■産油国日本 造船(1) ■イギリス造船業 1862年、鉄船の建造量が帆船建造量を抜いたが、帆船の建造は以後も続行し、意外にも1892年に帆船建造はピークに達した。この年の帆船建造量は25万8700総トンであった。 1913年には生産高の約3割が海外に輸出される造船大国であった。同年の商船輸出市場におけるイギリスのシェアは86.2%であった。 約200万トン/年もの商船を建造し、世界の造船シェアで圧倒的な地位にあった。 イギリス商船隊は1913年に1870万総トンもの規模があり、これも圧倒的だった。 造船中心地はスコットランドのグラスゴーはクライド川周辺とイングランド東北部のサンダーランド周辺であった。1938年のイギリスにおける商船建造量は103万総トンであり、そのうち下記5地域で88万総トンを占めた。 Table.1 イギリス地域別商船造船量(万総トン)
表からわかるように、イギリス造船業は第一次世界大戦後には長期的な衰退過程に入っていた。一方、日本・スウェーデン・アメリカなどの国々の造船業は大きく発展しつつあった。 1931-35年頃の造船不況で多くのイギリスの造船会社が倒産または整理された。各国の造船業は保護貿易のもとにあり、一方でイギリス造船業の技術的優位は失われていた。国際貿易は萎縮し、1930年代にはイギリス商船隊は10%縮小した。 イギリス造船業界から広く資金を徴収してNational Shipbuilding Securities Ltd.(N.S.S.)という組織が1930年につくられた。 NSSは1934年までに100万総トンの造船能力がある137の造船所を買収・解体し、産業のスクラップ・アンド・ビルドを推進した。 だが、高い労働コストと諸外国の追撃は相変わらずイギリス造船業の復興を妨げていた。1980年代以降の日本造船業のように、構造的な斜陽産業になっていたのだ。 第二次世界大戦では、大量の商船損失に対応してイギリス造船業界はフル生産に移行したが、第一次世界大戦当時のように年間200万トン以上生産することは設備能力的に不可能になっていた。 1942年に商船建造ピーク130万総トンを記録、戦争全体では戦時標準型のエンパイア型全506隻344万総トン、民需船536隻387万総トン、合計1042隻731万総トン(年平均100万トン程度)建造した。第 二次世界大戦中の月平均建造量は9万トン程度であった。 また、艦艇については1943年にピークの60万デッドウェイト・トンを建造した。 table.2 イギリス商船の年度別喪失量
イギリスは開戦時に1000総トン以上の商船4000隻、2100万総トンを保有していた。第二次世界大戦では2426隻1133万総トンを失い、731万総トン建造した。更に400万総トン以上のリバティー船がアメリカから貸与され、差し引きで船腹量は維持されたのだった。 リバティー船はアメリカで2708隻2918万トンも建造されたため、400万トン貸与してもアメリカにとっては特に問題なかった。 7000総トンのリバティー船の起工から完成までの所要時間は従来の1/15というスピードで、一基の船台で年間20隻以上が建造可能であった。 ■日本造船業 Tabe.3 1940.7-45.8の日本の軍艦建造実績
Table.4 1940.7-45.8の合衆国の軍艦建造実績
当時の日本が必要とした物資は石油を除いて年間6000万トンで、それに要する船腹は300万総トンであった。日本は、開戦時に100総トン以上の鋼製商船2445隻639万総トンを保有した。 日本造船業界は、戦争中に1340隻338万総トンの戦時標準船を建造している。 戦争中に、日本は戦前の分と併せて合計3785隻、977万総トンの商船を保有した。が、2568隻843万総トン失ったため、終戦時には1217隻 134万総トンに激減していた。うち就航可能なのは588隻79万総トン。わずかな生き残りの中でも、遠洋航海できる3000総トン以上の大型商船は30 隻しか残っていなかった。 一方、イギリスが年間に必要と推定した資源の輸入量は約6000万トン、石油製品を除いて4700万トンであったが、現実にはそれをかなり下回った。 1941年3050万トン、1942年2290万トンであり、1943年からは増加に転じた。不要不急の物資(コーヒーなど奢侈品)の輸送は省かれ、軍需物資の輸送が増加した。 終戦時には日本国内に1000t以上の船を建造できる船台が合計149基(海軍工廠含めず)に達し、この中の53基が艦艇建造に充てられていた。残り96基の船台を第二次戦時標準船建造に充てれば、その建造能力は250万総トンと試算された。 造船設備への投資は戦争の全期間において金額で10億円、鋼材7万トンが投じられた。その結果、建造能力は戦前比4〜5倍に増加した。甲種造船所(長さ50メートル以上の鋼船を作れる)は30ヶ所あった。戦時中、乙種造船所の改良に投資し、終戦時には甲種造船所は50ヶ所にまで増加した。 造船所の建設は、中小規模造船所においておおむね成功を収めたが、大規模造船所では土木建築能力・機材製造能力が追いつかず、期待されたほど戦力化に貢献できなかった。 太平洋戦争当時の日本の民間造船所能力の30%程度が戦闘艦建造にあてられていた。それでは、商船建造は50万総トン程度が限界であった(S・17年度造船量実績は142隻40万トン)。 "最大の隘路は厚鋼鈑であった。 実際、S・18年における資材供給力は120万トンが限界で、自ずから造船量も120万トンが上限となる。 Table.5 昭和10年以降の日本鉄鋼供給量と造船部門配当量(単位万トン)
■船渠と船台 船渠(ドック): 船舶の建造・修理に用いる。最も主な用途は、船底にへばりついたカキを取り除く作業だった。このためドックは古くから存在している。 水面よりも低い位置に掘られる。海水を注水・排水することで船舶の出入りができる。排水すれば船底がむき出しになり、整備や修理できる。 また、船渠と共に艤装岸壁も修理能力を支配する要因である。 ドックの底を船台とした建造ドック式の造船方法もある。大型船の場合、船台から滑り落す進水作業は困難であるため。 ドックを用いた艦船の建造の歴史は比較的新しい。 1万トン以上の大型艦となると、《大和》《信濃》の建造がほとんど初めてとなる。 船台: 水面に向かって緩い傾斜をつけた台で、船舶の建造に用いる。船体各部のブロックが船台の上で組み立てられ、完成すると進水台が作られて海面に滑り落とされる。 通常は前か後ろから滑り降ろすが、真横から滑らせる場合もある。 建造中は船底と船台の間は1メートルほど空いており、船の重量は盤木や支柱などで支えられている。 軍艦建造の為に丈夫な構造を持たさなければならないため、全ての船台で軍艦が建造出来るわけではない。 ■開戦前の建造割当方針
Table.6 建艦割当
海軍艦艇の新造・修理を行う場合、海軍直属の海軍工作庁と民間造船所がある。 海軍工作庁は工廠・工作部・工作艦に分けられる。 艦艇の新造は横須賀・呉・佐世保・舞鶴の4工廠と民間造船所で行われた。 昭和年間の艦艇建造実績は179万4300トン(工廠73万7800トン、民間105万6500トン)であった。造船不況時には海軍艦艇の修理を民間造船所に委託することで、民間工場の操業度低下防止を図った。艦艇の造修にはトン当たり商船の4倍の工数が必要なため、民間造船所工員の雇用対策として有効だった。 第二次世界大戦中に工廠は14に増加した。戦艦・巡洋艦建造のために大分県大賀に仮称O工廠と潜水艦建造のために山口県柳井に仮称S工廠、台湾の高雄にも工廠建設が検討されたが、第二次世界大戦の勃発とともに計画も消えた。