だった。そして外貨の獲得と格安の資源を利用して、徐々に国内開発にも力が入れられるようになった。これは重工業の進展と国内開発に伴う土建業の発展も重なり、1940年代から労働力過剰だった農業人口の吸収をもたらした。連動した農業従事者の減少に伴って少し遅れて発生した地主(大土地所有者)の困窮救済のため、農業の機械化と企業化・大規模化も進められていった。そして一次産業、二次産業の発展と都市の大規模化は、必然的に三次産業の発展をもたらした。二次産業と三次産業の発展は都市の巨大化と農村人口の吸収を行い、それなりの消費社会の拡大を促した。60年代全般にわたって行われた各種国内開発や流通網整備により、日本経済では内需拡大も重視されるようにもなった。何より自身の流通力と情報力が高くなければ、欧米先進国と競い合うことが出来ないからだ。当初弾丸列車と言われた先進的な高速鉄道「新幹線」の整備が、世界的にも有名だろう。
 とは言え、巨大すぎる国力を有するアメリカや奇跡の復興と言われた西ドイツと比べると、日本の発展速度や経済拡大速度は遅く規模も小さかった。国内経済も、アメリカを中心とした自由主義陣営のような無軌道で無尽蔵な大量消費社会とは言えなかった。日本の消費者たちは、消費者としては慎ましかった。世界経済の6割を占める活発な西側経済とリンクが限られていた事も、日本経済の発展を大きく阻害していた。また日本の労働生産性は、西側欧米諸国に比べるとかなり悪い数字を示しており、技術格差などもあって短期間では改善できる見込みもなかった。
 ただし結局のところ、大日本帝国を外交的に維持するための巨大な軍事費が、常に日本経済の発展を阻んでいたとも言えるだろう。日本全体で研究開発に投資される金額に対する軍事占める割合が、事実を端的に示している。
 それでも日本が、比較的順調に経済発展したことは間違いなかった。影響圏の満州も、1950年代半ば頃から十数年絶頂にあったソ連経済と連動する事で発展し、日本経済圏全体も大きく発展していた。満州国、韓王国などを含めた自勢力圏だけで人口が2億人以上なのは、無視できない要素だった。60年代以後のGNPの順位でも日本は、アメリカ、ソ連、西ドイツに次いで、イギリス、フランスに並ぶほどだった。日本の通貨「円」の力も、常に相応の影響力を持つようになっていた。
 このため、東洋一の商業都市として日本の近代化以後常に発展を続けていた大阪では、都市の中心地近くを占めていた大阪造兵工廠が、隣接する堺市の新たな埋め立て地に移転。立ち退いた広大な空き地に、計画的な商業区画が形成された。
 なおこの空き地は徹底的な更地と基礎工事が行われるのと同時に、一つの大規模な催しが行われた。それが、史上最大の観客動員数を記録した「日本万国博覧会」であった。そして開催後の中心会場となった大阪城万博公園を取り巻くように、欧米諸国に匹敵する巨大な建造物群による新たな金融街と日本企業の中枢が形成され、70年代半ばには日本経済圏の新たな中心として活動を始める。また同時に大阪市自身も大改造が実施され、周辺市町村のさらなる合併によって帝都東京と並ぶ東洋有数の巨大都市となった。この背景には、大日本帝国の周辺事情が影響していた。近代日本の建国以来の東洋への玄関口が大阪であり、戦後の東西冷戦でさらに重要性が増したという要因があった。
 そして国家により日本経済の中心地とされた大阪は周辺の市町村を飲み込み続け、1970年の時点で総人口600万人を抱える巨大都市となった。京阪神に奈良を加えた経済圏及び都市圏の総人口は、最終的に2000万人に達した(※帝都圏は2500万人)。また日本列島を中心とする日本経済圏(日満韓)の物流の再編成も行われた。日本の物流の中核である鉄道網も大阪を中心に組み直され、増改築された新幹線の新大阪駅は従来の三倍の規模に拡大された。さらには陸軍工廠の移転で重化学工業が発展した堺の重化学コンビナート建設と、貿易港としての神戸の大改造も合わせて実施された。神戸には、後に巨大洋上空港も出現している。京都郊外には、新たに研究都市も建設された。
 一方、帝都東京もこの時期大きく発展していた。同時期には新宿の浄水場跡に副都心と呼ばれる大規模開発が行われ、渋谷、池袋など各地の歓楽街の整備が行われたのもこの頃になる。ただし東京はあくまで首都機能と学術都市、消費都市としての側面を強化されたに過ぎなかった。イギリスやフランスのように全てを一カ所に集中しなかったのは、国家規模の面で都市の機能分散が可能だったためと、万が一の有事の際の危険分散のためだった。何しろ東京は太平洋に面しているようなものなので、アメリカに対する危険度が高いと認識されていた。近隣の横須賀軍港や空軍基地が異常に発展していた事からも、理解することができるだろう。
 なお日本の発展は、1970年に大阪で開催された日本万国博覧会によって一つの頂点へと達した。万博の翌年には、OECD加盟の誘いがあったほどだ(※加盟は1988年)。どれもが西側主導の国際経済上では異例中の異例だった。日本が相応に経済発展した事もさることながら、当時のアメリカと西側陣営が日本を東側陣営からどのようにして切り離そうとしていたかを見ることができる。米ソが競って参加した日本での万博開催は、デタントの象徴と西側でも大いにすらもてはやされたほどだ。
 しかし日本は、もはや半世紀にわたる伝統的外交となっている欧米(米英)不信から、決定的な一歩を踏み出すことは遂になかった。それどころか、東側唯一の資本主義国ということを外交上の武器として使用するようになっていた。欧米側も日本をココム(COCOM=対共産圏輸出統制委員会)の対象国に含め続け、日本の側から東側の枠の外に出てこない限り全面的に受け入れる事ができなかった。西側での例外は独自の大国外交を展開するフランスで、日本とフランスは米ソの中間点としての外交的役割から、60年代以後かなりの親密さを見せるようになる。冷戦の最中に双方の首相と大統領が何度も相互訪問したほどで、日仏間の交流が冷戦の緊迫度合いのバロメーターと言われていた時期もあった。

 なお東側として見た場合の日本の面白い点を一つあげると、日本は他国からの入国に基本的に制限は設けず、自国人の海外渡航にも大きな制限を設けていなかった事がある(※移民や移住は管理・制限していた)。実のところ、日本は一度も国を閉ざしたことがなかったのだ。観光はもちろん西側間諜や扇動活動家も表向きの素性が問題なければ普通に入国できた。西側からはスパイ天国と呼ばれたほどだ。大都市には、西側資本のホテルや店舗が数は少ないながら一等地に存在し、日本的な観光地である京都・奈良、万博で有名になった大阪などには白人観光客が一般的に訪れていた。日本政府自身が、積極的に海外からの観光客誘致を行っていたほどだ。それだけ自分たちの統治体制に自信があったとも言えるのだろうが、軍国主義や専制国家と言われる日本とはまた違った側面と言えるだろう。
 この証拠として、軍国主義国家や独裁国でありがちな、密告を奨励するという事象も存在していなかった。警察組織は世界第一級の優秀さだが、地方警察を中心にやたらと地域や住民に密着していて、国民に安易な暴力を振るうことはなかった。1960年代まで一般警察が拳銃を所持しなかったほどだし、六十年騒乱の教訓から生まれた『機動隊』と呼ばれる警察内の警備部隊の主装備は、放水車を除けば後に世界中の警察が取り入れるジュラルミン(後に強化アクリル)の盾と警棒でしかなかった。特高や憲兵の悪評は依然高かったが、秘密警察のようなものは存在せず、民衆に簡単に武器を向ける自由の国とされるアメリカとは大きすぎる違いだった。
 また軍国主義の象徴である筈の徴兵制度も、ほとんどの場合事実上の選抜徴兵制でしかなかった。軍への入隊や兵役義務も、先進国の中では緩いぐらいだった。また何より演習や閲兵以外で日本軍が完全武装で動き回るのは、日本列島の外と相場が決まっていた。なお人口に対して徴兵者数が少ないのは、日本経済を握る経団連の労働者確保に連動する圧力と、日本の人口が多い事と、日本軍が単純な兵員数よりも質や装備の面を重視してた事が影響していた。何しろ日本の主敵はアメリカで、主戦場は海空軍を用いるしかない太平洋のため、兵隊の頭数だけ多くても仕方ないと認識されていたからだ。
 そして第二次世界大戦以後冷戦期間中の日本人のほとんどは、大都市部に住む一部を例外として、多くが先進国とも新興国、途上国とも違う独特の活気を持った生活を営んでいた。この代表的な言葉として、『太平の昭和』というものがある。江戸時代同様に、緩やかな変化しかない何も変わらない毎日が続くという意味だ。
 特に60年代半ばから80年代半ばにかけては、大きな変化が少ないと日本国民は感じていた。この背景には日本政府が精力的に実施した少子化政策(多産政策)が効果を発揮していたからだとも言われている。ただし手厚い出産、育児、初等教育への支援は政府の国庫に大きな負担をかけ、増税による国民の悪感情も醸成した。また60年代半ばには、40年代半ばに一度法制度が緩められた堕胎罪の一部が再び強化され、医療技術の向上も重なって否応なく人口拡大に拍車をかけていた。
 そうして日本国内での人口増加は再び上昇傾向を描くようになり、街や村で見かける赤子、子供の数は昭和初期並に復活した。こうした庶民から見た視点での状況が、『太平の昭和』を演出した事は間違いないだろう。

 そして東側経済と第三世界に依存した資本主義国というある種奇妙な立ち位置が、この時期の日本に思わぬ幸運をもたらす。1973年の第三次中東戦争を発端とする「オイルショック」と、その影響による西側諸国の経済的低迷だ。
 オイルショックの直接的な発端は、1973年十月の第四次中東戦争だった。そして石油輸出国機構(OPEC)加盟のペルシア湾岸産油6カ国の原油公示価格の21%引き上げと、原油生産の削減とイスラエル支援国への禁輸にある。
 この時日本は、オイルショックに対する直接的な影響は小さなものだった。中東産油国に依存しない資源獲得体制を取っていたのだから当然と言えば当然だった。主な輸入先が、ソ連や満州など西側と関係のない国々が多くを占めていたからだ。OPEC加盟国だとインドネシアぐらいだが、親日傾向が強く日本への依存度が強いインドネシアは、可能な限り日本に対する石油価格の据置を実施した。
 またこの頃、主にソ連では産油量が大きく拡大していたため、オイルショックはむしろ歓迎されていた。この背景には、ソ連国内で日ソ合弁のボルガ・ウラル、チュメニなどシベリア油田開発が当時精力的に推し進められていたからだ。しかも日本資本の大油田は既存技術に固執したソ連油田よりも高い産油量を示している。またバクー油田などカスピ海沿岸の油田地帯の採掘量は、技術改善などにより上昇したのに採掘コストも下げられており、パイプラインの整備とも重なってソ連、日本など東側陣営への石油供給体制は万全と言えた。
 加えて言えば、当時日本及び日本圏内ではモータリゼーションが低調だったため石油(ガソリン)に対する依存は西側諸国よりも低く、また60年代半ば以降は国家戦略として火力発電に代わり原子力発電に力を注いでいたため、西側欧米諸国に比べて石油需要は小さかった。
 また日本資本の満州北部の昭和油田も、火力発電にしか活用できないながらも年産5000万トン以上の安価な採掘を続けていた。このためソ連からの同盟国価格での石油輸入を行いつつ、OPECに加盟していない点を利用して昭和油田から国際価格より少しばかり安く放出させたりもした。しかもソ連から輸入された安価で良質の石油は、国内にそれまでに多数建設されていた石油備蓄基地へとさらに蓄えられ、国際的にはむしろ上手く立ち回ることができた。一方ソ連は余った石油を輸出に回し、多少の外貨をもたらし自国経済に一息つかせると同時に、比較的短期間でのオイルショック終息の大きな動きともなった。
 この東側の石油放出に対して中東産油国からの反発は強かったが、地下資源を武器とした行動に対する西側から中東に対する反発が強かった事もあり、皮肉なことに東側の外交的な勝利にもなった。そして中東産油国は東側産油量を常に考えなくてはならなくなり、発言権の向上や外貨の獲得に常に一定の制限をかけるようになる。

 一方この時期、東側陣営内では変化のあった事も多い。日本が産業技術の多くにおいて、東側諸国の水準を越え始めていたからだ。分野は、これまで触れてきた軽工業分野や消費産業分野ばかりではなかった。
 日本の北海道や満州国で行われていた農業技術や生産管理技術が、1960年代末頃から逆にソ連や東欧各国で実践される事で、低迷していた東側社会の農業生産が上昇に転じるようになった。日本自身の食料自給率克服の努力を応用した結果だった。この頃から、ロシアの広大な平原を日本製の真っ赤に塗装された大型トラクターが走るようになったのが見た目での変化の象徴だろう。おかげでロシアの穀倉であるウクライナの農業生産は多少なりとも持ち直し、農業大国でもあるソ連が穀物を輸入しなければならないという状況を回避させていた。日本としては、自分たちが大量に輸入できるようにソ連に働きかけて生産拡大事業を行っただけだったが、ソ連経済に与えた効果は無視できなかった。何しろアメリカの1920年代のレベルで止まっていたソ連の実質的な農業技術を、1950年代〜60年代水準にまで引き上げたのだ。
 だがソフホーズやコルホーズに代表される社会主義体制が相手では、日本側が予測したほどは上手くは行かなかった。このためソ連からの農作物輸入は年々減少した。80年代には、日本の域内で農業の企業化促進などで自給率上昇を画策し、自分たちで何とかする方策が行われた。そして国内消費が大きく拡大した90年代半ばからは、欧米企業よりずっと早く、ロシア、ウクライナ各地で大規模な企業経営を行うようになる。
 なお、他にも日本の技術支援や協力によって、この時期のソ連で上向いたものが二つある。先に紹介した宇宙開発と、もう一つは東側最重要の産業である兵器開発だ。

 兵器開発は、主に海と空のものとなる。元々日本はソ連など足下にも及ばないほどの海軍国であり、また広大な太平洋を活動範囲としているため航空機開発も熱心だった。
 おかげで陸軍装備の自主開発能力は長らく列強の中では三流のままと言われていたが、世界最強の陸軍大国(ソ連)が友好国であるならば問題もなく、日本は自らが保有する巨大な海空軍の建設と兵器開発に余念がなかった。
 そしてそれはソ連の兵器開発にも影響を与え、技術供与や共同開発により主にソ連海軍と一部の航空機が発展を遂げていた。ソ連の軍艦の三分の一近くは、日本で建造されもした。大型空母すら、1960年代後半にソ連が最初に保有したものは日本で建造されている。1974年に建造された原子力空母《ミンスク》は、日本初の原子力空母《鳳祥》共々、西側陣営に大きなショックを与えた。イギリスが巨額の財政赤字を覚悟で、アメリカのF4ファントムを運用できる新型空母《ジブラルタル級》を建造した事が象徴的だろう。
 もちろん日ソが共同開発をしてもなお、アメリカのような巨人空母や無数の戦略爆撃機の保有には至らなかった。最新兵器のサイズも相変わらず西側より大きく、電子技術は常に後塵を拝していた。だが、西側陣営に脅威を与えるには十分な質と戦力であった。特に西側は、ベトナム戦争の頃から日ソ製戦闘機と原子力潜水艦群を強い脅威と認識していた。
 また、粗製なところのあるソ連製兵器の質が多少なりとも向上したのも小型化したのも日本の影響だった。日本が相応に努力した生産管理技術と予備部品の供給体制は、東側兵器を有する全ての国の兵器の稼働率向上に大きく貢献していた。
 そして兵器産業の発展は日本の輸出産業にも好影響を与え、東側の兵器はより多く世界中に供給されるようになる。第三世界で軍艦と言えば日本製だと言われるようになったのも、主に60年代半ば以後の話だ。また日本の兵器企業は、ソ連と違ってアフターケアや予備部品の製造も怠りなかったため後進国や友好国家には好評であり、気が付けばフランスを凌ぐ世界第三位の武器輸出国となっていた。国内には兵器産業とそれに付随する関連産業も大きく成長し、日本の労働力を大量に吸収していた。60年代半ばから以後二十年近くは、兵器輸出産業こそが日本の主力輸出産業だった事は間違いないだろう。
 もちろん兵器の共同開発は、プロパガンダによって日ソ蜜月の代表に挙げられた。東側の脅威が世界を覆い尽くすのではないかと西側世界が恐怖し、その象徴とも言える事件が中東で立て続けに発生する。
 しかし同時に、冷戦とは違う新たな時代の幕開けでもあった。


フェイズ16「アフガニスタン戦争」