■産油国日本 天鴎島  

天鴎島の歴史概観

●先史時代

 2万年前の氷河期全盛期の日本列島はほぼ大陸と陸続きとなり、温暖な対馬海流の日本海への流入を阻害した。これは天鴎島の寒冷化要因ではあったが、逆に樺太から南下するリマン寒流が間宮海峡消失により無くなったため、ある程度寒冷化は阻止されていた。
 天鴎島の主な植生は亜寒帯性の針葉樹、落葉樹としてはナラなどが認められた。
 北西季節風が暖かい対馬海流を蒸発させ、北陸地方に大雪を降らせるが、氷河期にはその世界有数の降雪量は温暖な時期より遥かに少なかった。また、天鴎島の降雪量は一般に北陸よりも少ない。理由は海流についての解説で触れる。

 日本列島には3万年以上前から人類が生息していたが、天鴎島においては縄文時代がはじまる約1万5000年前の地層から石器が発見されている。マンモス・トナカイ・ナウマンゾウ・オオツノジカ・ニホンオオカミなどの大型哺乳類の化石は発見されていない。孤立した島のために、大型哺乳類が他の地域から侵入することは困難だったと考えられている。島に生息した動物の多くも、鳥類を例外とすれば数百万年前に大陸などと地続きだった頃に取り残された者達の子孫だった。

 旧石器時代が終了し、地球の天候が温暖化した更新世末期に至りようやく天鴎島に人が根付いたのには、この時代の日本列島における住民の困窮が原因かもしれない。
 日本列島の温暖化と共に上記の大型哺乳類は姿を消し、旧石器時代の人々は狩猟メインの労働スタイルを狩猟・植物採取・漁労に多角化せざるを得なくなった。急激なその変化の過程で土地を追われた人々が、新天地を求めて日本海に漕ぎ出した。それが天鴎人の祖先であるとの説もある。

 1990年代にPCR法を用いたミトコンドリアDNA亜型の解析により、初期天鴎島住民の出身地域は特定されている。
 紀元元年頃までは北海道アイヌのDNA型の特徴を残した子孫の集落が存在し、貝塚も多く発見されている。
 その後、500年頃までに朝鮮及び沿海州から渡来人が稲作や青銅器などの弥生文化的諸要素を天鴎島にもたらした。

海流による気候の特徴

 対馬暖流は黒潮に比べ流量で約1/10、流速で約1/4の弱い流れであり、天鴎島付近を東西に走る海流の極前線(暖水と冷水の境界)より南の海域では対馬暖流の流路は不連続かつ複雑な形状を示す。 対馬海峡から隠岐諸島にかけての日本海南西部においては、対馬海流は3本の流れとなって北上し、秋田沖で合流、沿岸に沿って北上後、大部分は津軽海峡から太平洋に流出する。 上記の極前線の形成に、日本海中部に海底から屹立する天鴎島の果たす役割は大きい。リマン海流と対馬海流の境目に、天鴎島は位置しているのだ。
 そのためか、天鴎島付近は天然の良漁場となっている。また、極前線にあるため植生にきわめて富んでいる。島内で北海道・沖縄両地方特有の植物が同居する、非常に珍しい植生地域である。 北天鴎岩礁で寒流がある程度防がれているため、天鴎島自体の寒冷化をある程度緩和している。ただし、対馬海流によって強力に温められている佐渡島と比較すると、年間を通じて気温が2℃ほど低温である。 天鴎島は新潟より若干低温ではあるが、平坦な地形のために降雪は新潟に比べ非常に少ない。
 極前線に位置するため、暖かい対馬海流の蒸発量も少ない。そのため、仮に天鴎島に高山があったとしても、降雪は新潟ほど多くはなかっただろう。

奈良時代〜

 661年、阿倍比羅夫が北陸から水軍50隻を率いて天鴎島(当時は周信島と呼ばれていた)を討つ。同年には国司が置かれ、新たに”天鴎”と命名された。国府は杭戸におかれた。
 また、この杭戸は海に近い低湿地だった天鴎島中央部に建設された人工都市である。この場所は同島の最狭部であり、北天鴎岩礁側及び日本本土側の双方に港を有した。

 750年、聖武天皇の国分寺建立の詔により、天鴎島にも島分寺が建立された。

 9世紀〜12世紀には、天水に頼る水耕農法の限界を悟り、万農池とよばれる灌漑用水ため池が多数造成された。平野は多いが河川水は少ない地形特有の対策であり、日本の他の地域ではあまり見られない。

 鎌倉時代になると守護が置かれた。石高が18万石(慶長5年)と、離島にしては多いため北条氏や渋谷氏が歴代の守護として置かれた。
 初代天鴎守護であった佐々木義清はこの地に下向し、天鴎佐々木氏と呼ばれる天鴎島の有力者となった。

●遠流の島

 遠流の島といえば佐渡島や隠岐島、伊豆大島など多数の離島が挙げられるが、天鴎島は究極的な遠流の島であった。島には一定の人口、つまり監視役も存在するため、当時の朝廷や幕府の意に副わない危険人物を遠ざけておくには最適の地とみられていた。
 延喜式での格は”中国”にして”遠国”であったが、これは天鴎島の農業生産力からみれば不当に低い評価であろう。だが、この島の地理的環境から、朝廷からは半ば人外魔境的な遠隔の地とみられていたのだろう。
 17世紀以後の江戸時代には、”追放”よりも重い刑として”遠島”と称される流刑が定められた。佐渡島や八丈島などの離島が遠島地の代表例であるが、遠く南西諸島や琉球への遠島もみられた。
 天領であった佐渡島には、江戸や大阪の罪人や無宿人が送り出されたが、天鴎島は天領ではなかったために大規模な遠島は行われなかった。

 天鴎島で最も有名な遠流された貴人は”湊茂芳”である。その姓から見て取れるように、安東家とも縁のある東北の豪族出身で、1554年に出奔して1561年に天鴎島に流れ着いている。その間の詳細は不明であるが、一説によると海賊業をしていたという。
 中世には、朝鮮半島や大陸との交易で栄え、日本海交易が発達していた。日本の著名な港を、かつて三津七湊といったが、その”七湊”は日本海に面した港であった。その一つが、出羽の土崎湊である。
 湊茂芳が、この土崎湊出身であることからも、海賊をしていたという説はありそうなことに思える。
 当時の日本の海賊の中心地、瀬戸内海では勝手に海上関を設けて帆別銭をせしめるなどのビジネスが盛んに展開されたが、やがて戦国の世が深化するに従い、海賊衆は戦国大名の家臣団に組み込まれた。その大きな組織化の流れは全国的なものであったが、日本海側では遅れていた。そもそも、日本海交易圏では海賊行為そのものが低調だったためかもしれない。

 1561年に天鴎島に上陸した湊茂芳は、当初は佐々木家傍流冨田家の娘を娶り猶子となり、天鴎島西部の要衝”徳太郎城”の城主に納まった。
 しかし時は下克上の世、1563年には湊茂芳が兵を挙げ、1567年天鴎島西部を掠領するに至った。当然、在地の豪族や国人は黙っていなかったが、湊海賊衆が茂芳に与力したことが大きな戦略的意味を持った。
 元来、その地理的利点を生かし、日本海貿易の中継港として海上貿易が大きな産業として成立していた天鴎。明の海禁策発動以後は海上貿易が衰えたとはいえ、朝鮮との貿易は依然続いていた。もし天鴎島周辺で倭寇じみた海賊衆が外国船を襲ったら、天鴎商人は苦境に陥ることになっただろう。
 硬軟使い分ける湊茂芳の策は功を奏し、1571年には茂芳と冨田家の娘の間に生まれた男子が冨田家の家督を継ぎ、茂芳は事実上の天鴎国主となった。冨田家は杭戸を中心に商業上の利権を押える有力家門であるため、衰退した佐々木本家も茂芳に従うよりなかった。
 こうして、小さな島の戦争が一段落した頃、本土では信長包囲網が完成し、近畿地方は大国織田家と幕府再興を狙う足利義昭の攻防が繰り広げられていた。

 しかし日本列島の戦国時代は、ほとんどの場合天鴎島にとって無縁だった。鉄砲など新たな文明の利器も少しはもたらされたが、距離が有りすぎるため日本列島の武将が攻め込んでくることは殆ど無かった。山陰の尼子宗久、越後の上杉謙信などが使者を寄越したことはあったが、それだけだった。
 室町幕府滅亡後、最初に服従を求めたのは織田信長だった。しかし上杉などに逃亡先を与えないためという側面が強く、本格的な服従を求めたのは豊臣秀吉だった。しかも豊臣秀吉は冨田家が臣従したすぐにも、「唐入り」つまり朝鮮出兵に際しての軍船(戦闘艦艇)拠出を求めた。日本海中心部に位置するため、冨田家が高い造船技術とかなりの数の船舶を無理をしてでも保有していたからだった。
 小さな勢力でしかない天鴎島が日本列島の新たな支配者に逆らうことも出来ず、天鴎島の人々はほとんど初めて島の外に軍隊を派遣する。

 江戸時代に入ると大坂の陣までの間に江戸幕府に臣従したが、江戸幕府が鎖国する際に少し問題が出た。
 基本的に天鴎島は環日本海交易を手広く行っていた。当然、大陸、朝鮮半島との交易も含まれていた。冨田氏も幕府から朱印状を与えられ、海外貿易を実施した。彼らの主な貿易品目は、朝鮮半島北部や朝鮮半島に近い大陸からもたらされる朝鮮人参だった。他に日本にはいない獣の毛皮などを商っていた。しかし朝鮮との貿易は対馬の宗氏が仲介し、中華帝国とは主に長崎での貿易だけが認めらた。このため冨田氏は禁じられ、天鴎島の貿易商の多くも島を離れたため、財政的に大きく困窮する事になる。しかし幕府は、代替として蝦夷の開発権の一部を冨田氏に付与。これは、表向き蝦夷北部の開発権とされていたが、樺太、黒竜江での密貿易を認めたものでもあった。
 その後は特に平穏に過ごし、ジャガイモの栽培による人口の増加などを体験しつつ緩やかな時間を過ごした。

 天鴎島の小さな転機は18世紀後半にやってくる。
 ロシア船が立ち寄ったからだ。この結果幕府にとって天鴎島は守るべき土地の一つとして認識され、外国船に対応するための役人の滞在と砲台の設置などが行われるようになる。
 そして結局日本全体が開国するまで天鴎島が諸外国に解放されることもなく、それどころか新政府ができてしばらくするまで外国船の入港は厳しく制限されることになる。これは、離島の防衛の難しさを江戸幕府、明治政府が理解していたためだ。

 明治維新以後、天鴎島は天鴎県となり、日本帝国の一角を占めた。
 とはいえ辺境の小島であり、ロシアと向き合う危険の伴った国境の島だった。
 住民の数は日本全体からみたら、わずか数パーセント。日露戦争では5000名以上が動員されたが、漁民の多さからかなりの数が海軍に徴兵された。陸軍はいちおう2個大隊が編成されたが、他との距離の問題もあり独立大隊でしかなかった。目的も島の防衛であり、一部引き抜かれた中隊が、大陸に補充兵として送り込まれただけだった。当然だが、戦争に大きく貢献することなど無かった。

 天鴎島が日本の歴史に大きな変化をもたらすのは、日露戦争以後の事だった。