■産油国日本 6

■南方作戦

 1940年9月27日、「ヒノデハヤマガタ」の暗号がコタバル沖の護衛艦隊と輸送艦で受信された。
 基本的に戦力で圧倒しているので奇襲攻撃などは行われず、宣戦布告から48時間を待った後の堂々たる戦争開始だった。
 しかし日本の参戦は、相手国にとっては戦略的な奇襲攻撃に等しく、東南アジア各地の植民地はまともな迎撃ができる状態ではなかった。

 中華民国から借り受けた海南島やインドシナ各地に集結した輸送艦には、第18自動車化師団及び第2戦車師団が開戦のときを今や遅しと待ち受けていた。
 9月27日、コタバルに上陸した日本軍は2個師団総勢5万。マレー・シンガポールへの侵攻がはじまった。日本軍の中でも機械化と重武装化が進んだ機械化軍団は、イギリス軍の防衛体制がほとんど間に合っていないこともあって快進撃を続けた。
 結果日本軍は、わずか一ヶ月半でマレー半島を横断。11月3日にイギリス東洋支配の象徴シンガポールの対岸まで到達した。

 シンガポールには既にイギリス東洋艦隊が駐留し、イズメイ中将の極東軍団(英印軍及びオーストラリア第8歩兵師団主力)が守備していた。兵数こそ8万人以上いたが、過半数を占めるインド兵の士気は低かった。加えて、殆どの部隊が植民地警備軍で、重装備は殆ど持たなかった。しかもマレー半島から敗走してきた敗残兵が多く、彼らが日本軍の強大さを訴えるためなおさら士気が起きた。
 それ以前の問題として、当時のイギリス全軍を見渡しても、準備を重ねてきた日本軍に太刀打ちできるだけの武器、弾薬は無かった。何しろ陸軍主力がフランスで全てを失ってから、まだ四ヶ月しか経っていなかった。
 「バトル・オブ・ブリテン」も終わったばかりなので、航空戦力も極めて貧弱だった。日本の参戦は、イギリスが最も疲弊している時期に行われたのだから、戦略的に十分に時期を見ての参戦だったと言えるだろう。
 なお、日本軍から見れば勝って当たり前の作戦と言えたが、それでも日本軍初となる渡洋侵攻作戦のため非常な緊張感があった。

 9月28日「マレー沖海戦」発生。
 イギリス東洋艦隊は、日本軍侵攻の報を受けてシンガポールのセレター軍港を出撃した。
 これまで動かなかったのは、余りにも自らの戦力が少ないため動くに動けず、唯一の切り札である艦隊の運用は慎重の上にも慎重さが必要だったからだ。
 しかし相手の輸送船団を撃滅する以外にマレー半島とシンガポールを守る術がないため、賭けに出ることになった。

----------------------マレー沖海戦---------------------------

○イギリス東洋艦隊

 日本の参戦が確実視された1940年夏に入ると、苦しい台所事情のなか主に地中海艦隊から抽出された艦艇がイギリス東洋艦隊に追加されていた。
 東南アジア防衛のため、北アフリカでの対フランス作戦など一部が中止され、イギリス海軍中で艦艇の大移動が実施された。

・リヴェンジ級の旧式戦艦3隻(《ロイヤル・ソブリン》《ラミリーズ》《リヴェンジ》)及びレナウン級巡洋戦艦2隻(《レナウン》《レパルス》)
・航空母艦:1隻(《ハーミーズ》)
・重巡洋艦:3隻(《ドーゼットシャー》《デボンシャー》《コーンウォール》)
・軽巡洋艦:12隻(《タウン級》などの旧式軽巡洋艦。各地に分散)
・駆逐艦:14隻(アドミラルティV級中心。うち1隻はオーストラリア海軍の《ヴァンパイア》)

 通商破壊戦を仕掛けるドイツ巡洋戦艦《グナイゼナウ》《シャルンホルスト》との戦いの途中で急遽呼び寄せられた巡洋戦艦《レナウン》《レパルス》は高速が発揮可能のため、《リヴェンジ級》と艦隊行動をとらせるのは難しいとの指摘があったが、日本軍上陸部隊を海上で撃破するために無理を承知でシンガポールに来ていた。
 ちなみにリヴェンジ級の《ロイヤル・オーク》は既になく、《レゾリューション》は修理中だった。シンガポールに派遣された艦隊は、インド洋と地中海から引き抜けるだけ引き抜いた艦隊だった。
 イギリス東洋艦隊は、手持ちの艦艇を二手に分けて高速艦隊と主力艦隊に分割。連携して進撃し、輸送船団を挟み撃ちにしようとした。

○連合艦隊
 マレー沖には、聯合艦隊の第1艦隊と第2艦隊及び第1航空艦隊がいた。
 第2艦隊は《金剛型》戦艦4隻及び重巡2隻、軽巡3隻、駆逐艦8隻から成り、輸送隊を護衛していた。
 第1艦隊は《大和型》戦艦の《大和》《武蔵》に《天城型》巡洋戦艦4隻という主力を46センチ砲搭載艦で固めた世界最強の布陣であった。
 第1航空艦隊は空母4隻、重巡3隻、軽巡3隻、駆逐艦12隻。更に別働隊として南遣艦隊が編成されて空母2隻、重巡4隻、軽巡4隻、駆逐艦20隻から成った。
 敵に対して圧倒的という以上の布陣だった。
 この布陣は、日本海軍が海の電撃戦を企図しての事だったが、世界史的には白人勢力に対する「反撃の狼煙」もしくは「反撃の嚆矢」とされる事もある。
 東南アジアに出現した大艦隊は、まさに振り上げられた拳だった。

 イギリス東洋艦隊には、まずは編成されてまだ間のない第1航空艦隊の《赤城》《加賀》《蒼龍》《飛龍》の艦載機が爆・雷攻撃を実施した。この時点では、未だ仏領インドシナの航空基地に海軍航空隊は展開途中であるため、マレー沖海戦に参加していない。だからこそ日本海軍は、空母艦載機を集中運用する事のできる空母機動部隊を編成したのだった。
 自らの対空防備の不足、日本軍への甘い認識などが重なり、イギリス艦隊は一方的に空襲を受けた。
 次いで、ほぼ停止状態で先の空母艦載機の攻撃で沈んだ《ラミリーズ》や戦艦の救助活動に当たるイギリス艦隊に、第1艦隊がほぼ全力で突入。戦闘終盤には、第2艦隊から《金剛型》など有力艦艇が戦闘加入して退路を遮断。日本船団を包囲する筈だったイギリス東洋艦隊は、日本艦隊の主力部隊に逆に包囲殲滅された。

 海戦の結果、東洋艦隊は一挙に戦艦・巡洋戦艦合わせて5隻と重巡洋艦3隻、軽空母1隻を始め主要艦艇の全てを開戦2日目の戦闘で失った。大型艦は全て日本海軍の圧倒的な艦隊戦力の餌食となったのだ。
 戦場から逃れられたのは軽巡洋艦や駆逐艦など一部で、1ヵ月後には蘭領ジャワのオランダ艦隊と合流していた東洋艦隊生き残りも、日本側の空襲と巡洋艦、水雷戦隊との戦闘でことごとく南洋に沈んだ。
 生き残ったのは、インド洋に脱出した一部の艦艇だけだった。

 少し遅れて実施された「ジャワ沖海戦」、「バリ島沖海戦」を経て、オランダ艦隊は《トロンプ》《ジャワ》《スマトラ》《デ・ロイヤル》《ヤコブ・ヴァン・ヘームスケルク》及び駆逐艦5隻が失われ、本土を失い植民地で細々と活動していたオランダ海軍は壊滅した。
 相手が二線級とはいえ、日本海軍の強さは圧倒的、いや一方的だった。

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 1940年12月までにマレー半島全域とニューギニア島を除く蘭領東インド全域が日本軍の軍政下に入った。この際、パレンバンをはじめとするロイヤル・ダッチ・シェル社の油田及び製油施設は一部が破壊されていたが、経験豊富な陸軍の石油技術者の手で早期に生産が回復することになる。しかも一部油田は、特に破壊されることもなく、職員は何もせずに日本軍に降伏。その後も、彼らが石油の生産や精製に携わり続けた。
 マレー半島では鉄鉱石や天然ゴム、錫、金、ボーキサイト鉱山が接収され、港湾や鉄道、道路を早期再建し日本本土に資源を運ぶために工兵師団2個が進出した。
 勝つことは分かっていたので、こうした後方部隊の進出も非常に早かった。

 1940年の年末は、忙しさのうちに暮れつつあった。
 日本に少し遅れて対英宣戦布告した中華民国軍と合同による攻撃の結果、香港の英軍守備隊も降伏した。上海租界でも、イギリス、フランスなど敵国の租界は中華民国の占領下となった。中華国家としては阿片戦争以後の雪辱を晴らす機会となったが、これで中華民国もイギリスの敵として認識される事になる。
 南方攻略戦がおおむね成功裏に終わったことで本土の新聞は戦果を謳い上げ、大本営は”敵は幾万”の後に戦勝を報告した。日本国民は欣喜雀躍していたが、東京の霞ヶ関や市ヶ谷では次なる渡洋作戦に関連する膨大な事務作業が大詰めを迎えていた。
 少しでも早く進軍し、アメリカが参戦する前に全てを終わらせなければならないからだ。

■東京条約

 1940年11月、タイ軍事政権によるフランス保護領ラオス・カンボジアへの侵攻により、仏泰戦争が勃発した。
 1941年1月、タイ王国に配慮する形で仏印の分割を調停する東京条約が結ばれた。フランスはラオスのメコン右岸、チャンパサク地方、カンボジアのバッタンバン・シエムリアプ両州をタイに割譲することとなった。

 同月、日泰攻守同盟条約を締結し日本とタイは同盟関係になった。
 日本が参戦した時は、”枢軸国”はドイツとイタリアだけを指した。統合された戦争指導も交戦相手の整理も行われていない「日独華軍事協定」は、枢軸国と同じものではなかった。この時期、タイと同盟関係になったこともあって、交戦相手の定義の再確認が検討された。
 紆余曲折ののち、「英国とその同盟国を共通の敵とする」日独伊とその同盟国を”枢軸国”と呼称することで各国が同意した。この”枢軸国”の傘下では、英国とその同盟国以外の国家との外交関係はフリーハンドを維持できるため、日本にとって都合が良かった。

 日本の印度支那駐屯軍は、フランス植民地政府と合同で仏印インドシナ植民地政府の統治を行うことに合意、フランス軍の抵抗を早期に排除し、インドシナ全土で日仏共同警備体制を敷いていた。
 しかし、インドシナ警備には第21、117師団が割かれていたが、戦力不足の状態だった。そこで、日本政府はタイ政府に裏から手を回しカンボジアとラオスの国境侵犯を繰り返し仏泰の交戦を誘発させた。
 1941年2月には陸軍の第3飛行集団の仏印展開も終わっており、日仏の交戦となればフランス駐屯軍の殲滅は確実だった。そうした状況がよくわかっているフランスのドクー総督に、日本政府はタイ軍との即時交戦停止と武装解除を要求し、受け入れられた。
 こうして1941年3月、クォン・デをインドシナ国国長とするインドシナ国が誕生した。インドシナ国は日本と攻守同盟条約を結び、以後枢軸国の一員となる。
 インドシナ国はラオス族やクメール族を内包する国家となったため、治安維持を主目的とした現地人歩兵連隊の育成が急がれた。

■豪州作戦

 英連邦を構成する諸国のうちでカナダに次ぐ工業力を有する広大な大陸国家、オーストラリア。総人口710万。隣接するニュージーランドは総人口160万人。両国併せて870万の人口ながら、第一次大戦ではオーストラリア1、2、4、5歩兵師団とANZAC騎乗兵師団が連合国軍の一員として戦った。

 1931年制定のウェストミンスター憲章を自ら批准せず、未だイギリスの影響が色濃いオーストラリアは、連合国の歩兵の貴重な供給源となっている。英連邦の構成国であり、日本軍政下の蘭領東インドに対する直接的な軍事行動の策源地ともなるオーストラリアは、日本にとって早期に英連邦から脱落させたいところだった。
 このため日本軍では、1930年代半ば以後オセアニア戦の研究が行われていた。
 1940年に日本が枢軸側で参戦すると、北アフリカに派遣されていた英第8軍のオーストラリア師団は急ぎ本国に戻され、本国以外に配置されている師団はシンガポールのオーストラリア第8師団だけになった。
 戦前には、オーストラリア防衛の要としてシンガポール戦略が採用されていた。これはイギリスの提案によるシンガポール海軍基地の建設を中心とした戦略であった。
 しかし、シンガポールの英印軍とオーストラリア第8師団は為す術もなく壊滅し、完成したばかりのシンガポール基地は日本軍にほとんど無傷で奪取された。イギリス極東艦隊も主力の全滅という最悪の形で壊滅し、オーストラリアは日本軍の直接的な脅威を受けるようになった。
 イギリスを中心とする英連邦は、自治領や植民地を防衛できてこそ存在できるものだから、シンガポール陥落は英連邦を揺るがす事態であった。
 メンジース統一オーストラリア党政権は、シンガポール陥落の衝撃に耐えられず瓦解し、カーティン労働党内閣が発足した。カーティン首相はアメリカに参戦を促すために、オーストラリアとしてはじめてワシントンに公使館を設置した。だが、そうした努力が効果を発揮する前に日本軍の軍靴の音が聞こえていた。

 西ニューギニア及びオーストラリア領ニューギニア、ラバウル島を完全にスルーして、日本軍の揚陸艦はティモール島に集結していた。
 直接オーストラリアに攻め込める力があるのなら、熱帯ジャングルと巨大山脈という自然の要害のあるニューギニアは出来るかぎり無視するべき場所だった。

 1941年2月、ポートダーウィン空襲。
 既にイギリス極東艦隊はなく、制海権は日本のものだった。ジャワ島東部のスラバヤを拠点に第1航空艦隊が活動しており、空母4隻の艦載機による空襲が散発的に実施された。
 また、四発の零式陸攻を主力機種とする第702、705海軍航空隊による爆撃も数次に分けて実施されている。この時期、10個航空隊に属する陸上攻撃機合計960機のうち4個航空隊が外地に展開している。他はインドへの進軍準備か、内地での編成中だった。

 1941年3月、日本軍はオーストラリア北部地方の要衝、ポートダーウィンへ上陸。次いで西オーストラリアのパースに上陸。
 パースはオーストラリア内でも孤立した地域のため、大陸南西部という遠隔地にありながら、敢えて奇襲効果を狙った電撃作戦が実施された。
 ポートダーウィンには、ドアティ中将率いるダーウィン守備隊(8000名)と、ファーガソン少将のオーストラリア第1機甲師団(イギリスからの戦車供給がなく、ほとんど装甲車両は配備されていない)が配置されていたが、オーストラリア大陸は海岸線の長大さに対しオーストラリア兵の密度が薄すぎたため、各地で日本軍の上陸を許した。しかもヴァン・ディーメン湾の無人の砂浜に上陸した日本陸軍2個師団は、全て自動車化されている。このため上陸後の日本軍の進撃は、イギリスの予測よりもはるかに迅速だった。
 ダーウィンから15キロ南方のハワード・スプリングスにてオーストラリア第1機甲師団と交戦しこれを撃破、3月27日までにダーウィン市庁舎を奪取した。
 パースはベネット少将のオーストラリア西部方面軍と2個市民動員師団が守るだけで、これもあっけなく陥落。鉄道は事前に破壊されて、道路も各所で傷つけられていた。オーストラリアの余りにも遠い都市間距離に阻まれ、海上からの上陸作戦が有効とみなされた。
 パースにはほとんどオーストラリア軍が配備されていないのが分かっていたので空襲もせずにいきなり上陸作戦を決行したが、結果としてほとんど無血での上陸とその後の占領となった。占領には都市の包囲後の降伏という形だったが、日本軍の攻撃がいかに意表を突いていたかを物語る事例といえるだろう。

 同月、J・ラングレーを首班とする自由オーストラリア国が日本の後援で誕生した。

---------------------- ポートモレスビー沖海戦 ---------------------------

 日本海軍がトレス海峡の制海権を掌握したことで、ニューギニアの連合軍への補給は滞り、ブーゲンヴィルやタウンズビルからの輸送船の多くが撃沈されていた。ポートモレスビーでは艦砲射撃により補給品倉庫が破壊され、パーカー少将率いる守備隊3000名は飢餓に瀕していた。当然ながら、ニューギニアをオーストラリアの外郭防衛地帯にしようとしたオーストラリア(イギリス)の防衛戦略は何ら機能しなかった。
 そこで、イギリス海軍・オーストラリア海軍共同救出作戦が立案された。
 北アフリカのメル・セル・ケビルのフランス艦隊攻撃で功績のあったサマーヴィル中将が起用され、ニュージーランドに派遣された。チャーチルは「有力な戦艦を伴って送り出したかったが、ビスマルクが健在なうちは手放せなかった」とのちに自身の著作に記述している。
 地中海艦隊はイタリア軍の圧力を一手に引き受けており、先のマレー沖海戦で《リヴェンジ級》戦艦3を失った痛手を引きずっていた。この時点での地中海には、《Q・エリザベス級》戦艦5隻を中心とするH部隊と地中海艦隊がどうしても必要だった。よって、大西洋で船団護衛に従事していた最も旧式の《アイアン・デューク》が引っ張り出され、ゆっくりとニュージーランドに向かうことになった。
 空母は多くの反対を押し切り、地中海艦隊から小破状態の《イラストリアス》と《フォーミダブル》が抽出された。
 一方の日本軍は依然として戦力は圧倒していたが、インド作戦もあるため兵力は少なくなり、また連続した作戦のためかなり疲弊していた。

○連合軍艦隊

空母:《イラストリアス》《フォーミダブル》(各艦戦13、艦攻25搭載)
戦艦:《アイアン・デューク》
重巡:《オーストラリア》《キャンベラ》
軽巡:《HMASアデレード(アデレード級)》《パース(リアンダー級改)》《ホバート》《シドニー》《シェフィールド》
駆逐艦:《ホーキンス》他7隻(Q級駆逐艦など)

(※神の視点より:この世界のイギリス海軍では《ネルソン級》が建造されていないので、《アイアン・デューク級》戦艦の一部が現役のままです。)

○日本艦隊

空母:《赤城》《加賀》(艦戦42、艦攻60、艦爆36搭載)
巡洋戦艦:《金剛》《比叡》《榛名》《霧島》
重巡:《利根》《筑摩》《鳥海》
軽巡:《天龍》《龍田》《阿武隈》
他、駆逐艦10隻と補給艦若干

 南雲中将率いる第一航空艦隊と第二艦隊の巡洋戦艦4隻が、ダーウィン以東のアラフラ海及び珊瑚海の戦闘哨戒の任に当たっていた。これまでの作戦行動で航空機の損耗は激しく、《飛龍》《蒼龍》はサイゴンに補給と修理を受けに転出していた。日本海軍が、オーストラリア海軍及び現地イギリス海軍を様々な点から軽視し、初戦の圧勝に慢心していた何よりの証だった。
 そして当然と言うべきか、ハリケーンとフルマー攻撃機のソードフィッシュを2隻合計で76機搭載するに過ぎないイギリス空母のことを軽視する日本艦隊の油断があったのか、スコールに隠れた連合国艦隊を偵察機が見逃し、更に搭載したばかりのレーダーのレンジの狭さから発見が遅れて思わぬ接近戦となった。
 イラストリアスの艦載機は、先のジャッジメント作戦ではタラント軍港にてイタリア戦艦を撃沈する戦果を挙げていた空母航空隊で軽視できる相手ではなかった。

 歴史上初めて航空母艦同士が主力として戦う海戦がはじまった。
 《赤城》《加賀》の戦爆連合が飛び立ったのち、500ポンド爆弾2発もしくは魚雷を搭載できる旧式攻撃機のソードフィッシュは、何とか配備の間に合ったシー・ハリケーン戦闘機を護衛にして日本海軍の戦闘機をやり過ごすと日本空母に殺到し、あまり濃密ではない対空砲火をくぐり抜け、高い命中精度によって《赤城》に500ポンド爆弾3発、《加賀》に2発が命中させ、航空機の発着艦が不可能になった。これで日本艦隊の攻撃力は、ほぼゼロとなった。
 一方、九九式艦戦及び九七式艦爆・艦攻を中心とする《赤城》《加賀》の航空隊は護衛のハリケーンを苦もなく叩き落し、魚雷4本、250キロ爆弾7発を2隻のイギリス空母に命中させた。飛行甲板が装甲化された空母に対して250キロ爆弾は非力だったが、《フォーミダブル》の艦橋構造物への直撃で大きな損害を与えた。そして命中魚雷のうち調整不足などで半数の2本しか炸裂しなかったが、艦の頭脳を失い重心の高い装甲空母に対しては十分な打撃となった。損害の軽かった《イラストリアス》だが、肝心の艦載機の損害が大きすぎたため実質的な攻撃力を喪失した。
 航空戦力を失った両艦隊は接近し、空母を退避させると砲雷撃戦に移行した。両艦隊共に空母以外は無傷であり、お互いに戦意を喪失していなかったからだ。また、砲雷撃戦が出来るほどの距離で、空母同士の戦いをした証拠でもあった。だからこそ、イギリス側艦載機の航続距離の短さが短所とならなかったのだ。

 鈍足の旧式戦艦《アイアン・デューク》に対して《金剛型》4隻32門の14インチ砲弾が降り注ぐなか、重巡と駆逐艦同士の壮絶な殴り合いが現出した。
 なお、戦艦《金剛》はイギリス製の戦艦なので、同じ国の戦艦同士が戦う珍しい戦闘ともなった。
 日英の軽巡・駆逐艦の搭載する火砲は同程度の水準であり、魚雷は日本側の方が若干優秀だったが本質的な優劣はなかった(※この世界では、酸素魚雷は開発が中止されている)。しかし日本側は、途中から《比叡》《霧島》が巡洋艦などを攻撃し始めたため、日本側が圧倒的優勢となった。昼間に距離1万メートルから降り注ぐ戦艦の砲弾は、軽巡洋艦や駆逐艦にとって一発でも致命傷を意味した。
 結果、連合国艦隊は砲雷撃戦の初期で深入りした事が徒となって壊滅。何とか離脱に成功した約半数の艦艇が、よろばう様に逃走した。日本側も小型の軽巡《阿武隈》と駆逐艦2隻が沈没、重巡《鳥海》、軽巡《龍田》が魚雷を受けるなどして大破した。
 日本側の巡洋戦艦は小破しただけで済んだが、勇猛なサマーヴィル中将が最後に送り出した空母航空隊の雷撃により、待避中の空母《赤城》《加賀》の双方が水面下に破口を開けられてしまう。日本の艦載機は全て不時着水して失われ、甲板は応急修理の只中であった。
 《赤城》は航空機が戻ってこないのに格納庫内で準備されたままだった航空機の燃料に引火し大火災が発生、《加賀》は浸水が止まらずに6時間後に横転沈没した。《加賀》の沈没は、船体の古さも原因していると言われた。
 《赤城》《加賀》は日本海軍初の大型艦喪失であり、衝撃の大きさから作戦の稚拙さなど根本的な面での原因調査が実施され、さらに大きな波紋を呼び起こした。
 またこの戦闘での空母が損害に対して余りにも脆弱なことが分かった為、不燃不沈対策が徹底され、さらに積極的な防衛策として電探(レーダー)の装備促進、無線誘導の促進、対空装備の大幅増強が進んで行くことになる。
 そして丁度建造中(改装工事中)だった大型空母があったので、《赤城》と《加賀》の名は新鋭艦に引き継がれることになった。これは同じ名前が再び出現することで相手に混乱をもたらすという効果もあるが、惜しくも沈没した武勲艦の名を継承するという古今東西船によくある慣例でもあった。

 なお、ニューギニアやソロモン諸島に日本軍の航空基地が設営されていれば、空母艦載機は救えたかもしれないが、あいにく航空基地は航続距離内に存在しなかったのは不幸だった。それでも搭乗員のほとんどは救助されているので、既に多数の航空機を生産する日本にとって致命的な損害ではなかった。

 ポートモレスビー沖海戦は日本海軍が正規空母を失って後退するという結果になったものの、イギリス空母はニュージーランドに後退して軍事的空白が生まれた。こうして、高速戦艦4隻を有する日本海軍の戦略的な勝利に終わった。
 以後、ニューギニアのオーストラリア軍は見捨てられ、珊瑚海の制海権も日本の手に落ちた。これにより、オーストラリア東海岸への上陸が可能になったのだった。
 そして豊富な戦力を有する日本軍は、次の艦隊を繰り出すことで相手に休む暇を与えなかった。

4月7日、日本軍はシドニーに上陸。
 上陸作戦は、急ぎ戦列復帰した《蒼龍》《飛龍》と特設空母3隻の艦載機が支援。
 オーストラリア大陸南東部は、同地域で最も発展した地域である。発展しているとはいっても日本の過密さには遠く及ばないが、自動車化師団が好む整備された道路網がある程度存在していた。
 シドニー北方のパーム・ビーチの美しい砂浜に上陸した日本軍を、隠匿されてきたRAAFの戦闘機が襲った。主にイギリス人が搭乗したスピットファイア Mk.Iやボーファイター(20mm機関砲4門+1000ポンド爆弾×2搭載可能)戦闘爆撃機は、日本空母の艦載機による防空網が最も薄くなった瞬間に、補給物資が並ぶパームビーチを地獄に変えた。
 200リッターのガソリンが入ったドラム缶が宙に飛び、九五式軽戦車やフォークリフトが大発ごと炎上した。少数の対空戦車が真っ先に空に機関砲を向けた。
 危険を冒して海岸に接近した神風型を近代改装した簡易防空駆逐艦や花型海防艦の12.7cm砲や25mm機銃も戦闘に加わったが、やはり当時の対空戦闘能力は限られたものであった。
 このときのお粗末な対空戦闘の経験が、ボフォース40mmの4連装機銃装備の防空駆逐艦大量建造に踏み切らせることになる。

 オーストラリアのように兵力密度が低い戦場では、上陸する侵攻軍を水際で防げなければ、あとは後退しつつ敵に損耗を強いるのが常道になるだろう。そしてオーストラリア軍は、まさにその通りのことをした。
 日本空母は海岸に沿い陸軍の上空援護をし続けたため、ある程度内陸に陸軍が進出した時期がオーストラリア軍のほぼ唯一の反攻時期とみられた。
 コンクリート舗装の道路を一歩外れればオーストラリア軍の中に紛れ込んだイギリス陸軍のベテラン工兵により地雷が仕掛けられているため、日本軍の自動車化歩兵は一切、舗装路の外に出ようとはしなかった(コンクリートを抉って仕掛けられた地雷もあった)。
 時折、内陸の仮設飛行場から飛び立ったごく小数のオーストラリア空軍機が機銃掃射をしていく以外には退屈な戦場だった。なんの問題もなければ、自動車化された師団は1日に200-300km進出することも可能だった。
 ボーラルという小さな町では、市街を進む日本軍の車輌を狙撃する市民が後を絶たず、95式戦車が通りを見晴らす広場に配置された。
 シドニー上陸から1週間後、日本軍は31号線沿いにオーストラリアの首都キャンベラに迫っていた。
 キャンベラ郊外にはダントルーン陸軍士官学校があり、士官学校学生数十名がオーストラリア第6、7、9自動車化師団と寄せ集めの3個歩兵師団に配置されていた。オーストラリア市民の中には、日本軍が野蛮な狂信者の集団と勘違いする者が大勢おり、避難民の列がメルボルンに続く道路に溢れていた。

 モースヘッド中将率いるオーストラリア軍6個師団は、日本軍が必ず通ると思われる主要道である31号線沿いの森林に隠匿された。この地域は乾燥したオーストラリア大陸にしては珍しく森林が密で、しかも充分に内陸にあり、日本艦載機が救援要請に即応できないと考えられた。

 4月18日、日本軍先鋒の増強1個大隊が、31号線沿いの都市ベナラで優勢なオーストラリア陸軍と接触、包囲され全滅した。
 4月19日、後続する第3軍の第9
自動車化師団が追いつき、24日には第20軍の103、104歩兵師団がベナラ郊外に集結した。シドニーの仮設飛行場から飛び立った零式陸攻や九七式重爆撃機が事前の偵察で判明していた目標に爆撃を実施した。だが、襲撃機のように低空からの爆撃ではないため爆撃精度が低く、成果は限定的だった。
 とはいえ、爆撃がオーストラリア軍を刺激し、戦闘を早めたのは確かだった。また、日本軍は更に数個師団を集結可能だったため、優勢なうちに日本軍との決戦が決断された。
 4月25日午前3時、日本軍機のいない夜間にオーストラリア軍の自動車化師団が日本軍を包囲するように大きく迂回して接近、歩兵は夜陰を突いて乗用車やバスなど雑多な自動車を駆り突進する。
 未だ戦闘経験が少ない日本軍は当初混乱したが、海軍機が投下した照明弾に照らされたオーストラリア軍に砲撃を開始、ベナラ市街を中心の戦闘となった。
 翌日は珍しく雨天のため爆撃の効率は悪く、翌々日に至ってようやく効率的な爆撃が可能になった。こうして、4月27日まで続いた戦闘の結果、オーストラリア軍は後退、重火器や自動車を失い、よろめくようにスノーウィ山脈に去り、以後長期にわたり潜伏した。

 ちなみに、人間が寝ずに戦えるのは最長でも3日と言われている。このような極限状態の激戦を20年以上も経験してこなかった日本軍は、以後の新兵の訓練で3日間不眠訓練を導入することになる。

 ニューサウスウェールズ州南部のジャービス・ベイ特別区にあるオーストラリア海軍兵学校も艦載機による空襲で破壊されたが、学生は既にメルボルンに逃れていた。勇敢なオーストラリア海軍士官の卵たちは、間もなく降伏する母国を去りイギリス軍の下で従軍する道を選ぶ者が大部分であった。
 しかし日本軍も甘くは無かった。何しろオーストラリア戦は前座のようなものであり、イギリスを降伏させるためには撤退や降伏を許してはならないと理解していたからだ。
 4月30日、メルボルン港沖にてイギリス・ニュージーランドの救援輸送船隊が《金剛型》巡洋戦艦4を中心とする日本艦隊に捕捉される。日本艦隊の急進撃とイギリス側の偵察の不徹底がもたらした悲劇だった。
 航空機と連携しながら包囲しつつ突撃してきた日本艦隊の砲雷撃戦によって、連合国の大型船21隻42万トンが撃沈される。その中には、キュナード・ラインの8万トンを超える徴用巨大輸送船クイーン・エリザベスとクイーン・メリーも含まれていた。世界最大級の豪華客船は当初は30ノット超の俊足を活かして逃げようとしたが、軍艦が追いつけない巡航速度を誇ると言っても航空機の前には無力だったし、日本軍の巡洋艦の方が瞬発力と最高速力に勝っていた。
 そして日本軍は沈めるには惜しいため最初は停船降伏を勧告するも、イギリス側はこれを拒絶。両船とも日本軍に拿捕されることを拒み、自らキングストン弁を開いて自沈した。

 5月はじめの時点でオーストラリアに上陸していた日本軍は総勢3個軍9個自動車化師団+3個独立混成旅団に達していた。このうち、のちにオーストラリア防衛のために最低でも4個歩兵師団が駐留することになる。
 この年のオーストラリアの農業生産は酷く悪化するはずだが、もともと小麦の大輸出国であるので、7〜8万人の豪州駐屯軍を養う程度は問題ないだろう。

 5月、枢軸陣営側の自由オーストラリア軍がキャンベラに遷都し、オーストラリア大陸の統一に成功。旧軍残余の吸収を試みるが、各地でナショナリストの妨害活動に直面することになる。
 ロンドンには”真正自由オーストラリア亡命政府”が擁立されたが、”自由”という単語を枢軸に取られて怒り狂っていた。
 とりあえず日本がオーストラリアに勝利したことで、東京をはじめ日本本土の大都市では戦勝を祝う提灯行列がみられたのだった。

 同月、トリンコマリー・コロンボ空襲。イギリス東洋艦隊残余(主力艦はマダガスカルに退避していたので、駆逐艦と特設艦艇数隻)が壊滅。
 インド攻略の機運が熟していた。