■フェイズ14「ナポレオン戦争の行方」

 1811年、北アスガルド大陸での戦乱は、多くの人の予測を裏切ってアスガルド帝国が敗北し、しかも約2年という短期間で終わりを告げた。2国間の戦争で、しかも一度の決戦で全てが決した事に、ナポレオンは大いに羨んだと言われる。
 そして短期戦だった事が、世界情勢にも影響を与えていく。
 直接的にはノルド王国の膨張政策で、間接的には世界規模での武器の流れが大きな要素となる。

 ノルド王国は、戦勝によってアスガルド帝国から莫大な賠償金を得て、うち半額を即金でしかも金貨で得ていた。これは賠償金額を相手側の許容範囲内におさめていた事と、アスガルド帝国の西方領域では多数の金が算出されていたからだった。アスガルドの「金輪貨」といえば、日本のクーバン(小判)と並んで既にヨーロッパ、アジア世界ですら知られている高品質の金貨であることを付け加えれば、その価値の高さが分かるだろう。既に紙幣の時代へ突入しつつあったとはいえ、大量の金貨(黄金)には非常に高い価値があった。
 そして資金を得たノルド王国は、自国で不要となった大量の兵器と血の気を抜き切れていない兵士達を使い、勝利の勢いのままにヨーロッパ勢力への干渉を開始する。
 表向きの目的は、「ヨーロッパ封鎖令」への報復と、血統的なつながりを持つ北ヨーロッパ諸国の救援という体裁が取られていた。だが本当の目的は、ヨーロッパが混乱している間にさらに勢力圏に食い込むことにあった。
 このためノルド王国はフランス帝国に対して宣戦布告し、すぐにも強大な海軍を用いて海上での活発な私掠奪活動を開始。さらには、フランスとフランスの同盟国の植民地への攻撃もしくは占領を開始する。
 ノルド王国の行動は、今までならアスガルド対ヨーロッパという図式によりヨーロッパの団結へとつながりやすいのだが、今回はそうはならなかった。
 ナポレオンによるヨーロッパ世界での征服運動は、ヨーロッパ全域に一つの精神的革新をもたらしつつあったからだ。つまりナポレオンは、自らの侵略行動によってフランスだけでなくヨーロッパ中に国民国家の伊吹を吹き込んでしまったのだ。これは「諸国民戦争」という言葉に代表されており、フランス軍によるイスパニアでの泥沼化した内乱の長期化によるフランスの疲弊に伴い、徐々にヨーロッパに反フランス、反ナポレオンの気運を高めつつあった。
 そうした時、ノルド王国がフランスの支配で苦しんでいたプロテスタント国家である北ヨーロッパ諸国を支援し、フランスを攻撃し始めたという事になる。しかもノルド王国は、情報収集によって事情を知ると、反フランスを掲げる、もしくはそうした考えの強い国への支援を積極的に実施した。時期も1812年からと、非常に時期的都合が良かった。

 一方、武器の流れだが、これには北アスガルド大陸の4つの国全てが関わり、さらには日本が加わっていた。
 これは、第二次アスガルド戦争が、全ての武器商売人、国家にとって短期間で終わったことが強く影響していた。100万の大軍がうごめく予定のため、莫大な需要があると当て込んで作っていた武器や物資の数々が、いざ大量出荷しようとしていた矢先に戦争が終わってしまい、瞬間的に行き場を失った事が発端だった。
 行き場を失った武器や物資は倉庫に山積みされ、多くの商人が破産し、ミーミルヘイム市の金融市場は最高度の繁栄から奈落の底へと突き落とされた。日本の商都大坂でも、ものすごい勢いで先物相場が乱高下した。膨大な量の火薬は、花火にでもするしかないと言われたほどだ。
 しかし商人達はくじけている場合ではなかった。
 行動が早かったのは、日本の商人達だった。これは日本で生産した武器は、船に積んでアスガルド帝国に送り届けないと金にならないという理由が影響している。つまり日本の商人達は、大量の武器を運ぶための船もしくは船の貨物倉庫を既に確保していたので、すぐにも動けたのだ。また一歩遅れて、アスガルドの商人達も動き始める。
 全ての人が目指したのが、ヨーロッパだった。
 砲、銃、銃剣、弾丸、火薬、刀剣、鉄兜、胸甲、馬具、制服、靴、布地、各種消耗部品などなど様々な製品が、格安価格でヨーロッパ人に売り払われていった。
 また長期の戦争が行われる傾向の強かったヨーロッパでは、保存食の需要が高かったため、日本人とアスガルド人が食べている保存食、新たに技術によって開発された保存食が飛ぶように売れた。
 この中での特筆すべき点は、日本が日本酒造りで培った「低温殺菌」技術がヨーロッパにもたらされた事になるだろう。一定温度の熱によって細菌を殺して腐敗を遅らせることで食料の保存を可能とする技術だが、この技術の応用によって以後ヨーロッパでは生の牛乳が簡単に飲めるようになっている。
 話しが少し逸れたが、アスガルドと日本の武器は、ヨーロッパで飛ぶように売れた。武器の価格は徐々に通常の価格に戻っていったが、それでも大量に作った事による効果で通常価格で売っても低価格のため、フランス、反フランス国家双方がヨーロッパ以外で作られた武器を手にした。
 なお、アスガルド人が反フランス国家、日本人がフランスの主な取引相手だった。北大西洋は封鎖網を突破したアスガルド船が頻繁に北ヨーロッパの港に入り、中にはロシアのアルハンゲリスクに入った商船もあった。一方日本の商船は、インド洋を越えて紅海のエジプト近辺まで入ってフランス人に武器を売り、日本商船の中には喜望峰を回って大西洋側に達する船もかなりの数に上った。
 そして海上は、大混乱となった。
 ヨーロッパ各国、アスガルド、さらに日本、それぞれの商船、軍船、私掠船が入り乱れた状態となったからだ。
 日本の江戸幕府も、当時大東洋の捕鯨で一部のアスガルド人ともめていたし、インドでの商売では色々と問題を抱えていた。このため既にインド洋の幾つかの島に拠点を設けていたし、フランスから許可を得ていたため、軍艦を大西洋にまで送り込んでいた。そしてヨーロッパ勢力のいない東アジアはともかく、インド洋までが戦場となった。
 そして最も消極的な日本の江戸幕府ですら軍艦を各地に送り込んでいる状況なのだから、アスガルド、ヨーロッパの活動状況も少しは計れるだろう。
 誰が味方か分からないような状態で遭遇戦が相次ぎ、場合によっては敵でない者同士が戦う事件も起きた。またアフリカ沿岸各地、インド洋、大西洋の小さな島嶼は補給拠点を得るため争奪戦が相次ぎ、一つの島が何度も所有者を変えた事もあった。中立国の港では、敵対者同士の船が隣り合わせて停泊したりもした。
 この時期の海は、海賊が横行した時代よりも危険だった。

 「ヨーロッパ封鎖令」が機能しなくなると、ナポレオンはヨーロッパ世界に対して懲罰を実施しなければならなくなる。
 初期の頃はアスガルド人の船を実力で追い払うか封じようとしたのだが、数、戦力、その他多くの要因により実行不可能と分かった。商売をしに来る日本人の協力も得られなかった。そこでヨーロッパ内での解決を狙うこととしたのだ。
 対象国としては、イングランド、スウェーデンなど北ヨーロッパ諸国、そしてロシアという事になる。このうちイングランドは、既に海軍を壊滅させて同盟国と言う名の服属状態にあり、イングランドが行っているのは、規模の限られた密貿易が主体なので、三カ国の中では最も脅威が小さかった。またアイルランド、スコットランドを、イングランドへの睨みとして使うこともできた。
 スウェーデンなど北ヨーロッパ諸国の場合、北ドイツ地方、デンマークの制圧は簡単だが、スカンディナビア半島への侵攻は骨が折れると考えられた。また北ヨーロッパに攻め込むと、アスガルド人の本格的介入を呼び込む恐れがあった。
 このためナポレオンは、懲罰の対象としてロシアを選ぶ。ロシアならばヨーロッパ全体の敵としても認識しやすいし、ロシアは産業面、政治面など様々な面で貧弱で、当然軍事力も国家規模に比べると劣っていた。さらに、フランスに匹敵する人口と広大な領土を持つようになったロシアは、何かとフランスに反抗的だったため、懲罰対象として相応しいと考えられた。しかもこの場合は、スウェーデンを一定程度で友邦、友軍として使える可能性が高く、事実そうなった。総人口で圧倒されつつあるスウェーデンにとって、ロシアは機会さえあれば叩いておきたい相手だった。
 なお、この頃フランス(本国のみ)、ロシア共に総人口は3000万人を少し下回る程度だった。この数字は、ノルド王国、日本(本国のみ)を少し下回る数字だったが、ルネサンス以後のヨーロッパ全体の発展が世界平均より高い国力を与えていた。そこに大量の武器が流れ込み、戦争の舞台が整えられていく。世界の他の地域から大量の武器や兵站物資が流れ込まなければ、フランスやロシアはこの後に行われる巨大な戦闘を実施することは出来なかっただろう。

 ナポレオンによるロシア遠征は、西暦1813年の夏に行われる。
 フランス軍を中心とした総数60万の大軍が用いられたが、これほどの規模の軍隊はヨーロッパ史上始まって以来だった。世界的に見ても、匹敵するだけの軍隊を一度の戦いで運用した例は、つい先年の北アスガルド大陸以外ではほとんど存在しない。他では、中華世界の誇張を含んだ曖昧な記録が残されている程度だ。フランス連合軍を単独で凌いだ出あろうアスガルド帝国も、動員完了前に戦争が終わっている。間違いなく、世界史上屈指の大遠征軍だった。
 もっともナポレオンの目的は、ロシアの征服ではなかった。ロシアの野戦軍の撃滅によって、ロシアを屈服させる事が戦略目的だった。大軍を動員したのも、決戦場に至るまでの自軍の消耗を計算したためで、ロシアの征服のために用意された兵団ではなかった。
 しかし、多くの国が参加したナポレオンのフランス連合軍は、ナポレオンが望んだような機動は無理で足並みが揃わなかった。後退戦術を取るロシア軍に対して、事実上の平押しで進む以外選択肢がなかった。そしてスモレンスク、ボロディノでの決戦でもロシア軍主力を逃がしてしまい、ナポレオンの軍隊はロシアの広大な大地を前に少しずつ消耗しつつ進む。ロシアの軍隊よりも、広大な大地そのものが最も強大な敵となった。しかもこの年は例年より冬の到来が早く、秋に入る前に最初の吹雪が吹くような悪天候に見舞われた。
 それでも10月には帝都モスクワが陥落し、ロシア帝国も屈するより他無かった。ロシアが、もっと産業が発展していたり、もっと広大な領土を持っていたら話しは違っていたかもしれないが、バルト海方面は常にスウェーデンに押さえられたままで、ポーランド分割に積極的に参加するにはロシアはスウェーデン、オーストリアの二国に対して弱い立場にしかなかった。国力的な限界から、ボルガ川以東の辺境開拓も常に遅れ気味だった。国家自体の制度や技術も、ヨーロッパ先端から大きく遅れたままだった。北アスガルド大陸で始まった産業革命など、ロシアにはうわさ話程度しか到達していなかった。
 故にロシアは、空前の大軍を揃えた天才ナポレオンに対して、屈するより他無かった。

 しかし、ロシア遠征はフランス、そしてナポレオンにとって大きな負荷となった。
 60万の遠征軍のうち、最終的に三分の二が脱落して遠征に参加した諸国に大きな損害が出ていた為と、フランス軍自身も遠征で深く傷ついていた為だった。その上、ロシア遠征の終盤頃から、スウェーデン、オーストリア、イングランドなどが様々な理由をつけてフランスへの敵意を露わにし、しかも遠征終了後に新装備、新軍制をもって立ち向かうようになった。この時以後の反フランス国家連合の軍を、一般的には「諸国民軍」と呼ぶ。
 またロシア遠征終了後の混乱頃には「第三次対仏大同盟」も結成され、この同盟には驚くべき事にノルド王国、エイリーク王国がその名を連ねていた。白人世界の歴史上、キリスト教と邪教(ラグナ教)が同盟を結ぶ画期的な出来事だった。
 しかし天才と謳われたナポレオンは、一筋縄でいく相手ではなかった。この事は、ナポレオンが軍を指揮した場合に如実に証明された。故に諸国民軍は、ナポレオンのいない戦場を複数設定する事で勝利を積み重ね、フランスそのものを消耗させていった。
 だがこうしたやり方では、諸国民軍も決定的勝利を掴むことは難しく、戦闘は長期化した。アスガルド大陸の国々の助けも、大西洋を挟んでいてはやはり限られたものだった。
 だがしかし、ヨーロッパの主要な国は、全て徴兵制の軍隊を運用しているため長期戦にも対応できるようになっており、戦争はその後長らく続く事になる。
 最後の決戦とも言われた「ワーテルローの戦い」も、誰にとっても決定打とはならなかった。結果としては、ネイ元帥と老近衛隊がフランスで救国の英雄となっただけだった。
 結局、諸国民軍は、フランスというよりナポレオンを完全に屈服させることはできず、ナポレオンを講和のテーブルに着かせたのは、彼を熱烈に支持していた筈のフランス国民となった。長引く戦乱による経済の混乱、生活の困窮、そして帰ってこない息子達を嘆く母親達の声、それらが戦争を終わらせる事になったのだ。国民を作り上げた国による戦争の結末としては、それなりに相応しい結末であったとも言えるだろう。

 1816年、戦争に関わった国々が参集したオーストリアの首都ウィーンにて、総合的な意味合いでの講和会議が開かれる。
 会議において争点となったのは、諸国民軍側がヨーロッパ世界を戦争が起きる前に戻そうとしたのに対して、フランスが自らの勝利の権利確保を図ろうとした点だった。
 一時は再戦かと言われたが、長らく続いた戦乱の後だけにどの国ももう一度戦おうという気力は持てなかった。これはナポレオンも同様であり、会議の中で一定の譲歩を示した。取りあえずは、ナポレオンが野心を引っ込めれば話が付く事になる。
 しかし会議の結果、ヨーロッパの主要国はそのほとんど全てが多民族国家となる。ある程度の例外はイスパニア王国、イングランド王国ぐらいだった。
 フランスでは、その後も国民の一定の支持を得たナポレオン(ナポレオン一世)による帝政が続いた。それでも、今まで占領した多くの国や地域の独立や主権、領土を返還したが、ドイツ地域(=神聖ローマ)だったライン川西岸は併合したままとなり、ナポリ王国、シチリア王国もフランス領のままとされた。またフランスは、ケープ、セイロンなど海外植民地の多くを隣国ネーデルランドから完全に奪い、ヨーロッパ世界内でのインド競争の勝者となった。
 そのネーデルランドは、完全に主権と領土を回復する時に一部の特権商人達による連邦制から立憲君主を目指す王国へと変化し、オラニエ=ナッサウ家を王家とする王国となった。また海外植民地の多くを失う代わりに、ライン川河口部から中部にかけての領土的な支配権を確立する。神聖ローマ帝国が、ナポレオンによって完全に解体された事が強く影響していた。
 そして、ついに神聖ローマ帝国が無くなったドイツ地域だが、中核となる国や勢力が存在しなかったため、ポーランドのように周辺国により細切れとされた。
 南部のバイエルンやザクセンは、「大ドイツ主義」を掲げ伝統的に神聖ローマ皇帝だったオーストリア帝国へと事実上併合されていった。しかしオーストリアは、全てのドイツ地域を吸収することはできなかった。諸国民戦争でも主要な役割を果たせなかったため、得たのはせいぜい半分程度だった。そして北部は、西部がネーデルランド、中北部の一部がデンマーク、そしてブランデンブルグなど東部のほとんどが引き続きスウェーデン領とされた。またスウェーデンとの係争地だったシュレジェンでは、事実上スウェーデンの勢力圏となることを諸外国は認めなければならなかった。
 それでも全てのドイツ地域が各国の領土となったわけではなく、それぞれの中間遅滞には小さな王国や貴族領が少し残り域内各所に自由都市が名目上存続した。だが反面、ほぼ完全にドイツという統一された民族国家の成立は遠のいたといえるだろう。
 またこれ以後は、ドイツ民族の統一というスローガンを掲げたオーストリアと北部地域の国々との軋轢、対立が深まるようにもなり、ドイツは依然として列強の係争地域であることを位置づけられる。
 ドイツと似たような状態に置かれたのはイタリア半島も同様で、フランス、オーストリアの二国によりほぼ分割された状態となり、辛うじてサルディニア王国、トスカナ大公国が主権を取り戻したに過ぎなかった。
 また会議の中で、ポーランドが遂に国家として消滅した。北部をスウェーデン、南部をオーストリアに併合され、東部の残り滓をロシアが貪り食った。ただし、スウェーデンによりロシア寄りの旧ポーランド領のかなりが「リトアニア公国」として残され、スウェーデンの属領ながらロシアとの緩衝地帯となった。
 なお、同会議において、アイスランドがヨーロッパ世界から初めてノルド王国の属領として認められることになり、その他大西洋の小さな島々やアフリカ沿岸部についても、ノルド王国の利権が認められるという変化も見られた。

 「ウィーン会議」と呼ばれた国際会議による体制は、以後「ウィーン体制」と呼ばれ、各国は現状維持を命題として国家運営を行う事を心がけた。既に老いが迫っていたナポレオンも例外ではなかった。また一方では、多くの国が多くの民族を抱え込むことになったので、支配民族、中心民族の語学教育に取り組み、またフランスが体現した国民国家となるべく努力が重ねられることになる。しかし一時的な勢力拡大でかえってモザイク化が進んだ大国も多く、多くの障害がつきまとう事は間違いなかった。実際多くの国が、その後四半世紀の間に何らかの失敗をしていく事になる。
 勝ち組による領土分割により、それぞれの国は一見巨体となったのだが、それがかえって衰退を早めることになったと言えるだろう。また、多民族国家となったことで近代国家としての発展が遅れることになり、ノルド王国で始まった産業の革新も遅れることになる。
 多少の例外は、多くの植民地、市場を獲得したフランスだが、そのフランスも戦争の後遺症からしばらく身動きは取れなかった。
 そしてその間に、世界の他の地域もそれぞれ動き始めることになる。

●フェイズ15「アスガルド帝国の革新」