Phase 2-3:ウェルカム・トゥ・キューバ

 事件は、ここに至って日本、特に私にとって終わったようなものだった。つまり日本政府が政治的選択をした後はほぼ傍観者として過ごしたので、客観的に事の経緯だけを記録して次へと進みたいと思う。

 1962年10月25日、東京から世界に向けて発信が行われ、同じく国際連盟本部のあるニューヨーク、ワシントン、ベルリンにある日本大使館でも活発な活動が開始された。
 ついに、それまで沈黙していた東の大国日本が動きだしたのだ。もちろん、世界を破滅させる為ではない。世界を何とか救うためだ。東洋のサムライは西部劇での騎兵隊のように銃を発砲しながらではなく、あくまで正義と信義を重んじる侍として、刀をいつでも抜けるようにしつつも、無言のまま双方を話し合いさせるため米独の間に割って入ったのだ。

 日本が主張したのは、アメリカの海上封鎖は支持するが武力を用いたキューバへの介入は厳に慎むべきだと言う事と、米独のキューバからの即時軍事力の撤退、そして時機を見ての世界的レベルでのニューク削減のための軍備縮小会議の提案だった。
 そして破滅に瀕していた世界は、これを感情的に単に東洋人の独善と傲慢とは取らずに冷静な目でみつめ、自分たちなりに評価しようとした。
 誰も好んで最終戦争などしたくないからだ。これに関しては人種もイデオロギーも存在しなかった。誰も終末のスイッチは押していないのだから、まだそれ以外の方法で問題の解決を図るべきべき時なのだ。
 そして、これに米独双方はそれぞれの対応と緊急の協議を始める事となる。
 米英は、一応自分たちと同じ自由資本主義国であり、巨大な軍事力を持つ日本が自らを支持した事に意を強くした。特に、相手よりも大きな軍事力を背景にしての海上封鎖と英国からのミサイル撤退で手打ちにできると考えていたアメリカ合衆国大統領ジョン・フィッツジェラルド・ケネディにとっては、自国の軍人達に対抗するための最大級の援護射撃となった。

 そして、ドイツの支配者もこの頃大きな苦慮の中にあった。大きく動かないと見ていた日本人達がアングロ同盟に肩入れすることを決意したからだ。
 この時まで第三帝国は、このキューバでの軍事力を用いた政治的行動がうまくいくと考えていた。世界に冠たるドイツ軍の作戦が失敗することなどあってはならず、キューバでのちょっとした政治的脅しは軍にさらなる栄光をもたらす筈でもあった。
 しかし日本の横やりによりバランスは崩れ、彼らの前提条件はもろくも崩壊した。作戦は失敗したのだ。
 この時ドイツの誇る参謀本部は、この予測が外れた事、作戦が失敗しつつある事に大きな動揺に見舞われていた。そしてこれは、さらなる圧力の増強と終末戦争への準備を以て強引に押し通そうという方向で総統を説得しようとした。欧州の覇者たるドイツ国防軍は破れるわけにはいかないからだ。
 しかし、時のドイツ第三代ドイツ総統カール・デーニッツは首を縦には振らず、軍には現状維持を強く命令した。ただし、ニュークの搬入は継続すべしと命令もしていた。欧州の覇者は弱気を見せるわけにもいかないからだ。
 しかし、10月26日一通の書簡がケネディの元にもたらされていた。内容は、「大統領閣下、私の気持ちを貴方も御分かりの筈です。平和は誰にとっても重要です。もし、アメリカがキューバに侵攻しないと約束すれば、ドイツの軍事専門家がキューバにいる必要も無くなります。」というものだった。
 しかしこれは、あくまでデーニッツの私信でしかなかった。
 アメリカは混乱していた。ドイツも混乱していた。その上双方の軍部はどちらも攻撃を主張していた。軍人とはそういう生きものだからだ。だが、米独双方の覇王の間ではこの時方向は決まったと言ってよいだろう。
 ドイツはキューバから弾道弾とニューク・ヘッドを撤去し、これと交換条件にアメリカは海上封鎖を解除すると共に、英国に存在する中距離弾道弾を撤去するというものだ。
 これは、英国も大きく反対しなかった。なぜならJFKは英国に配備された旧式の弾道弾の代わりに、新たに配備されたポラリスミサイル搭載のSSBNを北大西洋に配備すると約束していたからだ。また、英本土にある戦略爆撃機基地はそのままとされていた事も影響していた。
 ドイツはいつでもアメリカに挑戦できる姿勢を示したことで満足し、英米は現状維持という事で妥協しようというものだ。

 だが事件は簡単には解決しなかった。10月27日「暗黒の土曜日」と呼ばれる日がそれだ。この日、ドイツのキューバ派遣軍がライントホターIV地対空ミサイルでアメリカのU-2型偵察機をキューバ東部バネスで撃墜した事からこう呼ばれた。
 しかし、双方の元首とも現状を維持を強く命令した。
 その努力は報われる。10月28日、デーニッツがキューバからのミサイルの撤去をグロス・ベルリンで発表したからだ。また、アメリカ、ドイツ、キューバの名誉を保ったうえでのニューク撤去を確認するため、国連軍代表として日本海軍艦艇が洋上で臨検することで調整が行われる事となった。
 「黄金の日曜日」が到来したのだ。
 「人類滅亡3分前」と言われた事件は終わり、後は急速に事態は改善していった。そしてそれを見届けるための日本の船が、この時半ば偶然に訪問していた南米の某所から急ぎパナマ運河を越え、カリブ海から北大西洋へと急ぎやって来ていた。
 そしてこの船が臨検予定海域に1海里近寄るごとに事件は解決に向った。このため、この臨検を行った船は、当時の日本海軍にとっては何の事はない駆逐艦の1隻でしかなかったのに、日本はもとより世界的にも有名になってしまうことになる。
 船の名前は「綾波」。この名を踏襲した海軍艦艇の何代目かにあたり、先代の「綾波」は1934年の太平洋戦争で獅子奮迅の活躍を行ったことで海軍軍人と一部マニアの間ではよく知られている。この名を持つ船には何かしら目立つべく定められたものがあるのかもしれない。
 だが、この「綾波」も当時の海軍関係者にとっては、軍事的にもそれなりに注目すべき存在だった。そしてこれこそが、南米のペルーから短期間で大西洋沖のひのき舞台に出演させる事になったのだ。
 1960年から就役が始められた「敷波級」3番艦として建造された本級だが、排水量は7600トンと大型化に突き進んでいたこの当時の日本軍駆逐艦としては可もなく不可もなくの排水量だったが、装備は空母機動部隊直衛用として建造されただけに第一級のものが艤装されていた。最新鋭の対空誘導弾、それに連動する新型の多目的電探と追尾電探、自律型対艦誘導弾、新型速射砲、対潜噴進弾、小型対潜魚雷、改良されたアクティブソナー、対潜ヘリ。艦の全てが次世代型として開発された装備で埋め尽くされていた。中でも目を引いたのが機関で、大型のガスタービン機関だけを搭載しており、この大食らいだが優れた心臓を持っていたが故に高い巡行速度の維持が可能であり、それが日本海軍にこの任務に白羽の矢を立たせることになったと言えるだろう。
 また、小艦ながら最新鋭の装備で固めた同艦は、日本の軍事力をある程度世界に示せるとも考えられていた。

 そして1962年11月9日、ミサイルを搭載したドイツの船舶がキューバを出港、これを認めた日本海軍艦艇の「綾波」が併走してミサイル撤去を確認、これを国連とアメリカ政府に伝えた。
 この時を以てキューバ危機は終わりを告げた。

 もっとも、これで世界に楽園が誕生したわけでもなかったし、世界平和が実現したわけでもなかった。
 もちろん、何も成果がないわけではなかった。これをきっかけに米独日の間では冷戦解消への歩み寄りが進み、1963年7月には相互にホットラインが敷かれ、また8月には米独日英四カ国による部分的核実験停止条約が調印され、早くも10月10日から発効していた。
 また、さらに暗黙の了解で、核拡散防止に関する覚書が交わされ、ドイツはロシア、フランスに日本はインドと中華民国に対する技術供与を自粛するなどの対策がとられていた。
 さらに各国間において、その運搬手段の技術輸出が厳しくされ、これが米独日の航空宇宙技術の他国への拡散を阻止し、しばらくの間大国の間だけで宇宙開発競争が行われる事になっていた。もっともこれは、ニュークの安易な使用を即す可能性が高く、モノによってはニュークそのものよりも開発の難しいロケット、重爆撃機、巡航ミサイルなどの運搬手段技術拡散を阻止しようという意思から発生したもので、大国の打算と人間の持つ良き部分の体現の妥協と見て取れるようにも思う。

 なおこの死のゲームの2人の主役、ケネディとデーニッツのその後についても少し記録しておこう。
 ケネディに関しては有名だろう。翌年、ダラスで凶弾に倒れた模様が全世界に衛星テレビ放送によって配信されたのだから。一方のデーニッツは、この危機での対応がひとつの伏線となって、やがてグロス・ベルリンを追われる事になった。キューバからのニューク撤退の政策により、彼は欧州の覇者たるには相応しくないと判断されたのだ。
 その後アメリカではニクソン政権が成立し、ドイツでは第四代総統ラインハルト=トリスタン=ハイドリヒが就任、それぞれ迷走する世界のかじ取りを行っていくことになる。
 また、日本においてはこの事件以後正三角形均衡状態の一つの中心点ではなく、二等辺三角形での一つの底辺、英米よりの姿勢を強く打ち出した事で、その方向性を主に諸外国より決められるようになっていた。そう、この事件は日本外交の一つの転換点となったと言うことだ。そしてこの事が後の事件に強く影響を与えることにもなっていく。

 そして、米独日によるこうしたニュークによる恐怖の均衡こそが、通常兵器による戦争に指導者を駆り立てていったとされる。それは、キューバ危機の最中に、あのビルマやアフガンの悲劇は深まり、おびただしい人々の命が失われてった事で補強されていた。
 全面核戦争の危険は遠退したが、世界各地で武力発動の機会は、かえって増えていたのだ。

■Episode. 3:1968年4月 
カオス・オブ・ビルマ(ビルマ戦争)

 ●Phase 3-1:国家社会主義陣営の野望