■産油国日本 7
■ビルマ作戦 ビルマ作戦は、インド亜大陸侵攻を企図した”インド作戦”の陽動として立案された。 英領ビルマは熱帯林と山岳という厳しい条件の土地で、その上5月から11月は長く激しい雨期となる。このため、タイ国境からの陸上侵攻と同時に海上からのラングーン上陸が計画された。ラングーン上陸に関しては、揚陸艦が全てインド作戦に出払う予定のため、徴用輸送船が動員された。 ビルマ作戦自体も1941年に入ってすぐに開始され、4月中に一定の成果を出すスケジュールで動いた。 ビルマ及びインド東部の雨期は生半可なものではないため、地上での軍の行軍に大きな障害となるからだ。 このため4月までにはビルマ主要部の占領を終了。ほとんど何の迎撃準備もしていない在イギリス軍を鎧袖一触で蹴散らした。 しかし豪州作戦と次のインド作戦の為の準備で十分な兵力が取れず、西部沿岸のアキャブ攻略はすでに雨期に入っていた5月にずれ込み、このため海からの強襲上陸のみの侵攻となった。
アキャブ攻略に日本軍は従来の作戦用暗号を用い故意に情報をリークしたため、アキャブ上陸に当たる部隊には英印軍航空機の猛攻に曝されることになる。 また、敵を欺くため、陸路侵攻を思わせるタイ-ビルマ鉄道の工事を実際に着工した。 4月9日、アンダマン諸島に上陸。 5月13日、アキャブ上陸。
そして同時期、シンガポールを中心にして有史以来と言われるほどの未曾有の大船団が出現しつつあった。 これこそが、日本軍が用意したインドを電撃的に占領するための大兵団を載せた船団だった。 ---------------------------- 1941年初 日本陸軍戦力 -------------------------------------
Table.1 1941年1月現在の日本陸軍の動員状況
歩兵第118、119、120師団は内地にて訓練中。第二次戦時動員計画により、更に自動車化第30、31師団及び歩兵第121-128師団の動員が進行中。
Table.2 外地展開師団一覧(1941年6月)
Table.3 外地展開詳細(1941年6月インド作戦発動時)
---------------------------- 1941年6月 日本海軍のインド洋方面主要艦艇 -------------------------------------
・第一艦隊 戦艦 : 《大和》《武蔵》《信濃》《紀伊》 軽空母: 《鳳翔》 重巡洋艦:4
・第二艦隊 巡洋戦艦:《天城》《葛城》《阿蘇》《生駒》 軽空母: 《龍驤》 重巡洋艦:6
・遣印艦隊 戦艦 : 《長門》《伊勢》《日向》《扶桑》《山城》 特設空母:《飛鷹》《隼鷹》《大鷹》《雲鷹》 水上機母艦:《千歳》《千代田》
・第二航空艦隊 空母 : 《翔鶴》《瑞鶴》《天鶴》《紅鶴》 重巡洋艦:2 水上機母艦:《高千穂》《浪速》
※これ以外に、船団を直接護衛する護衛戦隊多数などが存在する。 ※豪州方面との事実上の二面作戦の為、海軍全体のほぼ三分の一が修理と補修、さらに再編成中。 インドにはこれ以上の戦力をまわすことは難しい。 ※インドネシア西部から基地航空隊が支援。一式陸上攻撃機など航続距離の長い機体が戦列に参加。 ■インド作戦 1941年6月14日 日本軍、セイロン島強襲。ダドリー・パウンド第一海軍卿率いるイギリス東洋艦隊残余の小艦艇はモルジブ諸島に脱出する前に壊滅。 セイロン島には、100機弱のハリケーンが配備されていたが、4倍の日本空母の艦載機を相手ではひとたまりもなかった。 6月17日、日本軍、ボンベイ空襲。 6月18日、日本軍の揚陸艦がベンガル湾各所に出現。セイロン島に対して、日本軍の大型陸攻による空爆が始まる。 6月21日、日本軍、インド亜大陸東岸4ヶ所に上陸。 一方、世界の目が南アジアに集中していたまさにその時、突如6月22日に独ソ戦が勃発した。約300万のドイツ兵は、バルト海から黒海に至る2000kmの全域から攻勢に出た。 ヒトラー総統が「枢軸の大攻勢」と宣言したように、欧州戦争としてはじまった第二次世界大戦は、まさに世界に飛び火しようとしていた。 なお日本は、ドイツとの密約に則り対ソ宣戦しなかった。その代わり、インド亜大陸の解放を承っていた。ソ連は、もちろん日本との不可侵条約に則り対日宣戦せず。 また、第三帝国総統は対ソ宣戦の時期を最後まで日本に明かさなかったため、日本の参謀本部や陸軍省は一時混乱に陥ることになる。 日本時間で6月23日、インド作戦開始から二日後という緊迫した状況にあり、陸軍の半分以上、29個師団がインド作戦に拘束されていたのだから当然だろう。もし、ソ連が不可侵条約を破って中華民国及び朝鮮に侵攻すれば、朝鮮全域と満州地方を失うことになっただろうから。しかも、朝鮮軍を後退させ、のちに反撃に用いられる揚陸艦は全てインド洋に出払っているのだから、大敗は免れなかっただろう。 なお、1941年6月当時、ソ連軍は中華民国軍と日本の朝鮮軍を警戒して、沿海州及び中華民国国境に多くのシベリア師団が配備していた。 だが、東京で活動するスパイ、ゾルゲの情報により日本が対ソ宣戦しないことがモスクワに報告されていたため、スターリンはシベリア師団から20万人を抽出しモスクワ防衛に転用することができた。侵攻能力など無い中華民国軍は、日本軍が動かないということで半ば無視された。 また、仮に日本・中華民国とソ連が交戦状態になっても、広大なシベリアはその面積自体が要塞に等しいとソ連軍側は考えていた。ここに侵攻する者は専ら補給線そのものと戦うことになるだろうことがスターリンにもわかっていたため、シベリア師団を抽出できた。とはいえ対日用の備えは2個軍・10個師団程度なので、極端に大きな増援とはならなず、多くのソ連軍部隊はヨーロッパ正面でドイツ軍に包囲殲滅されていくことになる。このため、日本の脅威がもっと大きければ極東軍備が大幅に拡大され、それがソ連軍の反撃力へとつながったとする説もある。
では再びインドに戻ろう。 インドの英印軍は、北アフリカへの増援予定だったインド第8師団とマチルダ戦車240輌を受領していた。そして既存の部隊と共に機動的な打撃部隊を編成し、日本軍から要衝ボンベイを守る”バトルアクス”作戦発動した。しかし日本軍の空襲の前に地上部隊との戦闘の前に戦車、野砲を中心とした戦力をすり減らされ、戦闘自体も日本軍の精鋭部隊が相手だったため敢えなく敗退した。しかしインドでの戦闘は、イギリスが出来る限りの努力を傾けたため日本軍の予測よりも強固な場合が多かった。 だが一方では、北アフリカへの補給と増援が大幅に削られた。その結果機動性を失って硬直した守勢一辺倒にならざるをえず、第7機甲師団を中心とする北アフリカのイギリス第8軍団はロンメル将軍率いるDAKに散々に打ち破られた。そして防衛の要だった北アフリカの要衝トブルクとハルファヤ峠を失い、一気にエジプトでの戦いに移行する事になる。 また、ハリケーンMk. II 350機もバトル・オブ・ブリテンの終結後にインドに移送、運用されていたが、日本軍がしかける激しい航空撃滅線の前に短期間で消耗した。空中戦では、数でも個体戦闘力でも日本の航空機が上回っていた。 加えて、アメリカ義勇航空隊がこの頃はじめて出現し、オマーンを拠点にイギリス軍の支援を行った。 このアメリカの行為は明らかな戦争行為だったが、日本軍はフィリピンでの挑発と同様にアメリカ人など存在しないかのように完全に無視し、イギリス軍機として叩き落とした。 7月、チャンドラ・ボースとビハリ・ボースらを中心に、自由インド国をカルカッタを臨時首都として建国。チャンドラ・ボースがインド国民軍最高司令官を勤める自由インド軍が組織され、日本から武器、弾薬などが供与された。自由インド軍は英領マラヤ・シンガポール・香港などで捕虜になった英印軍のインド兵を中心に結成されていた。 日本軍に連動する形で中華民国の雲南爬兵師団がビルマに侵攻し、英印軍を拘束。 これで中華民国も本格的に戦争に参戦することになるが、中華民国は香港の戦いを始めるにあたってイギリスに対してしか宣戦布告せず、他の連合軍、特にソ連に対しては中立を維持した。だが香港では、占領ではなく奪回と宣言したことで、その後多くの外交問題を発生させることにもなった。 8月、エジプトでは、エジプトの最終防衛線であるエル・アラメインがDAKに占領され、イギリス地中海艦隊の残余がアレキサンドリアからベイルートに退避。 だが、ロンメル将軍率いるDAKは、勝利したもの燃料不足から身動きがとれなくなり、カイロ攻略は大きく遅れる。このためスエズ運河は、ドイツ軍の空襲を受けながらも辛うじて稼働していた。このためアレキサンドリアを追われた一部の艦艇が、スエズを越えて紅海に逃れる。 同月、日本軍による東ビルマ包囲戦。激しい雨の中行われた、文字通り泥沼の中での戦いに決着。 英印軍3個師団、ネパール軍2個師団、ブータン軍1個師団が包囲され、11万人が降伏。その後かなりの数の現地出身将兵が、義勇軍の形で枢軸側、より正確には日本軍に協力するようになる。中には、世界的にも知られたグルガ兵(ネパール兵)もいた。 パフラヴィー朝ペルシアにイギリス軍が侵攻、レザー・シャーは退位し、モハンマド・レザー・パフラヴィーが第2代皇帝に即位。ペルシアはイギリスの属国となり、インドへの陸上補給路として利用された。イギリス軍のイラン侵攻の目的も、陸上補給路確保が主目的だった。 また、ペルシアのアバダン油田は中東地域でも有数の大油田であり、今や石油不足に苦しむイギリスにとり絶対に必要な要所だった。 9月、日本軍は、カラチ=デリーを結んだ英印軍防衛線の裏側から上陸して英印軍の壊滅を期す”波作戦”を発動。 大規模な輸送艦隊がボンベイから洋上会合点に向かう途上、迎撃に出てきたイギリス東洋艦隊主力と遭遇。不意を付かれた日本軍は多くの輸送船を失う(第一次アラビア海海戦)。これによりインド作戦は遅延し、ニュージーランド攻略の予定も来年にずれ込むことになる。 同戦闘は、日本軍のあまりの勇み足と勝利に対する奢りを象徴する戦いと言われる。 ---------------------- 第一次アラビア海海戦 --------------------------- 地中海ではマルタ島を中心とした地中海航路が辛うじて維持されていたが、北アフリカからの連合軍撤退により、イギリス海軍の行動範囲は必然的に東地中海に限定されつつあった。ジブラルタル=マルタ間の航路は常にイタリア海軍とドイツ爆撃機の攻撃に曝され、高い損耗率を記録していた。スエズ運河も風前の灯火だった。 しかし、インド防衛のためにはベイルート港や仏領シリアに連結する地中海=中東航路はイギリスにとり不可欠であり、地中海航路は維持されなければならなかった。 一方でインド洋ではあらゆる艦艇を用いたアラビア海突撃輸送が相次いでおり、海路の輸送にならざるを得ない重機材の多くが日本海軍によって海に沈められていた。1941年の夏だけで、イギリスは100万トンもの船舶、艦船を失った激しい戦いだった。 それでもチャーチル首相は、兆候が察知されていた日本軍の大規模上陸作戦の出鼻を挫かねばインドを失うと判断し、一時的にせよ地中海を空にしてでも日本の輸送船団を攻撃する決断をした。 8月中旬には、地中海艦隊及びH部隊所属の戦艦《バーラム》は地中海で損傷を受けイギリス本土に後退。戦艦《マレーヤ》だけがマルタに残置された。つまり、本当に地中海のイギリス艦隊はほとんど空っぽになってしまった。 それだけイギリスは、インドを重要視していた。 一方の日本軍は戦況を楽観しており、護衛の主力を第二艦隊だけとして、念のための後詰めもまともに用意していなかった。
・第二艦隊 巡洋戦艦:《天城》《葛城》《阿蘇》《生駒》 軽空母: 《龍驤》 重巡洋艦:4
・遣印艦隊 戦艦 : 《長門》《伊勢》《日向》《扶桑》《山城》 特設空母:《飛鷹》《隼鷹》《大鷹》《雲鷹》 水上機母艦:《千歳》《千代田》 第1艦隊の《天城級》巡洋戦艦4が随伴した日本輸送船団に、地中海から抽出された《レゾリューション》を除く《Q・エリザベス級》3隻《クイーン・エリザベス》《ウォースパイト》《ヴァリアント》を含む臨時編成のインド洋部隊(臨時東洋艦隊)が不意を突いて襲った。この5月に北大西洋で《フッド》を失ったイギリスとしては、絞り出せる限界の戦力だった。 空母《ヴィクトリアス》も随伴し、ポートモレスビー沖の勝利の再来を期していた。しかし、チャーチルが求めた新鋭空母《インドミタブル》の作戦参加は、いまだ艤装最終段階のため叶わず、航空戦力はあまり変わらない状態で我慢しなければならなかった。
世界最強の巡洋戦艦部隊に対して、まともに勝負しては勝ち目がないので、狙いを日本軍輸送船舶だけに絞りイギリス軍は遊撃戦を徹底した。また空母の搭載機もソードフィッシュばかりとして、《ヴィクトリアス》は自らの防御力のみを頼りにする半ば捨て身の戦法を取った。 用意周到なイギリス海軍の作戦は当たり、日本軍は自らが得意と考えていた夜襲で手ひどい敗退をすることになる。 この時イギリス軍は電探(レーダー)を広く利用し、対する日本軍はまだ実用的な実戦配備をほとんど行っていなかった。これがイギリスとイタリア艦隊での戦闘同様の状況を、アラビア海でも再現する。 圧倒的と言う以上に優勢な筈の日本海軍の大型巡洋戦艦群は、イギリス艦隊のレーダーを用いた戦闘に翻弄された。 しかし夜間戦闘は混乱するのが常であり、この時の戦いも日本側の夜間見張り能力もあって激しい乱戦となった。 だが巡洋戦艦と言っても、日本海軍が投じた巡洋戦艦は46センチ砲を装備した40センチ砲対応防御というモンスターだった。また新鋭艦であり、世代の差だけでなく設計の面からもイギリス軍が投じた艦艇とは大きな隔たりがあった。また、日本側が水上機から照明弾を投下した事で、ある程度体制を立て直した。 このためイギリス軍は戦艦だけでは突破ができず、本来は予定になかった水雷戦隊を投じる。この結果日本側はついに大損害を受ける。 しかし対するイギリス軍も、手負い猛獣のごとく暴れる巨大巡洋戦艦の群れに攻めあぐねた。 4隻の巡洋戦艦から繰り出される46センチ砲の威力は凄まじく、イギリス側も近距離から突き刺さった巨弾の前に損害が相次だため撤退を決意。戦闘は終幕する。 しかしイギリス軍の攻撃がこれだけでは終わらず、なけなしの潜水艦を送り込める限りインド洋に展開し、この時の日本船団を激しく攻撃した。また地上からは、対向する基地配備の日本軍航空機を無視して、接近する船団を無理矢理攻撃した。 9月19日から21日までの戦闘で、日本の1万トン級大型輸送艦7隻、2万トン級タンカー2隻が失われ、他の26隻の輸送艦・タンカーはボンベイに引き返した。日本海軍は5万トン級の戦闘艦を危うく失い賭けた事にショックを受けていたが、日本政府は大型船舶を多数失った事の方にショックを受けた。このため、戦闘を主導した高木少将は事実上更迭、左遷されるなど、海軍の綱紀粛正が実施された。 海軍の海上護衛に関する戦術と装備、兵力に関しても大きく見直され、改善される大きな切っ掛けともなった。
22日に第1艦隊から分離して別の作戦に従事していた第1航空戦隊(※《蒼龍》《飛龍》主力)が日本艦隊に合流したが、その時点でアラビア海海戦は終了し、残存するイギリス艦隊は紅海に引き返していた。 戦闘は、戦略的にも戦術的にもイギリス軍の勝利であり、日本海軍は自らの慢心に足をすくわれた形だった。 ○彼我損失 日本海軍:駆逐艦5、輸送艦9 (他、巡洋戦艦《葛城》《生駒》大破、巡洋戦艦2隻中破) イギリス海軍:戦艦《ウォースパイト》、軽巡《アリシューザ》《オーロラ》、駆逐艦8 (他戦艦2隻大破)
オーストラリアでの戦闘と合わせて、戦闘以後日本軍では電探開発と配備が異常な勢いで進むことになる。 ------------------------------------------------------------- 1941年10月、ソコトラ島沖空戦。 紅海とインド洋を結ぶ要衝であるソコトラ島のイギリス航空部隊を壊滅させ、英印軍の補給を絶つことを目的とした。イギリス戦闘機・雷撃機は航続距離が700km程度しかなく、陸上からのイギリス艦艇護衛は沿岸300kmまでが限界だった。ブレニム爆撃機ならば洋上400km程度まで進出できたが、当然ながら日本艦載機の攻撃を防ぐ役には立たない。よって、イギリス艦隊は陸上戦闘機の援護を受けられる沿岸付近を選ぶことが多かった。 イギリス軍はレーダーを中心とした情報戦で日本軍を優越していたため、海空軍がよくお互いを援助していた。 ソコトラ島にもイギリス空軍機が進出し、アラビア海を航海する連合国船舶の往来を上空から援護し、また飛行艇による警戒の拠点となっていた。 揚陸艦は度重なる上陸作戦で傷つき、整備も必要なため日本本土に多くが帰還していたので、上陸作戦は1942年を待たねばならなかった。よって、海上封鎖と通商路破壊を目的とした航空機だけの攻撃が計画された。しかし、防空戦では技量豊富なイギリス空軍は容易に屈服せず、またインドに増援しそこねた部隊が転用されていたため意外な長期戦となる。日本空母艦載機にも所属や技量の問題もあり、容易に補給できるものではない。数次の攻撃により損耗した艦載機の補充のため、日本空母は機種改変を受ける目的もあってシンガポールに一時後退することになった。 この時期のアラビア海は、日英両海軍の死闘の海となった。 セイロン島を基点とする日本潜水艦の通商破壊戦は1941年8月には40隻体勢に拡大し、連合国輸送船200隻120万トン余りを撃沈していた。しかも日本海軍は水上艦艇を通商破壊戦に大規模に投じており、その破壊力はドイツ海軍の比ではなかった。日本海軍の通商破壊は、海路を脅かすのではなく海域ごと制圧してしまうからだ。 インド洋を航海する連合国船舶は当初1000隻を上回っていたが、その多くが日本軍の追跡を逃れ主にインド洋西部に退避せざるを得なかった。 それでもイギリス海軍は、次第に少なくなる高速輸送船を徴用し、オマーン国沿岸各地に潜むイギリス海軍の高速駆逐艦と共に夜間”突撃輸送”を実行した。 それを待ち受ける日本海軍との間に複数の海戦が頻発。レーダー技術で優越するイギリス海軍の輸送作戦は当初成功を収めたが、日本海軍哨戒部隊や潜水艦の展開、レーダーの緊急配備に伴い、もともと戦力で勝る日本の優勢に転換してゆく。特に10月24日に行われた「第三次アラビア海海戦」では、イギリス軍巡洋艦群を護衛とした中規模の高速船団に対して、日本軍は戦艦《長門》を中心とする中規模な艦隊を投入。徹底した近代改装により速力28ノット、この時は海面状態が良く実質30ノットの発揮が可能となっていた《長門》は、最新のレーダーを搭載した事も重なって獅子奮迅の活躍を示した。《長門》はレーダー射撃によって護衛の大型軽巡洋艦2隻を瞬時に撃沈し、《長門》率いる日本艦隊はそのまま後方の輸送船団に対する突撃を敢行して多くの船舶を自慢の16インチ砲の餌食とした。失われた装備、物資の量は、インドのイギリス軍は一ヶ月の抗戦が延長できたと言われている。またこの戦いは「第一次アラビア海海戦」の復讐戦ともなった。 この海戦の結果、イギリスは中規模船団の編成を遂に諦め、以後単独もしくは小数船団へと完全に切り替えることになる。
イギリス海軍では1941年12月に水面下への前方投射兵器(小型爆雷)であるヘッジホッグが実用化され、1942年には実戦配備される予定だった。また、対潜哨戒機から投下する爆雷についても実戦投入は間近い。アスディック(ASDIC=アクティブソナー)も開発されていた。しかし、1941年秋の現時点では、日本潜水艦の跳梁を許していた。その上大量の水上艦隊が存在するため、インドは首を締め上げられた羊も同然だった。 11月、アグラにて、日本軍が英印軍主力を撃破して4万人を捕虜にする。 同月、アフリカ大陸東岸の英領タンガニーカのザンジバル港を日本海軍が空母機動部隊を用いて奇襲的に空襲し、多数のイギリス艦船を撃破。インド洋の制海権はほぼ日本のものとなる。イギリス海軍残余は南アフリカに退避。 12月、デリーにて日本自動車化部隊が英印軍主力を包囲、デリー市街戦は4ヶ月にわたり継続する。 同月、補給を受けたDAKが、ついにカイロを奪取。イギリス軍はスエズ運河の東岸に退避した。これによりスエズ運河は実質的に連合・枢軸両陣営が利用できなくなった。 ■インド亜大陸の緒戦闘 九八式中戦車とマチルダII戦車が広大なインドの平原でぶつかり合う戦闘は、小さな独ソ戦のごとき様相をみせていた。イギリス軍はインド国民会議派が供給するインド歩兵を英印軍に組み込み、日本軍は自由インド軍と共に戦った。インド総督リンリスゴー卿は、65万人のインド鉄道労働者の一部をも徴兵し、対日戦に投入した。 食料は充分な小麦を徴発できたので両軍とも困らなかった(また、日本軍はカルカッタとマドラスに糧食加工工場を建設し、内地からの糧食調達比率は低下していた)。煮沸さえすれば、飲料水も掃いて捨てるほどあった。 保守的なリンリスゴー卿は、インドの民族主義者に憎悪されていたが、戦時ということで一応のインド人の協力を得ることができていた。しかし、”完全な独立(プールナ・スワラージ)”を求めるインド国民会議派の勢力は次第に拡張し、”非暴力・非協力・市民不服従”を掲げたためにリンリスゴー総督の手に出来る資源は不安定なものだった。 のちに総督は、会議派と州会議派及び藩王国主義者を互いに争わせる分割統治を実施したため、更にインド民衆の心が離れる結果となった。 1941年7月、会議派のガンディーと総督が交渉の席につき、戦後のインド連邦自治領の設立を約束し、会議派の戦争協力を求めた。こうして、”英連邦内のインド”という構図を維持しようとしたが、今や軍事的に追い詰められたイギリスに従うのが正解なのか疑問を感じるインド人も少なくなかった。 交渉において、ガンディーは総督に「インドが英連邦の一部でなければ日本は我々を攻撃しないだろうし、また我々に行動の自由があれば、インドはアイルランドと同様に中立を選ぶであろう」と見解を披露し、イギリスへの不服従を匂わせた。 チャーチルはインドの態度を知りこう指摘した。「ウェストミンスター憲章は自治領の地位を規定していない。よって、第二のバルフォア宣言を与えることなく自治領は英連邦から離脱する権利を有するだろう。しかし、大英帝国の軍事的敗北の結果、英連邦から離脱・独立する国家に対して大英帝国が負う債務は、正統な政府にしか支払われないものと覚悟すべきだ」と。 つまり、インドに負わせた戦費を返してもらいたければ自陣営に留まり最後まで戦え、ということだ。当時、インドに対してイギリスは約8億ポンドの債務を有していたと推定される。こうした恫喝は、ますますインド民族主義者の心をイギリスから引き離していった。 一方の日本は、自由インド国の独立を認め、ボースの要求に従い藩王国の権力を取り上げ強力な中央集権国家の建設を容認していた。日本にとっては、輸出入が自由にできれば統治までする必要を感じていなかったため、イギリスのように譲歩を小出しにする必要がなかったのだ。 しかも、パキスタンのムスリム連盟とも接触し、パキスタンの独立をも認める声明を出した。これにはボースが反対したが、日本はインドのイスラム教徒を味方につけることに成功した。 ヒンドゥー教徒が住むヒンドゥスタンは自由インド国、パンシャーブ・シンド・ベンガル及び北西辺境州はイスラム教徒のもの。ヒンドゥスタンに対して完全に対等なムスリム・パキスタンの誕生という夢は、漠然としていたイスラム教徒の将来像を突如として明確化した。熱狂的なパキスタン主義者が出現し、数千万人の人口を誇るムスリム民衆から多くの志願兵が輩出されたことで、インドにおける日本軍の労務や輸送問題の解決に向け大きく前進した。 実際のところ、遠方で作戦行動をとる戦時体制の29個師団を養うことは、日本の生産力からして限界に近い負担であった。タイ-ビルマ鉄道が完成しバンコクから兵站物資を鉄道輸送できれば負担は減るが、完成はまだ先のことである。 インド作戦開始以降の日本軍は自動車化師団2、歩兵師団6個の増援を受け、1941年末インド亜大陸をほぼ制圧した時点での総兵力は36個師団80万人に達していた(戦車師団2、近衛師団3、工兵師団1、自動車化師団14、歩兵師団16)。 更に自由インド軍5個師団、ムスリム連盟から3個師団が指揮下に入っていた。 英印軍は各地で敗退を続け、今や戦線はペルシャ王国に近づいていた。
この時期、枢軸の勝利は目の前に見えた。