■産油国日本 序章
本題に入る前に、予備知識を整理しよう。
●原油の偏在 21世紀初頭の現在、世界全体で3万以上の油田があるが、埋蔵量50億バレル以上の超巨大油田は27個しかない。そして、そのうち24個が中東に集中している。また、埋蔵量15億バレル以上の88油田のうち38個が中東にある。 埋蔵量5千万バレル以上を大油田、5億バレル以上を巨大油田、50億バレル以上を超巨大油田と呼ぶ。なぜ、かくも石油は中東に集中しているのか。後に詳述するが、それは、石油の生成・移動・集積・保存の4条件全てを完璧にクリアしているのが中東地域であるためだ。 (※1 バレル=159 リットル)
・BP統計による埋蔵量順位(2009年)
第1位:サウジアラビア(2646億バレル) 第2位:ベネズエラ(1723億バレル) 第3位:イラン(1376億バレル) 第4位:イラク(1150億バレル) 第5位:クウェート(1015億バレル) 第6位:アラブ首長国連邦(978億バレル) 中東地域が全世界の埋蔵量の60%を占めている。これに次ぐのがヨーロッパ・ユーラシア地域の11%、アフリカ、中南米地域各10%、北米6%であり、最も少ないのがアジア・大洋州地域の3%である。このように世界の石油埋蔵量は圧倒的に中東地域が多い。 1980年以降、2006年まで世界の石油可採埋蔵量は一貫して増加している。新規油田の開発、既存油田の埋蔵量再計算、そしてなにより、原油価格の上昇により、損益分岐点が移動し、コスト的にペイする油田が増加したことが寄与している。 ・可採埋蔵量と生産量推移(単位:10億バレル)
可採埋蔵量とは、その時点の技術と原油価格と消費量によって決まる。可採年数(R/P)については2009年末は45.7年であり、過去40年余り30-40年程度の可採年数で推移している。 2007年末における世界の石油確認埋蔵量は約1.2兆バレルであり、年間消費量約300億バレルで割れば、大体の可採年数が計算できる。 また、既生産分を含めた量を究極可採埋蔵量というが、これは諸説あり、全世界で2-3兆バレルといわれている。過去におよそ1兆バレルの原油を生産しているので、可採埋蔵量1.2兆バレルと同じ程度を既に消費してしまったことになる。 ちなみに、1940年代の推定では全世界の原油埋蔵量は600億バーレル程度とみられていた。石油が有限の資源であることは間違いはないが、探査技術の向上や原油価格の上昇で石油可採埋蔵量は増加してきた。しかし、今後は新興国を中心とした消費量の増加により可採埋蔵量は減少に転じるだろう。 ●二つの超巨大油田 ガワールとブルガンをご存知だろうか。 ガワールはサウジアラビアにおいて南北280km弱、東西50km弱という広大な面積に広がる世界最大の埋蔵量750-830億バレルを誇る油田である。 クウェートのブルガン油田は埋蔵量で2位であり、660-720億バレルの埋蔵量である。1991年の湾岸戦争ではイラク軍に破壊され、約30億バレルが失われたという歴史を持つ。 中国の勝利・大港の2大油田の埋蔵量が各30億バレルであることを考えると、失われた量の巨大さがわかる。 埋蔵量3位のキルクーク油田は163億バレルに過ぎないことを考えると、ガワール・ブルガンの有無は人類の歴史を左右するほどの大きな存在であったことがわかる。なにしろ、この2油田だけで世界の確認埋蔵量の10%強を占めるのだ。1950-60年代に石油需要が急増した時期に、この2つの巨大油田がなければ、あれほど石油を安価かつ豊富に利用することはできなかっただろう。 ●産油・消費 産油量を比較すると、2008 年の世界の年間石油生産量は日量8182 万バレル。 ・原油生産量上位(2008年) 第1位:サウジ(1085万B/D) 第2位:ロシア(989 万B/D) 第3位:米国(674 万B/D) 第4位:イラン(433 万B/D) 第5位:中国(380 万B/D) 国別に見ると世界最大の石油消費国は米国で、2008 年の消費量は1942万B/D、世界全体の23%を占めている。米国に次ぐのは中国(800 万B/D、シェア10%)であり3位が日本(485 万B/D、同6%)である。 ・原油消費量の推移(B/D)
1940年:600万バレル 1962年:2150万バレル 1965年:3000万バレル 1973年:6000万バレル 1996年:7000万バレル 2004年:8000万バレル 1950-60年代に大きく消費量が伸び、73年のオイルショック以後の消費量は一時減少に転じた。80年代半ばからは再び増加に転じ、90年代以降は漸増を続けている。 ・年間原油生産量
1915年 4.3億バレル 1918年 5.0億バレル 1920年 6.9億バレル 1940年 21.3億バレル アメリカの原油生産は、1929年には10億バレルを超え、1940年においては13億バレル余りに達し、世界生産の6割を生み出していた。この時代のアメリカ石油生産は、現在の中東以上の中心的役割を果たしていたことになる。 (ちなみに、当時石油は20年余りで枯渇すると考えられていた) 一方、同年の日本は270万バレル/年(世界シェア0.12%)の原油生産しかできず、同年の消費量2856万バレル/年の10%だけしか国内生産で賄うことができなかった。 国内の民間需要が2466万バレル/年であり、残りが軍需用であった。アメリカからの輸入が途絶えれば、軍艦・軍用機はもとより、産業も身動きできなくなるのは明白であった。 作家・谷甲州氏の”覇者の戦塵”シリーズでは大慶油田(埋蔵量100億バレル・1959年発見)が満州事変時に発見された・・・・・・という歴史改変が行われた。100億バレルは当時の日本の原油消費量の300年分に相当する莫大な量だ。(※1970年代から30年間の日本の平均原油消費量が年間15、6億バレル程度であるから、現代の需要量だと6-7年分でしかないが) だが、当時「石油は第三紀層背斜構造にしか存在せず、内陸部から産出しない」という学説が一般的だったため、満州に石油鉱床はないと考えられていた。また、仮に1933年の満州国建国以後に油田開発に着手できたとしても、太平洋戦争に間に合うように原油の輸送・精製が実現するだろうか。難しいだろう。 ならば、もっと近場で早期に発見されていたらどうだろう。 もし、20世紀前半の日本近隣で億バレル単位の埋蔵量の油田が発見されていたら、日本の立場はどれほど強化されただろうか。もしくは危険にさらされただろうか?
●生成・移動・集積・保存 現在の学説の主流は生物由来説である。非生物的な条件下で生成したという説(無機由来説)もあるが、それで説明できるのは単に”炭化水素”の存在だけであり、経済的に稼動できる量の炭化水素の蓄積は説明できない。よって、ここでは生物由来説を支持することとする。 ケロジェン根源説(確定していないが、主流の学説) 海や湖で堆積したプランクトンや珪藻などの生物の死骸を構成する有機物(タンパク質・炭水化物・リグニン・脂質など)は、微生物による分解などを経て高分子有機化合物になる。 この有機物は更に重合し、ケロジェンに変化する。ケロジェンを含む岩石を石油根源岩という。 埋没が進み、地熱の作用を強く受けるようになると、ケロジェンが熱分解して液状の炭化水素が生成する。更に長時間熱分解を受けると、炭化水素はより低分子になり、天然ガスが発生しはじめる。時間が経過し、より地中深くに達すると炭化水素は石墨になり、利用価値を失う。天然ガスもエタン・プロパン・ブタン・ペンタンから、もっとも分子量が小さいメタンガスに分解される。 つまり、古い油田ほど天然ガスが増加し、地中深くに埋もれているという傾向がある。 石油は岩石の孔隙や割目に存在している。しかも、ほとんどの場合、石油は水と共存している。このように石油を留める岩石を貯留岩という。 貯留岩は主に砂岩や炭酸塩岩で、両者で貯留岩の9割を占める。 貯留岩に蓄えられた石油は全世界で約1.1*1015kgとみられている。だが、経済的に利用できる石油は、当然ながらその中のごく一部である。 更にいうと、地球全体では約13*1018kgの有機炭素があるが、そのうち石油になるのはわずか1.1/13000 という低率に過ぎない。石油は奇跡のように稀有な存在ということになる。 わかりやすい例えで、全世界の究極可採埋蔵量2兆バレルの原油は富士山1/5杯分という。 究極可採埋蔵量2兆バレル(318km3)、富士山の体積は約1400km3であるため。 可採埋蔵量は1.2兆バレル(190km3)に過ぎない。計算すると、1.2兆バレルはわずか富士山1/7杯分以下ということになる。琵琶湖の体積は27.5km3だから、琵琶湖7杯分ということになる。意外に少ないというのが感想ではないだろうか。 貯留岩中に石油が存在していても、それだけでは石油鉱床とは言えない。 石油は貯留岩の一部に濃集して集積しなければならない。これをトラップという。 Fig.1 典型的背斜構造を有するトラップ模式図 帽岩とは、石油がそれ以上移動しないようにフタを役割を果たす。主に石灰岩や岩塩、石膏、泥岩、頁岩などから成る。 Fig.1のように貯留岩中で比重の違いから成分が分離し、下から水-石油-ガスという層状構造になる。断じて、空洞に石油がたまっているわけではない。 油田水は大昔の海水が閉じ込められたもので、海水と同程度の塩分を含んでいることが多い。 もっとも、背斜構造があったとしても、ガス・石油のない不毛トラップが圧倒的に多く、大抵は水しかトラップしていない。 トラップには、おおまかに数種類があるが、世界の全石油鉱床の7割は背斜構造を有する。 背斜構造とは褶曲の背斜部に形成されたトラップを指す。Fig.1のトラップは背斜構造の例である。 この褶曲の高さをクロージャーと呼び、クロージャー構造がない場合、貯留岩中の石油は散逸してしまう。このような褶曲が貯留岩の広範な領域で起きれば、莫大な量の石油をトラップできる。 だが、石油が”偶然”生成し、そこに”偶然”貯留岩が存在し、貯留岩に褶曲が”偶然”発生し、しかもそのようなトラップが”偶然”何千万年も破壊されずに保存される可能性はどの程度だろうか?極めて低いに違いない。 石油は根源岩内で生成し、貯留岩中のトラップに集積する。しかし、根源岩と貯留岩は別のものなので、石油鉱床形成には石油の移動が必要になる。 形成された石油鉱床は、常に地殻変動や熱分解を受け続けるため、石油が散逸したり分解してしまう。逆に温度が低いか加熱時間が短いと、未成熟な油成分の多いオイルシェールになってしまう。 つまり、不十分貯留岩中の石油が人類に利用できる形で保存されなければ意味はない。 残念ながら日本列島はプレートテクトニクスの影響を強く受けるため、長期間にわたって石油鉱床が保存される環境にはない。 ●テチス海 2億5000万年前、地球上には単一の巨大大陸、パンゲアが存在し、そのまわりを巨大な海パンタラッサが取り囲んでいた。 2億年前、パンゲアは再び分裂をはじめ、北のローレシア大陸と南のゴンドワナ大陸に分裂した。 ゴンドワナ大陸は現在のアフリカ・インド・オーストラリア・南極・南アメリカから成る大陸であり、のちのアラビア半島はゴンドワナ大陸北部の一地域であった。 Fig.2 離散しはじめるゴンドワナ大陸 地球の核から上昇したスーパープルームはゴンドワナを粉々にした。やがて白亜紀前期の1億2500万年前にはローレンシアとゴンドワナを完全に分裂させ、テチス海はやがて太平洋と大西洋を結ぶ水路となった。 Fig.3 テチス海と環赤道海流の形成 テチス海が次第に西に開く過程で赤道海流が優勢となり、地球環境は温暖化していった。 完全な水路になると、環赤道海流のアーシアンリングを形成せしめ、中生代の地球環境を温暖化させた。この温暖な時代に恐竜は大型化の道をたどり、テチス海は生物に満ちた豊かな海となった。 赤道を周回しつづける環赤道海流はつねに加熱され、高緯度地帯をも温暖にした。高温の赤道付近の海からは大量の水蒸気がうまれ、大陸地域に多量の雨を降らせ、湿潤な気候となっていった。 極地や深海ですら暖かく、地上、海中を問わず生命にみちあふれた。 6500万年前に新生代がはじまると、寒冷化のトリガーが次々とひかれた。 4000万年前にはインドがユーラシアに激突して環赤道海流を見出し、3000万年前の漸新世にはアフリカがユーラシアに接近してテチス海が閉じた。オーストラリアの北進で太平洋とインド洋の海流は阻害されるようになった。 3800万年前には、南極に氷河がつくられはじめた。 更に、2500万年前にドレーク海峡が開き、南極大陸のまわりを周極流と呼ばれる冷たい海流が周回しはじめた。南極大陸は一気に寒冷化し、氷河が堆積した。これにより地球のアルベドは上昇し、太陽光線をより多く反射するようになった。 寒冷化した南極の影響で地球全体が寒冷化していった。 600万年前には地中海が干上がり、塩分が地中海に閉じ込められることで海洋の塩分濃度が6%も減少、地中海塩分危機がおきた。 500万年前にはパナマ地峡が隆起しはじめ、300万年前にはパナマ地峡が閉じ、太平洋と大西洋を結ぶ海流も失われた。 300万年前、北半球で氷床が発達しはじめ、地球規模の寒冷化はピークを迎える。 2億年もの間赤道直下にあったテチス海の繁栄は失われた。だが、歴史上類を見ない2億年分の膨大なケロジェンが地下で炭化水素に変化しつつあった。太古の砂浜や珊瑚礁は良い貯留層となり、のちに河川がもたらす粘土やシルトの堆積は帽岩となった。 こうして、のちに中東・北アメリカ・北アフリカ・ロシア南部の油田の種がまかれたのだった。 ●アラビア・プレート 中東油田地帯が乗っているアラビア・プレートは、テチス海を挟む南の陸地だった。ここは赤道直下であったため、有機物が堆積した。 更に、アラビアプレートは盾状地(5億7千万年以上前に形成された安定した陸塊)であり、地質構造的に数億年にわたり安定していた。そのため、マグマのような熱源からは遠く、長い年月をかけて石油が形成された。 もし、中東油田の熟成期間が短ければ、オイル・シェールの段階で留まっただろう。長すぎるか熱すぎれば、とうの昔に石油はメタンガスか二酸化炭素になって失われていただろう。 アラビア・プレートが極めて安定した楯状地であったため石油鉱床が破壊されなかったこと、熱源から離れており熟成が遅れたことが、テチス海の遺産を2億年後の現代まで残すことが出来た要因といえるだろう。 また、中東のトラップは極めて大きく、広範囲の根源岩から石油を集めることができた。そのため、超巨大油田が形成された。 紅海は500万年前に形成され、アラビア・プレートはアフリカ・プレートから分裂した。アラビア・プレートは未だに北上を続けており、数百万年後にはインド亜大陸のようにユーラシアに激突するだろう。そのとき、ペルシャ湾岸の石油鉱床は破壊され、世界最大の産油地帯は破壊される。イランの油田も破壊されてしまうだろう。 一度トラップから散逸した石油が、別の地層で再捕集される現象があるため、全ての石油が利用できなくなるわけではないだろうが、大部分は永久に失われるだろう。 もし、人類の出現が1000万年遅かったら、人類は中東の石油埋蔵量(全世界の6割)を失っていただろう。2億年も安定していた石油鉱床は、地質学的スケールで表現するならば”破壊される寸前”に、幸いにも利用されているのだ。(地球環境を考えると、必ずしも幸いではないかもしれないが) ●失われた石油鉱床 ヒマラヤが形成される原因となったインド亜大陸とユーラシアの衝突は、テチス海北岸の地層を広範囲に破壊した。インド北部からヒマラヤにかけて大規模な石油鉱床がないのは、4000万年前のインド亜大陸の衝突が原因だろう。 ならば、衝突前の4000万年過去には、ユーラシア南部とインド亜大陸北部に今の中東地域のような大油田があった可能性が高い。 南極はどうだろう?過去には温暖な時代もあったが、一貫して赤道付近におらず、豊かな生物相があったわけではない。かつてはゴンドワナ大陸の内陸であったため、アフリカ大陸南部やインド南部、南アメリカ東岸と同様、大規模な石油鉱床に恵まれているとは思えない。 また、地殻は地質学的スケールでみると、極めて粘度の高い液体として振舞う。もし石油鉱床があったとしても、1500万年前から急速に発達しだした数千メートルの氷床の重量により、破壊されているかもしれない。 ●リフトの縁の遺産 Fig.4 リフトで形成される堆積物の蓄積 平坦なリソスフィアの下からホットプルームが突き上げ、地殻に両側に押し広げる力が働くことで、その地域は陥没し地溝となる。これをリフトという。 リフトの中心は、パンゲアの分裂から2億年経過した現在では、大洋の底で”中央海嶺”として存在している。 リフトバレーといえば東アフリカの大地溝帯が有名だろう。このリフトも、数百万年後には成長して海水が流れ込み、アフリカ大陸東岸に突き出した大きな半島のような地形を形成するだろう。 現在進行形で形成されつつあるリフトには、他にカリフォルニア半島や紅海が挙げられる。ちなみに、日本海は活動を停止したリフトである。 リフトには海洋が流れ込み、リフト谷は浅い海になる。リフト斜面の細長く浅い海における生命活動により、有機物が海底に沈降し、その上に河川や火山からの堆積物が積み重なる。こうして有機物を含む根源岩が地中に形成される。大陸の分裂の進展に伴い、冷えた大陸辺縁は地下深くに沈降し、地球内部の熱を受けることになる。 現在の世界の大陸縁辺のうち、約半分はもともとパンゲアにできたリフトの縁である。こうした古いリフトの縁は”非活動的大陸辺縁”と呼ばれている。 非活動的大陸辺縁では地震が火山活動が少なく、安定した環境が長期にわたって保たれた。ここは現在の世界で最も大きな堆積物の貯蔵庫であり、太古に浅い海で堆積した有機物が閉じ込められている。 こうして、巨大な油田の3/4は非活動的大陸辺縁に形成された。テチス海沿岸もリフト斜面に似た安定した大陸棚環境であり、石油鉱床が形成された。 石油資源の多くは、海洋に形成されたリフトではなく途中で形成が止まったリフトの堆積物のなかに胚胎した。 はじめのうちはリフト近辺は地下から突き上げるホットスポットの熱で暖かいが、活動的なリフトでは熱源からだんだん移動するため、せっかくたまった有機物も熟成されずに終わる。更に有機物は海洋底深くに沈んでしまう。 太平洋や大西洋の海底を走る東太平洋海嶺(海膨)や大西洋中央海嶺は、今も活動する大成功したリフトの中央だ。 一方、死に絶えたリフトは一定以上開かないため、熱源とも近く熟成が進む。さらに、のちになってもあまりふかく沈降せず、圧力によって石油が破壊されることもない。ペルシャ湾岸、ナイジェリア、ベネズエラ、北海油田はこうした死滅したリフトに形成された。 これに対して海洋底拡大に成功したリフトの辺縁ではリフト形成直後に形成された有機物は深くに埋没し、経済的な損益分岐点を遥かに置き去りにしなくては油井設置は無理だ。 ●死滅したリフト? ユーラシアの東部の陸地を突き上げたホットプルームは、この2000万年で今の日本周辺の地形をめまぐるしく変えた。かつてユーラシア大陸東縁に沿って直線的な形で一体化していた古日本列島は、新第三紀に入って中央部が真っ二つに折られる形で大陸から分離された。 日本海の中央部にある大和堆は、その際に日本海を拡大させたリフトの跡である。つまり、大和堆はリフトの中央だったわけだ。 ということは、日本海は死滅したリフトの跡地ということになる。ならば、日本周辺はなぜ石油がとれないのか?いや、とれている。 秋田や新潟の小規模な油田は、まさしくリフトによって形成された大陸辺縁の有機物堆積があったと推定される場所に存在している。南北に連なる帯状の地域に日本の 油田が存在しているのは、かつて日本海沿岸の第三紀層に堆積した有機物があった証拠だ。 ただ、日本列島の地層は火山活動や地震で余りにも頻繁に破壊され、大規模な背斜構造が存続できる環境になかった。その代わり熱源にも近かったため、石油鉱床の熟成が迅速に進んだだろうことは幸運だった。 大いに参考にしている アーバンクボタ出版の電子アーカイブ の地図によれば、大和堆周辺は大きな山岳地帯で、海に沈んだのはこの300万年以内のことだ。 世界的にみても異例なことに、日本海は短期間で2000-3000メートルも沈降し、大和堆は海底に沈んだ。大和堆は海底から突き出した2000m級の海底山脈で、面積は九州ほど、概して平坦な地形となっている。最も浅い部分で水深236mまで突き出している。 下記サイトの図5 A,B,C,Dを見て欲しい。 http://www.kubota.co.jp/urban/pdf/12/pdf/12_2_4.pdf 大和堆が継続して陸地であり続けたことがみてとれる。 中新世前期(1800万年前)以降、のちに日本列島となる島々が散らばる原始日本海は温暖な時期に突入した。この時期に、秋田や新潟、北海道の油田の元となる有機物の堆積が進んだ。温かい海が侵入していた大和堆南方の海底にも、”リフトの縁の遺産”が(たぶん)堆積していたことだろう。 そして、鮮新世(500万年前)頃には日本海は寒冷化していった。 日本海の成長は未だ不明な部分が多く、3000万年前に大陸の縁だった土地が短期間で最深部水深3796mの縁海に変貌した原因と経過の確定的な学説はないようだ。だが、石油鉱床が日本海の海底にあってもおかしくはないだろう。 (※日本海が巨大隕石の衝突跡という説もあったと思うが、スルーします) もし、日本海と大和堆の沈降が僅かにマイルドになり、史実よりも600m程度高くなっていたら……大和堆は細長い島になっていただろう。北大和堆も、最も浅い部分で水深397mしかないため、点々と島が連なる浅瀬になっていただろう。 むしろ、日本海の水深の深さは特異なのだから、より浅かったとしても誰も不思議には思わないだろう。
●歴史改変 ああ、長かった。 やっと登場させられる。日本海に浮かぶ島、天鴎島を。 この世界では日本海の沈降が抑制され、大和堆のあった場所に東西方向長さ約150kmの沖縄のように細長い島が形成されている。
これからは、この島が存在する平行世界について見ていきたい。 Fig.5 天鴎県の位置
北天鴎岩礁と呼ばれる海底山脈(史実の北大和堆)と天鴎島の間には、深さ2000mに達する地溝状の落ちこみがある。 天鴎島周辺では天鴎島にぶつかる海流が湧昇流を生み、栄養塩が豊富に供給されるのでプランクトンに富んだ日本海一の好漁場となっている。特に天鴎島西方の北天鴎岩礁は良漁場だが、大型の船の通行は危険である。 1871年、この島が天鴎県となったとき、将来経済的な重要性をもつようになると考えた者は誰もいなかった。沖縄のようにサトウキビがとれるわけでもないし、全体に平坦な島なので木材資源も豊富とはいえない。 農業は盛んだったが、農業用水の不足から水稲の作付面積拡大は困難であった。ジャガイモの作付けが明治政府により推奨された。 漁業は盛んだったが、木材資源の不足から小型漁船しか建造できず、しかも本土から大型船を買う経済力も欠如していたため、この島の漁民は複雑な潮流の渦巻く浅瀬で危険に身をさらしていた。 戦国時代以外は特に見るべき歴史もないこの島に転機が訪れたのは1899年のことだった。 日露戦争に備え、砲台の設置と深い港湾の建設が進む天鴎島東北部において、地層の褶曲とグリーンタフと呼ばれる特異な地層が発見されたのだ。 日本では珍しいほど平坦な天鴎島では、最高峰といえど標高356mの柳山である。これでは強いて言っても”丘陵”に過ぎない。そのため、目に見える地層の露出はほとんどなく、地下の地層探査を待つことになったのだが、点鴎島の探査は明治政府の優先順位から遅れていたのだ。 翌年、狭間(せばま)港の拡張工事の為に掘削作業中、天然ガスの噴出で作業員数十名が窒息するという不幸な事故が発生した。この事故は本土の新聞でも報道され、多くの者が知ることとなった。 Fig.6 天鴎県周辺地形図(Google earthの海底水深から作成した) *緯度39.0〜39.25度、経度134.12〜135.47度に位置する。天鴎県は京都府とほぼ同じ4500km2の面積である。 1874年には、本土では既に550kl(キロリットル)余りの原油が採掘されていた。 1904年には20万klを超え、新潟の東山、宮川、西山、北海道の軽舞などの油田が次々と発見されていた。資源開発に貪欲な明治政府は、大至急資源調査隊を結成、天鴎島の資源探査がはじまった。石炭の地層は地下深くに埋もれて採掘は難しかったが、石油の鉱床は深度1000-2000m程度にあるのではないかという結論に達した。その埋蔵量は、少なくとも100万kl(600万バレル程度)と推定された。 当時の学説では、石油は第三紀層背斜構造にしか存在しないと考えられており、海洋沿岸部や海底にしかないものとみられていた。天鴎島の地理的条件からみて、石油が埋蔵されている可能性は高いと考えられた。 ただし、余りにも深い深度にあるため、アメリカ製のロータリー式掘削機輸入が決まった。手堀りではせいぜい200m、1870年には綱掘り式機械が輸入されていたが、それでも地下1000mの掘削は夢物語だった。 ロータリー式掘削機は従来ではとても不可能だった1日10mの速度で掘り進めることが可能だった。1910年までにアメリカ人技術者から技術を習得し、1913年には密かに天鴎島に搬入された。 アメリカをはじめ諸外国に秘密主義で挑んだのは先見の明があったといえる。なぜなら、1914年にはT1号油田が発見されたからだ。推定埋蔵量は当初1000万バレルと報告され、次に8000万バレル、翌年には5億バレルと報告された(※最終的な採算可能な埋蔵量は地上採掘分だけで30億バレル)。小さな油田ばかりで乏しい埋蔵量しかないとみられてきた日本近辺油田がこれほど大規模だったことに、多くの有識者が驚愕した。 しかも、T1号油田は経済的な自噴採油が可能で、掘る油井のほとんどが1日に2000kl以上という、「どこのテキサスですか?」というほどの採掘量を誇った。 当時の国際情勢は第一次世界大戦の影響で混乱しており、極東の島国のことなど欧米人の脳裏から吹き飛んでいた。 タンカー接岸用の港湾建設のための鋼材、大量の特殊鋼がアメリカに発注されたが、不審に思う者などいなかった。日本の財政規模は遠く離れた戦争の影響で急成長し、1億円超ともいわれる天鴎島開発費用は充分捻出可能だった。その代わり、八八艦隊計画をはじめ、海軍の軍拡に影響を与えることになった。 通常、石油鉱床の油・ガス層には、未採掘の状態においては石油を自然に排出しようとする圧力を持っている。この自然のエネルギーを利用した油井を自噴油井と呼び、この段階の採油を一次回収と呼ぶ。 自噴油井は非常に経済的で、自噴が止まれば海水を注入したりポンプ採油しなければならなくなり、採算が悪化する。 そのため、この一次回収の段階でガス層に掘削することは避けられるべきとされている。なぜなら、ガス漏出により自噴圧力を弱める危険があるからだ。 よって、典型的な背斜構造のトラップに掘削する場合には、背斜の頂点ではなく、数キロはオフセットした位置に油井を掘ることになる。幸いにも、天鴎島の真下に背斜構造の斜面が位置したため、Fig.7の模式図のように採掘することが可能だった。将来的には海上プラットフォームに油井を建設する必要があるだろうが、この時点では地上から採掘することが可能だった。 Fig.7 典型的背斜構造を有するT1号油田の模式図 ●あとがき 実は、石油鉱床の位置については悩みました。日本海にすべきか、尖閣諸島にすべきか。尖閣諸島は天然ガス以外にも石油鉱床がほぼ確実にあるという魅力があります。が、大和堆を島にした方が、何かより油田を身近に感じる気がしたので。距離的にもそうですが、日本海という内海の親近感がありますから。 それに、尖閣諸島近辺の場合、海底油田になってしまうので油田開発が遅れます。架空の島をでっちあげるのも可能ですが、どうせでっちあげるなら大和堆の方が夢がありますよね。 2010.7 文責:ねこくち ●参考資料
・氏家良博著 「石油地質学概論」 ・T.H.V.アンデル著 「さまよえる大陸と海の系譜」 ・http://www.kubota.co.jp/urban/pdf/12/pdf/12_2_4.pdf ・http://www.kubota.co.jp/urban/pdf/39/pdf/39_04_3.pdf アーバンクボタ出版の電子アーカイブ など。