■フェイズ17「冷戦最後の軍拡競争」

 1982年1月、アメリカ合衆国でロナルド・レーガンが大統領に就任した。彼は「強いアメリカ」の復活を掲げ、東側陣営に対する強硬政策を推進した。また国内に対しては、経済再生政策として大幅な減税を実施。二つの巨大な出費により、既に弱体化していたアメリカ財政は急速に傾いていった。小さな政府化と軍拡によって、ベトナム戦争以後傾いていた国家の建て直しを目指したものだ。だが、そうであるだけに、当時のアメリカの痛みも大きかった。70年代から本格化していた設備やインフラの老朽化を原因とする製造業の壊滅と言われる状況も、アメリカの赤字拡大に拍車をかけた。西ドイツなど西側欧州諸国との激しい貿易摩擦が、アメリカの窮状を物語っていた。
 ただし、アメリカ及び西欧諸国は世界的に見てほとんどが社会資本が既に充実した先進国であり、大衆消費財の生産国として考えると生産コストが高くなりがちであった。このため、適度に発展しつつある新興国を生産国として利用しようと考えた。だが、それらの国がまともに大量で安価な工業製品を送り出せるようになるまでには、急いでも後十年は必要と考えられた。この状況は、自らの植民地支配の成功ではあったが、他の地域が遅れすぎている事は、この時点では大きすぎる経済的失点に結びついてしまっていた。
 つまり60年末頃から以後二十年ほどの西側諸国は、自らの国民が生み出す人的コストの高い製品を使い続けねばならず、全ての国の一定の雇用が維持されるのと反比例するように経済力を継続的に弱体化させ続けていた。しかも相対的に既得権益の力が強まったため、産業転換やシステムの合理化にも失敗している。世界経済の5%以上を常に持っていた日本との競争や貿易がほとんどなかったことも、西側の技術発展を阻害したと言われている。
 そしてこの背景には、丁度良い経済的位置にいた日本という資本主義国が欠けていた事が大きいという研究論文や報告書も多い。現に日本で発明された製品の一部は西側を凌駕して、西側に存在しない新製品もあった。一部では西側が高いパテント料を払って使っていたほどだった。そして日本と最も対立していたアメリカこそが、不利益を受けていたと言えるだろう。しかもアメリカは、傾斜分配型資本主義が最も発展していたため、経済が傾き始めるとその速度は速かった。
 それでもアメリカは60年代から中米諸国、南米諸国、フィリピンなど友好的な後進国を生産国として育てようと画策したが、それぞれの国の国民性や民族資本の貧弱さ、アメリカ資本の強欲さ、オイルショックなど様々な要因によってことごとく失敗した。アメリカに対する債権デフォルト(債務不履行)を行わざるを得なかったブラジル、アルゼンチンでの失敗例が典型だろう。その後アルゼンチンなどは、この冷戦最盛期に国威発揚のために対外紛争まで起こしたほどの国の傾きをもたらしたほどだった。
 南米諸国の事はともかく、アメリカは自らの産業転換(製造から金融へ)の肩代わりを人的コストの高い西欧諸国に依存したため、70年代以後の経済の傾きも急速だった。主に70年代のアメリカと西ドイツの経済摩擦は、フランスの大国外交と並んで西側の大きな懸案となった。
 そうした中で、共和党出身のレーガンが大統領として選出されたのだった。

 就任後のレーガンは、それまでの政権特に民主党のカーター政権での弱腰外交とは全く逆の、いわゆる『強いアメリカ』を実現するため数々の計画を実行させていった。象徴的なものとして有名なのが、1984年に唱えられた『SDI』計画だ。この計画には150億ドルもの開発費が投じられ、参加した企業900社、大学・研究機関は1000を超えていた。ただし軍事的に直接の成果をほとんど挙げる事はなく、経済の破断界に達しようとしていると西側では観測されていたソ連を挑発するための、軍拡競争の表看板でもあった(※計画の実際は、広範な高度技術開発への投資のための方便で、実は計画は成功している。)。
 また、アメリカの計画で数量的に分かりやすいのが、海軍の「700隻体制」であった。主に日本海軍を標的とした計画であり、日本も『新六六艦隊計画』として大規模な海軍拡張を実施した。
 この結果アメリカは、18隻もの巨大空母整備を目玉商品とした一大艦隊計画を実行した。ソ連も四隻目の大型空母《キエフ》や《タイフーン級》SSBNを就役させたので、海軍を手抜きにすることは見た目の上での軍拡競争への敗北を意味していたからだ。
 対する日本は、「新六六艦隊計画」の実施を発表。保管状態の巨大戦艦6隻を一度に大改装して現役復帰させ、これに近代改装を含めた大型空母6隻、大型戦略原潜(SSBN)6隻、大型巡航ラケータ原潜(SSGN)6隻を加えて中核戦力とした、強力な打撃力を持つ戦術型海軍を整備しようとした。そして日本海軍での《大和級》《紀伊級》戦艦の近代改装計画は、アメリカの《モンタナ級》戦艦5隻の現役復帰と、『バルト海の怪物』と呼ばれた日本の技術援助と日本製51センチ砲搭載により完成した《ソビエツキー・ソユーズ》の再就役を連鎖的に発生させ、列強の砲艦外交と呼ばれるようにもなる。
 加えて日本空軍は、米空軍のB1に匹敵する戦術用戦略爆撃機の配備計画を大幅拡大し、アメリカとの軍拡競争に一歩も退かない姿勢を示した。戦術用戦略爆撃機などという訳の分からない対艦攻撃兵器を有していたことで、日本空軍の軍備の一端が伺い知れるだろう。レーダーに映りにくい流線形状の巨人機が、派手に無数の対艦ラケータを放つプロパガンダ映像は、西側ニュースの定番となったほどだ。
 受けて立ったアメリカも、海軍の実働部隊の半数をハワイ真珠湾に常に配備して日本に対抗した。この時期日米の間で盛んに制作された一種のプロパガンダ軍事映像作品を賑わした背景ともなった、見た目でも分かりやすい軍拡競争であった。
(※日本の大型空母は満載排水量6〜8万トンクラス。アメリカの巨大空母は8〜10万トンクラス。日本の空母をアメリカ人はビック・キャリアーと呼び、アメリカの巨大空母をメガ・キャリアーと呼ぶ。互いに大量の戦闘機、戦闘攻撃機を搭載して、相手洋上航空戦力の撃滅を第一目的としていた。)
 しかし最大の軍拡は、核兵器とその運搬手段の開発・量産競争だった。MAD(相互確証破壊)を避けるべく数々の軍縮条約が締結されてもなお、新型兵器が各国で開発されることで核軍拡は進んだ。またソ連が、徐々に進んだ通常戦力での不利を核軍備で補おうとしたため、核軍拡はさらに進んでいた。日本の戦術面に特化した核軍備も、その危険性から軍拡に拍車をかけた。
 最盛時、米ソだけで地球上の全ての生物を数度死滅できるだけの破壊力が存在していたと言われている。核保有量世界第三位となった日本単独だけでも、アジアを全て滅ぼせると言われた。アメリカに次ぐ日本の仮想敵最有力の共産中華の抱く恐怖は、再びピークに達したと言われた。何しろ日本は、大陸間弾道弾、潜水艦発射型弾道弾、各種巡航ラケータを筆頭として、豊富な戦略核を保有していた。核弾頭数も、米ソ以外の総保有数の約半分を持っている計算になる。逆に共産中華はいまだ水爆を開発できておらず、戦力差は比較することすら馬鹿馬鹿しいレベルだった。米ソ以外から見れば、大日本帝国も立派に軍事超大国だったのだ。
 そして共産中華では、北京や上海など主要都市は戦争開始5分以内に消滅すると言われ、この恐怖が共産中華の都市化を意図的に大きく遅らせていた事は間違いない。メガトン級のペネトレイト型重水爆相手では、人海戦術で作った核シェルター程度でどうにかなるレベルを超えていたからだ。
 また日本とソ連を合わせた場合、アメリカ軍が先制攻撃を受けた場合のICBM生存率は、1987年以後はほぼ0パーセントになるという研究報告が出されて、西側世界全体を揺るがしてもいた。ただし、西側全体での通常戦力の性能向上や、トライデント装備SSBNの生存性の高さなどを考えれば、これはアメリカ軍産複合体が受注を得るための一種のプロパガンダと見るべきだろう。実際SDI推進の原動力ともなっている。
 そして軍産複合体が軍拡を煽った一方で、巨大な軍備の建設は各列強の財政を確実に蝕んでいった。これこそがアメリカが仕掛けた『冷戦』であり、国力と経済力で大きく勝るアメリカは勝算十分、勝つ気まんまんだった。
 またアメリカと足並みを揃えたNATO(北大西洋条約機構)諸国も東側陣営との強硬対決姿勢を強め、年率3%の軍事費増強を取り決めた。欧米先進国が集まるサミット、先進国首脳会議では、いかにして東側陣営を叩きつぶすかが議論されたほどだ。当然ながら、東西両陣営による軍拡競争は激化した。西側と共産中華との連携も主に政治面で強化された。ただしアジア・西太平洋で日本に対抗できる国が事実上アメリカ一国のため、西側世界で太平洋方面は意外に注目されてはいなかった。何しろ太平洋で大型空母や戦艦を複数並べているのは、日本とアメリカだけなのだ。実戦レベルでの軍事面から眺めた場合、共産中華は日本軍の標的としてただそこにあるだけであり、体制の違いと中華民国とアメリカの関係もあって軍事にまで深く協力できないのが現状だった。
 そしてアメリカにとって意外なことに、軍拡競争という総力戦において東側陣営はしぶとかった。理由はソ連ではない。

 東側盟主であるソビエト連邦ロシアは、建国以来自らの帝国を粉飾するために巨大な軍備を維持し続けた。アメリカと違って成功したとはいえ、アフガン戦争での傷も深かった。さらには、アメリカに対する勝利を実現した宇宙開発も、国家の威信とイデオロギーの維持のため、続けざるを得なかった。1996年をめざした火星有人探査計画も、盟友の日本ですら愛想を尽かしたのにギリギリまで予算が投入され続けていた。
 また世界を二分する超大国として振る舞うため、自らの陣営の国々には様々な支援や援助を行い、自らの財布の中身を軽くしていった。特に東側経済の多くを占めている日本に対する様々な恩恵は、大きくソ連の国庫を蝕んだと言われている。日本という東側の資本主義国は、ソ連が抱え込むには大きすぎたのだ。
 つまりは、ソ連経済は軍拡競争を開始した時点で既に大きく傾いていた。むしろ40年もよく保ったと言えるほどの散財を維持し続けていた。何しろ、軍事費だけで対GDP10%以上を維持する事で、アメリカが長年本気で競争を行ったのに曲がりなりにも対抗し続けたのだ。、
 しかし何事にも限界は訪れる。東側第二の大国であった日本が、様々な方法でソ連経済や産業にテコ入れ手をした事もあったが、体制の違いや国家の体力差から付け焼き刃やカンフル剤である事がほとんどだった。しかも、一時的であれソ連経済の浮揚に成功しても、ソ連自身がそこで得られた金を軍備と宇宙開発や各国への援助に注ぎ込んで元の木阿弥としていた。そしてソ連は誇りと恐れの双方からアメリカの軍拡に真っ向から対抗し、経済の破滅を覚悟した軍拡へと大きく傾いた。これはアメリカの目論見通りだった。アメリカは息切れした程度で済んだが、ソ連は倒れてしまったからだ。
 計算外は、アメリカがしょせん遅れた地域大国と侮っていた大日本帝国だった。

 日本は、アメリカのあからさまな軍拡競争と挑発に、日本なりに真っ向から挑戦する事を決意・実行した。かつて第二次世界大戦前に行われ、そして日本が自ら放棄せざるを得なかった海軍拡張競争のリターンマッチというわけだ。
 日本人達は、大幅な軍備拡張で不足する紙幣の大量増刷を行い、同時に予算の拡大、国債の大量発行を実施する。積極財政の一例だ。これは本来なら国内に大きなインフレを巻き起こし、国際為替上での円の大幅な下落をもたらす可能性を持っている。アメリカも、一部ではそれを狙っていた。しかし日本政府は、軍拡と同時に国民に対する個人消費の抑圧と貯蓄政策を強力に実施した。そして生真面目な国民一人一人により少しずつ貯蓄された膨大な銀行預金は国債買い付けに回され、国内消費がある程度抑えられた事でインフレも小規模なものしか発生しなかった。また日銀も、自ら大量の国債買い付けを行い、紙幣増刷によるインフレ抑制を挙国一致体制で推進した。
 これが欧米のような経済体制の国ならうまくいかなかったのだが、いまだ新興国的な状態を一部で維持していた日本では、大きな問題が発生する事はなかった。しかも日本は傾斜分配型の市場経済ではなく、一部社会主義的なまでの公平分配を基本とした市場経済のため、こうした政策はうまくいく可能性を持っていた。日本の財政を預かる者達の『賭け』は、取りあえずではあったが成功を以て報いられたのだ。
 また当時の内閣を切り盛りしていた遅咲きの政治家として宰相の座にあった今太閤こと田中角栄は、持ち前の馬力の強さとカリスマ性によって日本国民をまとめあげた。政治面でも、大政翼賛連合による事実上の挙国一致内閣として、未曾有の軍拡政策を推進した。「まーこのー、今回の軍備拡張は、一つの日本改造でありまして」で始まる国会演説は、軍拡時代の代表的な言葉ともなった。
 なお田中角栄は、盟友大平正芳首相の急死を受けて80年7月に急遽首相へと擁立され、当人も85年2月に脳梗塞で倒れ入院して首相の座を退くという、かなり珍しい経歴を持つ。 在任は4年半あまりと冷戦時代では平均的だが、個性の強さとこの時期の軍拡と軍需景気を後押しした事も重なって、日本のみならず世界中から大きな注目を集めた首相となった。
 話が逸れたが、日本は財政の綱渡りで未曾有の軍拡を成功させるばかりか、一種の積極財政によるケインズ式の傾斜生産と公平分配により景気拡大すら実現した。数年後には、国家財政と国内経済を何とか健全に維持したまま、アメリカが予測した以上の海軍と空軍、そして国力相応の核軍備を揃えて見せた。遂にアメリカに並んだと言われた最新鋭の原子力空母《蒼龍》の映像は、実戦配備当初は連日西側のニュースメディアを賑わした程だ。そして戦力の揃い始めた84年頃から以後5年ほどが日本帝国軍の最盛期であり、太平洋ではアメリカの方が先に息切れしかけたほどだ。
 日本近海という狭い地域に、原子力空母を含めて大型空母だけで6隻もいるのは、アメリカから見ても反則だった。アフガンでの戦闘と合わせて、『軍国主義日本』の言葉が西側社会で最も宣伝された時期である事からも、西側特にアメリカの焦りと恐れが伺えるだろう。アメリカ国内で、6隻の日本空母がアメリカ本土を蹂躙するという仮想戦記や戦争をモチーフとした様々な媒体が流行したのもこの時期だ(無論、最後に勝つのはアメリカだったが)。
 そして米ソの巨大な核軍拡が世界中を恐怖で覆った中での日本の予想以上の軍拡成功は、一方では日米和解への大きな糸口ともなったのだが、もう一方では東アジア・西太平洋地域の軍事バランスを東側優位で大きく崩してしまう。アメリカは見かけだけは西太平洋の軍備を維持したが、中華民国、フィリピンなどは実質的に見捨てられたに等しい状況に置かれた。東南アジアのタイ、マレーシアも、親米政策よりも親日政策の方をはるかに重視した。かつての満州紛争などによって日本が脅しの通じない国という国際的な風評があり、アメリカ外交に大きく不利に傾いた結果だった。
 そして、とりわけ列強と軍拡競争をする国力のない中華人民共和国(共産中華)の、日本に対する恐怖は再びピークに達した。なぜなら、日本にとってアメリカは対抗すべきだ相手が戦争する相手ではなく、東南アジアの国の多くが日本に対しては友好国か中立だった。日ソについては、現時点で争うこと自体あり得なかった。
 そして日本が近隣で気兼ねなく拳を振り上げて良いのは、西側に少しぶら下がっただけの自分たち共産中華だけだった。しかも日本人は、以前一度これ以上はないというぐらいに拳を振り下ろしている。あえて日本人の言葉を借りるならば、共産中華は一度「一刀両断」されてしまっていたのだ。しかもアメリカは、いざとなれば共産中華を見捨てる可能性が高いとも予測された。
 そこで共産中華は、日本との間に自分たちの側から戦争一歩手前の状況を作り出し、強引にアメリカを北東アジア情勢に深く引きずり込もうと画策する。
 『ドン・シャオピの賭け』と言われる、冷戦が最も緊迫した時間の始まりだった。

 1985年春、日本が首相の交代直後で混乱する中、共産中華は日本の軍拡を痛烈に非難する宣伝戦略を行い始めると俄に軍の動員を開始し、満州国境及び台湾海峡を中心に大軍を展開し始めた。既に80万人が配備されていたセカンド・ワンリーの兵力数は、一気に五割増しとなった。満州紛争の悪夢再びと世界は震撼した。
 当然日本(とその衛星国)も軍の展開を開始し、共産中華に対して圧倒的な軍事力を満州国境及び両シナ海に精力的に展開して圧力をかけた。中には西側から謎の新兵器と恐れられていた中島の超音速戦略爆撃機や巡航ラケータ搭載型原子力潜水艦、チタンの船殻を持った攻撃原潜など強力な戦術核兵器を搭載する最新兵器の姿もあった。無論日本軍のほぼ総力を挙げた動員であり、アメリカばかりか東西両陣営全ての国が黙って見ているわけにはいかなくなってしまう。
 戦術用日本兵器の優秀さは、82年のフォークランド紛争で英艦隊に大打撃を与える事で立証されたばかりだった。日本義勇兵(軍事顧問団)が操ったと言われるアルゼンチン海軍機による英海軍の正規空母《イラストリアス》への攻撃成功は、多数の攻撃空母を要する米海軍に大きな衝撃を与えていた。
 イラン・イラク戦争でも、対艦ラケータや洋上攻撃に特化した日本製戦闘攻撃機が、各国のタンカーを攻撃している。そんなものを日本軍は、山のように保有していた。
 しかも日本人は、共産中華に対する戦術核兵器の使用には躊躇しない可能性が高かった。無尽蔵な兵員数と十億という人口を持つ共産中華を潰すには、日本の国力では中途半端で物理的にも無理であり、本気でかつ全力で叩きつぶしか手はないと日本人達が考えていると西側は判断していた。そして日本軍が暴発しないように、軍事圧力をかける必要性があると考えられた。
 そして西側軍備が活発に動き出すと、次は東側盟主たるソ連の番だった。ソ連は日本とは事実以上の同盟関係にあり共産中華との関係も悪いため、中ソ国境各地の友好国内の派遣軍を大幅に増強しに始める。そしてソ連の巨大な軍備が動き始めると同時に、西側全ての軍隊が動き始めた。後はキューバ危機の頃に言われたエスカレーション状態となった。世界中の米軍のディフェンス・コントロールは3以上に引き上げられ、主要各国の戦略原子力潜水艦や戦略爆撃機のパトロールもキューバ危機に匹敵するほどの準戦時体制に強化された。世界中の軍隊の動員体制も準戦時へと強化され、一部の国では住民の疎開やシェルターへの避難訓練などが日常化しつつあった。
 世界の破滅をカウントダウンする時計が、30秒前まで動いた危機の到来だった。
 全ての人にとって分からないのは、それが三度目の世界大戦にまで発展するかどうか、世界が破滅まで転がり落ちるかどうかだった。
 ただし、太平洋に展開するアメリカ海軍のキューバ危機以来の大機動部隊は、遂に日本の勢力圏内に前進する事はなかった。なぜなら、西太平洋と両シナ海には日本海軍の巡洋潜水艦(攻撃型原子力潜水艦)がうろうろして、硫黄島、台湾、択捉島などには日本空軍の戦術型戦略爆撃機群(タクティカルタイプ・ストラテジー・ボマーズ)が溢れていた。早くも、日の丸を付け対艦ラケータを満載した日本空軍のSu27J「フランカー」すら太平洋で飛んでいた。強力な日本空母機動部隊の展開状況については言うまでもない。彼らは腹の中に満載したばかりの三菱製新型戦闘機を盛んに飛ばして米艦隊を牽制した。ソ連海軍も、原子力潜水艦を中心に太平洋広く展開していた。とてもではないが、日本(+ソ連)の勢力圏に艦隊を前進させられなかった。
 百数十機ものF14《トムキャット》が、ほぼ同数の日本海軍の39式艦上戦闘機《閃風》、西側通称『ジーク』と距離を置いて睨み合うのが、太平洋上での最大限の緊張であった。
 不用意に前進すれば対応不可能な先制総攻撃を受け、いかに強力な艦隊であっても戦術核兵器の飽和攻撃で殲滅され、それが第三次世界大戦の引き金になる可能性が高かったからだ。一方の日本海空軍部隊も、西太平洋に布陣したまま動くことはなかった。事の発端となった共産中華も、各地で日本軍など東側陣営と睨み合いながらも全く動かなかった。いつも小競り合いを行っている内蒙古境界地帯ですら一歩も動かなかった。共産中華の政治中枢は、世界中の目を自分たちに向けさせた事、自分を中心に世界を動かした事で大いに満足していた。政治力学により、これでアメリカは中華を見捨てられなくなるからだ。
 一方で欧州正面では、一部で予備役動員も開始され、地上は東西双方の重厚な機械化部隊で溢れかえった。北太平洋でも、ソ連海軍の《キエフ》《ミンスク》を中心とする空母機動部隊とNATO合同海軍が激しい睨み合いを始めた。空軍部隊の出動回数もかつてない数字を示した。
 各国の戦略核兵器基地や戦略潜水艦については情報公開の不備でいまだによく分かっていないが、一部では確実に液体燃料が注入されいてた筈だ。
 事態はキューバ危機以来のものであり、各国が保有する核兵器を考えればより深刻だった。

 しかし緊張が限界に達するより早く、理性が動き始める。各国首脳は緊張開始からホットラインなどで対話を続け、強硬論を唱える各国の軍人や政治家、イデオロギー主義者達は、理性派の同業者により事実上身動きを封じられた。心ある人々は、全ての人々が最低限でよいので理性を取り戻すのを辛抱強く待ち続けた。
 また盛んに危険を煽っていたのは、結果論的ではあったが主に西側の報道機関ばかりであり、アメリカの首都ワシントンでは平和を訴える百万人のキャンドルデモが行われ、世界中の各首都、主要都市でも平和を求める行動が実施された。
 そうした中で始まった緊急国連総会で、各国は何とか合意にこぎ着ける。それぞれの軍隊は、暴発しないように細心の注意を払いながら戦闘態勢の解除へと動いた。極度の緊張となった今回の事件の発端となった共産中華と日本の対立に対しても、両国との関係の深いフランス、そしてソ連、アメリカが間に入り、直接会談のための国際会談の場が作られた。そして主に政治だけで動いた両国も、渡りに船とばかりに会談へと足を運んだ。
 また日本としては、既に原爆と準中距離弾道弾を有する共産中華と大規模な戦闘をする気はなかった。ましてや破滅的な世界大戦を引き起こすつもりもなかった。結果論的だが、勝手に軍隊を並べ始めた共産中華を軍事による威嚇で屈服させようとしただけだったので、世界の理性的な動きとフランスなどの申し出は内心とても有り難いものだった。共産中華も、自らの『ちょっとした』脅しだけで世界中を引っ張り出せたので満足した。
 なお会談前の条件として、日本はアメリカがある程度軍の戦闘体制を解除する事が条件だと言って譲らず、アメリカは日本も同時にアメリカ軍に対する軍を引き下げるべきだとした。当然ながら日中双方の軍をある程度引き下げることも条件とされ、そして互いが睨み合う中で各国の軍隊は少しばかり陣を引き下げ、ニューヨークの国連本部で緊急の国際首脳会談が持たれた。
 会談では、共産中華側は軍の動員は満州を巡る内政問題だとして、この点だけは譲らなかった。日本の方は、満州国が国際的に認知されているので一度各国に確認を取った後は特に議題にはせず、共産中華が先に軍隊を動かしたのだから責任は向こうにあるという点で譲らなかった。また日本は、アメリカ海軍を西太平洋や両シナ海に入れないよう牽制しつつも、悪いのは共産中華だけという点を強調した。
 結局、会談は満場一致とまではいかなかったが、最低限の妥協と今後の歯止めをかけることで幕となった。また満州は独立国家との認識が国際的に再確認され、共産中華は自らの言い分を国際社会で通すことはできなかった。そしてこれを不服として共産中華は一部不合意とし、逆に見た目として毅然とした対応を貫き通す結果となった日本の評価が高まることになった。無論いらぬ緊張状態を真っ先に作り上げた共産中華が国際的な評価を落としたのは言うまでもない。共産中華の行動は、世界を振り向かせたかもしれなかったし、そろそろ無為な対立を終わらせるべきだと世界中の人々に教えたかもしれない。だが、決して誉められる事でない事ぐらい誰もが理解していた。
 そしてこの時の核戦争の危機こそが、冷戦の最盛期であると同時に、世界中に冷戦の幕が事実上降りたことを体感的に理解させるようになる。
 一方この頃、日本にとってももう一つ追い風となる変化が訪れていた。米ソの軍縮機運増大と、ソ連の市場主義経済導入、ペレストロイカの始まりだ。


フェイズ18「ペレストロイカと平成御一新」