Phase 2-3 戦争計画
日米の戦争計画は、そのまま日米の経済政策を示しており、このため攻める側が国力に勝るアメリカで、守る側が直接的な国力に劣る日本という構図を作り上げていた。 そして、双方の総力戦を研究するシンクタンクの結論は、当然と言うべきか全く同じものだった。
1953年から以後5年以内という仮定で、短期的な正面戦力だけを用いた戦いでは日本の判定勝利、つまり日本の戦略的勝利で現状が固定化され、2年以上の長期戦になりそれが5年以内に終わるなら、日本の戦術的敗北とそれによるアメリカの戦略的勝利がもたらされ、4年から7年の泥沼の長期戦になるのならアメリカの完全な戦術的勝利と戦略的勝利になり、破滅を避けるため日本は核戦力の全面使用に踏み切り、全世界を本当に巻き込んだ三度目の世界大戦になるだろうというものだった。 そのため日本側に楽観的雰囲気が強かった。 なぜなら、この総力戦研究は米日双方が形振り構わない総力戦を行ったなら、という想定で組み上げられており、そのような戦争を行うことなどアメリカが選択するとは、どう考えても理論的には想定できなかったからだ。特に大都市を一撃で吹き飛ばせる兵器を大量に用いる戦争を、沢山のものを抱え込んだ文明国が望むはずないと、日本は自らを鏡に映して信じ込んでいた。 つまり、戦争はどういう形であれ有利な外交要求を通すための短期限定総力戦しかあり得ず、戦争期間はどれ程長くとも日露戦争程度になり、そしてそのような間に意味のある大軍備(大海軍)建設など出来る筈もなく、当然正面戦力だけを用いた戦いになり、常備兵力と予備役状態にある兵力を短期的に動員して戦われるその戦場で、日本は常に正面兵力量的な優位を獲得出来る事が「分かって」おり、日本政府と陸海軍がアメリカから大規模な奇襲攻撃もしくは致命的な損害さえ受けなければ、敗北する事などあり得ないという結論に達していた。 そして、自らの繁栄のためなら愚かでも怠惰でもない日本人達は、その為の努力を地道に続けていた。その最大の成果の一つが、1952年のロケット打ち上げだったのだ。 何とも驚くべき事に、日本人はICBMを建造せんがために大型ロケットを開発したのではなく、ただ広大な国土を持つアメリカ合衆国やソヴィエト連邦を遠くから監視するために、大金を投じてロケット開発に邁進していたのだ。 この宇宙開発・ロケット打ち上げは、この時の戦争が始まってからも戦費と戦争資源を一部削ってまでも続けられ、幾多の失敗にもめげず次々に打ち上げられた人工衛星の数々は、人々が次のステップと考えていた人間を宇宙に送り込む事よりも、如何に正確な情報をもたらす人工衛星を打ち上げるかにその努力が注がれ、最終的には日本が恐れていたアメリカによる奇襲攻撃を前提とした短期限定総力戦を、偶然と必然によりアメリカにとっての失敗に終わらせる事になる。 そしてロケットとNUKEの併用以外宇宙への価値の重要性を、それを持たないが故に認識できなかったアメリカ政府の戦争計画は、釈迦の手のひらの上で踊る孫悟空という東洋童話的な状況を描いたような結果になる。 情報戦での一方的勝利、これこそが戦争を始めるもしくは防ぐに対して日本が用意した「A(エース)のカード」だったのだ。
では順に見る前に、米日英の海軍主要艦艇の数で端的な戦力差を見ていただこう。
◆海軍軍備(1952年夏現在) 日: BB:12(予備役5) AC:4 CVB:5(建造中4〜6) CV:4(予備役3) CVL:6 CVE:8(予備役54)
米: BB:14(予備役5) AC:4 CVB:3(建造中4) CV:4(予備役2) CVL:12
英(含む英連邦): BB:7(予備役4) CVB:1(建造中1) CV:4 CVL:12(建造中8) CVE:4(予備役20)
一見して分かるように、米日の正面戦力はほぼ拮抗しているように見える。 ただし、アメリカは大西洋や英連邦各地の英軍の事を考えねばならず、日本はソ連の事を注意しなければならないので、全ての戦力を相手に叩きつけられるワケではなかった。 また、英国は日英同盟こそ解消されていたが、より複合的なEATOの成立により米日の間に戦端が開かれたなら、最低限の軍事活動をしなければならなかったが、日本の状況がよほど悪くならない限り、積極的にアメリカを攻撃するとは考えられていなかった。 つまり、米日とも太平洋で好き勝手に使える海洋戦力は、常識的に考えれば全軍の75%程度で、日本に至っては使用できる陸空軍力は半分程度に過ぎなかった。 だが、この単純な数字では現れない戦力差が、結局アメリカに開戦壁頭の奇襲攻撃を決意させる。 アメリカに奇襲を決意させたのは、アメリカ合衆国が誇る巨大な工業生産力と、後述する米日の先端技術格差であり、双方の実戦経験の有無だった。
ここから、可能な限り単純にアメリカ軍の戦争計画を戦後戦略を含めて要約すると、米日の正面戦力は数においてほぼ互角であるが、使用されている先端技術格差と実戦経験者の有無により、日本軍が同数では非常に有利にある。 にも関わらず、戦争は市場優位と海外市場の獲得という経済問題を解決する為の戦争なので、比較的短期間の限定総力戦以外選択できないため正面戦力(プラス予備役兵力)を用いて戦うしかなく、このまま真っ正面から殴り合ったのでは、攻勢を仕掛ける側に立つアメリカが先に消耗してしまう。 これでは、アメリカにとって戦争どころではない。 そこで、開戦壁頭に日本軍(特に海軍)の最も重要な拠点に対して奇襲攻撃を敢行し、彼らの出鼻を挫くと同時に正面戦力比率をアメリカに有利にし、その後は既に双方オフレコ状態で稼働しつつある戦時生産力、アメリカが唯一有利にある点を利用して簡単にできる兵器を用いて局地的な物量差を作り上げ、そのパワーで戦争を回し日本軍を追いつめ、アメリカ軍優位のまま双方が千日手になる直前まで侵攻、もしくは決戦と呼びうる戦いで勝利した時点で彼らに停戦を持ちかける。 これにより、アメリカは日本に対してどういう力を行使できるかを教え、これ以後問題を外交に持ち込んでアジア・太平洋問題に食い込み、和平が成立して後は、戦争で作られた限定的戦略優位、つまりアメリカは日本に何が出来るかという潜在的恐怖を利用した外交を展開し、アジア市場に食い込む事で日英の市場に入り、以後生産力、資本力の優位を利用した純粋な経済戦争をしかけて、世界の経済的主導権を獲得しようと言うものになるだろう。
一方日本側の、従来から存在する戦争計画の要約は極めて単純だ。なぜなら、既に戦略的優位は存在するのだから、それを守れれば勝ちだからだ。 つまり、多少戦術的に敗北しても戦略的に敗北しなければ敗北した事にはならないと言う事になる。 だから、日本本土と各地のシーレーンを保護するだけの兵力、ソ連の動きに対応できるだけの最低限の戦力以外の全てを中部太平洋地域に一気に展開し、アメリカ側に現有兵力を用いた消耗戦をしかけ、彼らが攻撃戦力を消耗するのを待てばよいというものになる。 そして第一次太平洋戦争後の日米の戦略転換をここに見る事ができ、アメリカは依然として大規模戦闘、日本軍主力との決戦を重視しているのに対して、先の太平洋戦争で徹底した戦術的勝利に固執した日本軍がその考えをアッサリ捨て去っている点だ。 これは、アメリカが行った本格的な近代戦争が1898年の対スペイン戦争を除けば第一次太平洋戦争しかなく、日本は建国以来10年〜15年に一度何らかの戦争を経験していると言う差が強く影響しており、第二次世界大戦の存在がこれを決定的にしていた。 もちろんアメリカ人達も、理屈では第二次世界大戦とその後作られた戦争の様相を理解している、少なくともそのつもりだったが、かつての日本人達があれほど戦術的勝利に固執した以上、その潜在的脅威を排除して戦争計画を立案することなどできないという、もはやトラウマ的心理状態がアメリカ軍の戦略を左右していた。 これに対して日本軍は、イザと言う時の大規模戦闘の必要性こそ依然として認めていたが、それはあくまで「必要なら」というレベルであり、全ては兵力の効率的運用こそが勝利をもたらすと、6年間の欧州の戦いで学び、ソ連との新たな対立が日本人達にさらなる研鑽を要求し、その姿勢が1950年代の対米戦争計画を形づくらせていた。 それは先の戦争で日米が作り上げたウォー・プランと違った意味での鏡であり、両者の戦略・戦術を固定化していた。 そして、思想・組織が固定化した存在の末路は総じて惨めなものであった。
では、最後に双方のウォー・プランを、戦術レベルでもう一度見て次へと進もう。 まずは現状確認からだ。 第一次太平洋戦争は、以下の地理的影響を米日のに与えている。
・ウィーク島、グァム島の日本への割譲 ・マリアナ諸島、マーシャル諸島全域、ハワイ諸島一帯、アリューシャン列島、ライン諸島の非武装化 ・フィリピンの独立(1940年独立)
この結果、ハッキリ言ってまともな艦隊決戦が、太平洋上で成立しない状態になっていた。 だが、第二次世界大戦による影響でなし崩しに各地の基地・拠点の建設が進められ、両国の距離的最短ルートになる北太平洋地域は米日そしてソ連の軍事力の溢れるホットゾーンとなり、ハワイ諸島とマーシャル諸島の非武装化は一応守られていたが、両国が作り上げた巨大な民間用港湾はひとたびサーヴィス艦隊が入港すれば数日で即席の軍港に変化し、よく整備された空港はそのまま空軍基地にできる程で、特に以前から大規模な軍事基地のあったハワイ諸島のオワフ島が顕著だった。 またアメリカは、ハワイ諸島でないとしてアメリカにとっての最前線となっていたミッドウェー諸島の要塞化を進め、日本軍はマリアナの代換え的意味を込めて、辛うじて条約対象外だったパラオ群島の拠点化を行っていた。 そして、軍事力の展開という点で日本の方が強く出ており、条約対象外のシーレーン対象地域には、多数の対潜哨戒機を配備し、最低限度の護衛艦艇と大量の補給艦艇を維持して不測の事態に備えており、戦争を決めて数年しか経っていない米軍に対して大きなアドバンテージを持っていた。また、日米双方で洋上での補給という観念が発達し、双方に高速補給艦の誕生など戦闘支援艦船の技術革新と充実をもたらしていた。
そのような事情もあり、米軍の戦争計画はかなり性急なものとなる。 まず、開戦当初に日本本土の主要軍事拠点を攻撃して一時的に日本軍の即応戦力を麻痺状態に置き、副次的に日本軍の戦力の漸減を図り、同時に一気に軍事力をハワイに繰り出して短期間で拠点化すると、奇襲で作られた時間的余裕を使い日本軍が本格的に展開していないマーシャル諸島、トラック環礁を電撃的に制圧。 以後、トラック環礁からマリアナ地域もしくはカロリン群島地域に進出しているであろう日本海空軍主力との最初の決戦に及び、兵力的優位を利用してこれを戦術的に撃破。場合によってはここで停戦を行う。 そして日本人がそれを望まないのなら、以後一時的に確保された制海権を利用しマリアナ諸島を占領、補給線を確保の後に大規模な爆撃機部隊を持ち込み、彼らの兵力拘束を目的とした限定的な日本本土に対する通常戦略爆撃を行い、最終的には彼らの最重要シーレーンを絶つ目的で台湾か沖縄への大規模な陸上兵力を伴った侵攻を行い、これを以て日本との最終的な停戦に及ぶというものになる。 これに要する期間は、長くみて1年〜1年半。 最初の奇襲が60%以上成功し、日本の同盟国の大半が本格的な戦闘参加をしなければ、目的の80%は達成できるだろうとされていた。
これに対して日本の戦争計画は不透明なものだった。もしくは、反対に明確すぎるぐらい明確だった。 なぜなら、先にも書いた通り当時の日本軍に戦略レベルでの防衛戦争以外の想定はほとんど存在せず、ましてや米本土への攻撃など考慮の外にあったからだ。 とどのつまり、限定された想定による戦術的な戦争は、ほとんど考慮する必要などなかったのだ。 もちろん何もなかったわけではないが、正面戦域、つまりマーシャル群島やマリアナ、パラオで第二次大戦時の独ソ戦のような消耗戦を行いつつ、ただシーレーンを守護し続ければ良いと考えられており、その想定での演習すら第二次世界大戦後には定形化しつつあった。9回裏にホームベースさえ踏まれなければ、日本人は勝利するからだ。 しかも、日本軍がそのような想定をしていた背景には、万が一戦略的に不利になれば核戦力を抑止力として使用する事に全く躊躇しないという性質が見え隠れしており、日本各地に存在していた日英独の技術を結集して建造された超長距離重爆撃機と原子力爆弾さえあれば問題は存在しないと言う、この時いまだ実戦使用されていなかったが故の「核兵器絶対主義」に近いものがこれを肯定していた。 少なくとも、シアトルやサンディエゴ、もしくはサンフランシスコの米海軍の拠点を核攻撃する計画は、原爆が開発された当初から間違いなく存在していると考えられる。
だが、そうした日本軍の姿勢にも変化が見られる。それはアメリカが明確に対日開戦に傾いていた1952年以後顕著化する。 表面的には1952年秋の季節はずれの大規模な人事移動に象徴されており、これは平時から戦時への人的資源に対する準備なのは当然だが、戦争計画が今までと違った形で立案される事も示唆していた。 なぜなら、日本海軍の実戦部隊のトップが変更され、合わせて行われた人事異動がこれを全て物語っており、そのトップに座った者達が、第二次世界大戦を中堅士官や下級将校として体感し、そこで攻撃的と言われる評価を得ていた者ばかりだったからだ。 その最たるものが、戦争の主役となる筈の日本海軍の艦隊司令長官で、彼らの本国艦隊にあたる『連合艦隊』司令長官には「Kami」、日本語の単語で「God」を意味する氏族名を持つ人物が就任した。 それは後世から判断すると、日本軍にとって自らの頭にロシアンルーレットの拳銃を突きつけトリガーに手をかけたに等しい行為、もしくはラスベガストップのカジノで一世一代の大博打に打って出たのと同じ行為となった。