■フェイズ20「帝国主義の拡大」

 西暦19世紀中頃、アスガルド歴でいえば9世紀をまたぐ前後、世界は産業革命による帝国主義への時代、一部の国家が世界全体を牛耳る時代へと、これまでにない急ぎ足で入りつつあった。産業の革新が全ての事象を加速させ、そして全てを覆い尽くしつつあったのだ。
 その典型が、他者を置き去りにする速度と規模で工業化したアスガルド帝国の爆発的膨張であり、膨張先に選ばれたロシアと中華の二つの地域は一番の被害者だったとも言えるだろう。

 ユーラシア東部以外の世界の他の地域では、アフリカ大陸が徐々に焦点となっていった。これは、ナポレオン戦争終盤に、ノルド王国が進出を始めたことが発端となっている。
 ウィーン会議にも正式に出席したノルド連合王国は、当時誰も明確な占有権を主張出来ない地域に限ってだが、アフリカの沿岸部に探検隊を送り込んで橋頭堡を確保し、その権利を主張した。その後も積極的な探索と調査、そして可能な場合は植民地化を押し進めた。反抗的な原住民も容赦なく駆逐し、場合によっては現地での強制労働に従事させる奴隷として扱った。ポルトガルが、かつての自分たちの行動を少しばかり言い立てた事もあったが、何もない弱小国が相手のため、ノルド連合王国からは気にもされなかった。無論だが、ローマ教会の権威、ヨーロピアン同士の決めごとは、アスガルド人にほとんど意味がなかった。明確な理論と力が、アスガルド人を止める手段だった。
 そしてノルド連合王国としては、改革と革新さらにはアジア・大東洋進出を強力に進めるアスガルド帝国に対向するため、自らもさらに国力を拡大しなければならなかった。また自らが始めた産業革命により生産される工業製品の市場としては、連合国家化したエーギル海地域や南アスガルド大陸だけでは、現状はともかく後々不足すると考えられ、まだヨーロッパ諸国が奥地にまで進んでいないアフリカを次の進出の場として選んだ。
 そして、ヨーロッパよりも産業の革新が早かった優位を利用したノルド連合王国の進出は比較的順調で、時にはヨーロッパの様々な国と衝突や紛争を行いつつも着実に勢力を拡大した。当然ながら原住民は武力で駆逐又は征服し、蒸気の力を使って今まで遡れなかった河川を進み、ヨーロッパ人よりも早く暗黒大陸とすら言われたアフリカ奥地へとたどり着いた。
 ただし、ケープ植民地など古くからのヨーロピアンの有力支配領域には、流石に手を出すことはできなかった。ヨーロッパに近いイスラム勢力圏の北アフリカも同様だった。このためノルド連合王国は、インド洋に向かうための拠点としてアフリカ東部に浮かぶマダガスカル島に進出する。蒸気の力さえあれば、南アスガルドから直接インド洋に入ることは可能であり、インド洋での拠点として同島が選ばれたのだ。ただしこれは、他の小さな島、諸島の多くはフランスやネーデルランドが有しているため、安易に手が出せなかったが故の選択だった。

 そして19世紀も半ばにさしかかる頃、ノルド連合王国もアジア進出を開始する。主な目標は西アジアのイスラム領域だった。本来なら、巨大な人口を抱えるインドを選択するべきだったかもしれないが、インドにはフランスがガンジス川河口部を中心に多くの植民地を有しているため、邪魔をするのならともかく進出は難しかった。とはいえフランスが有するのもインドの一部であり、現地国家もまだ多く存在していた。その上、インドは統一国家や同盟といったものが既に機能しなくなっており、現地国家(藩王国)がモザイク状態で入り交じり、沿岸部の都市はヨーロッパの様々な国が進出していた。
 このためインド進出は、ヨーロッパ内でも揉めている状態が続き、かえって進出し辛くなっていた。
 その上、もはや形だけだったがムガール帝国も存続を続けていた。このためイスラム教、ヒンズー教、仏教、さらにキリスト教など宗教と民族が複雑に絡まり、人の多さよりも労力の多さに人々を辟易とさせていた。
 インド経済自体は、白人世界の産業革命以後主に手工業(特に綿工業)が壊滅状態に陥っていたが、今後の自らの工業化の進展と植民地化に向けた他国との争いを天秤にかけた場合、あまり利益を感じる状況にはなかった。
 だがノルド王国は、フランスへの対向という面を棄てきれず、まだインド各地に残る藩王国やインド近在のビルマ王国に対するアプローチを強くするようになる。
 ノルド連合王国としては、インド進出やビルマの植民地化は二の次で、主な目的はフランスを始めとするヨーロピアンに楔を打ち込む事にあった。亜熱帯ジャングルばかりで植民地としての価値の低いビルマに目を付けたのは、現地国家があまり強くなく、また地形と気候が厳しいため、足場としてさえ利用できれば他者から邪魔されにくいという目算があったからだ。
 このためノルド連合王国は、フランスなどの悪口を言い立ててビルマ王室に取り入り、現地に商館と公館を開き、近代の文物を渡して足場固めをしていく。
 なおノルド連合王国としては、本当はシャムに手を付けたかったのだが、同時期インドシナ地域にアスガルド帝国が食指を伸ばしつつあり、またマレー半島に利権を持つ日本があまりいい顔をしなかったため、ビルマが選択されたという経緯がある。それに、マラッカ海峡より向こう側は、アスガルド世界においてアスガルド帝国の縄張りだった。

 またノルド連合王国は、ほぼ平行して次なる進出先としてイスラム地域を選んでいだ。
 ただしノルド連合王国の主な目的は、イスラム地域の植民地化ではない。市場化、資本投下先として、この当時の中東は魅力に乏しかった。人口密度は全体として低く、比較的乾燥した地域のため農業つまり入植には不向きだったからだ。それにどこにいっても、人が住める場所には誰かが住んでいた。
 だがノルド連合王国にとっては、国家戦略上で大きな価値があった。
 ヨーロッパを背後から挟み撃ちに出来るし、しかもフランスの力の根元であるインドとヨーロッパを遮断できる位置に中東があったからだ。
 しかも19世紀の時点では、まだオスマン朝トルコは東地中海沿岸を中心にして広大な領域を支配し続けており、小突かれながらも完全にはヨーロッパに屈してはいなかった。ロシアとの間では、クリミアこそ明け渡すも、いまだベッサラビア、コーカサスを巡った争いが続いていた。
 このためノルド連合王国は、オスマン朝トルコやトルコ同様にロシア人の脅威を受けるようになったペルシャなどに支援を実施し、国交を結び商品のさばき先としても活用するようになる。

 そして当然とばかりに、フランスなど主に西ヨーロッパ諸国がノルド連合王国、アスガルド人への警戒感と対立状態を強めるが、ノルド連合王国は先に産業の革新を達成しつつある威力を前面に押し出して勢いを強める。これは十年ほど前にアスガルド帝国がロシアを破り、現在進行形で中華地域へ進出している事も重なり、アスガルド人が世界征服を行おうとしていると、フランスなどではまことしやかに語られた。
 一方のノルド連合王国でも、伝統政策でもある反キリスト教圏への感情から反感を強め、両者の対立は簡単に戦争へと発展する。
 戦争は西暦1845年、アスガルド歴795年に勃発し、「第二次大西洋戦争」と呼称された。アスガルド世界とヨーロッパ世界の大規模で直接的な戦争は、1770年代に起きた「大西洋戦争」以来であり、両者共にかなりの戦意を以て相手に挑むことになる。ヨーロピアンとしては長年の復仇の機会であり、アスガルド世界としては久々のキリスト教徒叩きだったからだ。またヨーロピアンにとっては、ユーラシア大陸東部でのアスガルド帝国の膨張政策に対する焦りと恐怖も強く影響していた。

 戦争では、蒸気軍艦を多数擁する当時世界最強のノルド王国海軍が圧倒的優位であり、各地でヨーロッパ各国のガレオン戦列艦などの帆走型艦艇をほぼ一方的に撃破した。
 ヨーロッパ世界も蒸気船を既に保有するようにはなっていたが、まだ数は少なかった。蒸気で動く主力戦闘艦は、フランス東インド会社の武装商船以外では、実質的に皆無だった。またこの頃のヨーロッパ世界では、いまだ戦列艦をはじめとするガレオン帆船こそが戦いの主軸だと考えられており、開戦時には蒸気船の不足は特に気にしていなかった。無論、ロシアの僻地での戦いや「コカ戦争」の事は伝わっていたが、実際に目にした者がほとんどいなかった為、自分たちも蒸気船を使った上での判断だった。この頃のヨーロッパでは、蒸気船は移動にはある程度便利だと言う以上に考えられていなかったのだ。
 これに対してノルド連合王国海軍の最新鋭艦は、既に外輪からスクリューで推進力を得る形へと移行しつつあった。外輪だと破壊される可能性がある上に舷側の一部空間が取られてしまうが、スクリュー駆動だとそう言うことはなかった。ボイラーも効率が改善され、蒸気運行による航続距離も大幅に伸びていた。しかも速度発揮、機動性の面でも有利であり、舷側を広く使えるという点でも戦闘力の違いは歴然としていた。
 当然ヨーロピアンはスクリュー駆動船は有せず、遂にアスガルド人がヨーロピアンを文明進歩の面でも圧倒した事になる。しかもアスガルド人の軍隊は、「グングニル砲」、小銃などの新兵器も多数投入し、ヨーロッパ諸国の軍隊を圧倒していた。

 一方戦争自体そのものだが、当初ノルド連合王国とフランス帝国の戦争だったが、徐々に拡大していった。いち早くエイリーク王国が参戦して、ノルド連合王国と共に艦隊や海兵を各地に展開した。翌年には、アスガルド帝国もノルド連合王国側に立って参戦した。そしてミーミルヘイム共和国が仲介役となって「ミーミルヘイム同盟」を結成し、大アスガルド連合を形成した。アスガルド帝国は、表向きは美辞麗句を飾り立てたが、戦争による膨張の機会を狙っていたのは明らかだった。しかし今回は手抜きはせず、アデレイド第二皇女が他の皇族や将軍達を引き連れる形で総指揮官となり、自身も近衛艦隊を率いて大西洋に出撃している。この時のアスガルド帝国海軍も、蒸気戦列艦を既に艦隊に多く組み込んでいた。皇女は既に結婚して子供もいる身だったが、アスガルド帝国での海と蒸気船の第一人者としてこの戦いの指揮を行ったのだ(※国内の有力貴族に嫁入りしているので、正確には既に皇女ではない。)。
 なお、新政府が成立してまだ数年の日本は中立を宣言するも、アスガルド艦艇の通行と補給を認めたため、結局アスガルド側に立って参戦せざるをえなかった。それでもあまり多数の戦力を出すことはなく、主に東南アジア、豪州の防衛に終始した。それでもアスガルド帝国軍と共に、インド洋に向けた通商破壊艦艇をかなりの数出撃させている。
 この時アスガルド帝国軍は、長躯アフリカ大陸東岸にも攻撃を行い、インド洋の一部島嶼を占領すると共に、アフリカ最高峰のある近辺のヨーロピアン勢力を駆逐している。
 アデレイド皇女が親率したのも、「本当の海の戦い」で勝利してアスガルド帝国の武威を示すためで、アフリカ大陸に橋頭堡を得るのはこの時点では二の次だったともいわれる。アスガルド人の中では、ヨーロピアンとの戦いに勝ってこそ意味があるという事になるだろう。
 実際、当時ケニア地域に駐留していたフランス帝国軍は貧弱で(2000名程度)、現地フランス軍よりも慣れないアフリカの気候や疫病、猛獣の方がアスガルド軍の敵として立ちはだかったと記録されている。
 一方のヨーロッパ側も、いち早くフランス、オーストリアが中心となって事実上のヨーロッパ連合を形成して対向した。これに対してプロテスタント諸国の多くは、当初は参戦に向けて動くも、途中からは中立を宣言してしまう。自分たちの軍事力が全く役に立たないことを、事実として知らされた為だった。しかし、産業革命の進展によるアスガルド世界の急速な膨張は、ヨーロピアン全てから見て既に目に余るようになっていたため、実際はアスガルド人の増長を少しでも阻止するべく、中立を宣言した多くのヨーロッパ諸国がヨーロッパ連合への積極的な支援を行っていた。
 つまりこの戦争は、ヨーロッパ対アスガルドの戦争であり、産業革命の進み具合の差が如実に現れた戦争だった。
 戦争自体は、それぞれの戦争準備もあって開戦から半年程度してから加熱し始め、各所で戦闘が行われた。戦闘は主に大西洋と大西洋上の島嶼で行われ、一部ヨーロッパ、アスガルドの沿岸部、インド洋でも行われた。
 戦闘面で見ると、固有名詞を上げるほどの海戦はほとんど起きず、主に中小規模の海戦、島嶼を巡る中小規模の陸戦が連続するものとなる。唯一決戦らしい戦いは、1846年4月に行われた「マデイラ諸島沖海戦」だった。ここではアスガルド連合の蒸気艦隊に対して、フランスを中心とするヨーロピアン連合のガレオン戦列艦隊が惨敗を喫した。アスガルド側26隻、ヨーロピアン側43隻と数の上ではヨーロピアン側が圧倒的に優勢で、個々の艦の規模や大砲の数もヨーロピアン側が勝っていた。しかもヨーロピアン側は、別働隊として13隻からなる臨時の蒸気艦隊(※全て商船改造で戦闘量が劣る)も用意していた。
 戦闘開始当初も、風を得たヨーロピアン側が砲力の優位もあって優勢に立っていた。しかしアスガルド側が、蒸気船の優位を活かして巧みに陣形を変更して一旦優位に立ってしまうと、後は一方的となった。ヨーロピアン側の蒸気艦隊が慌てて割り込んだが、蒸気船を用いた戦闘技術の違い、教訓の差、個々の戦闘力差を見せつけるだけに終わってしまう。
 結果、ヨーロピアン側は半数以上の艦が撃沈又は拿捕されて艦隊が壊滅し、何とか逃げのびた残りの艦も損傷が大きい艦が多く、以後ヨーロッパ側は北大西洋西部の制海権すら失ってしまう。
 その後の戦争は1年半後の1847年まで続き、海上封鎖と損害に耐えかねたヨーロピアンの惨敗となった。終戦時には、フランス、オーストリア、スペインなどの海軍は、艦隊保全に入った艦艇以外は壊滅状態に追い込まれ、アスガルド連合側の海上封鎖によって、海外植民地の一部は占領され、加えて海運などにも大きな悪影響が出るようになったため、自ら講和をミーミルヘイム同盟に申し出なければならなかった。
 仲介したスウェーデンの王都ストックホルムで開催された講和会議では、ヨーロピアンは多額の賠償金をアスガルド連合に支払い、さらには多くの海外領土を割譲させられる。ノルド連合王国は、中東ばかりでなくアフリカでの利権を大きく拡大し、アスガルド帝国とエイリーク王国もアフリカに初めての植民地を得た。大西洋の島々の殆ども、アスガルド人のものとなった。

 「第二次大西洋戦争」によって、ヨーロッパ世界は大きな衝撃を受けた。
 これほど一方的な敗北となったのは、16世紀前半頃の最盛期のオスマン朝トルコとの争い(=プレヴェザの海戦)以来であると考えられ、大きな危機感が広がった。このためヨーロッパ諸国は、無理を押してでも産業革命の進展、軍備の近代化の速度を早めるようになる。
 また、この戦争の副産物として、ヨーロッパでは大きな政変が各所で起こった。フランス帝国では、混乱の後にナポレオン三世が即位して国家の建て直しを図るようになった。オーストリア帝国ではメッテルニヒ宰相が失脚し、ドイツ地域は最後の分裂期に入っていく事になる。
 そして世界は、圧倒的優位を得たアスガルド、これに追随しようとするヨーロッパ、そして大東洋西部で一人地道な努力を続けている日本の三者だけが、世界のゲームプレイヤーとして熾烈な競争を演じる時代が到来しつつあった。

 しかし世界進出競争は、基本的にヨーロッパにとって不利だった。人口の少ない多くの地域は、既にアスガルドか日本のものであり、どちらも産業の革新が進んでいた。アスガルドの優位は、19世紀中頃の時点では圧倒的と言える状況だった。
 だがヨーロッパでも産業革命は徐々に進展しており、海外市場、移民者の入植地が出来る限り必要な状況が到来しつつあった。
 特に問題だったのが、産業革命の進展による都市の肥大化と人口の爆発的な増大だった。スウェーデン、オーストリアは、東欧の開発促進によりある程度国内に空間的な許容量が残されていたし、フランスはもともと人口増大が他国に比べて少なく、さらに南アフリカというヨーロピアン唯一の温帯入植地を持っていた。しかし中小の国となると、ヨーロッパから逃げる場所がなかった。
 そこに一つの「爆弾」が破裂する。
 大西洋で戦機が高まっている頃、アイルランド王国で大飢饉が発生した。俗に言う「パタタ飢饉」だ。この飢饉に際してアイルランド王国では、小麦の輸出禁止、他国からの穀物の緊急輸入などの措置を取ったが、常にイングランドの脅威に怯えていた小国に出来ることは限られていた。当時450万の人口があったが、小麦の輸出を止めて国内に拠出したりしても、最大で総人口の20%が餓死するという試算が出た。農民、特に大きな比率を占める貧農の主食がパタタだったためだ。
 このためアイルランド王国は、世界中に食料援助と共に自国民の移民受け入れを打診する。この声明に対して、同じカトリック教国と言うことでフランスが名乗りを上げ、小麦などの緊急輸出を行うと共に南アフリカに限定付きながら移民の大量受け入れを行うことになる。しかし輸送力、許容量の問題もあり、最大で5年間で20万人と限られていた。
 そのためアイルランドの貧農を中心に、飢え死よりはマシという事でヨーロッパ大陸に人の流れが出来てしまう。これを阻止するためフランスは南アフリカへの受け入れを決めたのだが、止めることが出来なかった。
 ヨーロッパ域内での大規模な人口移動は、それこそゲルマン民族の大移動以来とすら言われ、その後ヨーロッパに少なからず混乱をもたらすことになる。
 そしてこの時ヨーロッパ各国は、丁度と言うべきかアスガルド諸国との間に講和会議を持っていたこともあり、アスガルド世界への白人移民受け入れを、頭を下げる形で強く打診する。
 ヨーロッパ世界からの要請に対して、アスガルド側は依然として自分たちの世界での宗教規制が続いていることを理由として、受け入れには消極的だった。だが実際には、受け入れる余力がないというのが、広い大地に住むことに慣れていたアスガルド人の主な考え方だった。

 1810年代、アスガルド世界には合わせて約1億5000万人が住んでいた。この数は、ロシアを含めたヨーロッパ世界とほぼ同じ数字となる。うち80%が北アスガルド主要部の住人であり、この時メヒコ以南のアスガルド世界は、まだ人口は比較的希薄だった。
 しかし、世界に先駆けて産業革命に突入していたアスガルド世界では、開始以後30年の間に爆発的な人口増加が発生していた。アスガルド人の総人口は一気に50%以上も増えており、19世紀中は爆発的な増大が見込まれていた。
 単純な数字にすると、1845年頃のアスガルド帝国1億3000万人、ノルド連合王国5000万人、エイリーク公国800万人、ミーミルヘイム共和国200万人となる。しかもこの数字は、メヒコ、南アスガルド、さらにはユーラシアのフレイディア副帝領の移民を除いた数字だった。当然各地のアスガルド人は、主に移民という形で大きな上昇曲線を描いていた。北アスガルド主要部以外でのアスガルド世界の人口は、南北アスガルド大陸だけで2億2000万人にまで拡大していた。北アスガルド大陸各地の主要都市は、軒並み100万都市へとつき進んでおり、アスガルド世界は移民開始以来遂に人で溢れるようになっていた。
 しかも人口拡大は爆発的勢いで続いており、北アスガルド大陸から移民が出ているように、許容量など存在しないと言うのが当時のアスガルド人の正直な気持ちというのも理解できるだろう。無論世界的には余裕のある土地の使い方をしているのだが、相対的事象はアスガルド人の主観の前には意味が無かった。
 このためアスガルド人は、ヨーロッパ世界に対してつれなく対応したのである。しかしスウェーデンなど友好的国家からの打診もあったため無視も出来ず、南アスガルド大陸の一部に限りヨーロッパからの移民を解放する事になる。ただしこの時の制限は、キリスト教徒に対しては依然として非常に厳しかった。具体的には、大規模な教会、修道院、宗教大学の建設の禁止と、キリスト教の司教以上の移民、移住、一時滞在を一切認めないと言うものだった。また個人以上でのヨーロッパ世界の文物の持ち込み禁止、移民者自身のアスガルド世界の受け入れ、アスガルド語、ルーン文字の修得も必須とした。要するにアスガルド世界への帰化を求めたのだ。
 加えて、当面はゲール人(アイルランド人)に限っての移民制限緩和とされた。
 それでも救いの道が現れたと言うことで、1847年からアイルランドから南アスガルド大陸に向かう移民船が多数出現した。ヨーロッパ諸国が待ちに待って揃えたものだったが、以後5年ほどの間に30万人というそれまででは考えられないほどのヨーロッパ移民がアスガルドの大地にやって来る事になる。
 それは大きな変化であると共に、それぞれの世界が隔てて閉じこもって対立している時代が過ぎ去りつつあることを示すものでもあった。

●フェイズ21「列強の再編成」