■産油国日本(3)

■モータリゼーションの波

 1920年年代には自動車の輸入がブームとなっていた。もはや日本政府は外貨流出を恐れることなく、工業化促進と産業振興などの目的で自動車の普及を国策として推進しようとしていた。
 1927年には新星重工業が、1928年には日本産業株式会社がそれぞれGM・フォードと組み日本国内での自動車ノックダウン生産を開始、1928年の自動車生産台数は3万台に達した。
 後発のトヨタ自動車をはじめ国内の自動車会社は100社を超えたが、政府の再編成により1939年までに5社に絞られた。好調な生糸輸出はアメリカでのナイロン繊維の発明と量産化によって1935年までに終息し、対アメリカ貿易は大幅な赤字となっていたため、自動車の国産化が推進された。
 日本国内には、大量生産を目的としてデトロイトにあるような流れ作業式の巨大な自動車工場が何カ所も建設された。アメリカで目覚めつつあった生産管理の概念も、一部企業を中心として順次導入が進んだ。そうした動きは、日本が根底から変わっていく典型例だった。

■陸海軍の状況

 シベリア出兵の失敗と北樺太傀儡政権樹立の恥さらしな顛末(樺太全島が日本影響下になるのを英国が嫌い、1921年に北サハリン国政府は崩壊)ののち、し ばらく大人しかった陸軍だが、緊縮財政のなかで自らのポスト増殖に積極的に取組んでいた。どんな官僚組織でも、自らの組織拡大は組織の本能だ。特に、当時 の日本の最優秀の学業優秀者が陸海軍の官僚になるのが当たり前だった時代、軍事官僚が策謀するのは無理もないことだっただろう。

 日露戦争以前から軽視されてきた工兵に脚光が当たったのは偶然だった。
 1917年に選抜2個大隊が欧州戦を観戦(するだけだったが、仏軍の罠により塹壕戦に巻き込まれた)した際に目撃した近代戦争の認識も影響しているのかもしれない。
将来の戦争に装甲車両が重視されると判断し、海軍との石油争奪戦に着手したのがきっかけだった。折りしも強化されていた陸軍工兵は、柏崎の製油施設建設で交通兵旅団が投入された。近衛師団から分離されるのも異例ならば、一応国家事業とはいえ海軍の事業の手伝いをすることも異例だった。
 コソコソと製油プラントのデータを集めた陸軍は、1929年に青森に独自の陸軍燃料廠の建設を開始した。
 更に予算獲得のために陸軍は工兵を用いた”防衛道路”の建設を働きかけ、折りしも大惨事となっていた関東大震災の復興に新編された陸軍工兵が投入された。
 1922年の山梨軍縮で歩兵大隊4個中隊編制を平時3個中隊編制に縮小、飛行大隊や通信大隊、工兵大隊導入による軍の近代化が図られたが、その影響を最小限に収めるのに、工兵強化は役立った。各地の独立守備隊にも工兵中隊が新設された。
 宇垣軍縮でも21個師団編成は変わらず、将官のポストは一向に減らなかった。むしろ戦車連隊の新設、陸軍自動車学校、陸軍通信学校、陸軍飛行学校、工兵学校が設置された。
 結果、軍馬は削減されたが兵員数はむしろ1万人も増えるという結果になった。増加分は主に4万4000人の工兵と航空兵から成った。みかけ軍縮といわれる所以である。
 陸軍内で工兵の地位が高いとは言えなかったが、平時に揃える軍隊としては非常に都合がよかった。
 しかも、陸軍のポスト削減が必ずしも必要なほど当時の日本の財政は逼迫しておらず、むしろ原油輸出で輸出入が活発化したことで税収は増えていた。ポストが温存されたことで、満州に干渉しようとするようなはねっかえり軍人の抑制に繋がったとの見方もある。また、満州に不要な干渉をして、天鴎島の安全度を引き下げることが大きなマイナスになると考えられた事が、日本軍全体での満州進出を抑制したとも言われている。
 だが、満州を侵略して得るものはそんなに多いだろうか。米英の神経を逆なでし、ソ連を警戒させ、常時大量の兵士をソ満国境に貼り付ける結果になっていたか もしれない。それより、ソ連の脅威に対抗するには、海軍を中心の防衛戦略をとった方が合理的に決まっている。関東州は貿易の窓口に過ぎないし、南満州鉄道に今までのような利益を求める必要性も低下していた。安全保障面でも、緩衝地帯は朝鮮だけで充分だった。日本にとっての必要な大炭田は押さえていたし、食料供給地としての将来の展望を語るもいたが、投資などを考えたら費用対効果が得られるのは遙か先の事でしかなかった。
 こうして、幣原協調外交は脅かされることなく15年間の内向的な時期が続くことになるが、中国軍閥同士の闘争の激化と在留日本人の保護には手を焼くことになる。

 1924年には工兵と戦闘車両を搭載可能な大発動艇の配備がはじまった。これは”運貨艇”として海軍にもほぼ同じものが導入された。
 1930年には陸軍海上輸送隊が編成され、天鴎島から青森まで独自に運行できるタンカーを手に入れた。これが、1939年に発足する陸海軍輸送隊の原型となる。

 一方、海軍はといえば日英同盟の解消に伴い海軍の増強を叫び、新たにアメリカ海軍を主敵とみなした軍拡を画策した。
 だが、大油田を見付けて有頂天の政府はさらなる平和な世界を望み、結果日本側が軍縮会議で譲歩する方向となった。
 1921年に開催された「ワシントン海軍軍縮会議」では長門型戦艦の2番艦《陸奥》が建造の遅れと「日本の譲歩」から未完成艦として破棄が決まり、アメリカでは建造中の《ウェストバージニア》、《コロラド》、《ワシントン》が破棄された。日本の「八八艦隊」、アメリカの「三年計画」の残る戦艦も同様の末路を辿った。例外は一部空母に転用された艦のみとなる。イギリスは《フッド》が排水量の面で特例措置で保有が認められ、この三隻を「世界のビックスリー」と呼ぶようになる。
 この 結果、世界に存在する16インチ砲搭載艦は《長門》、《メリーランド》の2隻のみとなった。16インチ砲は世界にたった16門しかないのだった。このためこの2艦を、「ビック・デュオ」と呼ぶ事もある。もしくはイギリスの《フッド》と合わせて「ビック・スリー」とも呼ぶ。
 ちなみに、《天城》は関東大震災で破損し廃艦、《赤城》・《加賀》が空母になっている。
 また日本の保有戦艦数は12隻だが、うち3隻は実質的には時代遅れの旧式戦艦に当たり、1931年には代替艦と差し替えることもできた。だが、1927年に流れたジュネーブ会議、1930年に開催されたロンドン会議の流れにより、日本海軍は代替戦艦の建造を政府から認められなかった。
 海軍の正直な気持ちとしては、「陸軍ばかり優遇されている」ということで補助艦の整備計画を要求した。特に、ウラジオストックからの潜水艦・魚雷艇か らの天鴎島防衛を重視した航空隊と護衛艦艇の整備が行われた。また画期的な大型巡洋艦、大型駆逐艦も順次整備された。この日本の補助艦増勢をみて、1930年にはイギリス主導でロンドン海軍軍縮会議が開かれることになる。
 そうした中で、日本の1万トンを超えるタンカー保有数は1938年には100隻を超え、圧倒的に多い中小タンカーも含めると250隻140万トンのタンカーが1日に3万klの原油を天鴎島から運び出していた。タンカーは平均45日で年8回往復した。
 対馬海峡・津軽海峡は頻繁にタンカーが往来する過密海峡になっていた。海軍の護衛艦艇が多数必要なのは、全くの道理だった。そしてこの石油輸送の中で、海軍は海上交通の護衛ということを規模は小さいながら体験として学ぶことになる。

 ロンドン海軍軍縮会議では対米6割の重巡洋艦で我慢したが、航路防衛に必要な軽巡洋艦は対米8割を主張した(海軍の対ソ戦備への意識が働いたものとみられる)。軽巡洋艦については海軍だけでなく政府も陸軍も賛同しており、日本は米英に強く働きかけた。
 だが、日本の主張はことごとく退けられ、しかも特型駆逐艦のような大型駆逐艦の建造も制限された。日本が戦略方針を変更し、アメリカ、イギリスを本気で恨むようになったのは、この時と言われている。
 そして日本海軍に、タンカー護衛を表向きの目的とした小型駆逐艦の大量建造を決意させた。当時ソ連の脅威が高まっていたので、「護衛艦」という分類を与えられた名目排水量600トンの日本海軍にしてはやけに軽武装な艦艇が、1931年度計画だけで24隻も計画された。この軽武装を日本側は、航続距離と居住性の拡大のためだと説明した。
 この艦は、有事には多数の高射砲(高角砲)、機銃、そして多数の爆雷を搭載することが前提で、実質は800トン以上の船体規模を有していた。ソ連極東艦隊の主力が、水上艦艇ではなく潜水艦だったからだ。
 当座の対ソ防衛のため、室蘭港には戦艦《扶桑》、《山城》、《伊勢》、《日向》のうち2隻が常時が配置され、ときどき天鴎島の泊港との間を遊弋していた。以前ならそんな贅沢はとてもできなかっただろうが、重油は掃いて捨てるほどあった。

■初め半年や1年は暴れてご覧に入れます <山本五十六 

 ここで少し我々の世界に戻ろう。
 史実において、日本は総量58万トン分のタンカーを用意して開戦した。しかし大型タンカーは少なく、しかも平時の時は一部海外船を使って石油を輸入していた。
 仮に1万トンのタンカーがあったとして、1回の航海で運搬できる原油は1万2000kl(キロリットル)程度。内地の製油所の生産ロス約9%で1万1000klに目減りする(熱源なしで蒸留できないし、揮発もするため)。
 そして、揮発成分のガソリン1600kl、重油5200kl、残りは軽油や潤滑油、灯油となる。原油産出量のおよそ半分が重油になると考えて良いだろう。
 いっぽう、1940年の天鴎日本の原油産出量7722万バレル(約1000万トン)なので、3650万バレル(約500万トン)の重油を製造できる。
 連合艦隊が充分に暴れまわる場合の1年分の重油消費量は300万トン(比重0.83程度として、2200万バレル程度)であったため、特に問題なく賄うことができた。1450万バレル余るほどだ。
 戦時には平時の三倍の石油が必要と言われる事もあるが、そうなると手元の石油だけでは半分程度しか賄えない事になる。
 現にイギリスは、石油の総産出量約4000万トンで同じ戦争を戦った。

 作戦行動中の戦艦の燃料消費は約460kl/日と言われる。つまり2900バレルだ。
 戦艦が仮に月に7日間だけ巡航したとして、1年の重油消費は約14万バレル。10隻の戦艦を振り回しても140万バレル/年。
 これでは史実どおりの日本なら内地に置いていても、充分に重油を回せない。だから、戦争終盤になると戦艦は南方油田地帯に配置されたのだ。
 海軍が肥大化しているこの世界でも、戦争が本格化したら一部は南方の油に依存することになる。

■根底から変わる日本

 19世紀型の旧態依然とした産業構造にも変化が現れつつあった。安価な原油の産出により100万人分を優に超える新たな雇用が生まれ、自動車産業が産声をあげ、大規模な防衛道 路建設に必要な人足(肉体労働者)は年間20万人ともいわれた。油を運ぶタンカーの建造、石油コンビナート建設のためには鉄が必要で、鉄には高炉が必要、ということで、ついに1929年(昭和9 年)には官営製鉄所が中心とり日本製鐵(日鉄)が発足した。以後、世界的な不況にも関わらず鉄鋼生産量は劇的に増加していく。
 豊富な鉄鋼で油井建設も容易になった。そして、油井の鋼管製造などで培われた技術により、大砲や高射砲の製造技術も向上した。
 これが、1930年代の中華民国への兵器輸出でドイツ商人に対抗する競争力の源泉となった。
 1920〜30年代の年率7〜12%の経済成長により、経済規模は極端に拡大していた。1931年以降は従前よりも為替レートは円安となり、1932年の貿易収支は5億円もの黒字になった。
 日本経済はいちはやく世界恐慌から脱出した。それを可能にしたのが、政府の公共投資重視の積極財政政策と、原油の輸出と1920年代の円高時代に原油マネーをつぎ込んで大量に買い込んだ工作機械を用いた輸出産業の勃興だった。
 輸入交渉においては、国産愛用のショービニズムに無縁な高田商事が大きな役割を演じた。かつてから兵器の輸入で実績のあった高田商事が充分な政府資金を得たおかげで、単純な工作機械の大量購入に踏み切れた。単純な工作機械だからこそ誰でも簡単な訓練で使えるし、工作機械のオペレーターを担う人間の頭数の多さこそは日本の強みなのだ。対向して兵器産業を重視する三菱なども、同様の行動を取った。

 折りしも中華の内戦は激しさを増し、かつてのロシア帝国と同様に北から進出を目論んだソ連は、愚かにも底なし沼に軍需物資を注ぎ込んでいる。中華共産党軍は代価の支払いに困り、ルーブル借款をしているようだが自業自得だろう。恐らく、共産党軍に注がれたルーブル債がまともに返済されることはあるまいと日本などは考えていた。
 中華共産党軍の「T-27戦車」に日本製の十一式軽機で立ち向かう友好国の中華民国からは戦車砲を寄越せと矢の催促。九四式三十七粍戦車砲が1935年から引き渡された。九四式徹甲弾の初速は700m/秒であり、のちに現れたソ連軍のBTシリーズ快速戦車にも対抗可能だった。
 やがて装甲車両やトラックが中華民国に引き渡されると、燃料であるガソリンの取引も当然ながらセットでついてきたのだった。
 中華民国にとって、すぐにも武器を用立ててくれる日本との友好関係はなくてはならないものだった。
 いっぽうの日本にとっても、中華民国は共産主義の防波堤であると同時に、かけがえのない商売相手だった。
 このため日本では、「大陸進出」は可能な限り手控えられた。陸軍の跳ね返り将校も、何度も事実上粛正された。共産主義者を取り締まる治安維持法と特高も、国内の国粋主義者に目を光らせた。順調な貿易こそが日本の政庁に必要だからだ。中華民国の側も、日本との関係を相応に重視した。
 日本の大陸での権益は、基本的には日露戦争で得た地域に止まり続けた。
 そして日本は、産業発展で得た資本を国内開発に集中して投入した。

 1932年に大阪-京都間の防衛道路が完成し、1936年には港湾整備5ヵ年計画により各地で8万トンクラスの大型タンカーだろうと揚荷できるコンクリートの 岸壁整備がなされた。連動して、各港湾都市の埋め立て事業も進められた。1938年には名古屋-横浜間、1940年には名古屋-京都間の防衛道路が完成し、通行料無料の陸軍車両が爆音をあげて往来していた (※民間人は当然有料。民間人については当初は25歳以上の選挙権のある大人だけが防衛道路を運転できた)。日本の六大都市を中心として、都市の道路の舗装も進んだ。
 のちに、宇垣内閣(1932-36)時代に日本は一大転換期を迎えたことが明らかになったが、当時の日本人は急激な変化のなかでひたすら毎日を懸命に生きていたのだった。

■造兵民営化

 1928年には、華北から満州に侵入した蒋介石の北伐軍とソ連軍との間で国境紛争(中ソ紛争)が発生した。もともと反共主義者の蒋介石とソ連の関係は、以後悪化してゆく。当初、ソ連は奉天軍閥の張作霖に接近したが張作霖は、1929年に日本の仲介もあって国民党と合作した。
 以後は中華共産党を支援するソ連は徐々に軍事援助を増やし、国民党を取引相手としたドイツ・日本などの武器商人を喜ばせてくれることになる。

 中華民国への兵器輸出で最も潤ったのが、三菱ではなく新星重工業と高田商事といわれている。
 高田商事は1931年の金輸出再禁止に伴う為替の大変動によって莫大な利益をあげ、それを原資に兵器の国産サプライヤーへの転進を図った。既に民間兵器サプライやーとしては、大倉財閥系の南部銃製造所が1925年から存在し、海外輸出も行っていた。
 高田商事は軍需産業界での一挙挽回を狙い、1932年に銃器製造の昭和製作所を買収した。そして1934年、新制定の軍需会社法を積極活用し、陸軍造兵廠長官植村東彦中将を中心として兵器廠と陸軍造兵廠を統合、半官半民の”高田ウエポンズ(TWPS)”が誕生した(翌1935年には早くも植村東彦中将は莫大な退職金を貰って高田ウエポンズ代表の立場から退いた)。主要な工場として旧大阪砲兵工廠・旧東京砲兵工廠を有する日本最大の兵器メーカーの誕生だった。この裏には、三菱など一部の財閥や大企業による独占を嫌う勢力の動きがあったと言われている。
 軍需会社法は三菱や中島といった大規模メーカーも指定され、軍用機や戦車の生産性向上のために民間人の経営学が取り入れられた。三八式歩兵銃から菊の御紋章が削除されたのも1934年のことである。
 高田ウエポンズには陸軍兵器行政本部から将官が派遣され、陸軍兵器行政の一翼を担った。南部麒次郎も高田商事の力技には驚いたに違いない。
 高田商事はヨーロッパから買い付けた兵器のサンプルを大量にストックしており、既に1933年にはチェスカー・ズブロヨフカ(チェコ兵器廠)製軽機に似てない、これ?と指摘したくなるような”独自開発”軽機関銃を中華民国に輸出している。
 三八式歩兵銃はタングステン合金鋼を用いた高級品だから、中華民国向け小銃はレアメタル不使用型に改めた三八式騎銃や四四式騎銃の輸出型が生産された。銃剣もない簡易型だが、反動が少ない6.5ミリ弾使用のため、モーゼルGew88をコピーした漢陽88式小銃より扱いやすく中国兵は喜んで使っていた。
 1940年に対英戦争がはじまった時点で、実績のあった三八式騎銃の生産ラインはフル生産に移行し、歩兵銃を上回る400万丁が生産されたといわれる。三八式歩兵銃より500g程度軽い騎銃は資材節約になる上に若干安いし行軍でも楽だし、文句のつけようもなかった。いや、文句をつける変わり者はいたが、命中精度・集弾率がわずかに悪いが故の弾の無駄遣いなど、一流の工業国が心配することではない。

 時に1939年9月、第二次世界大戦がはじまろうとしていた。


■機械化農業

 1930年頃から本格化した防衛道路の建設にために、日本政府は高田商会を通じてアメリカ・キャタピラー、FWD社のブルドーザーやスクレーパを購入。ニューディール政策がアメリカで始まるまでの不況期で経営不振に喘いでいた両社は、日本からの1億ドル分(1930年の為替レートで2億円以上)もの各種土木機械の注文で一息つけた。
 1933年頃からは、為替レートが円安に振れたことと内務省の国産化方針の通達により、土木機械の国内メーカーの選定がはじまった。
 既に1921年から土木機械を扱ってきた実績を持つ小松製作所が日本初の国産ブルドーザー”小松1型均土機”を開発した。

 農村では、第一次世界大戦後からトラクターが輸入・使用されていた。戦後の不況期には一台数千円もする輸入トラクターは廃れ、二輪の小馬力耕運機が農村に普及した。 複数の農家が共同で購入するケースが多く、地方銀行は耕運機ローンを発売してそれに商機を見出していた。一台の耕運機は10-20人分もの仕事をしてくれるのだから、普及するのは当然だった。
 1924年頃から東北地方を襲った不作と1929年からの農作物価格の低下により、小作人を雇えなくなった農家は争って人を解雇し、家畜を処分した。折しも急速な工業化で都市部の労働需要は大きかったため、食い詰めた農家の次男や女子が大挙して農村を去った。1930年には都市人口2500万人、1935年には3600万人に膨れ上がった。東京府の人口は1940年に800万を超え、人口860万の世界一の大都市ロンドンを追い抜くのも時間の問題とみられた。西日本の農民を吸収した大阪も、都市機能が麻痺するほど一気に肥大化した。
 こうした農村人口構成の変化により、農業の機械化はもはや誰にも止めることなどできなくなっていた。
 日本の水田にマッチした細い転輪を有する3馬力前後の耕運機が多かった。とりわけ安価な軽油を使えるディーゼル耕運機であるヤンマーHB耕運機を山岡発動機が発売すると、比較的大型にも関わらずベストセラーとなった。
 水田用乗用トラクターの分野では、久保田鉄工所の巨大なホイールを有する猛虎シリーズが1935年から発売され、関東地方を中心に販売実績を伸ばしていた。猛虎シリーズがたてるT型フォードの1気筒エンジンと似た単調で間延びしたエンジン音は、農村の一時代の風物詩となった。
 こうして、スイスのシマーやアメリカのキャタピラー、イギリスのアリスチャルマー、ドイツのハノマーグ製のトラクターは姿を消してしまった。
 耕運機生産数は、昭和初期の年産3000台から1939年には年産4万台に成長していた。1939年の全国の普及台数は約30万台と見られている。複数の農家が共同使用するため、農家普及率は数字以上に高かった。
 100万台以上普及(しかも遥かに大型)しているアメリカには遠く及ばないが、少なくとも耕運の面では欧州諸国並みの機械化水準に達しつつあったのは確かだ。とはいえ、日本の場合、水田に苗を植える必要があるため、労働集約的な面が残ることは技術的にある程度仕方の無いことであった。

 道が細い農道や旧市街に適応した自動車として、小型のオート3輪トラックが爆発的に普及したのも1920年代後半のことだった。小排気量三輪車の運転免許は試験制ではなく許可制であったことが普及に拍車をかけた。
 積載量も500kg程度で排気量は300cc程度、後退ギアもなく、何より安価だった。代表的な製品として、ダイハツ発動機製造製「ダイハツ」、東洋工業製「マツダ」、大倉財閥系の日本自動車製「くろがね」が挙げられる。
 こうした初期の自動車は防衛自動車道を走れなかったため、戦後には4輪車に取って代わることになる。
 戦時中にはオート三輪メーカーはことごとく小型トラック生産に狩りだされることになるが、戦前に磨かれた高回転型OHV式V型2気筒エンジンの技術は、信頼性の高いガソリンエンジントラックの技術的バックボーンとなった。
 1941年には車体後端に火砲牽引用フックを備え、94式37mm速射砲の牽引ができるオート三輪も製作され、中華民国に供与されている。

■電子技術

 日本での電波兵器の最初の使用例は、日露戦争だとされる。
 ロシア帝国のバルチック艦隊の発見を通報した無電(無線電信)こそがそうだった。
 しかし無線を始めとする電子技術は、まごうとなき最新技術であり先端技術だった。ゆえに近代化開始が遅れた新興国の日本が、おいそれと手を付けることが出来る技術ではなかった。
 大きな変化が訪れたのは、1920年代半ば以後になる。石油を運搬する多数のタンカーのため、日本海と一部海峡は常に混雑するようになった。特に対馬海峡、津軽海峡を通過する際には危険と混乱の可能性がつきまとった。そこで海峡通過する船舶、特にタンカーに対して、事故回避率を高めるのを目的として高性能無線機(無線通信機)の設置を義務づけるようになる。
 また日本海は特に冬に霧が発生しやすいため、対策として電波で相手を捉える装置の開発が特例措置として民間主導で進んだ。これが指向性アンテナの一種でもある「八木アンテナ」を利用した、電波探信儀の元祖だった。設置は1931年で、効果が認められたため日本各所の霧の発生しやすい場所に順次設置された。これにより電探から受けた情報を無線で知らせるというシステムが、軍用ではなく民間で整備されていくことになる。
 船舶への無線通信機搭載は生産の拡大に伴う品質の向上によって進み、1930年代後半には外洋漁船にも一般的に搭載されるようになる。

 また一方で、1925年に放送開始されたラジオは、日本の発展に伴って爆発的に普及した。当然だが真空管を始め大量の部品が生産され、そして品質向上が目指された。
 そして無線、電探、ラジオなどの生産は1930年代半ばまでは民間主導で進んだため、政府や軍ではなく企業が中心となった。
 そして日本の各企業は、売り上げ向上のため技術開発にも熱心で、政府が一時期電波に関する規制を緩めた事もあって一気に進展していった。海外からは技術の模倣はもちろん技術購入(パテント購入)も行われ、日本製電子製品の技術は欧米先進国に並ぶまでに進歩していった。

 そして1930年代半ばを過ぎると日本全体が大規模な軍備拡張期に入り、豊富な資金を投じて電子製品の開発と生産、大量発注が実施されるようになる。
 当面軍が重視したのは、無線通信装置の品質向上だった。各部隊、各兵器(軍艦や戦車、自動車、そして航空機)の間の無線連絡が高精度で行えるようになれば、円滑な連絡と連携ができるようになるからだ。

 しかし世界に先駆けて開発された電探(レーダー)の、軍での開発と運用は停滞していた。
 一部先の見える者が苦労して開発を行い、1939年に帝都防空を担当する陸軍航空隊が日本軍で初めての電探の運用を開始する。
 初期のレーダーは、地上設置型でしかも大型だった。性能は当時としては及第点だったが、最初に価値を見いだされたのは大規模飛行場だった。軍の急激な拡張によって空が過密化したため、航空機の管制用として注目されたのだ。電探と高性能化した小型無線機の使用により、円滑な航空機運用の実施が目指された。
 探査兵器として注目されるのは、イギリス軍が「バトル・オブ・ブリテン」で運用したことが伝わる1940年夏を待たねばならず、既にいくつかの防空用電探を有する陸軍が、試験的な運用を開始している。
 艦艇への最初の搭載は1940年秋で、戦争が始まった頃にようやく試験運用が開始されるという状態だった。
 

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《神の視点より》
兵頭二十八氏の本に、トラクターの価格が載っていたので引用する。
満州で使用された実績を持つ4×2のフォードソン、15HPは776円。
アメリカでのトラクター価格は800〜1200ドル程度。馬が50〜100ドル。

昭和8年当時の6輪トラックが単価11500円。とのこと。これはいすゞTU10型のことか。TU10型は九四式六輪自動貨車として採用され、価格は1万円。トヨタ/日産の4輪はそれぞれ約3500円、フォード/シボレーは約3000円であり、比較的高価だったが評価は高い。

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参考文献:石井正紀著 「陸軍燃料廠」 光人社NF文庫