■Case 05-05「机の上の戦争」

 「ポツダム宣言」。世界史的にはそう呼ばれることの多い列強間の会談が持たれたのは、アドルフ・ヒトラーの演説から数ヶ月が経過した1949年4月25日の事だった。
 本来なら、ヒトラー総統の演説後すぐにも国際会議をすべき世界情勢だったのだが、それ故に各国間の調整が難しく、決めるべき問題が重要だったと言うことだ。
 これを現す最大の例として、日本では軍の一部がクーデター未遂事件を引き起こして、それが切っ掛けとなって日本軍全体での大規模な逮捕・粛正が行われた事が挙げられるだろう。もちろん、これ以外の国でも様々な混乱が呼び起こされ、アメリカとドイツでは元首の暗殺未遂事件がそれぞれ発生した程だった。

 そして、そうした混乱を押さえ付けた列強各国の代表が、1949年春続々とベルリンへと参集した。
 集まった国は、ホスト国のドイツ帝国以下、アメリカ合衆国、英連合王国、日本帝国、フランス共和国、イタリア王国、ロシア社会主義連邦共和国(東ロシア)で、この当時ある程度の軍事力を持つ全ての国に及んでいた。また、集まった国々はそれだけでなく、オブザーバーとして国際連盟からも代表が送り込まれており、この会議が単なる列強の勢力調整に終わる事がない事を内外にアピールしていた。

 ではここで、世界を大きな動きを強要した「ポツダム宣言」について触れて次に進もう。
 1948年のクリスマスイブに、ベルリンから全世界に向けた衝撃のクリスマスプレゼントだが、冒頭にも触れた通り、それはドイツの統治者たるアドルフ・ヒトラーの演説がそれにあたる。
 そして、その演説に於いてヒトラー総統は、ドイツを含めたドイツの影響下にある欧州主要国が、第二次世界大戦以降尾を引いている不景気に対処するため、ドラスティックな財政改革を行う事を告げ、この方法として一方的に大幅な軍備縮小を行う用意がある事を示した。  また同時に、欧州世界がさらなる軍縮を行う為には、他の大きな軍備を有している国々と会議が行えれば、さらなる大きな果実を全ての人々が得ることが出来るだろうとも語り、特にドイツ、アメリカ、日本が保有する核兵器の全面軍縮こそがこの鍵を握っていると強く語った。
 つまり、全面軍縮による世界秩序の強化を、先の戦争当事者自らが呼びかけた、と言うことになるだろう。

 「世界規模の軍縮」
 近代史上では、未曾有の戦乱となった第一次世界大戦の後に行われた海軍軍縮会議が有名であり、単体としてはこれを事実上の最初の例とするが、結局この時は列強各国の軍備調整だけに終わり、軍縮は完全に成功したとは言えなかった。だからこそ、それが日米による事実上の海軍拡張競争とそれに続く太平洋戦争を呼び込んだと言われた。
 また、その反省を踏まえて行われた筈の、太平洋戦争後の英日米独による海軍軍縮会議も、各国は軍拡を阻止した条約だとされた割には、数字調整の域を脱してなかった。太平洋戦争後の日米の協調姿勢も、別段海軍軍縮がもたらしたものではない。日本の精神的余裕の発生とアメリカの政治的妥協がもたらしたのだ。
 だが、この時のヒトラーの呼びかけは、呼びかけたその時点で各国の徹底した軍備縮小を謳っており、しかもその範囲は核軍縮だけでなく、陸海空全ての軍備に及んでいた。
 そう、普通ならまともに成立する余地のない軍縮会議の提案だった。
 だからこそ、各国がこの提案に乗る方向性を示した時、各国の軍部、軍需生産に依存する企業、団体、政治家などは強い危機感を覚え、裏で各国が連携するという醜い事態にすら発展、それが表面化したのが日本でのクーデター未遂事件や各国首脳の暗殺未遂事件だったのだ。

 しかし1949年4月、各国は万難を排してベルリン郊外のポツダム宮殿跡に参集した。
 だがこれは、世界の為政者達が純粋に世界平和を願ったからではない。もしそうであったなら、理想主義者の言う真の世界平和が訪れただろうが、もちろんそうではなかった。
 このため、この時の会議を「第二次ウィーン会議」と悪し様に呼ぶ事もある。
 なぜそうなのか? 理由は簡単である。結果としてのこの時の会議が、全面軍縮会議という錦の御旗を表に掲げた、新たな列強間の勢力境界の調整と、今後四半世紀以内に発生するであろう新たな対立構造への対応を協議する事だったからだ。
 つまり、世界のお金持ち間の利益分配を自分たちだけで決めるのがこの時の目的であり、目的を達成する手段として大戦争するより会議で何とかする方が安上がりだったからに他ならないからだ。
 だからこそ、国連の上で会議がされることがなく、一部の国だけで集まったのだ。
 そして表面的に世界中の国が意見を言える国際連合ではできない列強間だけの秘密倶楽部が今回の集まりであり、以後姿形を変えてその後も継続して列強会議が行われ、多少衣替えしたこれを今では「先進国首脳会議(サミット)」と呼ぶようになっているのは良く知られているだろう。
 20世紀半ば以降の列強は、自らが列強であり続ける為に、世界の一定の秩序を必要として集まったのが、この時の結論であり、これを各国が誤解しなかったからこそヒトラーのもとに集まったのだ。

 もちろん、この会議が単に列強間のゲームだったわけでない。むしろ罪よりも功績の方が大きく、この時ヒトラーが音頭をとっていなければ、間違いなく第三次世界大戦が行われただろうと分析されている。
 また、原子力エネルギーという新たな力を早くからコントロールしようとした動きも高く評価して良いだろう。
 そしてこれ以後半世紀、少なくとも列強間での戦争が勃発していない点こそが、この集まりの意義だったと言えるのではないだろうか。  では、この時の会議についてもう少し詳細に見てから、結びに入りたいと思う。

 1949年4月25日、日本帝国首相重光葵がベルリンのテンペルホーフ空港に降り立ったのを最後に、全ての列強が一つの場所に集まることになった。
 ドイツ帝国総統アドルフ・ヒトラー、英連合王国宰相ウィンストン・チャーチル、アメリカ合衆国大統領トマス・デューイ、日本帝国首相アオイ・シゲミツ、フランス共和国大統領アンリ・ペタン、イタリア王国総統ベニート・ムッソリーニ、ロシア社会主義連邦共和国大統領ニキータ・フルシチョフ、国連事務総長トリグブ・リー(ノルウェー出身)がこの時ベルリン郊外のポツダム、ツェツィーリエンホーフ宮殿(Schloss Cecilienhof)集まった男たちだ。
 会議は基本的に首脳(と一部の通訳など)のみで行われ、毎日夕方にドイツ宣伝省のスポークスマンが経過を発表する以外、途中公式に経過が話される事はなく、1週間続いた会議の後、英国チューダー朝様式の質素な宮殿に隣接する庭園での園遊会を兼ねた発表の場で世界にその結果が公開された。
 この時の模様は、ドイツ国内においてはテレビジョン放送の生中継によって、それ以外の全世界の地域に対しては短波ラジオ放送によってリアルタイムで伝えられ、またアメリカ・日本で既に開始されていたテレビジョン放送と全世界に配信されたニュース映画によって映像記録も全世界に伝えられ、その時語られた言葉全てが、世界に驚きと喜びをもたらした。

 ホスト役となったアドルフ・ヒトラーは、全ての代表として壇上で静かに語り続けた。
 「参加国全ての軍事力の大幅削減」、「原子力エネルギーの国際管理と核軍備の制限」、「各国首脳間の直通電話(ホットライン)の設置」、「先進各国出資による国際銀行の設立」、「重要資源の国際開発協力の促進」、「列強がいまだ保有する植民地の独立スケジュールの確認」などが主な決定事項だったが、これらの過半は国際連合においてもこの時点で実現できなかった事柄がほとんどで、全ての演説が終わった時、一瞬の静寂の後万雷の拍手と歓声が古風な庭園を埋め尽くした。
 もちろん、テレビ、ラジオの前の前でも同様の光景が見られ、世界が未曾有の戦争から大きく遠のいた事を祝った。
 だが、これと全く意見を逆にする人々もいた。主に一部の知識階層の人々だ。
 彼らはこの時の列強各国の取り決めが、世界平和や軍縮を謳った新たな列強支配の構図を作り上げるものだと判断し、確かに列強間の大規模な戦争の危険は大きく低下したが、弱小国やこれから独立するであろう地域の枠組みがひどく制限されたものとなり、少なくともこの時参集した列強の国力が衰えるまで、それらの国々に本当の意味での明るい未来はないだろうと断言した。
 特にこの時のドイツ、アメリカ、日本の影響力は絶大で、事実1950年頃この三カ国のGDPの総量は、全世界の6割近くに達し、会議自体もこの三カ国が主導したものと言われた。何しろこれら三カ国は、まともな植民地を有して無く、自国のある程度の軍縮も自らの国庫と経済を思えば好影響の方が大きく、それでいてこれから自らの影響下になる地域への経済進出・武器輸出などで、さらに豊かになる事が約束されたようなものだったからだ。
 しかも、この会議に参加したこの三国以外も、植民地を政治的に独立させるという事以外ではたいした違いはなく、軟着陸による植民地帝国主義の解体とその後の経済支配体制の確立が図られたと判断してよいだろう。
 つまり「全ての人類には自由を、我らには富を」と言う言葉こそが、一部の知識階層が導き出した回答と言うことになるだろう。

 そしてそれを象徴していたのが、「重要資源の国際開発協力の促進」の中に含まれていた、中東に多数埋蔵されているとされる石油資源の国際管理だった。
 お題目としては、資源の奪い合いが近年の戦争の大きな原因となったのだから、これを解消すべく世界に安価で安定したエネルギー供給をするために必要だとされた。だが、米独日による妥協が生み出したこの決定は、現地住民を概ね軽視したもので、それ故後々大きな問題を発生させる事になる。
 もちろん、現地国家と米独日三国は別の場所で取引もしており、イラク、シリア、ヨルダン、レバノン、パレスチナなどを内包した中近東の中核地域を一つの大きな国家連合とする事を認め、その中に各民族による自治政府を多数作る事で民族問題を回避しようとしたのが、現地を新たに支配していた三国の出したカードだった。また、現地の石油管理は国際機関に委ねるが、利益の多くは現地国家に還元されるとも謳い上げた。
 要するに「中近東のハートランドでの争いの種はある程度取り除くが、その代わりに石油利権をよこせ」と言うのが三国の主張であり、トルコ帝国と英仏の負の遺産をある程度解消するための代金が、今後一世紀は涌き出し続けるであろう石油資源だった。
 そして現状よりマシになるであろう道を選んだ当時の中東の権力者達の意向と、現地にある三国の圧倒的な軍事力、そして三国が最後に提示したパレスチナのユダヤ人を完全に追い出すという一札が、この時の「国際石油管理機構(International Oil Control Organization)」という組織を生み出し、その為の拠点として「クェート」と呼ばれたイラクに含まれる一地域にその本部と巨大な施設が建設される事になった。
 なお「IOCO(国際石油管理機構)」が管理する地域は、「クェート」と呼ばれた地域を中心に、イラク、イラン、サウジアラビアによる紛争の種となりうる地域の多くを含んでおり、これによりイラク地域がペルシャ湾の出口を失う結果になるが、これも同年成立した「アラブ連邦共和国」の成立により問題は少ないとされてしまっていた。
 ただし、この施策一つとってもうまくいったとは言えず、「アラブ連邦共和国」そのものは彼ら自身の不協和音と列強の思惑の前に結局まとまらず、その間にペルシャ湾口にクェートと言う人工国家が成立して、結局これがアラブ世界の新たな火種となり、文字通り砦のような国家となったクェートとイラクが戦争するのが1960年代以降の伝統行事のようになってしまう。
 そしてこのような混乱は、アフリカの植民地を中心として独立が盛んとなった1960年代半ば以降頻発するようになり、これに見て見ぬ振りをしながら裏で暗躍する先進国列強と言う図式が定形化し、その後南北対立という新たな構図を作り出す事になる。
 つまりは、列強同士の直接対決がなくなったからと言って、人類社会から争いが耐えることはない、と言う事なのだろう。

 なお、ポツダムでの会議の主催者たるアドルフ・ヒトラーその人は、その後も彼の信念に基づいたドイツの発展と世界安定のために尽くし、自らの後継者を指名するという形でドイツ帝国の権力委譲の形を作り上げた事を最後の仕事として1958年に総統の座を自ら降り、以後晩年に至るまでドイツ最大の重鎮として影響力を行使し続けるも、ケールシュタイン近辺で過ごし、ドイツのイデオロギーの向け所を宇宙とした自らの政策の最大の成果、自国の宇宙英雄が月面へと降り立った1968年の暮れにその晩年を迎える。
 なお、結局自らの子を残すことの無かった彼の墓は、近年リンツに戻された旧ゲルマニア郊外の巨大な国立墓地の中心部にあり、その墓は今なおドイツ国民の献花が絶えることはない。
 評価は人によって分かれるだろうが、アドルフ・ヒトラーが二十世紀の偉人の一人であることに違いない、と言うことの証明だろう。

GOOD END 1



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