Phase 14:1944年6月 攻勢

 「バグラチオン」。これは、トハチェフスキー率いる赤軍参謀本部が立案、実行した作戦に与えられた作戦名称だ。
 近代戦史を知る者にとってこの事は常識以前の事柄だが、この嵐に直面する事になった反共連合軍将兵にとっては、知るどころの事態ではなかった。
 この頃戦線は、バルト三国からスモレンクス西方を経てハリコフからアゾフ海へとつながる長大な線になっており、この線を維持する限り反共連合の敗北はあり得ないと言われていた。事実、占領地域ではバルト三国の独立復帰はもちろん、ベラルーシ、ウクライナの独立宣言がなされてすらいた。

 ソヴィエト連邦の夏期攻勢作戦、「バグラチオン作戦」と名付けられた作戦の格子は、他から比べるとやや弱体な北方軍集団と中央部に展開する雑多な2個軍集団の合間を縫うように一点突破を図り、その後バルト海のリガ湾、軍事目標的にはラトビア第一の都市リガを目標として、同地に向けて軍主力を西北西方向に旋回しつつ、一気に連合軍1個軍集団を海に追い落とすもしくは包囲殲滅しようという、ソ連赤軍が金科玉条としているドクトリンの二重包囲戦術からするとシンプルな作戦と言えるが、これはトハチェフスキー以下の参謀団の強力な指導によりなされたもので、それだけに大きな衝撃力を持っていた。

 1944年6月23日にソ連赤軍によって開始された「バグラチオン作戦」は、コーネフ上級大将を司令官として第一線突破兵員数100万人、戦車・装甲車両など3,000両、航空機2,000機の大部隊、つまりソ連赤軍最精鋭の機械化部隊多数を含む1個軍集団が、まるまる殴りかかった。
 もちろんその後ろや側面を合計するとこれに数倍する戦力が動いていた事は言うまでもない。
 この戦いに参加していないのは、南方戦線で反共連合軍主力3個軍集団を押しとどめているジェーコブ元帥の2個軍集団相当の部隊だけで、ソ連赤軍の65%が参加した、まぎれもないの乾坤一擲の大攻勢だった。
 このため、「トハチェフスキーの賭け」と呼ばれる事もある。
 この大攻勢に直面した反共連合軍は、当初大きな混乱に見舞われる事になる。
 原因はいくつかあった。
 主戦線と思っていなかった北方でソ連軍が大規模な攻勢に転じたからと言う事、連合軍もこの一週間遅れで、南方戦線を中心にした再度の大攻勢を意図していた事、そして何より反共連合軍の司令部が、ソ連軍の回復力を甘く見ていたの原因だった。つまり、連合軍の戦略爆撃でソ連の生産力は封じ込められており、彼らの人的資源の多くも拘束され、赤軍は前年初夏の両軍主力激突による消耗から回復しきっていないと考えていたのだ。
 そして現実は、回復どころか大幅な増強すら実現した赤軍精鋭部隊の姿だった。
 ちなみに、本来生産力で勝る反共連合が陸上での不利を招いた最大の原因は、初期の陸での失敗を挽回すべく推進した戦略爆撃が大成功し、その後も大きな経費と努力を必要とする戦略爆撃の表面的な効果に酔い、これにはまり込み過ぎていたからだと言われている。

 この時、反共連合の北方軍集団は、ドイツ軍北方軍集団を中核として、これに雑多な国々の1個軍相当が加わった、総数120万人程度で構成されていた。総司令官はドイツ陸軍の参謀を中心に経歴を積み重ねていたパウルス上級大将で、それだけに教科書通りの堅実な防衛線を構築していた。
 そして、通常なら問題ない筈の防衛線は、大陸国家にして共産主義国家の必殺戦術である人海戦術と常識を超越した物量の投入により引き裂かれ、中央軍集団を預かる防戦の天才とすら言われたモーデル将軍が、ソ連軍の攻勢南方部で適切な対処を行うまでに、反共連合の戦線は引き裂かれる事になった。ソ連側の遮二無二の進撃スピードに、入念に検討された筈の防衛計画が破錠してしまったのだ。
 それでも現地軍司令のパウルス、モーデル両将軍は、ねばり強い防戦に務めるが、圧倒的な物量を投入するソ連軍の前に後退を余儀なくされ、反共連合軍が他方面や後方からの予備兵力を同地域に送るまでに、ソ連赤軍のバルト海突破を許す事となった。
 ただし、ドイツ軍を中心とした防戦が失敗した最大の理由は、ドイツ軍総司令部が出した「死守命令」だとされ、現代の研究においても後方の硬直した姿勢がこのカタストロフを招いたと結論している。
 そして、この一連の混乱は、軍事に詳しいと信じている政治家と生粋の軍人あがりの政治家を指導者に戴いた最大の違いを最も浮ださせた事件だとも言われている。もしくは、失敗から学んだ者とかつての成功に固執した者の違いとも言えるだろう。

 「KV-13」重戦車シリーズの最新型「KV-13C」、連合軍側通称「ミハエルII」(トハチェフスキーのファーストネームだが、大天使の名を冠した初期型より強力な型になるのでこのタイプを「ドミニオン」と呼ぶ事もある)戦車中隊を突撃衝角にした赤色親衛隊は、「T-34-85」を主力とした有象無象の装甲車両を投入し、一本化された指揮系統と作戦目標を持ちつつも、いくつもの突破部隊が城壁に突き刺さる攻城槌のように連合軍の戦線に浸透していった。
 連合軍の優位を約束してくれる筈の空軍も夏の長い日照時間も期待を裏切り、ソ連空軍が局地優勢獲得を目標として投入した密度の濃い兵力展開の前に連合軍側の思い通りには行かず、戦略爆撃にはまり込んでいた連合軍側各空軍の弱点をここでも露呈する事になる。そして、ある程度の制空権さえ得られれば、ロシアの空は「空飛ぶ戦車」こと「シュツルモヴィク」の天下だった。ドイツ軍の強力な鉄の獣たちもただ隠れ、逃げまどうしかなかった。虎だろうと豹だろうと関係なかった。
 ちなみに、この戦場で活躍した連合軍車両は、それまでの防戦でもその効果を発揮し、本次大戦で最もソ連軍車両を撃破した車種となった、対戦車自走砲たちだった。特にドイツ軍の「III号突撃砲」と「IV号突撃砲」は、歩兵師団などにすら多数の車両が配備されていた事と、アンブッシュ、待ち伏せ攻撃には最適な形状をしていた事からこの戦いでも多大な戦果を挙げていた。もちろん、世界最強の名を冠された「VI号重戦車」もその真価を発揮し、「ミハエルII」以外の全ての車両を易々と撃破している。
 だが、各部隊の献身的な防戦を以てしてもソ連赤軍親衛隊の進撃を止めるには至らず、ついにソ連軍は海を見る事になる。
 そして、海を見た将兵の多くにとって、それは最後の光景となった。
 なぜなら、彼らの眼前に広がる海には無数の艦艇が展開しており、彼女たちの砲口の全てが自分たちに向いていたからだ。

 「リガ回廊の戦い」
 1944年7月26日以後、ラトビア共和国中部地域(首都リガ一帯)より東から反共連合軍が撤退するまでの一連の戦闘をこう呼ぶ。
 戦闘そのものは、常に混沌としたところのあるロシアの大地の陸戦にしては非常に分かりやすいものだった。
 戦いが海岸線から20kmほどの間に設定された、長い人為的な回廊を巡って行われたからだ。
 この時、ソヴィエト連邦の夏期攻勢作戦、「バグラチオン作戦」の最終段階として、包囲の危機に瀕していたドイツ軍を中心とする反共連合軍部隊の数は、70万人に達しており、ソ連側はなんとしてもこの膨大な兵力を海に追いつめ、最低でもその装備の全てを奪い、できうるなら短期間のごり押し攻撃で包囲殲滅しようと目論んでいた。
 なぜなら、これこそが「バグラチオン作戦」で最も重要な目的だったからだ。
 そして、それに反して反共連合軍の目的は、包囲の輪を絶対に閉じさせてはならず、海からの膨大な鉄量の投入により維持された回廊をつたい、全ての兵力を引き上げる事だった。
 ここで、数十万の将兵を失っては、この戦争そのものを失いかねないからだ。
 そして、ここで一番活躍したのは、それまで戦争に大きな役割を果たすことのなかった海軍だった。
 もちろん、遅ればせながら制空権の維持に奔走した空軍部隊の奮闘も大きなものだったが、海軍が持ち込んだリヴァイアサン達の牙がなければ、ソ連精鋭部隊を粉砕し、押しとどめる事は不可能だっただろう。
 この時、反共連合軍がバルト海に持ち込んだ戦艦の数は、英国の有する約半数にあたる14隻とドイツ海軍全力出撃になる4隻からなっていた。もちろん、装甲艦、大型モニター以下の砲撃を主体とした艦艇も多数持ち込まれており、その砲撃力は陸軍でなら3個軍集団に匹敵するとすら言われた。
 当然、破壊力は絶大だった。
 特にこれは、危険な場所にこれほど多数の戦艦を投入してくるとは、軍事的に考えるのが難しかったため、ソ連指導が受けたショック以上に大きなものだった。
 多少眉唾だが、戦艦部隊が絶妙のタイミングで砲撃を開始してから1時間の間にソ連軍精鋭部隊が1個軍団まるまる地上から消えてなくなり、1個軍が壊滅的ダメージを受けたと言われた。
 なお、この実質的な奇襲的反撃を現出させたのは、連合軍側がソ連側の海上偵察を許さない防空体制を敷いていたからだが、もう一つの要因として連合軍側にとっても急な出撃だったため、ソ連側がその情報を価値ある段階にまで解読した時には、すでに火蓋がきって落とされた後だった事が挙げられる。
 そして、セヴァストポリ要塞攻略戦以後、大規模な出撃の機会のなかった戦艦部隊は、ソ連空軍の決死の反撃にも屈せず艦砲射撃を続け、少なくない犠牲を出しつつも遂に最後まで任務を全うする。ただし、ソ連空軍の熾烈な反撃により、爆撃が主体だったにも関わらず、英国が「R級」戦艦2隻と、ドイツが「グナイゼナウ」を失う大損害を受けている。
 もっとも、海軍の献身により、包囲される筈だった1個軍集団が装備の多くと共に丸々危地を脱する事ができたのだから、その戦略的価値がどちらか上かは言うまでもないだろう。
 ソ連軍の作戦は、最後に連合軍側の一手により、その目的を達せられなかったのだ。

 だが、このソ連の攻勢が反共連合軍に与えた影響は大きなものだった。
 北部戦線が大きく後退したのはもちろんだし、1個軍集団が一時的に壊滅した事も違いなく、これにより北部方面に本来攻勢に使われる筈だった南方戦線の1個軍集団が回される事になり、この夏の反共連合軍側の攻勢がまたも中止されたからだ。
 一方、反対にソ連側もこの一連の攻勢作戦で大きく消耗したのも確かで、反共連合軍としては、むしろこの点に大きく注目し、以後のさらに戦略爆撃を強化する事で、長期的にはむしろ自分たちが有利になったと考えるようになる。
 ウクライナを失ったロシアには、全欧州と戦えるだけの力はない筈だからだ。
 そして、翌年こそは先に大攻勢を発起し、この戦争を一気に決着付ける決意を連合軍にさせる事になる。

 作戦開始は1945年5月4日を予定していた。
 だが、この作戦はついに発動される事はなく、幻の作戦の一つとなった。

Phase 15:1944年12月 クリスマス攻勢