Phase 05:1941年8月 東欧戦線2

 1941年7月24日にルーマニア戦役は終了し、その前後にハンガリーとブルガリアがソ連の軍門に下ったわけだが、今度はフィンランドやポーランドのように戦火が下火になることはなかった。
 理由は言うまでもなく、ソ連の侵攻に対してイギリスとドイツが対決姿勢を明確にし、彼らが混乱から立ち直り宣戦布告して全面対決姿勢を整えるまでにできうる限り土地を奪ってしまうのがソ連の、いやロシア人の伝統的戦略に根ざした行動であり、赤い旗を掲げた彼らがその歩みを早めるこそすれ停滞させる気などさらさらなかったからに他ならない。
 そして、英独との全面対決をできうる限り避ける事が条件なだけに、この時もソ連赤軍によるドイツ侵攻は行われず、赤い嵐はそのまま東欧南部へと吹き荒れる事になる。
 ターゲットにされたのは、チェコスロヴァキアとユーゴスラヴィア。ギリシャやトルコが対象からまだ外れていたのは、ここに足を踏み入れればドイツはともかく英国が本気になるのが分かり切っていたからに他ならず、同じような理由でオーストリアに対する軍事行動も示威行動以外は考慮の外にあった。ここに踏み込めば大ドイツの復活を掲げるドイツが全面対決姿勢を明確にするのが確実だと見られていたからだ。
 ソ連にとっての勝負はこの年の10月までにどれだけ土地を奪えるか、そして英独の参戦を遅らせるかにあったからこそこのような行動をとったのだが、ソ連が10月と区切ったのは、もし英独が全面戦争を吹っかけてきもし万が一ロシアの大地を侵略されても、10月に入ればロシアの大地には泥将軍が来援し、さらに11月には無敵の冬将軍も戦列に加わり彼らの侵攻を阻み、その間に自らの態勢が整えられるからに他ならない。
 この点、侵攻的性格が強いと同時に防衛本能も強い大陸国家らしい計算と言えるだろう。

 だが、何もかもがソ連首脳部の思うままに運ぶ筈はなかった。
 ドイツ人達が、自分たちの勢力圏と自認する場所でロシア人の横暴をいつまでも黙っているわけなったと言う事だ。
 このため、多くの戦史家は言う。
 ソ連は1941年6月の侵攻でルーマニアなど後でどうとでもなる場所への侵攻ではなく、全力を挙げてドイツに侵攻すべきだった。確かに半年程度で全ドイツを蹂躙できたかは未知数だが、少なくともドイツの半分程度は占領でき、彼らの力が大きく減退し後の長期戦ももっと容易に戦えただろう、と。
 だが、この発言はソ連というより多くのロシア人が西欧との全面戦争など全く望んでいなかったのだから、理屈的には正しくとも的を得た発言とは言い難いだろう。
 そして、伝統的に東からの侵略に敏感に反応する欧州、特に中欧の国々はそう考えていなかった。この戦争を完全な祖国防衛戦争と捉え、全面戦争を全く厭わない決意を、ソ連のルーマニア侵攻で持ってしまっていた。それがソ連の次の行動で激発してしまったのだ。
 これから後の状況は、この時の相手国の事など考えないロシア外交らしい失策と行ってしまえばそれまでだが、多くの混乱と共に無数の惨禍を東欧を中心とした大地に振りまく事になる。
 これ以後をドイツでは『20世紀の三十年戦争』とすら呼ぶのだから、その惨禍は相当のものだろう。何しろ17世紀の三十年戦争では、ドイツの総人口が何割とか何分の一という比率で表現できるほど減少しているのだから。

 この時ポーランド=ソ連国境で対峙していた独ソ軍は、ドイツ軍が軍主力の2個軍集団約70個師団・130万人で、ソ連赤軍が2個軍集団+1個軍の約70個師団・100万人だった。もちろんどちらも精鋭部隊であり、双方200万もの大軍がにらみ合うと言う状況は、第一次世界大戦以来の出来事だった。
 しかも他にドイツはチェコ国境とオーストリア国境にかけて1個軍集団+1個軍・約50個師団・90万人を展開しており、いつでも双方の国を支援できる態勢を取りつつ極度の警戒態勢にあり、ルーマニアにある100万のソ連の「東欧解放軍」との事実上の睨み合いにあった。事実、ソ連赤軍がハンガリーに大挙進駐を開始したら、それに合わせて両国の軍と合流する予定だった。そして、もう一つの天敵であるフランス側の国境には編成中や改変中の師団以外ほとんど何も置いておらず、自らの政治的姿勢をこれ以上ないぐらい明確にしていた。なお、ドイツのこの状態を実現したのは、英国の様々な援護射撃の結果であり、フランスが態度を突然180度変更したわけではない。なお、フィンランドには、義勇軍として1個軍団・3個師団規模のドイツ軍部隊が派遣されていた。
 反対にソ連は、フィンランドが依然対決姿勢を見せつつ義勇軍を含め10〜13個師団規模で臨戦態勢にあった事からフィンランド侵攻を行った部隊の多くがいまだ北方に拘束されており、北方防衛と予備兵力としての向きもあったが、こちらに20個師団近いの戦力を振り向け、欧州とは全く異なった場所のシベリア方面には、日本軍が16個増強師団・50万人近い兵力を満州・オホーツク地域に展開し、ソ連にとってはもはや絶対的と表現できる戦力差を誇る大艦隊を自らの本土近海に展開する日本海軍に対抗するため、25個師団・50万人の兵力と多くの空軍戦力を極東に展開し、さらには広大な国土と長大な国境線を抱えるソ連邦各地域の防衛と治安維持のため1個軍集団に匹敵する数の戦力が各地に分散配備されていた。
 そして、この双方の兵力配置から言える事は、ソ連赤軍はドイツ軍が全戦力をソ連軍に指向できるのに対して、戦力の三分の二程度しか欧州正面に向けられないことを示しており、チェコやオーストリア軍をアテにできるドイツ軍との兵力量は、兵力の絶対量という点でほぼ拮抗していると言う事だ。
 しかも、ソ連にとって厄介な事に世界帝国である英連合王国軍が、フィンランドに義勇軍を送るだけでは飽きたらず、ギリシアから始まってペルシャ・インドに至る中近東を中心とした地域に無視できないだけの軍事力を展開しており、さらには実際戦争状態となれば広大な植民地から大量の軍事力を投入する態勢を整えつつあった。
 そしてこの状態は、ソ連軍部にとって悪夢のような状態であった。これまでのソ連の行動は、こうなる前に、英独が本格的に動き出す前にできるだけ前進しておきたかったからこそであり、こうなっては本来ならゲーム・オーバーと言ってもよかったぐらいだろう。

 しかし、ソ連赤軍がプラハを中心としたチェコスロヴァキア政府でなく、スロヴァキア地方の開放を求める勢力の要請を受けて武力進駐を開始した事で本当の戦争の撃鉄が起こされる事になる。
 時に1941年8月9日の事だ。
 スロヴァキア地方にソ連軍が踏み込むと、ドイツ政府がついに『24時間以内にスロバキア領内からソ連赤軍が撤退しなければ、ドイツ政府はチェコスロヴァキア政府の要請に従いソ連政府に宣戦を布告する』と文書付きで宣言し、ほぼ同時に英国も同様の外交行動がなされ、この年の始めに枢軸各国として名を連ねていたチェコスロヴァキアはもちろん、オーストリアなど東欧・中欧の過半の国も最後通牒を突きつけるに至った。
 これに対してソ連政府は、侵攻理由と同様の手前勝手なお題目を唱えたが、これも赤軍がチェコスロヴァキア国境を越えてすぐに彼らの国防軍の熾烈な反撃を受けることで見え透いた嘘であることが白日の下にさらされ、ソ連政府はせっかくの24時間を活用する間もないままチェコ軍との全面戦争状態を余儀なくされていた。この状態は革命政権の成立したユーゴスラヴィアにおいてより過激で、赤軍に「進駐」されたユーゴ軍は劣勢を厭わず全戦線で徹底抗戦を行い自らの決意を内外に示し、自らの反共産、反露姿勢を明確にした。

 そしてその翌日未明、まだ英独の最後通告から24時間が経過していない、1941年8月10日未明ドイツ、ポーランド領内を飛び立った無数のドイツ空軍機がソ連軍空軍部隊や基地・施設に一斉に襲いかかり、戦争の幕を本格的に開くことになる。
 その数1,500機とされるドイツ空軍第一線戦力のほぼ全力を投入した航空奇襲は、奇襲が完全に成功した事、ソ連空軍部隊がチェコ、ユーゴ侵攻のため受け入れ準備の整わない前線に戦力を集中し過ぎていた事から、ドイツ空軍が想定したものより遙かに上回る損害をソ連空軍に与えることになった。
 この時ソ連空軍は、ソ=ポ国境に対ドイツ用の軍主力の2,500機、東欧解放軍支援のためルーマニア国内に1,200機、ハンガリー国内に450機程度の第一線機が存在すると見られ、このうち70%以上が稼働状態にあると見られていた。
 ただしこの数字は、主にドイツ軍の偵察活動と後の占領後の集計により確認された数字であり、実際はこれよりも多数の航空機が東欧に溢れかえっていたと見られている。これは一般的にソ連空軍の稼働率が低いからで、実際の作戦効率などから割り出したドイツ軍の算定方法が現実にあっていないからだ。
 そして、ドイツ軍の奇襲はほぼ完全な形で行われた事から、これらの機体の約55%を地上で撃破したと見られていた。
 撃破された数は、数にして最低でも2,000機にのぼる事になる。

 この当時ソ連空軍は、「Polokarpov Istrebitel-16」を数の上での主力として爆撃機の主力にやや非力だが「Ilyushin DB-3」が座り、新鋭の「Lavochkin LaGG-3」、「Mikoyan-Gurevich MiG-3」、「Yakovlev Yak-1」、「Ilyushin Il-2 "Shturmovik"」が脇を固めていた。そして前線においても「l-16」が数の上の主力を占め、「LaGG-3」「Yak-1」、「DB-3」、「シュツルモビク」などの新機材ができうる限り投入されていたが、ドイツ軍の正確な空襲はこれら全てを差別する事無く破壊しつくしていた。
 ソ連空軍の設営した野戦飛行場には、多数の航空機が無惨な屍を無数に晒し中でも9,000機近くが生産されたと言われる「l-16」の損害は多く、あまりの残骸の多さと飛行場の状況、そしてソ連軍というよりロシア特有の体質により、いくつもの航空隊が飛行場ごと破棄される現象が続出する事になった。飛行場は一朝にして、鉄とアルミのスクラップ置き場へと変化したのだ。
 なお、地上撃破しか計上されていないのは、ソ連空軍機が飛び上がる間が全くなかったからであり、それ程完全な奇襲攻撃だったと言う事だ。
 ただ、当のドイツ空軍すら、この大戦果を当初は全く信じなかった。何度偵察して同様の集計が得られ、その後のソ連空軍の活動が数字の示すとおり全く低調になったにも関わらず信じなかった。いや、信じられなかったのだ。これは、自己顕示と誇大表現を好むと言われるドイツ空軍元帥ヘルマン・ゲーリングすら信じなかったというのだから相当なものだろう。
 もっとも、彼らが信じなかったのは自らや欧州列強一般の運用数を尺度として考えるのが当然であり、とりあえず数を揃える事を第一としているソ連空軍の膨大な物量、「l-16」の生産機数こそがこの当時は異常だったのだ。
 ただここで一つ気になるのが、ソ連軍がこうも見事に奇襲攻撃を受け、その後の戦争運営にすら重大な支障を来すほどのダメージを受けたのか? と言うことだが、一説にはソ連首脳部がこの時点でのドイツの積極的参戦はありえないとタカを括っていたからだと言われている。
 これが真実でないにしても、かなり正鵠を得ているのではないだろうか。また、ソ連空軍の前線部隊がドイツの積極参戦を前提に置かず、東欧の弱小国を一撃で粉砕する事のみに力を砕いていたのは間違いないだろう。何しろ彼らは、主力部隊に横合いから殴りかかられたと表現できる程の軍事的醜態を晒したからだ。
 ただし、この時のソ連軍の小さな幸運として、あまりにも見事な航空奇襲で緊急出撃の準備すらできなかった飛行場が続出したため、搭乗員の損耗が最小限に抑えられた事があり、後の戦局に少なくない影響を与えることになる。

 そしてこのドイツ空軍の奇襲攻撃は、全欧州に様々な波紋を投げかける事になる。
 数え上げればキリはないが、その最大のものはドイツの先制奇襲に気をよくした欧州各国が積極的に全面戦争の泥沼に足を突っ込んだころだろう。
 もちろん、一番深みに填ったのはドイツを除けば反共姿勢の一番強いチェンバレン内閣率いる大英帝国という事になる。

Phase 06:1941年9月 東欧戦線3