■Episode. 2:1962年10月 キューバ・クライシス(キューバ危機)
●Phase 2-1:ニュークリアー・ウォー
1962(昭和37)年10月22日、ワシントンから発せられたケネディ大統領の放送により世界は極度の緊張を迎えていた。私もその例外ではなかった。いや、テレビやラジオの前にかじりついているだけの一般市民よりはより多くの情報に触れられ、政府組織の一角でそれなりの責任を負わされる立場にあったのだから、各国の首脳ほどじゃないにしても世界平均を上回る緊張を強いられていたと思う。 まあ、この時代を中学生以上で過ごしたものでなければこの気持ちはあまり理解できないと思うので、まずはここに至る経緯から少し触れてみよう。
この頃世界には大きく三つの勢力に分かれていた。最大の勢力を持っていたのは、衰退著しい英国を飲み込んでしまったアメリカ合衆国を中心とするアングロ同盟、次が欧州を中心としてユーラシア大陸の半分を支配するドイツ第三帝国、そして躍進を続ける大東亜共栄圏を率いる日本帝国だ。 これは、アングロ同盟とドイツが主に地理的な近接状態とアフリカの利権問題から激しい対立状態にあり、同じく日本とドイツもイデオロギーなどの点、アジア利権から対立していたので一見二極化しているように思うが、アングロ同盟と日本の関係もこの頃は余程利害が一致しなければ経済問題外では連携しないのが不文律になっており、ゆるやかな対立と協調の狭間を揺れ動いている状態だった。 勢力的には、東亜:米英:欧州=3:4:3ぐらいの比率だとされている。ちょうどいい均衡状態というヤツだ。誰かがだれかと手を結べばどうなるか火を見るより明らかという状態だ。 この状態の発端は、第二次世界大戦の終了と大東亜共栄圏の成立がそうだと言われているが、大戦から生き残った列強の全てが自分たちの現状に不満を持ちつつも妥協した事がこの状態を生み出していたのだ。 なお、主にアングロ同盟と大東亜共栄圏が対立していた理由は、ほぼ同じイデオロギーでも妥協された経済でもなくこの当時の最も根深い問題、人種問題だった。要するに多数の有色人種を内包した白人同盟たるアングロ勢力は、有色人種「のみ」によって構成された亜細亜勢力と連携することなど、1960年代までは国内政治の点から妥協できなかったからだ。 そしてこの状態のまま中華動乱を経て20年近く経過していた。
この20年と言う歳月は私にも大きな変化をもたらしていた。 初等、中等学校を各1年ずつ飛び級し、二十歳で今ではお札にまでなった明治の偉人が設立した学校を卒業、欧州大戦後まもない頃に政府の某組織に入ったのがこの20年前にあたる。 自分で言うのもなんだが、ここまでの人生は完ぺきだった。私は郷里では、今ではめっきり使われなくなった言葉で言うところの『神童』と呼ばれるぐらいの秀才だったのだ。まあ、天才だと当時はさらに天狗に思っていたものだが。 今の組織に入ってからも比較的順調だった、妙な性格だが実力のある上司に目をかけられた事もあったし、私もそれなりに努力したからだ。そう、ここで私は生まれて初めて努力という言葉を知ったように思う。それまでは、機械で言うなら常に巡行運転しかしない発動機のような状態でも全く問題がなかったからだ。健康で人並み以上の能力を持つ体とこの便利な頭脳を与えてくれた両親には感謝してもしたりないと今でも思っている。 そして中華動乱から帰国してすぐにくだんの幼なじみとの念願の結婚をはたし、翌年には最初の子供、長男が生まれた。その次の年には次男が、さらに二年後には娘が生まれた。 仕事も順調で、1962年の秋を迎えようとしていた頃には、大企業なら「部長」と呼ばれるべき地位に就いていた。 また、私が地元のコネを利用して政界にうって出ようかと、何ともぜいたくな悩みを抱いていた時期でもある。要するに人生で最も充実していた時期だったのだ。 そこにきてこの世界の危機だ。 事前に情報を知っていた私は、取りあえず妻には全てを伝え、子供たちともども田舎へと疎開させる事とした。もちろん、余計な混乱を引き起こすのはゴメンなので、周りには内緒で適当な理由をつけていた。 自分の事を書きだすと長くなるので話しを戻そう。
とにかく、20年という時間は一人の人間にすらこれほどの変化をもたらすのだから、世界の変化は目を疑うばかりだったのは当たり前と言うことなのだろう。 特に大きな変化があったのは、科学技術分野においてだ。プロペラ(専門技術的にはレシプロという)で飛んでいた飛行機はその大半がジェットで飛ぶものに置き換えられ、さらにその上へと飛びだしていくものが一般的に認知されるようになっていたという事は、私のような古い時代の人間にとっては驚くよりもそれを認識できず、ただぼう然としていたというのが正直な感想だった。もちろん、その重要性だけは認識しているつもりだったが。 そして、この頃にはそのさらなる高みへと到達できる運搬手段を用いた兵器の開発も各国で熱心に行われていた。 特に熱心だったのが、この分野での先進国であるドイツと彼らと正面からの対決姿勢を強めていたアメリカ合衆国だった。 もちろん日本でも、軍拡の原則に従い同種の兵器は生産されつつあったが、日本でのそれはその国土環境から前者二つの勢力とは少し違ったものとなっていた。 一応順番に見ていこう。
1944年、欧州での戦争の終った年、世界で始めて実用段階に達したロケットがドイツで完成した。「A4」と呼ばれる、軍事目的で開発されたものだったが、開発した当人は兵器を作り出した事は全く気にしていなかったようだ。開発者の名はヴァルナー=フォン=ブラウン。ドイツで男爵の爵位を持つれっきとした貴族にしてロケット工学の権威、いや実用ロケットの生みの親だ。 ロケットの父と言えば、彼を指す事ぐらいはこの分野の事を少しでも知る者にとっては常識以前の事柄だと言えば、彼の偉大さが分かろうというものだ。 ただしこのロケットは、軍事的に言うところのせいぜい中距離弾道弾に過ぎず、もちろん宇宙へと達する事はできなかったが、これから始まる開発競争に実質的に火をつけた存在であることは間違いないだろう。 これに驚いた英米と日本は、主に謀略や裏取引などで技術奪取に努めると共に自主開発の速度を上げると言うよりも、慌ててスタートさせていた。 これが日本では、ドイツの技術を学んだロシア(ソ連)のロケット工学の権威セルゲイ=コロリョフ博士の亡命という副産物を生みだす事になるが、ここではこの件は後で詳しく書きたいと思うので、先を急ごう。 また、これと平行するように次世代の兵器の開発がそれぞれの勢力で続けられていた。 この分野でリードしていたのは、実は日本だった。対外的な理由は英独が戦争で疲弊し費用的に日本ほど大規模にできず、アメリカは当面極端な軍備増強には無関心だったからで、国内的には安全な亜細亜地域に多数の欧州からの亡命技術者を破格の条件で受入れていた事と、単独で最悪二つの勢力と対立しなければいけないという日本政府の恐怖心が、この究極の破壊力を持った兵器の開発を促進させたのだ。 この研究開発は、日本では「ゲ号実験」、アメリカでは「マンハッタン計画」、ドイツは「ヴィルヘルム研究」という形で戦争が終る頃にはどこでも実働していた。 1948年夏に日本が南洋諸島の某所で最初の実験に成功、世界初の原子核分裂反応兵器、「ニューク」の保有国となった。もっとも翌年にはドイツでも同様の実験が行われ、これに中華動乱中の1952年にアメリカが続いていた。 しかし、日本が1953年にさらに強力な原子核融合兵器(水素融合爆弾もしくは熱核爆弾)の実験に成功したことでこの分野での競争を激化させる事となる。 一説には、この水素融合爆弾の存在が支那の戦争をドローに終らせる最後の一押しになったとも言われている。 そして後は坂道を転げ落ちるような勢いで、各国でばく大な資金を投入しての開発が行われていく事になる。全ては軍拡の原則に則したものだった。敵が持っているものは自分もという、単純だが最も重視されるドクトリンだ。 また、あまりにも圧倒的な破壊力を持つ事から、専用の運搬手段も熱心に開発された。ロケットと重爆撃機がそれだ。後に巡行誘導弾もこれに含まれるようになる。 日本では、ニュークの開発と共に超重爆撃機の「富嶽」が実用段階に入り最初にこの究極的な兵器の効果的な運用手段を確保したが、その後はかなり低調なものとなった。中華動乱による戦費の問題が開発費と配備予算を圧迫したという側面もあったが、日本政府の目的が相手を滅ぼすために開発、配備したのではなく、威嚇や恫喝、脅しなど要するに見せ金として敵対勢力に見えればよいと考えていたからだ。 ただし、確実に相手に届くようにと、重爆撃機による単なる投下から、巡行誘導弾を用いたピンポイント遠距離攻撃に戦術を進歩させるという副産物を産み、白人達をさらに恐怖させる事になる。 アメリカが重視したのも、得意の重爆撃機を用いた攻撃手段だったが、実にアメリカらしくちょうど軍拡に転じていた事も影響して、同種の兵器の大量配備による飽和攻撃戦略でドイツ人と日本人に対抗しようとした。 不確かなら、それを補うだけ大量に使用すれば良いという、実にアメリカ的楽観性と物量作戦ドクトリンが反映された戦略だった。たしかにこれなら、確実に相手を滅ぼせるだろう。実にアングロサクソンというのはやることが徹底している。 一方、何だか日米双方からこの兵器をより多く向けられている雰囲気の強いドイツは、自らの得意分野をさらに伸ばすことで対抗した。全てをフォン=ブラウン博士に託したのだ。 彼は、中華動乱の前後から急に潤沢になった予算をそれこぞ湯水のように使い、推力を強化させた「A4」の安定化と量産を進めると共に、「A7」、「A9」、そしてついに人工衛星打ち上げ能力を持つに至った「A10」をドイツに保有させる事となる。時に1955年の事だった。 1955年10月、当時世界最大のロケット打ち上げ施設、ドイツ・ペーネミュンデから打ち上げられた「A10」と同型の「タンホイザー2号機」は、ドイツ語で「探検家」と名付けられた飛翔物体を衛星軌道上に乗せる事に成功し、人類に宇宙への扉を開かせる事となった。 この事そのものは人類にとって実に偉大な事であり、科学技術分野だけからみれば称賛以外の何も贈ることができないものだったが、衛星軌道上に達するロケットとは、それはそのまま大陸間弾道弾(ICBM)として使用できる事を意味していた。 世界は惜しみない称賛を浴びせていたが、国防を司る欧州以外の全てのものを震撼させた。 ただ、日本の反応はそれ程でもなかった。 この頃日本はすでにロシア極東部にドイツ人達が中距離弾道弾を持ち込んでいる事を知っていたので、自国にニュークが向けられる事など今更だったし、自分たちも対抗手段として新型の超重攻撃機「飛鳥」の量産配備を進めていたからだ。この「飛鳥」は今でも宇宙軍の基地に行けば見ることのできる機体だが、この頃はまさに革新的な航空機で、時速800km/hで地球のどこにでも征ける航続距離を持つという絶対的な優位をもって日本の国防の柱となっていた。「飛鳥の征けぬ空はなし」という景気の良い軍歌を覚えている人もいるだろう。 しかもこの怪鳥は、巡行誘導弾という鋭い嘴も備えており、就役した当時はドイツとアメリカが等しくあしざまにこの兵器の配備を罵ったほど世界を揺るがした存在だったのだ。日本はこれを1954年に配備を開始していた。さらに弾道弾搭載型潜水艦の大量配備も進めつつあったのだから、ドイツの快挙はお互い様という程度の認識しかなかったのだ。 また、ロケット開発についても、独自の戦略ドクトリンに従い順調な進展を見せていたので、数年内にドイツと同様の成果を出せると分かっていた事から少し予算を増やし、開発スピードを上げればよかろうと言う程度だったと、科学産業省にいった大学時代のサークルの友人がその時の心境を後に語っている。まあ、当のロケット開発者たちはたいそう悔しがっていたらしい。 なお、狭い海峡を挟んでドイツと向き合っている英国にしても、程度の差こそあれ日本と似たようなものだった。 慌てたのは、アメリカ合衆国だった。 それまで、米本土は二つの大洋に挟まれているという地理的要因から日本人からもドイツ人からもステイツは安全だと思っていたのが、1954年の日本の「飛鳥」配備に続いて、この年のドイツの大陸間弾道弾の配備だ。 その狼狽は、はた目で見ていても哀れなぐらいで、その反動としてアメリカは未曾有の軍拡とロケット開発に乗り出す事になった。 これは、アメリカ人達が人間を衛星軌道上に送り出すまでに行った数々のロケット実験での失敗がこれ以上はないというぐらい雄弁に物語っていると思う。そして彼らの努力はそれなりに報われ、1959年1月に彼らも人工衛星の打ち上げを達成していた。 ただ彼らにとって残念な事に、この頃には日独の間でと言うよりもフォン・ブラウン博士とコロリョフ博士の間でロケット開発競争が激しく進行しており、ドイツは国家の威信を賭けロケット開発に血道をあげ、日本もコロリョフ博士の精力的活動とこれに加担した日本人技術者たちと、そして何より宇宙開発に大きな利益を見いだした企業群の後押しに引きずられる形で大きな成果を挙げるようになっていた。 ドイツのそれは一人の怪物に主導された国家事業で、日本の開発は個々の人々の熱意とそれに利益を見いだした企業(航空産業)がこの頃のロケット開発競争を煽っていたのだ。 なお、日本がドイツとの開発に何とか対等に持ち込んでいた原因は、軍事技術開発が強く影響していた。それは1950年代初頭より巡航誘導弾を広範な軍事体系に組み込んだ事で、この頃世界最高レベルに達していた個体燃料ロケットの開発技術が、ドイツ人より遅れていた液体燃料ロケット分野での遅れを補っていたからだ。 当の開発者達は、将来の可能性のより高い液体燃料ロケットこそ最も重視すべきだと認識していたが(コロリョフ博士はその最右翼だった)、現実を受入れない程愚かではなかったという事だろう。それに、個体燃料ロケットにも色々利点はあったらしい。そして、日本人達の人工衛星打ち上げロケットは、中心の液体燃料ロケットの周りに多数の固体燃料ロケットを初期加速ロケットとして装備する事で大質量の衛星軌道投入を実現していた。もっとも、固体燃料ロケットとはとどのつまり巨大打ち上げ花火に過ぎず、この当時はまだその制御には日本的職人芸を以てしか運用は不可能だっただろうと言われている。これには、凝り性では日本人の双璧たるドイツ人達ですら認めている事だそうだ。 なお、ドイツは1958年に日本は1959年に人類を宇宙に送りだす事に成功していた。これによりドイツ人はイデオロギーの向くべき新たな道を手に入れ、日本人は新たな宅地造成地兼資源採掘場を手に入れたと後の宇宙開発を見ると言えるのではないだろうか。 そして最後にアメリカが1962年にようやく人類の衛星軌道打ち上げに成功し、三者は横並びになった。 まあ、これについてはもう少し詳しく後述したいと思うので、軍事面での話しに戻そう。
先にも書いたが、人工衛星を打ち上げられると言う事は、三つの軍事大国のどれもが大陸間弾道弾を開発・運用できるようになった事を意味しており、世界の破滅に一歩近づいたという事だった。 この頃の各国のニューク運用兵器の開発・運用を見るとそれぞれの特長が出ていて興味深い。(面白いとは決して言えないものだが。) まず、科学先進国たるドイツ第三帝国だが、この国は弾道弾一本槍だった。フォン=ブラウンの手になる様々なロケットがドイツ国防軍の兵器体系を埋め尽くしていたのだ。 弾道弾の種類も最も豊富で、欧州各地に隠密裏に配備された大陸間弾道弾を始めとして、近隣の敵対勢力に向けられた中距離、短距離弾道弾の数々は、ロケット大国の面目躍如たる姿で、ロケット開発共々国家の威信を賭けて多数が整備されつつあった。 質量ともに世界最大級であり、その技術力も俗に言われる「ドイツ人的職人芸」を必要とするが実に優れたものだった。 少なくとも当時ドイツのどこかに配備された大陸間弾道弾が、世界の大国の全ての脅威の的だった事は間違いないだろう。そして、優れたロケット技術を用いた弾道弾迎撃システムも非常に優れていたと当時は見られていた。この辺りはドイツの科学技術に対する思い込みにも似た恐怖心が生み出した、なかば幻のようなものだと私は思う。 続いてアメリカだが、こちらは様々な大陸間弾道弾の開発が独日よりも遅れていた事から、得意の戦略爆撃機の大量整備でその戦力格差を補っていた。しかも、実にアメリカらしい物量が揃えられ、1962年までには世界の半分を焼き払えるぐらいの大陸間弾道弾と戦略爆撃機搭載型ニュークが存在していると言われていた。ただ、当時でもこれは話半分だと認識されており、いかなアメリカと言えどそれだけの力はないと思われていた。ただし、世界最大の工業力と国力が生みだしたマスプロ生産により最も多数のニューク・ヘッド(核弾頭)を有しているのは確実視されていた。そして優れた基礎工業力に裏打ちされた堅実な兵器を多数運用している事から、信頼性と稼働率は非常に高い数値を示していたとされている。 最後に日本だが、日本は国土が他国に比べるとニュークによる直接的打撃に弱いという認識に基づいて、敵の弾道弾を呼び寄せるのが確実な大陸間弾道弾の開発と配備は付き合い程度しか行わず、その努力をもっぱら固体燃料ロケットの開発力の高さを利用した安定した航空機搭載型巡行誘導弾と潜水艦発射型中距離弾道弾を搭載した戦略潜水艦(SSBN)の建造に注いでいた。当然その配備場所の大半は、人の少ない島嶼や海の底である。信頼性や稼働率などは米独の中間ぐらいと見られていたが、双方の国がまだ実用段階に入っていない新規兵種を持っている点は大きなアドバンテージとされていた。なお、米独同様の大陸間弾道弾は、オホーツク海沿岸の人のなるべく住まない地域に何カ所か存在していた。また、弾道弾迎撃システムの開発は世界で最も進んだものを有しているとされ、大規模な重防空壕ではなく間接防御による国土防衛に重点が置かれていた点も他国とは違った点だろう。特に単なる対空迎撃システムとして中華動乱の際に熱心に開発が進められた事が、この時点でも大きなアドバンテージとなり、成層圏の重爆撃機も迎撃可能な対奮進機用の「噴龍」地対空誘導弾が日本全国に配備され、弾道弾迎撃用の「防人」地対空誘導弾が日本の守りとして天空を睨んでいた。さらに、ニューク・ヘッド(核弾頭)搭載の弾道弾迎撃用誘導弾が専用の大型戦闘機や重爆撃機の一部に1961年頃から配備が開始され、早期迎撃システムの一環として存在していたらしい。
とまあ、各国がニュークとその運搬手段を向け合った状態で冒頭の1962年の大事件を迎えたワケだが、次はその政治的経緯を少し見てみたいと思う。なおこの件に関しては私も日本政府の高級官僚の一人として深く関わった事なので、今でも強く記憶している。ただ、そうであるが故に書き出すと際限がないので、なるべく簡潔にいこう。