■産油国日本 造船(3)
■天鴎世界の戦時中の建艦について ■大型艦建造施設
1920年代に産油国として台頭して工業化を進め、1930年代には世界有数の造船大国として浮上する。 またワシントン会議からの離脱に伴い、1934年から海軍が大規模な助成金を出して超大型造船施設の大幅な拡充を実施。 海軍工廠も大幅に拡張。 土木機械を大量導入することで、短期間で日本各地に巨大な造船所がいくつも誕生する。 8万トン級建造施設 ・横須賀工廠 第六船渠 ・横須賀工廠 第七船渠 ・呉工廠 第四船渠 ・呉工廠 第五船渠
・三菱長崎 第二船台 ・三菱長崎 第一船渠 ・川崎泉州 第一船渠 ・佐世保工廠 第七船渠
3万トン級建造施設 ・神戸川崎 第四船台 ・横須賀 第二船台 ■戦艦
1937年以後に計画した建造数は16隻で、しかも大型艦ばかりなので、規模としてはアメリカのヴィンソン案+スターク案に匹敵した。 これは国家としての日本が、海軍の整備により多くの比重を傾けていたからだ。
大和型戦艦 同型艦: 《大和》《武蔵》《信濃》《紀伊》 基準排水量68,000トン、46cm砲3連装3基9門、機関出力:18万馬力、速力28.5ノット、全長270m ワシントン海軍軍縮条約破棄通告後2年経過した1936年1月に起工、1938年末に就役した。 呉、三菱長崎、横須賀、神戸川崎の大型造船所でそれぞれ起工し、1940年夏までに全艦就役した。 計画上は、扶桑型、伊勢型の代替艦。 ブロック工法を一部採用したが、基本的には堅実な設計と建造が行われている。 産油国となったことでのボイラー技術、冶金技術の向上が見られる。
天城型巡洋戦艦 同型艦: 《天城》《葛城》《阿蘇》《生駒》 基準排水量54,000トン、46cm連装砲4基8門、機関出力:22万馬力、速力32ノット、全長293m 1936年度計画艦。 超高速巡洋戦艦。計画上は《金剛型》戦艦の代替艦扱い。水雷戦隊支援、空母機動部隊随伴が主な目的。 戦艦としては防御力が減らされているため(対40センチ砲防御)、巡洋戦艦に類別された。 大型艦の時間短縮建造のモデルケースとされ、ブロック工法が大幅に取り入れられた。他の艦の建造が優先され、開戦にはギリギリ実戦配備が間に合う。 日本海軍最強のボイラーと機関を搭載。産油国となったことでのボイラー技術、冶金技術の向上が見られる。 船体が細長く主砲が連装砲な以外は、大和型とよく似た外観を持つ。
改大和型戦艦 同型艦: 《陸奥》《土佐》《1003号艦》《1004号艦》 基準排水量71,000トン、51cm砲連装3基6門、機関出力:19万2000馬力、速力30ノット、全長270m 1939年度計画艦。計画を前倒しする形で、1、2番艦は呉工廠、横須賀工廠で建造開始。計画上は、長門の代替艦。 1942年秋に相次いで就役。副砲、高角砲を新型の両用砲にまとめるなど細かな違いも多い。 戦争に伴って計画された残り2隻は参戦後すぐにキャンセル。既に収集されていた3、4番艦用の建造資材などは《陸奥》《土佐》に集中。 命名は、20年前に破棄された戦艦より名を引き継ぐ形となる。
改天城型戦艦 同型艦: 《1201号艦》《1202号艦》《1203号艦》《1204号艦》 基準排水量58,000トン、46cm連装砲4基8門、機関出力:22万馬力、速力31ノット、全長293m 1940年度計画艦。呉、神戸川崎で各1隻ずつ着工。戦争に伴い、計画された残り2隻は参戦後すぐにキャンセル。 天城級が防御をやや軽んじていたので、その点を大幅に改善。艦種も戦艦とされた。 予定艦名は、改雲龍型空母に引き継がれたと言われている。 1941年11月、戦訓を取り入れ、大型装甲空母への改天城級の転換が決定。改大和級2隻は工程が進捗していたため改装が見送られた。 1943年6月、改天城級の改装装甲空母として竣工。 計画変更時はまだ進水式を迎えず命名前だったので改めて命名される。
■航空母艦 大型空母の建造数は10隻だが、戦時に入るとアメリカのスターク案に対向して緊急の中型空母建造計画(15隻建造)を開始。さらに空母予備艦としていた各種高速大型母艦9隻の改装を開始。1942年度からは、新規の大型空母計画、中型空母建造計画も予定。
翔鶴型航空母艦 同型艦: 《翔鶴》《瑞鶴》《天鶴》《紅鶴》 基準排水量25,700トン、搭載機数:72(+12)、機関出力:16万馬力、速力34ノット、全長257.5m 翔鶴級は1936年度建艦計画艦である。計画開始すぐに各艦は翔鶴が横須賀で起工され、次いで三菱長崎、神戸川崎、呉で建造された。1939年から1940年にかけて全艦就役した。
改翔鶴型航空母艦 同型艦: 《神鶴》《飛鶴》《千鶴》《吉鶴》 基準排水量28,600トン、搭載機数:64(+8)、機関出力:17万2000馬力、速力34ノット、全長263m 「改」とされているが対外欺瞞のため。艦橋を煙突と一体の島型としたり防御構造を強化して甲板の装甲強化を施すなど、大きく変化している。 搭載機数が減少しているのは、搭載機の大型化が主な原因。同時期の翔鶴級も同程度。露天搭載すれば、さらに20機程度搭載可能。 1942年後半に相次いで就役。晩秋頃から実戦配備開始。
陸奥型航空母艦 同型艦: 《赤城(二代目)》《加賀(二代目)》 基準排水量54,000トン、搭載機数:80(+8)、機関出力:22万馬力、速力33.5ノット、全長301.5m 建造中だった改天城型戦艦を、途中から装甲空母に改装。 閉鎖型のエンクローズドバウ、飛行甲板のほぼ全域の装甲化、開放型格納庫、煙突一体型の大型艦橋を持つ重防御型の大型装甲空母。 露天搭載により、最大120機の搭載が可能。戦争中に沈んだ武勲艦(赤城(初代)、加賀(初代))より名前を継承。
※1939年度計画の改翔鶴級空母4隻の進水を待ち、1941年に9隻の改飛龍級空母(雲龍型)が相次いで着工した。 《改飛龍》級空母は、最初から小型の蒸気カタパルトを装備し、設計の簡易化を進めながらも戦時急造と呼ぶには贅沢な艤装が施されていた。 ■一等巡洋艦
戦艦戦力が充実している事もあり、海軍内で中途半端とも考えられつつあった重巡洋艦は建造数を削減。途中まで進んでいた計画も、濃密な艦隊規模の弾幕を張れる防空艦艇への建造に移行。
雲仙型級一等巡洋艦:《雲仙》《六甲》《白根》《鞍馬》 基準排水量17,200トン、55口径20.3cm砲3連装4基、速力35ノット 砲撃力、防御力重視。ただし雷装は減少。軍拡のため、全ての艦を中規模の民間造船所で建造。在来型最後の重巡洋艦となる。 ※高い発射速度からニューオリンズ級に次ぐ次世代アメリカ巡洋艦を凌駕する砲戦能力を持つよう設計された。
伊吹型一等巡洋艦:《伊吹》《乗鞍》《剣》《黒姫》 基準排水量16,850トン、65口径10.0cm砲連装16基、速力35.5ノット 雲仙級重巡洋艦の船体設計を流用した防空用重巡洋艦。雷装は全廃。装甲も軽減。その分火砲、高射装置を増強。 搭載火砲の面からだと二等巡洋艦だが、排水量から一等巡洋艦とされた。
十勝型一等巡洋艦:《十勝》《吉野》《箱根》《岩木》 基準排水量16,700トン、60口径12.7cm砲連装12基、速力33ノット 伊吹級の簡易設計型。新型高角砲を装備。雷装はなし。機関も量産簡便なものとして装甲も若干削減。当初から機銃を満載。 搭載火砲の面からだと二等巡洋艦だが、排水量から一等巡洋艦とされた。
■二等巡洋艦
大淀型二等巡洋艦:《大淀》《仁淀》《黒部》《石狩》 基準排水量8,400トン、65口径15.5cm砲3連装4基、速力35ノット 潜水戦隊旗艦用の航空巡洋艦。後部を航空機区画として水上偵察機6機搭載可能だったが、3、4番艦は設計を改めて通常の大型軽巡洋艦として完成。 《大淀》《仁淀》は、その後大規模艦隊旗艦用に改装。
阿賀野型二等巡洋艦:《阿賀野》《能代》《矢矧》《酒匂》 基準排水量6,800トン、65口径15.5cm砲連装4基、速力36.5ノット 水雷戦隊指揮用の突撃型巡洋艦。駆逐艦支援のため火砲と速力重視。雷装なし。 軍備拡張計画全体の建造施設、建造スケジュールの関係で、大型艦としての建造を諦める。
■駆逐艦
陽炎型駆逐艦:排水量2200トン。速力35ノット。長10cm砲連装×3。5連装魚雷発射管×2。爆雷、機銃多数 秋月型直衛艦:排水量3100トン。速力33ノット。長10cm砲連装×4。爆雷、機銃多数 島風型駆逐艦:排水量2700トン。速力33ノット。長10cm砲連装×3。5連装魚雷発射管×3。爆雷、機銃多数 松型駆逐艦 :排水量1400トン。速力28ノット。雷装なし、爆雷、機銃多数
■大型艦の建造場所と順番
1936〜37〜38〜39〜40〜41〜〜42〜〜43〜〜44〜〜45 ・横須賀工廠 第六船渠 《信濃》 →→ 《陸奥》 →→→ 《大鳳型》 ・横須賀工廠 第七船渠 《天城》 →→ 《赤城》 →→→ 《大鳳型》 ・呉工廠 第四船渠 《大和》 →→ 《天鶴》 → 防空重巡 → 《改雲龍型》 ・呉工廠 第五船渠 《阿蘇》 →→ 《千鶴》 → 防空重巡 → 《改雲龍型》 ・三菱長崎 第二船台 《武蔵》 →→ 《紅鶴》 →→ 《雲龍型》 → 《改雲龍型》 ・三菱長崎 第一船渠 《生駒》 →→ 《吉鶴》 →→ 《雲龍型》 → 《改雲龍型》 ・川崎泉州 第一船渠 《紀伊》 →→ 《土佐》 →→→ 《大鳳型》 ・佐世保工廠 第一船渠 《葛城》 →→ 《加賀》 →→→ 《大鳳型》
・神戸川崎 第四船台 《瑞鶴》 →→ 《飛鶴》 →→ 《雲龍型》 → 《改雲龍型》 ・横須賀 第二船台 《翔鶴》 →→ 《神鶴》 →→ 《雲龍型》 → 《改雲龍型》
・玉造船所 重巡 →→ 防空重巡 → 防空重巡 → 《改雲龍型》 ・横浜鶴見製鉄造船 重巡 →→ 防空重巡 → 防空重巡 → 《改雲龍型》 ・大阪鉄工所 重巡 →→ 防空重巡 → 《雲龍型》 → 《改雲龍型》 ・播磨造船 重巡 →→ 防空重巡 → 《雲龍型》 → 《改雲龍型》 ・三菱広島 水上機母艦 →→ 大型軽巡 → 《雲龍型》 → 《改雲龍型》 ・渡辺製鋼広島 水上機母艦 →→ 大型軽巡 → 《雲龍型》 → 《改雲龍型》 ・浦賀船渠 水上機母艦 →→ 大型軽巡 → 《雲龍型》 → 《改雲龍型》
table.10 雲龍型中型空母建造造船所(1943年内建造分)
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日立神奈川、長府船渠、函館船渠室蘭では、開戦以来2万トン級大型兵員輸送艦3隻の連続生産に従事している。 また、呉工廠では雲龍型空母計画時に既に防空重巡洋艦の並列生産に従事していたため、そのまま重巡建造を続行した。1942年には伊吹型3隻、43年には十勝型3隻が竣工している。 雲龍型の生産に全力を投入していれば、更に4隻追加生産できていただろう。 雲龍型は1943年中盤以降、相次いで竣工した。1945年内までに合計15隻が就役。その後は改良型の建造に移行。
Table.11 雲龍型竣工時期(1943年内建造分)
日本の主要造船所では、1942年に入る頃から戦時急造空母の「改雲龍型」を着工した。「改雲龍型」の建造には、拡張された大阪鉄工所、玉造船所、播磨造船、鶴見製鉄造船も参加した。一方、軍民合わせて4箇所では次世代型の大型正規空母の「大鳳型」航空母艦2隻の建造に着手したため、「改雲龍型」の建造から離脱した。 「改雲龍型」の建造はその後も継続され、最終的に15隻が建造予定。 なお「大鳳型」航空母艦は、基準排水量3万6000トンの大型装甲空母で、都合4隻が計画され、戦訓と簡易構造を取り入れて急ぎ建造された。就役は1944年秋から。 しかし1944年は、護衛空母を除いて空母の就役はほとんど止まることになる。 中部太平洋での相次ぐ海戦により消耗した空母戦力の再建が進み、来るべき米艦隊との空母航空戦が迫っていた。 アメリカ軍が再び押し出した1943年10月の時点で、日本海軍の空母投入可能数は新鋭の陸奥、土佐、雲龍型4隻を含む正規空母10隻と軽空母4隻で合計14隻。改装や損傷修理中の艦艇が多いことが響いていた。この時点で日本海軍は、4隻の大型・中型空母が修理中だった。 一方のアメリカ海軍は、就役数はエセックス級5隻を含む正規空母8隻、インディペンデンス級7隻の合計15隻に達していた。しかも今後も二月に1隻以上のペースで、エセックス級が就役予定だった。エセックス級は計画数合計が32隻、1945年内に合計20隻もの就役が予定されていた。アメリカの工業力を現す典型例の一つと入れるだろう。護衛空母と呼ばれる商船改装の低速簡易空母など、100隻以上が建造されていった。 だが、今までの戦争での損害による人員消耗と、急な増勢に伴う乗組員の訓練が追いつかない二つの要因が重なり、正規空母7隻、軽空母5隻の投入が限界だった。しかもこれでも、正規空母、軽空母共に1〜2隻は様々な不安を抱えていた。 またアメリカ海軍が攻勢の目安とする、「戦力が相手より25%上回らなければ攻勢しない」という原則に違反していた。 日本海軍の予測より早いアメリカの侵攻作戦の開始は、多分のアメリカの政治的要求から発起されたものだったからだ。 ■商船進水量 日本の鉄鋼生産量に対する造船部門での使用量は、1920年代から概ね1-2割程度であったが、開戦後25%程度に増加した。 商船で一般的に用いられる鋼材のうち、丸鋼と鋼板の厚板(8mm)の供給は潤沢であり、特にオーストラリアからの良質な鉄鉱石供出が軌道に乗ると、資材供給面での不安はなくなった。 開戦時の船腹量は900万総トンであったが、戦域の拡大により、さらに数百万トンの船腹需要が生まれていた。 このため日本では排水量約7000トンの貨物船を戦時標準戦の基本として、無数に建造していく事になる。 Table.12 天鴎世界鉄鋼供給量と造船部門配当量(単位万トン)
イギリスの造船量100万トン/年 程度に対し、およそ倍の造船量であった。1939年にはイギリスを抜き世界一の商船建造実績を挙げている。造船所への大規模な投資と戦時標準船の採用により、建造能力は戦時中に大きく増進している。 しかし、造機関係の生産能力と労働力の払底がネックとなり、1942年以降の造船量は計画未達となった。 戦時中の技術開発と代用品の使用、戦時標準船の簡素な船体の採用などにより、鋼材の配当量が一定であるのに対して建造量は漸増している。
船舶保有量は、イギリス側の通商破壊戦がまともに機能していなかったので、1942年に入るまでは右肩上がりだった。このため1942年春の時点では、開戦時の900万トンから1200万トン以上に増えていた。この数字は、半年後の参戦時のアメリカの保有量を若干上回る。 そして1944年に入るまでアメリカ海軍の通商破壊戦がまともに機能しなかったため、1944年初に日本の船舶保有量は1600万トン弱とピークを迎える。これは、日本の海上護衛体制の充実と東南アジアでの機雷堰を主軸とする戦法と相まって、容易に突き崩せない国家の城壁となっていた。実際、アメリカ軍潜水艦の損害率は、常に高いパーセンテージを示し続けた。
注記:天鴎世界では、史実よりも若干多めの船渠(船腹量が多いので、修理施設も多く必要だから)と、ほぼ同数の船台を有している。 ただし、ドック、船台は造船業への投資と合理化により生産設備の大型化と近代化がみられたため、生産能力自体はアメリカに準じるほど史実より大幅に拡大している。