■産油国日本 5

■技術交流

 日本はドイツに負けてもらっては困る。それは戦略の大前提だった。よって、ドイツに援助をしたいところだったが、新興国の日本から援助できる技術はほとんどないというのが現実だった。現代の戦争の心臓であるところのエンジン技術そのものが、もともとドイツからのライセンス供与に依るところ大であったのだから、対独技術援助など何をかいわんやだ。
 ドイツが切実に欲する石油など一部の資源は日本に掃いて捨てるほどあるが、大量にヨーロッパに届ける手段がない。結局、日本には独ソ戦の様子を遠くから眺めるだけしかできないのだった。
 ドイツが日本に求めてきたのは、ソ連に対する参戦ぐらいだった。

 日本軍の航空機がインドで運用されるようになった1941年後半からは、高速偵察機や爆撃機を用いた枢軸間の技術交流が盛んになり、ドイツからはレーダー技術、過給器向け特殊鋼技術、ドイツ製火器の青写真などが供与された。現物も一部供与され、製品を作るための冶具なども空を越えた。
 どれも決定的に戦争遂行に有利な技術ではない。
 しかし意外な事に、日本軍がインドで見付けた技術の幾つかはドイツが持たないものがあったため、両者で研究と開発、そして自力での生産が行われることになる。この中には、港で廃棄された護衛艦艇の前方投射兵器(=ヘッジホック)など有効な兵器も含まれていた。また日本にとっては、電波技術、無線技術で新たな知識と技術が得られた事は、この後の戦いで非常に重要となっていく。

 今のところ本土が危険に曝されていない日本では、対空レーダー開発は英独などに比べ遅れていた。技術的な未熟も多かった。固定式であるためにインド戦線ですぐに利用できない巨大なセンチ波レーダーは急場の役には立たない兵器とみられており、実用化が遅れていた。この流れが変わるのは、日本海軍がアラビア海で手ひどい敗北を受けた後の事だった。
 日本からは、小型空母用の蒸気式カタパルトの青写真、製油所向け高効率ボイラー、かさばらないタングステン合金製加工ビットなど、ドイツにとって割とどうでもいい技術や製品しか供与できなかった。ドイツが欲しがる石油、生ゴムなど大量に必要な資源は、スエズを完全に奪わなければ送り届ける事ができないものだった。
 さぞかしヒトラー総統も落胆したことだろう。決済のための純金の山の方がドイツ側を喜ばせた。
 だが、こうした細かい技術交流の結果、僅かだがエンジンの出来を左右しかねないオイルシールについての情報を得られたし、液冷エンジン製造上のアドバイスを直接BMWやメルセデスの技術者に聞けるようになったことは、日本の技術開発上の大きな力となったのだった。
 また、ドイツ軍需省がしている生産に関する各種ノウハウの情報も、日本の戦時生産に好影響を与えた。

 1943年になると、ドイツからの技術供与がより重要性を増し、頻繁に撃沈されるようになった日本潜水艦の改良も試みられた。主なところで、溶接構造の大幅採用、機関などの静粛性の向上などだ。
 供与されたシュノーケル技術は日本でも再現可能だが、そもそも日本製潜水艦は静粛性能が低く、対Uボート戦で優れた実績を残すイギリス海軍にとって、日本潜水艦は良いエサに過ぎなかった(日本の水上艦艇の強大さのおかげで、潜水艦の欠点はさほど目立っていないが)。
 また、ドイツで開発された初期の音響誘導魚雷は、自身の騒音を拾うために低速だが静粛性に優れた電池式魚雷にならざるを得なく、射程と雷速の面からあまり実用的ではなかった。
 日本では30年代に開発が放棄された酸素魚雷と音響誘導を組み合わせていたら・・・・・・と考えたくなるのは人情だが、騒音問題が解決されない限り、技術的挑戦の域を出ない試みとなっていただろう。そもそも日本海軍は、酸素魚雷を開発しながら採用を見送っているのだから、何をか言わんや、というやつだ。

 なおドイツは、日本が多数保有する戦艦や空母、それが無理でも重巡洋艦の供与を何度と無く求めていた。ドイツとしては、海上での劣勢を覆したくて仕方なかったからだ。しかし日本としては、インド洋のイギリス軍は撃破したが、アメリカが気になるのでドイツの求めに応えることは無かった。

■独ソ戦における兵站

 資源供給面での不安が去った日本ではあるが、ヨーロッパで続く巨人同士の戦いは気がかりであった。
 仮にソ連がドイツに勝利するようなことがあれば、極東から中東まで広がる日本は、内線の利を生かす巨大なハートランド=ソヴィエトの猛攻に曝されることになろう。日ソは不可侵条約を結んではいるものの、1941年6月22日にドイツ第三帝国がなにをしたかを思い返せば、それが大した安全保障にならないことは明らかだ。
 また、一般的にソヴィエト連邦は、ナチスドイツよりも国際的信義に篤いとはとてもいえないと評価されている。少なくともバルト三国やフィンランドの住民ならば、それに異議は唱えないだろう。イデオロギー国家にとって、国際条約は自らの都合で破るために存在するとすら言われるほどだ。

 俗に言う「独ソ戦」は、大雑把に言うと補給との戦いだった。有史以来、全ての戦争で補給は常に重要だったが、現代戦では特にそうだ。
 ナポレオン戦争ではフランス軍がロシア領深くまで侵攻できたのは、当時のフランス陸軍の規模と重量が技術的に可能な戦術的輸送手段・・・・・・馬車でも対応可能だったからだ。
 一方、軍隊の重量化と重火力化が進んだ第一次世界大戦では、軍隊が要求する物資の供給が鉄道にしか対応でず、そして鉄道はレールによって行動範囲を制限されている。実際、鉄道路線から外れた場所での攻勢では、簡単にへたり込んでしまっていた。
 よって、延々と塹壕戦が続く静的な戦場が支配的になってしまった。

 そんななか、技術革新によって誕生した戦車とトラック、これが電撃戦を可能にした。鉄道には不可能である柔軟な補給手段の出現だった。
 第二次世界大戦開幕時、1939年9月のドイツには、50万台の4輪自動車が存在していた。フォルクスワーゲンの国民車構想などを立ち上げ自動車産業を育成したドイツは、この自動車産業の生産力によって師団の自動車化を推進した(ただし、当時のアメリカは年間400万台もの圧倒的四輪車製造能力があった)。
 開戦時にはドイツの全103個師団のうち装甲師団・自動車化師団など計16個が完全自動車化されていた。各装甲師団は3000台の車輌を保有した。
 歩兵師団にも各942輌の4輪自動車を保有するのが正式編成となったが、補給物資の大部分は各師団1200輌の馬車(+馬5000頭)によって運ばれていた。ドイツのような大工業国でも、自動車に必要な石油とゴムは輸入に頼らざるを得なかったため、自動車はいくらでも生産できるものではなかったのだ。
 このため日本との関係改善から第二次世界大戦の勃発まで、日本からドイツには非常に多くの自動車両が輸出されている。正確な数は分かっていないが、各種トラックだけで3万両に達すると見られている。


 では、東部戦線において、おおまかな軍需物資の流れをたどってみる。

工場 ⇒ 駅 ⇒ 兵站駅 ⇒ トラック・馬車 ⇒ 物資集積所 ⇒ トラック・馬車 ⇒ 師団

 という流れになる。

 つまり、トラックは駅と師団を繋ぐ中間的な存在だったということになる。
 実際、一本の複線の鉄道はトラック1600台分の輸送能力があったと言われているのだから、あくまで輸送距離のほとんどは第二次世界大戦においても鉄道だったのだ。ただし、北アフリカ戦線では鉄道がほとんどないために、策源地となる港湾からは自動車輸送にならざるを得なかった。しかも水まで運ぶ必要があった。
 ドイツの電撃戦は、兵站駅と物資集積所の間の200マイルに満たない距離で起きたイノベーションだった。

 部隊付属の輸送隊とは別に、ドイツ陸軍は3個の自動車輸送連隊を編成しており、兵站駅と物資集積所を往復させていた。自動車輸送連隊は合計9000名の兵員と6600台のトラックを保有し、約2万トンの輸送能力を有していた。
 この輸送力を以って、ポーランドとフランスで戦ったのだった。そして、バルバロッサ作戦開始時にはフランス・ベルギー・オランダで鹵獲したトラックはもちろん、スイスなどからも購入したあらゆるトラックを投入して輸送連隊を拡充したのだった。戦前に急に増えた日本製トラックも重宝された。

 バルバロッサ作戦は、ドイツ東部作戦軍(オストヘーア)の3個軍集団によって編成された。

○東部作戦軍の編成
OKH直属   12個師団
北方軍集団 28個師団
中央軍集団 54個師団
南方軍集団 54個師団
合計     148個師団 
フィンランド軍などを含む作戦参加した枢軸軍の総計320万人。

 この148個師団(ルーマニア師団10個を含む)を、6万トン(14000台)の輸送能力を有する自動車輸送連隊が支えた。
 トラック輸送隊は荷積み・荷下し・横持ち時間を含めて6日間で600マイル走行することを期待された。つまり、3日で片道300マイルを走行するということだ。1日当たり運搬可能トン数は6万トン割る6日で約1万トンとなる。
 現代の自動車が高速道路を使えば、1日で京都から青森まで実走1200km(750マイル)移動することは充分に可能だが、東部戦線のトラックが走るのは荒れた未舗装道路である。

 1日あたり輸送量1万トンを、上記の148個師団で割れば、1個師団あたりのトラック輸送力の割り当ては1日70トン弱となる。
 装甲/自動車化師団の物資必要量は1個師団あたり300トン/日なので、バルバロッサ作戦に従事した33個の装甲/自動車化師団の輸送力割り当てだけで手一杯ということになる。
 歩兵師団の物資必要量は200トン/日程度であり、兵の糧食と馬のかいばは現地調達も可能だろう(後方から輸送すべき糧食の比率は50%と見積もられていた)。また、兵站駅から物資集積所までの距離を片道300マイルより詰めれば詰めるだけ1日当りの輸送能力は向上する。ドイツ参謀本部はそういった自助努力も織り込んで、ギリギリの兵站能力でソヴィエトに戦いを挑んだのだ。
 ブレスト・リトフスクからモスクワまでの直線距離630マイル。
 しかしそこは、次第に鉄道や道路の密度が減ってゆくヨーロッパ・ロシアの広大な大地だった。


 鉄道路線をロシアの広軌からドイツの標準軌に転換する作業は遅れ、ドイツ軍部隊がドニエプル川に達する頃にはドイツ自動車輸送連隊は300マイルも離れた旧ポーランドまでの間を往復する事態となった。
 物資は不足し、進撃速度は遅くなった。頻繁に使用される未舗装の道路は崩れ、泥濘の中でトラックは立ち往生した。10月後半には猛烈な冬の寒気が訪れ泥濘は凍土に変わりつつあったが、今度はドイツ製機関車の給水パイプが凍結で破損して鉄道輸送が滞り、しかもトラックのラジエーター液まで凍りついた。最も必要とされた弾薬やガソリンの輸送機による空中補給も行われたが、一機当りせいぜい1〜2トンでは焼け石に水だった。悪天候などで、いたずらに損失機を出すばかりでほどなく先細りとなった。

 また、ドイツ兵は本格的な冬季装備ももたず、鉄の鋲が打たれた軍靴は寒気を良く伝え、足の指先に凍傷を負わせた。実は冬季装備は後方では準備されていたが、当初は優先度が低いと考えられ、そのまま前線への到着が遅れていたのだ。
 冬季が来る前に打倒できるはずだったソヴィエトは未だ首都モスクワも健在であり、そのモスクワにはシベリア、中央アジア各地から新たな師団が到着していた。
 モスクワ防衛戦だけで125万の兵力を揃えたソ連軍を前にして、ドイツの進撃は止まった。

 1941年12月、ソ連赤軍はファシストとの戦いの前線に420万の兵力を投入し、一方のドイツは270万人に減少していた。
 枢軸国全体では340万を数えたが、ドイツのご機嫌取りで参加している枢軸軍の兵と、祖国防衛の念に燃える赤軍とでは戦意がまったく違っていた。
 もっとも、ソ連赤軍の兵士の訓練度の低さと総反攻が成功するまでのソ連赤軍の戦意が殆どどん底だった事を考えれば、状況はどっこいどっこいとも言えるだろう。督戦隊など持っている軍隊の戦意など、押して図るべしである。

 日本軍の主戦場であるインド戦線も補給との戦いだったが、インドは海に面した巨大な半島であり海上輸送に適していた。しかも温暖で水や食料も豊富にある。更に河川輸送に適した緩やかに流れる大河川ガンジス川まで利用できた。
 しかもイギリスの長年の投資により、1940年現在のビルマ鉄道を含むインド鉄道の敷設距離は6万6000kmに達し、日本を遥かに上回る鉄道大国だった(インド鉄道労働者数が65万人もの規模だったのも、敷設距離の長大さのためだった)。
 これの輸送面での貢献は大きかったため、日本軍の輸送上の問題点はドイツ軍よりも遥かに小規模だったのだ。例えば日本本土からマドラスやボンベイの海港に入港する大型輸送艦は、一度に1万トンも物資を運べる。
 つまりドイツ東部作戦軍の1日の物資輸送量を一度に賄えるのだ。


■Unternehmen Blau

 ソ連軍は、1942年年初にモスクワ前面のルシェフ=ヴィヤジマ間、トロぺッツ=ホルム間、パルヴェンコヴォ=ロゾヴィヤ間で総計138万の兵力で冬季反攻に出た。
 ドイツ第三帝国総統は死守命令を下し、厳寒のモスクワ近郊では独ソ両軍部隊が錯綜していた。
 戦況は一進一退だったが、精鋭部隊が不足するソ連軍は稚拙な突撃で損害を積み上げて攻撃力を消耗してしまい、春を迎えるまでにロシアの大地は多少なりとも静けさを取り戻すことになる。
 その間に「ブラウ作戦」が立案され、1942年のドイツ東部作戦軍の戦略目標はカフカス地方に決まった。
 ヒトラーは短期決戦の望みを捨て、ソ連のカフカス油田を奪い、かの国の継戦能力を奪う目標を立てたのだ。また、カフカス地方への進撃は、ペルシア回廊経由の連合国からの軍需物資輸送を妨げ、更にペルシアにおいて日独両国が地続きになるという象徴的な意味合いをも持っていた。
 ブラウ作戦は、カフカスを南下するA軍集団100万とスターリングラードに向かうB軍集団30万を主力とした。
 バクーとスターリングラードを奪い、ソ連の頸動脈を締め上げるのだ。

 1942年7月26日、ドイツ第6軍が都市要塞化の工事半ばだったスターリングラードを完全占領し、B軍集団の目標は達成された。ソ連軍は戦略的撤退を続け、スターリングラードはほぼ無血で開城したのだった(※この直前、スターリンの命令によりスターリングラードはボルゴグラードと名称を変更した)。

 8月25日、アストラハン占領。これによりボルガ川西岸まで進出し、河川防御を展開することになった。前線の正面延長も縮小できたため、疲労したドイツ軍はしばしの休息を得ることになる。
 一方ボルガ川が自由に使えなくなったソ連は、生命線ともいえる石油の最大供給ルートを実質的に失う。当面かカスピ海沿岸の他の地域から代替ルートを使えばいいが、油田そのものの陥落も既に目前だった。
 以後の作戦活動の大幅見直しを迫られる事になる。

 10月6日、ドイツ軍、A軍集団がバクー油田地帯を占領したが、既に油井と製油施設は破壊されていた。
 そしてソ連も石油供給の70%以上を完全に失い、以後大きく活動を停滞させる。戦場での部隊の移動から工業生産に至るまで、ありとあらゆる場所が停滞した。
 バクー油田の代替を英米に依頼し、北大西洋から大量のタンカーを派遣するも、これもドイツ軍の餌食となって大損害を受けて輸送作戦は1942年内は全面中止。ペルシャ湾方面から物資を送る計画も、日本軍の侵攻の前に計画段階で中止された。
 ソ連は第二バクー(チュメニ)などの油田開発を促進するが即効性は薄く、ソ連国内の石油不足が急速に進んだ。
 総統の望んだ形ではなかったが、戦争経済はソ連を窒息させつつあった。

 7月以降、たびたび前線のドイツ軍はガソリン不足に苦しんできたが、日本陸軍機は時にトルコ上空を経由したガソリン空中投下作戦を行って主にコーカサス方面のドイツ軍を支援した。確かに運べる量は限られていたが、ガソリンを得たときのドイツ軍装甲部隊の威力は絶大だった。この補給を、ドイツ軍将兵は「皇帝(天皇)の酒」と呼んだ。
 なお、ソ連政府は日本の対独援助活動を非難し宣戦布告と見做すと警告しているが、日本はアメリカのレンドリース同様の活動でしかないと表明。アメリカも日本の行動を強く非難したが、逆にアメリカの行動を強く非難した。

 11月21日、イスラム系住民の妨害を受けつつも、ドイツ山岳部隊は旧ペルシア国境を越境。12月初旬までにダブリーズに至った。

 12月16日、旧ペルシア領の日本軍とドイツ軍がついに握手。以後、日本やインドネシアから運んだ分に加えて、ある程度復旧したアバダン油田からの石油もドイツ軍に直接供与された。このタイミングで石油不足の緩和はソ連軍の冬季攻勢を凌ぐために大いに役立った。

 この時期、ボロネジとスターリングラードの間でソ連軍は反攻に出ていた。総兵力は120万。同地域の枢軸軍は第4装甲軍を中心とする45万であった。作戦参加部隊には、親衛や突撃の名を冠した重武装部隊、精鋭部隊が多数含まれていた。
 ヒトラーは、「東洋の同盟国との連携が共産主義者を包囲する」と演説し、南方軍集団を主に補給面で強力に支援した。日本の輸送機も、ペルシャ湾からバクー地域まで頻繁に飛び交った。日本の輸送機の盛んな行動に対して、ゲーリング国家元帥がドイツ空軍の指揮下に入るべきだと文句を付けたほどだった。
 対するソ連の冬季反抗は、従来の視点から見ての深刻な石油不足、レンドリースの一時的ながら事実上の途絶により、各部隊が十分に機動戦を用いる事ができずに低調だった。しかも大敗で心理的余裕を失った上層部からの過酷な命令により、損害だけを積み上げるに終わる。
 この無茶な反攻で、親衛や突撃の名を冠した精鋭部隊の多くが壊滅。これまでの戦いで教訓を得た将校、兵士の多くも失われた。

 1943年1月31日、ナチス政権誕生10周年のこの日、テヘラン会議が開催され、ドイツ、日本、イタリア、中華民国の首脳が一堂に会する。
 1941年に英ソ両国の侵略を受けたペルシア王国は領土回復を果たし、枢軸に加盟した。


■ドイツ戦略爆撃

 ドイツの戦いは、大西洋での通商破壊戦、東部戦線でのソ連軍との血みどろの戦い、それに連合軍の戦略爆撃の戦いの三つが大きな柱になっていた。
 地中海には、ジブラルタルと北アフリカの西部の一部以外に、連合軍の姿は見られなかった。

 1940年5月15日、イギリス空軍爆撃航空団の99機の爆撃機がルール地帯を爆撃した。これが、イギリス空軍による本格的なドイツ本土爆撃のはじまりとなった。
 1940年6月には、ドイツ初の夜間戦闘機2個飛行隊40機が配備された。また、フレイヤ、ヴュルツブルグなどのレーダーを開発、カムフーバー・ラインと呼ばれる防空帯がルール地方に構築された。

 1942年2月、イギリス空軍本国爆撃航空団の新しい司令官にアーサー・ハリス中将が就任した。ハリス中将は、ドイツ本土への爆撃のありかたを大きく変えようとしていた。

・爆撃機の大編隊
・四発爆撃機の拡充
・パスファインダー方式の採用
・夜間無差別爆撃
・1000機爆撃

 重爆撃機の大編隊により、一定地域の工業活動・経済活動・輸送機能・市民生活の全てを破壊するのが目的だった。ゆえに無差別爆撃ではなく「戦略爆撃」と呼ばれた。
 だが、1942年2月の段階では爆撃航空団の可動全機をかきあつめても420機程度であった。しかしハリス中将は、訓練航空団や沿岸警備隊の哨戒爆撃機などを動員し、5月には1000機を超える爆撃機を集めた。
 第一回目の1000機爆撃行は5月30日、ケルン市に対して行われた。参加機数1046機で1500トンの爆弾が投下された。この頃のイギリス軍爆撃機は双発の中型機が多いため、平均搭載量は1トンから1トン半程度だった。
 2回目は6月1日、エッセン市で、参加機数956機。
 三回目は6月25日で、参加機数1006機。
 4発で搭載量も格段に多い「スターリング」、「ランカスター」、「ハリファックス」各重爆撃機も実戦配備が始まっていたが、戦力の中心は双発の「ウェリントン」と「ホイットレー」爆撃機であった。
 イギリス本国での戦闘機と爆撃機の予算と資源の奪い合いは続いていたが、ドイツ本土爆撃の一応の成功により爆撃機への予算は以後、増加することになる。
 スターリング爆撃機は、1631機生産ののち1943年には生産中止となった。ハリファックス爆撃機は6トンの爆弾を搭載して行動半径1000kmと、戦略爆撃に適した機体であったため、大量生産が図られた。ランカスター爆撃機は最大10トンの爆弾搭載量を誇り、他のどの国も保有しない大量の爆弾を運べる機体であった。のちにトールボーイ5トン爆弾やグランドスラム10トン爆弾の運搬手段となったのも本機である。これに比べればB-17、B-24の爆弾搭載量も貧弱と言える。日本の零式陸上攻撃機は、航続距離と爆弾搭載量では国際水準にあったが、必要性の有無から生産数では到底叶わなかった。
 1943年3月に”ダムバスター”でルール地方のメーネダムとエーデルダムを破壊したのもランカスター爆撃機である。
 そしてイギリスは、重爆撃機を国力と生産力の許す限り作れるだけ作った。
 生産の主力はカナダの工場のため、インドを失ったイギリスだったが戦略爆撃を継続することが出来た。

 イギリス空軍爆撃航空団の装備機は、1943年10月までにほとんどが四発爆撃機に転換していた。1年半前とはまるで違う重厚な陣容だった。
内訳は、
スターリング 9個中隊
ハリファックス 13個中隊
ランカスター 28個中隊

 1個中隊の装備機は20機なので、四発機だけで1000機に達していた。陽動爆撃やレーダーを妨害する”ウィンドウ”、妨害電波”ABC”などの新機軸を用い、ドイツ爆撃はいよいよ激しく続いていた。

1943年7月、ハンブルク。

1943年8月、ペーネミュンデ。

1943年10月、ベルリン。

 以後、ベルリンには1944年3月まで15回の爆撃行で約17万発の500ポンド爆弾が投下された。投下量は累計3万8300トンといわれる。
 しかも1943年に入ってからは、前年夏にようやく参戦したアメリカ軍による大規模な昼間爆撃が加わってくる。アメリカ陸軍航空隊は、参戦からわずか半年で、ブリテン島への展開とヨーロッパへの大規模な戦略爆撃を開始した。しかも主力爆撃機は、イギリス軍機よりも強固な防御力を誇る「B-17G フライング・フォートレス」。ドイツ空軍機にとって、かつてない強敵の出現だった。だがアメリカ軍も流石に大規模化には時間がかかり、1943年前半中は夜間爆撃を継続するイギリス空軍こそがドイツ空軍の一番の敵だった。

 ドイツ空軍は、ヨーロッパ上空に舞う昼間戦闘機の数を増加させる傍らで、高射砲や夜間戦闘機、レーダー網の建設を進め、夜間戦闘機に搭載可能なリヒテンシュタイン機載レーダーが開発された。1944年のドイツ国内の高射砲配備数は1万2000門に達し、防空戦のために動員された軍人、軍属の総数は300万人にも達した。
 それでも、1943年夏から初秋にかけては、ドイツ軍が不利な戦いを強いられていた。アメリカ軍が昼間に常時300機以上の爆撃機を繰り出してくるので、一日中爆撃を受けているような有様となっていたからだ。
 だが空の戦いは、秋を境にしてドイツ軍有利に大きく転換する。
 ドイツの防空体勢を決定的に優位にしたのは、1943年晩秋の「独ソ戦」の終焉とその後すぐに行われたドイツ軍の戦力の再配置であった。
 1943年晩秋以後、イギリス爆撃機の損失は一回の爆撃行で10%近くに達するようになり、1944年3月で一旦中止となった。
 アメリカ軍による昼間爆撃は強行されたが、損害率15%近くを示すため輸血しながら出血を続けるような状態が続いた。このような戦いはアメリカだからこそ出来る戦いだったが、費用対効果という点では好ましくない戦闘方法だった。だが、当面他の手段で攻勢を取ることの出来ないアメリカとしては、ドイツに対する戦略爆撃を継続せざるを得なかった。


■枢軸の栄光

 時間を少し遡ろう。
 1942年1月、インドの日本軍がアフガニスタン王国国境に達する。そしてインドのラホールにてガンジーを中心とするインド国民議会メンバーが日本軍に捕縛された。
 インド戦の事実上の終息だった。

 同時期、アメリカ義勇航空隊がイギリスの旗を掲げたままほぼ壊滅し、残余がオマーンを離れていた。日本軍は、イギリス軍だと見なして容赦なく攻撃したからだ。
 日本政府はアメリカ政府に対し、「以後の直接戦闘は参戦と見做す」と極めて強く警告。国際社会にも、アメリカがいかに卑怯な手段で参戦せずに戦争を妨害しているかを知らせる努力をした。
 同時期、バシー海峡にて日本船籍タンカーが相次いで攻撃を受ける。攻撃を受けた回数に比べて損害は少なく、丈夫な大型タンカーに無数に突き刺さっていた不発魚雷がアメリカ製と判明。
 日本側の指摘と糾弾に対して、実物を突きつけられて言い訳出来なくなったアメリカはイギリスに供与したものだと反論。
 そして以後、単独行動の日本輸送船のフィリピン周辺における襲撃が多発する。日本側も船団を組んで、護衛艦艇を複数随伴するようになる。
 春を迎える頃には、警告爆雷も日常的に行われるようになった。

 しかし、アメリカ側の攻撃の頻度、潜水艦の発見頻度から比較すると、沈められる数が非常に少なかった。全ての原因はアメリカ軍潜水艦が使用している「秘密兵器」の磁気信管を用いた不良魚雷にあったのだが、この時期アメリカ軍上層部は全く気付いていなかったし現場からの声も取り合わなかった。
 一方、日本海軍は海上護衛専門の”海上護衛艦隊”に、新たに攻撃型潜水艦の配置を決定。最初に不明潜水艦の音紋採取を試みた。それまであえて見送られていた、東シナ海、南シナ海の哨戒、機雷堰敷設なども本格化。当時世界中が断念した革新的な新兵器、磁気探知装置の開発にも、多くの予算と人員が割かれるようになった。
 実質的な対米戦備とも言える行動だった。何しろイギリス海軍に、日本のシーレーンを脅かす能力は無かった。
 1942年3月には、さっそく機雷を原因とする行方不明潜水艦がアメリカ海軍で発生した。

 1942年2月、日本軍は「ペルシア作戦」を発起。
 ペルシア湾の制海空権を握る日本軍は、ペルシア湾岸の帯状の地域を苦もなく制圧。これにより、イギリスが有するペルシャのアバダン油田地域も日本軍の支配下になった。
 しかし、アバダン油田はイギリス軍特殊部隊の手により破壊され、一部はともかく完全な復旧には数年が必要とみられた。

 イギリスの傀儡であるペルシア王国については、現状での兵力不足からイスファハン以北はイギリス軍の支配下のままとされた。
 また、イギリス属国のイラク王国及びクウェートへの侵攻は、現状の兵動員状況では不可能だった。日本陸軍の栄光の季節は終わりつつあった。日本国内の兵力動員はこれ以上は厳しい状況であった。それでもさらに侵攻するには、インドでの作戦終了とそこからの兵力転用が必要であり、最低でもあと三ヶ月は必要だった。

 中華民国軍は対ソ戦備の転用で余裕があるはずだったが、蒋介石は予備兵力を一切日本軍援助に向けようとはしなかった。中華民国政府の意向に背く雲南軍閥の懲罰戦争や、西安周辺を占拠する共産党軍の壊滅に忙しかった。無論だが、ソ連軍と向き合う以上の事をする気はなかった。このため日本から中華民国への支援や援助は、時間と共に先細りしたが、中華民国はその事を非難し続けた。援助が減れば、共産主義者への攻撃力が不足するだけでなく、蓄財の為の横流しと賄賂も減るからだ。彼らの心理は、依然として中世の中にあった。

 1941年晩秋から1942年初にかけて、日本海軍のシフトが再び大きく変化。
 艦隊の半分はアラビア海に、もう半分は南太平洋に移動。次の作戦準備に入った。

 1942年3月、ニュージーランド攻略のために、インドから日本陸軍のオーストラリアへの移動が進んでいた。この作戦が成功裏に終われば、オセアニアの支配権は完全に日本のものとなり、この方面からのイギリス軍の反攻は実質的に不可能になる。

 タスマニア沖にて、日本兵員輸送艦など数隻がニュージーランドを起点とする連合国潜水艦に攻撃される。これに対して護衛していた日本軍艦艇が反撃し、何隻かの撃沈または撃破を確認していた。
 ニュージーランドのウェリントン港ではアメリカ海軍艦艇が確認されており、オーストラリア近海での攻撃はアメリカ潜水艦による魚雷攻撃の可能性が濃厚だと考えられた。中立国による敵対行動は明らかに国際法違反である。このため日本政府は、宣戦布告していない国家の兵士及び軍隊を不正規兵扱いとして、即刻国際法に照らし合わせて厳重に処罰すると発表。国際法を何も知らないアメリカでは反日世論が高まった。

 ルソン島上空にて、高空から偵察する日本海軍機が撃墜される。同時期、フィリピン付近にて日本輸送船を攻撃した潜水艦が日本海軍海防艦に撃沈され、アメリカ海軍の備品多数が海面から回収された。これで双方の世論が沸き立ち、民意の点での戦争気運が急速に高まった。
 日本政府はアメリカに厳重抗議。公式見解での「卑怯」の言葉に、アメリカ国民が激高。
 同時期、アメリカ軍によるドイツに対する挑発も非常に露骨になる。既に英本土にアメリカ軍の旗を掲げた航空隊が展開を始め、艦艇の寄港が日常化。アメリカ海軍艦艇に撃沈されるドイツ軍潜水艦も出ていた。
 それでも日本、ドイツ共にアメリカに対する宣戦布告には踏み切らなかった。アメリカという国家が宣戦布告しない限り、枢軸陣営の勝利は目前だったからだ。

 1942年4月5日、日本は「NZ作戦」を発動。
 イギリス及びイギリス連邦による洋上での反撃はなく、すぐにもニュージーランド北部での制空権奪取が行われる。
 洋上での唯一の戦闘は、国籍不明潜水艦による襲撃と撃沈だけだった。

 ニュージーランド北島に、《金剛型》戦艦群の艦砲射撃の支援を受けた日本陸軍が、ほとんど無血で上陸。新造艦の補充を受けた世界最強の強襲上陸戦能力を存分に発揮し、人口が希薄(総人口170万人)で防衛力もほとんどないニュージーランド主要部は1週間で制圧された。万全の制海権、制空権を持つ2個軍5個師団の兵力は、完全に過剰攻撃だった。
 内陸部の掃討戦はその後も散発的に継続されたが、ニュージーランド陸軍の枢要部は既にニュージーランドを離れていたと推定されたため抵抗は微弱だった。
 ニュージーランドでの戦闘は、主要都市は無防備宣言を出すなど、ほとんどが無血占領の様相となる。


 この時点で、ほぼイギリス単独となっていた連合国は敗色濃厚だった。
 イギリス軍はインドと北アフリカから駆逐され、中東、オセアニアも風前の灯火だった。インド洋は日本の、地中海はイタリア(+ドイツ)のものとなった。スペイン国粋派のフランコもドイツの示す援助に心を動かされているとの観測しきりだ。もしスペインまでもが枢軸陣営に入れば、イギリスはジブラルタルまで失うだろう。スエズも失ったも同然だった。

 ソヴィエト連邦はといえば、ドイツ軍を冬に押し返してモスクワは無事なものの青息吐息の状況だ。日本軍の快進撃によりイギリス本国の物資不足は深刻化し、対ソ援助などとても送れる状況ではなかったことも影響しているだろう。
 英連邦のなかでイギリスに次ぐ生産力を有するカナダは、アメリカ製の豊富な工業素材を用いてかなりの量の兵器と軍需物資、輸送船を建造していたが、総人口1000万程度の新興国の生産力では焼け石に水といった状況だ。
 アメリカのレンドリースは順調に伸びていたが、インド、オセアニアを失って息切れしているイギリスがそれで一息ついていると言う程度だった。

 辛うじてイギリス軍が保持していたシナイ半島も、やがてイラク方面から押し寄せる日本軍に奪われる事は、この時点でもほぼ確実な予測だった。中東での日英の戦争の決着はほぼついたも同然なのだ。
 日本軍に問題があるとすれば、日本海軍が(イギリス海軍の仕掛けた機雷や隠蔽された魚雷艇がいるために)紅海に侵入できないため、海上から軍事行動ができない日本陸軍の輸送能力が逼迫している点だ。
 今にもジハードを宣言しそうなイスラム系部族が支配するシリアや、シーア派のイラク人、レバノン地域は、通過するだけで日本軍に消耗を強いたのだった(住民慰撫のために莫大な円貨が支払われた)。
 数々の困難が待ち受けてはいたが、枢軸軍の勝利は時間の問題かと思われた。・・・・・・だが。


 世界の工業力の半分近くを占め、膨大な遊休設備を活かし切れぬ不況下のアメリカ合衆国。
 戦争を求める声は、過剰生産力に悩むアメリカ工業界から早くから上がっていた。需要の起爆剤としての戦争、戦後の新市場獲得のための戦争。
 戦争は政治の延長にあり、政治は私欲に満ちた”経済”という御しがたい存在に動かされる。アメリカで見られた戦争への舵取りも、もちろんその類型から離れてはいない。いや、類型そのものと言えた。

 世界大戦という業火は、いよいよ激しく燃え盛ろうとしていた。