●フェイズ08「ヨーロッパでの変化と海賊の時代」

 「アスガルド戦争」が終了してからしばらくのアスガルド人達は、二つの国とその他若干の勢力に分かれた状態で過ごすようになる。今まで一つだったことから比べると、非常に大きな変化だった。歴史家の中には、ローマ帝国の東西分裂を引き合いに出す者もいるが、戦争による分裂であるため変化はより大きいと見るべきだろう。しかも、同じ民族、言語、宗教を持つ場合の戦争による国家の分裂は、世界史上で見ても非常に珍しいといえる。また逆の視点で見れば、アスガルド大陸が一つの国で統治されるには広すぎたといえるだろう。

 なお、当時のノルド王国内は、数百年続いた中世欧州的な組織・制度・人材など多くの面で疲弊していた。これが、既に腐敗と停滞の中にあったノルド王国中枢が「反乱軍」と呼んだ辺境勢力に対する敗北と、そして辺境の独立、つまりアスガルド帝国の成立をもたらす大きな原因でもあった。
 しかし戦争中に、門閥化していた貴族(の若者)の多くが戦場で敗死し、戦後すぐにも敗戦の責任を取る形で多くが中央から排除された。腐敗、堕落していようとも、ヴァイキングの伝統を担い開拓を旨とする人々は、少なくとも怯懦(臆病)ではなかったということになるだろう。たとえ見栄や体面のためとはいえ、率先して戦場に向かった姿勢だけは評価できる筈だ。
 そして保守派、旧主派貴族に代わって、ノルド国内で勃興した形の改革派が大きな力を持った。戦後になると、改革を求める者と旧体制を守ろうとする勢力がぶつかって混乱がもたらされ、規模は限られるも事実上の内乱状態に入る。だが、敗北とアスガルド帝国の独立によるノルド王国全体に危機感の方が大きく、保守層の粛正と共に体制の刷新と改善が一気に進められ、国家としてはむしろ良好な状態へと改革されていくことになる。
 エイリークソン六世は混乱の中で退位し、新たに王位継承者の中でも順位の低かったエイリークソン七世が即位。エイリークソン七世自身が、王族の中で最も改革派であったためだ。
 そして新王の下で改革派を主導し護国卿と言われたアレクサンデルが宰相として実権を握り、強引な改革と政治の近代化を進めた。改革にはかなりの流血も伴われ、反対派、保守派の多くが粛正された。大規模な地方貴族の反乱すら起きたほどだ。粛正を恐れて、南アスガルドに亡命するように逃れた者も多かった。アレクサンデルは、分裂戦争終盤に武勲を挙げて当時王子の一人だったエイリークソン七世のもとで出世し、この時27才の若さで王国全体の改革を行う事になる。
 エイリークソン七世とアレクサンデルによる改革の結果、議会が設けられ王が発布する形での国の法、つまり憲法が制定される。そしてこの時の改革を発端として、ノルド王国の政治の近代化と、いわゆる立憲君主体制に向けた政治的動きは、以後一世紀近くをかけて進んでいく事になる。つまりノルド王国は、中世から近世に向けて一気に進み始めたと言えるだろう。
 この間、建国されたばかりのアスガルド帝国は、ノルドの足元を見る行動よりも自らの国内の体制を固めることに力を割いた。このため、国家としての分裂とアスガルドの大地での棲み分けが一層明確になった。アスガルド帝国は、火事場泥棒よりも相手に付け入れられない自分自身の体制固めを選択したのだ。それに戦争を終えたばかりのアスガルド帝国には、戦争をするような金はどこにもなかった。
 改革が一定段階に進んで以後のノルド王国は、戦争中から混乱が見られるようになったエーギル海、南アスガルド各地の植民地開発に力を入れるようになる。

 一方のアスガルド帝国は、独立後も辺境各地で原住民勢力との争いを断続的に行いつつも、周辺の開拓、入植地の建設を行って農地と人口の拡大という直接的な国力拡大政策を強力に推進していった。数は力、数は国力というわけだ。そしてそれを可能とするだけの豊かで温暖な土地が、アスガルドの大地には有り余っていた。
 その一方で、自らの進出範囲として得た大東洋側への進出にも力を入れるようになり、戦勝によって得た西海岸のアールヴヘイム入植地、さらには同じくフレニアから日本など東アジア各地に交易船を出すようになる。大東洋の周遊航路も優先的に整備された。
 この時、アスガルド帝国からの最初の使者を受けた江戸幕府は、アスガルドでの政変と近在のフレニアの所有者の変化に非常に驚いたと記録されている。そしてこの後、アスガルド帝国は日本との関係を東洋外交の基本に据え、相手が有色人種であることを無視するかのように関係を深くしていく。
 無論そこにはアスガルド帝国なりの戦略があり、日本を利用することが第一目的だったことは間違いない。国家の分裂で有力な銀の入手先を当面失ったアスガルド帝国としては、依然として豊富な金銀を産出する日本との関係は、貨幣の流通の為に欠かすことが出来なかったからだ。また、独立時に得たフレニアの維持と円滑な経営のためには、近隣の安定した友邦の存在が好ましかった。さらには、ノルド王国にフレニアを奪回させないためにも、日本との友好を強めて牽制することは外交戦略上で非常に重要だった。少なくとも、当時のアスガルド帝国中枢はそう考えていた。
 そして、もう一つのアスガルド人国家となった北部のエイリーク公国だが、その後もあまり拡大は行わなかったが、グリーンランドへの回帰を含めたより北部の進出、大陸北中部の森林地帯への進出を強めることで自らの地位向上と生き残りを図った。
 こうした中で三つの勢力の中間地帯となった五大湖商工業地帯は、年々それぞれの地域に属することを余儀なくされ、多くが大人口を抱えるアスガルド帝国への従属を選んでいく。それでも完全には消滅せず、緩衝地帯としての有利を用いた外交での生き残りを計っていく事になる。

 一方アスガルドの外からは、アスガルド戦争が本格化した17世紀中頃から、ヨーロッパ勢力が頻繁にアスガルド大陸にやって来るようになっていた。アスガルド内での戦争で本国近辺に縛り付けられているアスガルド人を後目に、アスガルドの富みにつられたヨーロピアンが隙を見て押し掛けたからだ。
 この頃、つまり17世紀後半の世界で最も活発に活動していた国や地域は幾つかあった。
 世界最大の人口を抱える中華大陸では、明朝から清朝への交代が行われていた。同じく大人口を擁するインドでは、イスラム系国家のムガール帝国が最盛期を迎えつつあった。アジアのもう一つの大国、他の二国に比べて人口や直接的な領土で大きく劣る日本は、ゆっくりとした速度ではあったが日本史上ほぼ初めて海外進出を活発化させつつあった。他、西アジア世界で覇をとなえるトルコ、ペルシャもまだまだ隆盛を誇っており、トルコなどはアスガルド人から得た技術を元に自らも帆船を建造し、ヨーロピアンに対してインド洋での巻き返しを計っていた。このためポルトガルなどのヨーロッパ弱小勢力は、少なくとも17世紀の間はアラビア海、インド洋東部からほとんど追い払われてしまうことになる。トルコの外交姿勢も、ローマ帝国の後継者ではなくイスラムの覇者、守護者としての側面を強めるようになっていた。
 そしてその間北アスガルド大陸では、アスガルド人が二つに分かれて大戦乱を行っていた。
 そして何より、この頃最も騒がしかったのが14世紀頃までは世界で最も遅れた地域の一つに過ぎなかったヨーロッパだった。
 このまま「複雑怪奇」なヨーロッパの事を書いても良いのだが、誌面の都合もあるので最低限の概要だけ触れて、本来のアスガルド人の動きに戻りたい。

 ヨーロッパでは、「三十年戦争」後のヨーロピアン世界の覇権を求めた国々が活発な活動を行っていた。最も活発だったのは、ヨーロッパ世界での覇権維持に躍起になっているイスパニア王国と、イスパニアを追い落とそうとするフランス王国、スウェーデン王国、ネーデルランド連邦になるだろう。イングランド王国は、まだブリテン内での問題を抱え続けていたため積極的に動くのが難しく、しかも上記したヨーロッパの他の三国がイングランドの勢力拡大を常に邪魔していた。ブリテン島北部のスコットランド王国は、スウェーデンの支援を受けることでイングランドに大きな脅威を与え続けていた。またイングランドとネーデルランドの間には一度海上覇権を求めた戦争も勃発したが、スウェーデンがネーデルランド側に荷担したこともあってネーデルランド優位で幕を閉じている。そしてイングランドは、陸海双方での巨大な軍事費のため、国威の上がらない状態が続いた。
 そして16世紀から17世紀半ばまで欧州の盟主だったイスパニアだが、国内での少数民族による農業生産力の低下、自然災害や飢饉、疫病などによる疲弊と人口低下もあって国力が大きく衰え、18世紀初頭の「イスパニア継承戦争」でヨーロッパの大国の地位から完全に滑り落ちる事になる。特にそれまで中心となっていたカステーリャ地方が衰退したことは、イスパニアにとって大きな打撃となっていた。
 この間海外では、ネーデルランドがイスパニアの植民地の多くを戦争で奪う形で継承し、同様にフランスもインド進出を強化した。またネーデルランド、フランスの両国は1650年代から二国間の戦争も行い、互いに足を引っ張り合った。三十年戦争は一つの節目だったが、ヨーロッパでの争いに区切りがつくような事はなかった。
 スウェーデンも、異教徒であるロシアやポーランドとの対立を激化させつつも海外進出に力を入れるようになり、富と物産を求めてアジアにまで至るようになっていた。またスウェーデンや北ヨーロッパ諸国は、アスガルド人との友好的な繋がりを自ら求め、アスガルド大陸を訪れるようになっていた。アスガルド大陸にスウェーデンなどの為の寄港地と居留地が特別に設けられたのも、17世紀半ば以後の事だった。ノウム・ガルザル市沖の小さな島(アリス島)に設けられた特別居留地は「エデン」と呼ばれ、アスガルド世界で唯一キリスト教会の設けられた場所となったりもした。
 一方で18世紀に入って体制を立て直したのが、オーストリア・ハプスブルグ家だった。
 イスパニア・ハプスブルグ家はイスパニア王国と共に没落し、18世紀が始まると共に消えていったが、オーストリアの方は「三十年戦争」をむしろ契機として隆盛しつつあった。
 多くの理由は、宗教対立を利用できた事にあった。
 南からはオスマン朝トルコが二世紀以上に渡って圧迫し続けており、三十年戦争では新教勢力が北ドイツに大きな勢力を築き上げた。これに危機感を覚えた旧教勢力が、盟主としてオーストリア・ハプスブルグ家を頼った。西暦1683年にオスマン朝トルコが、もともと無理があった「第二次ウィーン攻撃」に失敗すると、その後の戦争によってハンガリー地方を中心にした広大な領土を獲得して、一気にヨーロッパの大国の地位に躍り出た。
 「第二次ウィーン攻撃」では、トルコが一時的な力を取り戻したことを自ら誤解し、トルコの脅威に怯えたヨーロッパ中部、東部が一致団結して撃退に当たった結果だった。そしてこの時の戦いの結果、オーストリアを中心とするカトリック勢力の結束は固まり、高い軍事力を見せたため周辺諸国から危険視されたポーランドは、その後干渉と解体への道へと落ちていく事になる。
 その後もオーストリアは、東ヨーロッパ周辺部とドイツ地方の旧教勢力の取り込みを熱心行い、自らの覇権拡大のために「大ドイツ主義」を育てるようになっていく。

 一方で新教勢力の盟主的地位となったスウェーデン王国は、反スウェーデン同盟を形成したポーランドや旧教側ドイツ諸侯など近隣の国々を次々に戦争で敗って、より強く広大な勢力を形成していった。
 そして西暦1697年に若干15才で即位したカール12世は、戦い半ばの1702年に「大ヴァルト帝国」の成立を宣言するに至る。
 この新たな帝国の宣言は、東にあるロシア帝国やスウェーデンの隆盛を嫌うイングランド王国との戦いに際して、国力を結集するために行われたものだった。また大ヴァルト帝国の成立によって、プロイセン公国は正式にスウェーデンと発展的に併合し、旧ドイツ騎士団領同様にドイツ中央部、ドイツ民族中心部から切り離されれた。この頃のスウェーデンの国力が大きかった何よりの証拠だった。これらの再編成によって、スウェーデンは一躍総人口1000万人近く抱える大国として姿を新たにすることになる。
 「北方戦争」と名付けられたスウェーデンとロシアの戦争は、あしかけ20年以上にわたって続いた。人口を増やし始めていたロシア人の数の多さ、他国の干渉、中欧諸国との戦いなど様々な苦難と苦戦を続けつつも、各地から軍と軍資金を集めたスウェーデンが戦争を有利に進めた。そして1721年の「ニスタット条約」により、スウェーデンの勝利で幕を閉じた。
 なお、スウェーデン勝利の最大の要因は、戦争初期の1700年冬の「ナルヴァの戦い」とされる事が多い。当時若干18才だったカール12世が、当時のロシア皇帝だったピョートルを戦死させた事だとされる為だ。この戦いでは、単にスウェーデン側の軍事力が大きかった事、ロシア軍が依然として旧態依然とした軍隊だった事が、スウェーデンに勝利をもたらしたと言われた。当時ロシアの抜本的な改革途上だっあピョートルは、その志半ばでヨーロッパとロシアの違いを知る戦いにおいて命を落とすことになったのだった。そしてその後もスウェーデンの優位は動かず、ロシアは多くの土地を失うことになる。
 「北方戦争」の結果、スウェーデンは東部のカレリア地域を得てフィンランド地域の国境を安定させると同時に、ロシア人のバルト海進出を完全に阻止する事に成功する。スウェーデンとロシアの境界線も、オネガ湖からバルダイ丘陵となった。
 そしてこれ以後ロシアは北方進出を一時諦め、南の黒海進出を強化するようになる。
 またスウェーデンは、北海での勢力拡大も行った。ロシアを叩いた後の返す刀でノルウェーをほぼ完全に属国化し、そのまま北海北部の制海権を獲得。シェトランド、オークニーといった大ブリテン島周辺の島々を自国領とした。この時イングランド王国との間に戦端が開かれたが、スコットランド王国と連携して勝利している。この後にイングランドは、スウェーデンの言うがままの王の変更(新王即位)が行われた。しかもイングランドではその後半世紀近くの間も、スウェーデンの政治的影響力が強い状態が続き、スウェーデンの政治操作と経済的搾取のため低迷する事になる。
 一方オーストリアの勢力が拡大するドイツ地域だったが、北西部ではネーデルランドが少しずつ北ドイツの小国や自由都市を飲み込んでいた。ネーデルランドの行動は、農業国特有の大人口を背景に大国化したフランスへの対向という側面が強く、実際ネーデルランドは同じ新教国のスウェーデン(大ヴァルト帝国)との共闘を常に心がけていた。
 そうしたヨーロッパ北、中、そして東地域が混乱している間に、西ヨーロッパ地域の国々が、世界の覇権を求めて活発に活動していた。

 17世紀中頃に、イスパニア、フランス、ネーデルランド、イングランドの船が、欲望と野望を胸にアスガルド世界にやって来るようになった。これ以外に北ヨーロッパ諸国の船が、純粋な交易のために訪れるようになっていた。しかし上記した4国は、平和な交易が目的ではなかった。国家の場合は国力拡大のため、個人の場合は手っ取り早い富を得るためだった。
 西暦1633年(アスガルド歴583年)に南アスガルド大陸のアンデス山脈にあるポトシ銀山が見つかり、1640年代半ばぐらいから大量に銀を産出するようになっていた。アスガルド戦争でノルド王国の戦費を支えたのも、この巨大な銀山だった。
 ノルド王国は、既存のメヒコのサカテカス銀山と合わせて、膨大な銀を産出するようになった。またエーギル海の島々で大量生産されるようになっていた砂糖は、アジアの香辛料ほどではないがヨーロッパに持ち込めば大きな利益が得られた。煙草についても同様だ。アスガルド帝国領となったフィマフェング島では、気候を利用して非常に品質の高い綿花(※現代でも世界最高品質と言われる)の生産も開始されていた。
 そしてアスガルド戦争が本格化して、エーギル海や南アスガルドでノルド王国の軍艦が減ると、アフリカ西岸を経由してヨーロッパの船が頻繁に訪れるようになった。
 彼らの主な目的は、国だろうと個人だろうとほぼ同じだった。
 どちらも海賊であり、国が許可を出した船を「私掠船」、個人の場合は単に「海賊」と呼んだ。
 初期の頃は数や規模が限られていたため、ノルド王国もアスガルド帝国との戦争を優先し、これがさらなるヨーロピアンを呼び込むことになる。エーギル海の小さな島や環礁の幾つかが占領され、ヨーロピアンの拠点となった。国が動いた場合は艦隊による侵攻もあり、かなりの規模の島も占領下に置かれ、支配下に置いたサトウキビ農園を自力で運営した事もあった。しかもヨーロピアンは、アフリカ西岸で武器や道具を売り払った「代金」として受け取った黒人奴隷を多数送り込んで、自分たちのサトウキビ農園の経営を行おうとした。
 ただしヨーロピアンがスクレーリング以外の蛮族をアスガルドに連れ込んだ事は、アスガルド人を酷く怒らせる事になる。その後アスガルド人がエーギル海での体制を立て直すと、徹底した掃討作戦を行うと共に、黒人と黒人を連れ込んだヨーロピアンを文字通り皆殺しにしてサメの餌にした。その数は、一度に数千とも数万とも言われ、その時海が血の色で黒く染まったと後世に伝えられている。この虐殺の話しがヨーロッパ本土にも尾ひれを付けて伝わって「食人の海」と呼ばれ、ヨーロッパで現地を指す「カリブ」という言葉が流布する事になる。
 なお、この頃ヨーロピアンが作り上げた海賊達の一大拠点としては、トルトゥーガ島(亀島)と、アスガルド人がヨーロピアン撃退の拠点とした「死神諸島」が有名だろう。

 そうして南の海で大きな損害が出るようになると、ノルド王国も「ヨーロピアン狩り」、「海賊狩り」に本腰を入れるようになる。加えて独立戦争(分裂戦争)の中で軍事力を拡大し続けたアスガルド帝国も、戦争終盤頃からミシシッピ川からメヒコ湾に出て、さらにはエーギル海にも進出するようになる。当時、アスガルド世界の砂糖生産を、ノルド王国が牛耳っていたための進出だった。このためアスガルド帝国は、ミシシッピ河口のヴィント・ヘイムの街を大改造して港湾都市として再整備し、そこに大きな軍港と造船所を建設、エーギル海進出の拠点とした。そうしてアスガルド帝国によってヨーロピアンから奪回されたのが、フィマフェング島だった。
 かくして、本来の主であるノルド王国、大陸新興のアスガルド帝国、そしてヨーロピアンの三者によるエーギル海での壮絶な海の戦いが、以後数十年間も続く事になる。
 ヨーロピアンによるエーギル海の覇権が一番大きくなったのは1660年頃で、ノルド王国が戦費調達のためにヨーロッパへの砂糖輸出を増やした以上に武器を購入した事もあり、ヨーロピアンに多くの富がもたらされた。ただし銀についてはノルド王国自身が自らの戦争のために浪費したため、海賊達がありつく一番の「お宝」は銀と共に大量の砂糖が大きな比重を占めた。
 このためこの時期のヨーロピアンの海賊には、虫歯が多かったと言われている。またサトウキビの絞りかすから作られるラム酒が有名になるのもこの頃の事だった。
 加えて、エーギル海でのヨーロピアン達の海賊活動が、ノルド王国の収入を減少させ、戦争継続能力を低下させた事は言うまでもないだろう。
 そして1650年代半ばから以後約20年間が、ヨーロッパの海賊達にとっての最盛期となった。この間、後世にも伝えられる様々な伝説が作られた。大海賊として巨万の富を築き上げた者、惨めに落ちぶれた者、様々な者の伝説や逸話が誕生した。
 しかしヨーロピアンの海賊達は、アスガルド人が自分たちの戦争を終えると、彼らの殆どが教会で聞いたおとぎ話でしか知らない「ヴァイキング」という名の本物の海賊というものを知ることになる。

 1665年に「アスガルド戦争」が終わると、ノルド王国で余剰となった海軍力が続々とエーギル海、南アスガルド、さらには大西洋に戻ってきた。また独立したばかりのアスガルド帝国の海軍も一定の勢力を持つようになり、豊富な人的資源をバックボーンとして、エーギル海や南アスガルドで無視できない勢力を持つようになっていた。
 そしてエーギル海に大挙戻ってきたアスガルド人達は、800年ほど昔にヨーロピアン達が恐怖に震えた海賊達に他ならなかった。
 昔のキリスト教の宗教画に当てつけて、水牛の角状の飾りを付けた兜をかぶったアスガルドの海賊達(多くが正規の海軍)は、ヨーロピアンと同じだけの装備を持つ圧倒的戦力をぶつけてきた。戦力差は、国力差、距離の差がそのまま現れていた。
 そして今まで自分たちの戦争のために対策が疎かになって煮え湯を飲まされていただけに、アスガルド人達の反撃は苛烈だった。依然として世界最強を誇るノルド王国海軍は、小さな海賊船にも平然と戦列艦や艦隊をぶつけてくるような事をして、文字通りヨーロピアンを捻り潰した。大戦争を終えたばかりなので戦闘と血にも慣れており、アスガルドの兵達は国を問わず非常にどう猛で残忍でもあった。
 一つの例として挙げても、ノルド王国最強を誇る高速大型戦列艦「スレイプニル号」を操るヘンリクス艦長が、「流血提督」と呼ばれヨーロピアン海賊の恐怖の的となっている。こうした人物は何人もおり、ラグナ教に出てくる様々な幻獣、魔獣、ヴァルキュリアの名を冠した巨大ガレオン船を操るヴァイキング達は、火事場泥棒に過ぎないヨーロピアンを蹂躙、殲滅し続けた。
 しかもヨーロピアンとの戦いとなると、アスガルド人は国の垣根を越えて共同して戦う事が非常に多かった。両国の船が隊列を組んで、ヨーロピアンの船と戦う光景も見られたりした。もっとも、ヨーロピアンを完全に殲滅すると、今度はアスガルド人同士が争った。このため、簡単にアスガルド人がエーギル海の覇権を取り戻すこともなかった。ヨーロピアンほどではないが、アスガルド人もかなり不毛な戦いをしていたと言えるだろう。
 一方、手ひどい反撃を受けたヨーロピアンも、多少はエーギル海での拠点を築いていた事もあって、黙ってやられたわけではなかった。しかも相手は邪教徒であり、イスラム教徒同様に手加減する必要のない相手だった。また相手が金持ちであるから、その富みにつられて深入りせざるを得ないと言う背景もあった。
 南アスガルドから銀を運ぶ「財宝船団」を狙う剛胆な海賊艦隊(私掠船団)もあった。強力な護衛に守られていた「財宝船団」だったが、危険を冒すだけの価値があったからであり、安易な掠奪と得られる莫大な富みに酔っていたのだ。こうした場合は、ヨーロピアンの海賊、私掠船は、徒党を組んで襲いかかった。「大海賊」と謳われ戦列艦の海賊船「リヴァイアサン」を駆るバランタイン船長のような強大な海賊の姿もあり、ヨーロピアンが一方的に不利だった訳でもなかった。
 だが今まで多くを奪われたアスガルド人の殊の外怒りは大きく、新大陸に溢れる富と資源を用いた大艦隊が続々と建設され、各地に投入されていった。多くは南北アスガルド大陸に投じられたが、余裕が出てくるようになるとヨーロピアンの拠点を潰すべく大西洋各地にも活発に出撃した。この時点で、北大西洋の真ん中にあるアゾレス諸島など幾つかの島々がアスガルド人の手に帰している。
 一方、エーギル海への進出が限定的だったアスガルド帝国は、自らの努力を大東洋航路の開発にも投じ、東アジアで日本人に商業的に追いつめられつつあったヨーロピアンを躊躇無く攻撃して、あまり攻撃的ではない日本人達を呆然とさせたりもした。またこの頃になると、中華商人と中華系海賊が勢力を衰えさせた代わりに、東南アジア各所に進出した日本商人と日本海賊が勢力を増しており、海での活動に長けた日本人相手では、物量の違いもあって小数のヨーロピアンでは太刀打ち出来なかった。
 この事は、ネーデルランドが当時支配権を握っていたマラッカを何度も脅かされ、マレー半島尖端にあるシンガプーラ島が日本人、アスガルド人を中心とした人々による拠点となってヨーロピアンを東に進ませなくなった事でも明らかだった。

 そして1670年代になると、エーギル海でのヨーロピアンは劣勢に追いやられ、1680年代にはエーギル海での活動を実質的に終えなければならなかった。
 海賊や私掠船がほとんどとはいえ、新大陸のエーギル海へ行くという事は一種の外征であり、奪うよりも戦うのが主になると、個人の海賊や私掠活動でわざわざ行きたがるヨーロピアンが激減した事が大きな原因だった。当時の船乗りが過酷な労働だと言うことを考えれば尚更だ。
 そして穴埋めとして各国は海賊や私掠船に代わり、自国の海軍艦艇を投入してアスガルド人を攻撃したが、それはもはや戦争もしくは紛争に他ならなかった。
 それでもコスト面で私掠船は安上がりだし、船乗り崩れの者や別の事業をするための一攫千金を求める者は、危険な出稼ぎ手段として安易に海賊となった。そしてヨーロピアンの支配者とキリスト教会は、キリスト教徒以外への海賊行為を奨励し続けたため、世界の海から海賊の姿が消えることはなかった。
 一方ではアスガルド人も、ヨーロピアンに対する海賊行為、私掠行為を奨励し、ヨーロッパ方面では海軍艦艇まで投入したため、北大西洋は危険と隣り合わせの海となった。しかも18世紀に入る頃には、かつてヴァイキング達が進出した北大西洋各地の島々は、再びその末裔達の勢力下となった。大西洋各地の小さな島嶼も、アスガルドとヨーロピアンが奪い合う場所となり、争いの地はヨーロッパ沿岸やアフリカ西岸にも及んだ。アフリカ西岸では海で戦うだけでなく、アスガルドとヨーロピアン双方が現地の黒人に武器を渡して互いを襲撃させたりもした。

 17世紀終盤になると、ネーデルランドとフランスが取りあえず自分たちの戦争を手打ちにし、ヨーロピアンの海賊達はインド洋と再び北大西洋に戻ってきた。インド洋はまだ現地国家や住人の、海賊に対する警戒感が薄くしかも武力に劣るからだった。北大西洋は、アスガルドを出た船が北ヨーロッパ諸国を目指す場合が多かった上に、イングランドなど出撃拠点となりうる場所が多かったためだ。
 しかし、アスガルド人やアスガルドの船による利益を得る北ヨーロッパ諸国も黙っていなかった。このためイングランドは、新教勢力として北ヨーロッパと連携することが難しくなってしまう。しかもイングランドにとって悪い事に、アスガルド人が再びスコットランド王国、アイルランド王国への肩入れを再び強め、アイスランドには有力な艦艇を常駐させるようになっていた。そしてイングランド自身もアスガルドからの攻撃を受け、大きな損害を受けることになる。その恐怖は、かつてのノルマン人の記憶を呼び起こさせるほどだったと伝えられている。その挙げ句にスウェーデンから攻撃を受け、イングランドは長らく低迷する事になった。
 こうした状況は、大人口を抱え全面戦争を経たアスガルドの国々には、ヨーロッパ世界でもそれだけの行動を取れる国力が備わりつつあった事を現している。
 そしてこれ以後、時代は大きな転換期へと進んでいく事になる。

●フェイズ09「アスガルドの発展」