■産油国日本(2) ここでは、最初に史実の統計資料から復習していこう。
Table.1 史実経済データ
*赤字で示した対ドル為替相場は、金本位制からの離脱に伴う円安を示している。 *国内の原油生産は200万バレル余りでピークに達したが、自動車の普及に伴う石油需要の増加は増加し続けた。 *日本国内の原油生産量は,第一次世界大戦中の1915年の約47万kl(296万バレル)を戦前ピークとし、以後減少した。戦後は新潟県見附油田の操業 などにより、1963年には年産89.8万kl、1972年には年産93.1万klまで伸びた。しかし、原油消費の増大ペースには全くついていけなかっ た。 *粗鋼生産は1930年代に大きく増加しているが、高炉の数が足りず、中小企業は平炉を使用し鋳鉄と輸入品の鉄スクラップを混合して鋼の生産をしていた。 また、鉄鉱石の50%と綿・ゴムのほぼ100%を輸入していた。食糧や石炭は自給できたが、多くの素材は輸入に頼っていた。そのために、日本は戦前でも世界第三位の船腹量を誇ったのだ。 Table.2 史実輸出入(単位:億円)
*アメリカ、イギリスを合わせると日本の貿易額の7割を占めた。しかし、1930年代以降はブロック経済化と満州などへの投資により、アジア向けの比重が増していった。特に第二次世界大戦中は中国との貿易が増加した。 *対米英貿易の赤字を対アジア貿易での黒字で補う構造が続いていた。 Table.3 東山原油価格推移(円/バレル)
第 一次世界大戦中には原油価格は高騰し、1915年の約60セント/バレルが1918年に2ドル、1920年には3ドルになった。第一次世界大戦中に天鴎産 原油を輸出すれば、大きな利益を見込める。当時の日本の油田は小規模なため価格競争力が低かったが、大規模油田ならばその問題も解消するだろう。 また、当時の日本は石油をほぼ自給していたため、天鴎産出分をほとんど輸出に回せるだろう。 史実1930年には原油価格は1.19ドル/バレル(2.4円/バレル)という低価格におちつき、日本産の7.5(円/バレル)に比べ低価格だった。そのため、原油需要の伸びに合わせてメキシコ産や英領ボルネオ産原油の輸入が1920年代に活発化する。 ■主な工業原料の輸入先 鉄鉱石:英領マレー・英領海峡植民地・オーストラリア (+満州南部、朝鮮半島北部、海南島) 銑鉄:英領インド アルミニウム:カナダ 鉛:カナダ 生ゴム:英領海峡植民地 亜鉛:カナダ・オーストラリア 羊毛:オーストラリア 綿花:英領インド・アメリカ 原油:アメリカ、蘭領東インド 鉄スクラップ:アメリカ 岩塩:エジプト、ソマリア(イタリア領) ■日本の貿易メカニズム 日本はインド・アメリカから綿花を輸入して繊維製品を製造し、それを世界市場に輸出していた。また、日本からアメリカへの輸出は生糸が多くのウェイトを占めていた。 この構造から、日本⇒アメリカの生糸輸出が途絶えれば、日本は綿花の輸入超過により外貨を失う。実際、1935年にデュポンが66ナイロンの合成に成功すると、日本は最大の輸出品を失ってしまった。 また、1930年代からの保護貿易主義により、入手できなくても大して痛痒を感じない綿製品は真っ先に関税障壁にさらされた。まさに発展途上国の日本を狙い撃ちにする格好になった。 主要輸出品目については、下記サイトに詳しく掲載されている。 http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/4750.html 軍艦や航空機は石油がないと動かせない。アメリカからの石油禁輸は日本を暴発させる最大のカードとして史実で利用されたわけだが、この世界では最強の外交カードは効力を失う。 石油をアメリカに頼らずに済むことは、対米戦争のリスクを大きく減らすだろう。しかも日本の工業発展によって屑鉄の輸入も不要となり工作機械、自動車も自力生産するので、対米戦の必要性はほぼ皆無となる。 ただし、重工業の発展は英連邦への依存を顕著にさせるだろう。地の利があったのに、戦国時代以降に東南アジアを植民地化してこなかった日本の怠慢のツケが回ってきたのだ。 日本の戦争経済の原油に次ぐネックは各種工業原料、鉄鉱石、錫、アルミ、ゴム、綿花だ。岩塩も入れてもよいかもしれない。そして、それらを東南アジアを有するイギリス・オランダが保有している。1940年にオランダは本土を失い丸裸だ。ならば、日本が南進策を取りたくなるのは、国際的孤立が進んでいるのならば経済的にも合理的な一面も存在する。
■利益概算 さて、日本からじゃんじゃん原油が噴出し、一切の掣肘なしに石油使い放題だとしよう。 ■天鴎島 統計データ(1919年) 面積:4500平方キロメートル 人口:34万5000人(1944年には120万人に増加) 1919年、海軍柏崎燃料廠が完成、揮発油の生産開始。 1920年代に入ると、古参の日本石油や宝田石油に加え鈴木商店も参画した。特に鈴木商店は海運力とロンドンとのコネクションを活用し、ライジングサンと原油輸出契約を締結、更に天鴎製油所を合弁で建設し、重油・軽油・アスファルトの製造ノウハウを蓄積した。 第一次世界大戦のの終結後の不況と関東大震災の影響により、鈴木商店は経営難に陥るが、日綿工業・宝田石油と合併し新星重工業に改組、石油関連事業とアメリカとの綿取引の強化で危機を乗り切った。 新星重工業は1926年シュルツ式減圧蒸留装置を導入、一方の日本石油は海軍の施設運用を任され、ヘックマン式減圧蒸留装置・クロス式分解蒸留装置を輸入 して一大製油コンビナートに成長した。1935年にはオクタン価96のハイオクガソリンを海軍だけでなく陸軍も利用できるようになった。 当時の政府による民間資本による石油産業育成は大成功しつつあった。 天鴎島には1920年代に東北地方出身者を中心に40万人もの労働者が流入し、鉄筋コンクリート造の高層アパートが立ち並ぶ二次産業の島に変貌した。新潟県や山口県には巨大な精製施設が建設され、主に輸出向け揮発油や機械油が生産された。大阪湾(堺)、東京湾(千葉)にも大規模な製油コンビナートが建設され、こちらは主に国内向けの灯油や揮発油が製造された。 特殊鋼生産のために室蘭と並ぶ金属加工の一大中心地となった。1930年代には新たひ広畑(姫路)、君津(千葉)に一貫生産の大規模製鉄所が相次いで操業開始した。 また、1930年代に本格化する防衛道路建設のためのアスファルト製造設備も建設され、天鴎島の原油は余すところ無く利用された。
Table.4 天鴎日本の経済データ
史実1938年は戦前工業生産のピークであり、ある程度健全な戦前工業化日本の産業構造が残っている最後の年だと思う。この年の日本のGNPは268億円。原油消費は2796万バレル。自動車もある程度普及していた。 この年のGDPあたり原油消費は6.96万バレル/GDP億円。天鴎世界では原油が潤沢にあるため、1920年代は5万バレル/GDP億円、1938年には10万バレル/GDP億円の原油を消費すると仮定する。 また、一次エネルギーの石炭⇒石油という産業構造の変化から、年1%の原油依存増加があるとする。 1940年以降は英領ボルネオ、蘭領東インド・仏領インドシナの資源を獲得し、おおむね本土への海上輸送は順調だったとする。 蘭領東インドの原油産出量だけでも年間6800万バレル余りに達した。生産設備の破壊により生産量は半減、その後回復し1943年より占領地全体で5000万バレル余り生産・送還されたとここでは想定する。 また、人造石油研究は1920年代以降停止しており、石炭からの液体燃料生産量はごくわずかとする。 この世界での日本の年間原油産出量は1925年には1000万バレル/年を超え、1944年のピーク時には8094万バレル/年に達するとする。原油消費の 増加により1942年までに原油輸入国に転落するが、それまでの20年間に外貨収入累計7億円余りを得ているものとする。 ただしこの数値は原油収入のごく一部と推定される。国内消費にカウントされた原油のなかでも、より付加価値の高い揮発油の形で市場価格を遥かに上回る価格 でドイツや中国に売却された例も散見される。また、各種資源とバーター交換した分も含めれば、累計20-25億円の外貨収入になったとの推計もある。 為替相場は史実と同様としているが、若干の円高になるだけで済むことにする。なぜなら、資源輸出によって1939年頃までは史実よりもインフレが進んでいるため、円高をいくらか相殺しているのだ。 また、第二次世界大戦では占領地からの内地送還可能量は5000万バレル/年であり、原油の不足は全くないものとする。基本的に、帝国海軍は蘭領東インド産の重油を使って作戦行動が充分にできるだろう。日本本土からタンカーで作戦用の燃料を供給する必要はない。 1940年の国内原油生産量7722万バレルは、イランを抜き世界第4位である。 1944年の国内原油生産量8094万バレル及び占領地生産分の5000万バレル、合計1億3000万バレルに達したが、ベネズエラの1億9000万バレルを追い抜くには至っていない。
Table.5 原油生産量(1940年)
※1バレル=約159リットル 0.77=1224万キロリットル。約1000万トン。
参考文献:石井正紀著 「陸軍燃料廠」 光人社NF文庫