■産油国日本 4

■開戦に至る経過

 1920年代、日本の外交と国際関係は望みうる限り順風満帆だった。日本自身も、外交には非常に努力を傾けていた。
 ワシントン海軍軍縮会議では終始優等生を演じた。日英同盟を破棄して、アメリカなどの都合の良い条約まで結んだ。
 国際連盟では常任理事国としての役割を過不足無く果たした。
 中華問題でも常に国民党及び蒋介石を支援し、満州での出過ぎた行動を抑止し続けた。
 ロンドン海軍軍縮会議では多少文句を言い立てたが、それでも日本が不利だと思う条件を呑んだ。
 日本で「幣原外交」とも呼ばれた全方位融和外交によって、少なくとも自らの戦争とは無縁の状態を維持した。
 帝国主義とはほとんど無縁であり、国際的な非難はほぼ皆無だった。
 むしろあまりの「優等生」ぶりに、世界が奇異の目で見ていたほどだった。

 だが日本の優等生ぶりも、1929年秋に世界大恐慌が起きるまでだと言われている。大恐慌の発生によって、「持てる国」の列強はブロック経済と呼ばれる閉鎖貿易体制へと重点を移し、「持たざる国」を自らの市場(植民地)から閉め出した。
 それでも日本は、大規模公共投資を中心とする内需拡大を目的とした積極財政政策を推し進めることで、不況を乗り切るどころか世界に先駆けて不況から脱し、しかも世界を置き去りするほどの経済成長を続けた。
 国内の良質な大油田の存在が日本に心のゆとりをもたらしたからだと言われる事もあるが、この辺りでも諸外国は日本に文句のつけようがなかった。日本経済の好調で、日本に原料資源、工作機械を輸出する国はかなり助けられてもいた。近隣の中華民国も、日本に資源や穀物をバーターで輸出することで、大量の兵器を得ていた。
 日本経済が堅調な事は、世界恐慌の脱却に必要不可欠だと発言した欧米の政治家も一人や二人ではない。

 しかし、日本経済の為にはやはり海外貿易の拡大が必要であり、特に大恐慌以後は諸外国との軋轢が急速に強まった。
 特に日本が産油国となり重工業が発展することで、アメリカと日本の取引は主にアメリカ側の輸出から大きく減少した。これは1933年に民主党政権が出来て以後、顕著となった。また品質が向上した日本製品は世界各地で売れるようになり、同じ商品を輸出する工業国との関係を悪化させた。しかも日本は労働コストの差からくる優位を活用しているため、人件費の高いアメリカ、イギリスなどは日本に対する悪感情を急速に高まらせた。
 アメリカ民主党政権は、アメリカの不景気の原因の一つを日本経済の発展に伴う対米貿易の責任だとした。
 日本から見れば、とんだ言いがかりだった。
 だが日本は、中華民国の国民党の関係を深めることで、武器売買だけでなく一般貿易のシェアも着実に伸ばしており、欧米列強に成り代わって中華市場を牛耳る方向に動いていた。これが諸外国による日本への反発の最も大きな要素となっていた。特にコスト競争から日本に太刀打ちできないアメリカ(産業界)の怒りは年々大きくなり、日本との関係悪化が進んだ。
 日本は経済的に発展するというだたそれだけで、欧米中心の世界から爪弾きにされようとしていたのだった。
 そして日本としては、海外交易路の維持のため自力での海軍拡充を選択せざるを得なくなる。しかもアメリカが対立路線を明確にしている以上、日本にとっては死活問題だった。
 日本の条約離脱を、主にイギリスは様々な理由から止めようとしたが、アメリカは逆に日本脅威論を国内政治に利用しようとして、日本をむしろ挑発するような声明、発言を実施した。

 アメリカの対日圧力はロンドン会議以後の軍縮会議の予備会談でも遺憾なく発揮され、アメリカは日本に過分な制限をかけようとして、これまでの軍縮会議でも譲歩し続けていた日本は強く対立した。
 日本は1934年にワシントン海軍軍縮条約からの脱退を表明。そして1936年からは、新たに策定された「八八八艦隊計画」に従い、未曾有の大開軍の建設を開始する。
 日本を横目に見ながら1935年末に始まった第二次ロンドン海軍軍縮会議は、会議途中でイタリアと同時に脱退した。東洋には大した艦隊がないイギリスにとって、日本海軍の増強は大きな脅威だった。何しろ、日本がイギリスを仮想敵として定めていたからだ。
 日本の脅威はアメリカにとっても言うまでもないが、そのアメリカは極めて強固な緊縮財政、縮軍財政下にあって、国力不相応の軍事力整備しか行わなかった。

 一方ナチスになって膨張傾向となったドイツは、1936年頃までは武器商売のお得意様である中華民国での競争から、日本への親近感はあまり見られなかった。しかも日本にはソ連を牽制できる陸軍力もなく、軍事的にも余りドイツに利益がない国と認識されていた。対して中華民国は、ソ連と長い国境を接する大陸国家であり国内の共産党とも戦っているので、ドイツにとって関係を深める理由があった。
 1934年頃には、ドイツで外相となったリッペントロープが突然のような日本への接近外交を展開しようとしたが、当時の日本側が特に見向きしなかったため一部の交流を除いて関係が進展することは無かった。もっともに日独の交流と接近はこの頃から急速に進み、数年後に実を結ぶことになる。
 一方、急速な工業化と資源調達価格を巡るイギリス、オランダとの確執から国際連盟内部でも孤立しつつある日本は、ドイツに対して徐々に友好的になっていった。日本は相手に足下を見られた事で憤り、英蘭は経済の膨張に従って中華市場の独占を図る日本が気に入らなかった。
 ドイツは、ラインラント進駐以後はイギリスの圧力によりアメリカから輸入していたガソリン価格が高騰、日本からドイツへのガソリン輸出が増加していたため、日本との関係は次第に改善していった。ドイツからは、精密工作機械など高精度の工業製品が多数輸出された。

 中華民国は、ドイツ国防軍からの軍事援助及び武器輸出の増加を望んでいたが、ドイツも急速な軍備拡張期にあり、おいそれと要求には応えられなかった。将来イギリスやソ連と戦争になれば、中華民国に英領インドやソ連を牽制させようと考えていたドイツは、1937年頃から国家として急速に日本に接近し、戦時には少なくとも中立国として中華民国の後方生産基地となることを期待しはじめた。
 このため『独華合作』はそれなりに進むが『独華防共協定』の締結には至らず、その代替として『独日華合作』が目指されるようになる。
 1938年秋のアンシュルツとズデーテン地方を獲得によって、英仏との関係がほとんど決定的に悪化したドイツは、日本との軍事協力関係の構築に動いた。これに対して日本は、当初は事実上英仏から敵対視されたドイツとの関係強化には及び腰だった。一部では、むしろドイツを利用することで英仏との関係改善をはかる動きも見られた。
 だが選挙によって新たに首相となった近衛文麿は、英蘭さらにはアメリカとの関係悪化を物理的に打破する外交手段としてドイツの力を利用しようと考える。またソ連からの圧力が年々強まっていた中華民国から、日本にさらなる関係強化と支援を求める声があったため、日本、ドイツ、中華民国の間の協議は急ぎ足で進んだ。
 諸外国は、交渉中はソ連に対する防共協定と考えていたが、さらに進んだ条約が発表されることになる。
 
 1939年2月、正式名称”中華民国に対する治安活動援助に関する条約”、通称”日独華軍事協定”が結ばれる。
 日本にとっては、中華民国領を中継した英連邦との第三国中継貿易を目論んでいた。
 この時期のイギリスにとって中華市場はあまり魅力的ではなく、しかも沿岸部の日系繊維工場は安い繊維製品の輸出拠点となっており、イギリス製品の保護にとって邪魔な存在になっていた。しかし、中華民国に日独への資源転売を止めろと露骨に言うわけにもいかず、香港や上海の商人は「転売ではない。しかるべき加工をして付加価値を高めた上で日本に売っている!」と主張するばかりで埒があかなかった。
 こうして、イギリスと日独華の関係は急速に悪化していった。
 しかも日本は事実上の制裁として、イギリス、オランダなどから資源輸入の削減措置を受ける事になる。

 戦前日本には、経済成長しようとすると資源不足に直面するというジレンマがあった。当時は大恐慌後がなくとも保護主義に彩られた国際貿易体制だったのだ。そして石油があるからといっても、それで事足りる訳でもなかったのだ。

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《神の視点より》
 史実においては、日本の無条件降伏と占領統治により、やっと米英の自由貿易体制に参入することができた。連合国側で参戦するという選択肢もあったはずだが、満州国建国をはじめ大陸中国への侵略を深めたことで連合国日本の実現可能性を自ら潰してしまった。
 史実1930年代の日本があれほど時代遅れの欧米流帝国主義を上手く真似ず、軍備拡張もままならずズルズルなにもせずにいれば、第二次世界大戦勃発以後、弱り目のイギリスに恩を売りつつ連合国側に立って参戦できただろうに。これが日本国民にとり最も流す血の少ない経済成長の実現になっただろう。
 あの時代の日本は、自ら”ダメな子”になるべきだったのかもしれない。

 日本の全面的敗北によらず資源不足のジレンマを解決するには、英連邦支配下で植民地化されている諸国を”解放”して自国中心のミニ自由貿易圏を形成するか、占領下におかねばならない。
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●日本までの第二次世界大戦

1939年

5月、ポーランドがイギリスと同盟。
8月23日、
「独ソ不可侵条約」締結。中華民国がドイツへの不審を強める。
日本、中華民国への支援を大幅に増大。日本国内では一種の特需が発生。
9月1日、ドイツ軍はポーランドに電撃的に侵攻。
同3日、イギリス、フランスがドイツに宣戦布告。「第二次世界大戦」勃発。
以後、日本、中華民国に対する欧米諸国の風当たりが強くなる。
イギリスなどは、自国での戦争体制構築のためという理由で、対日資源輸出の削減を検討。
日本、イギリスなどに対しての貿易交渉を開始。
同10日、日本で近衛内閣が総辞職。永田内閣が成立。有事を見越して、事実上の挙国一致内閣の編成が行われる。
時節に対応するためという理由で、日本国内での戦争準備が公に始まる。
アメリカなどが、軍人出身の首相就任を日本の戦争体制への移行だと強く非難。

11月、
「冬戦争」。ソ連がまともな理由もなくフィンランドに大軍を用いて侵攻。
国際社会で反ソ連感情が高まる。ソ連が国際連盟から追放。
日本も常任理事国として国連の会議に参加。しかしこれが、国際連盟の事実上の最後の集まりとなる。
この時、非公式に日本と英仏の間に会合が持たれる。
英仏は、日本にドイツとの関係解消を求める。日本側は貿易の改善を求めるが、英仏などは日独関係を理由に受け入れず話しは平行線。
最初の段階で躓いたため、英仏による日本の連合軍引き入れは全くできず。日本は、英仏蘭への反感を強める。
日本の中枢で対英参戦の気運が俄に盛り上がるも、当面は欧州情勢を静観。

1940年

2月、
国連から鉄路帰路ついた日本代表団は、ソ連との間に表向きはフィランドでの戦争を止めるように会談を持つ。
実際は、日本、ソ連双方の思惑の合致による、当面の安全保障を模索するための秘密会議だった。
4月、ドイツ、北欧侵攻開始。
5月10日、ドイツ、西欧侵攻開始。イギリス、チャーチルが首相就任。
同27日、ダンケルクの奇跡。西部戦線瓦解。
6月10日、イタリアの対仏宣戦。ヴィシー政権の誕生、22日、フランス降伏。
7月、
イギリス、ドイツからの休戦提案を強い調子で拒絶。戦争の泥沼化が確定。
ドイツ、日本の支援、できるなら参戦を要請。
日本では、資源輸入の途絶を見越した戦争準備が開始される。
「バトル・オブ・ブリテン」開始。アメリカは、高純度ガソリンなどの優先的輸出という形でイギリスの支援を開始。
同月、
ヴィシー政権の要請の形を取って、日本軍が仏領インドシナ全域の保護占領を開始。日本の目的は、資源輸入を求めてのイギリス、オランダへの恫喝。
ヴィシー政権を親独傀儡政権とみなし承認していなかったイギリスは日本の行動に強く反発し、対日資産の凍結と貿易の停止、日英通商航海条約廃棄を通達した。
既に英蘭から輸出制限措置を受け、国内産業に悪影響がみられはじめていた日本では開戦やむなしとの意見が主流となる。
インドシナ進駐によって
日本が国際連盟から追放される。日本、激しい屈辱だと諸外国を強く非難。
全面禁輸などを含め、事実上の宣戦布告だと発表。
イギリス、日本の行動を見て自らのアジアでの戦争準備を開始。

8月9日、「日ソ不可侵条約」締結。世界はドイツ、ソ連、日本による事実上の同盟体制だと考え、日本が完全に戦争体制に移行したと取る。以後、日本による対英蘭外交は完全に暗礁に乗り上げる。
日本の戦争準備が本格化。

9月25日、日本が対英蘭宣戦布告。国際慣例に基づいて48時間後に攻撃開始。

11月、枢軸に日本が正式に加盟したが、同盟条約の条文のいくつかの項目では秘密協定がなされていた。

同月、ウィンストン・チャーチルは自らの陣営を諸国連合 (United Nations) と呼び、”連合国”の表現が一般化する。

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 ※1941年初時点での各陣営

連合:イギリス、英連邦各国、(本国を失った自由政府)

枢軸:ドイツ、日本、イタリア、中華民国

連合寄り中立:アメリカ

枢軸寄り中立:ソビエト連邦