■フェイズ22「縮小するロシア」

 ロシア帝国は、基本的に開拓国家としての性格が強かった。
 ロシアの大地は、西暦で10世紀より前の時代は見渡す限り湿地と荒野、そして原生林であり、この地域に最初に入り込んだヴァイキングの一派がロシアの語源となったほど、何もない場所だった。東スラブ民族の数も、ほとんど見ることが出来なかったほどだ。
 しかしモンゴル人が東の果てやって来る頃に徐々に国家の形成が始まり、モンゴル人が草原に去る頃にモスクワを中心としたロシアという国家が成立した。その後ロシア人は荒野や原野、森林の開拓を徐々に進めながら勢力と人口を拡大し、国家そのものを巨大化させていった。この動きは、北アスガルド大陸での状態に似ている。
 そして時は経ち、西暦17世紀から18世紀にかけては、ユーラシア大陸北部一帯に広がる広大な大地を領有するようになっていた。大陸の北東部は日本人の領域だったが、実質はともかくロシア政治上での形式ではそうなっていた。その後は、スウェーデンの前に西進が一向に叶ないも、南のトルコに対する進出によって黒海に出ることに成功していた。国土の開発も進められ、ヨーロッパの辺境という位置付けはそのまなながら、ヨーロッパ最大規模の人口を有するほどに多くの人々が住むようになっていた。だがヨーロッパ西部と比べると国家、制度、産業の進歩は大きく遅れ、産業の革新についてはほとんど何も行われていなかった。17世紀末に改革と近代化を志したピョートル皇帝も、志半ばで倒れていた。その後も、近代化を行えるほどの名君が出ることはなかった。
 このためポーランドの分割にも、おこぼれに預かった程度で満足しなければならず、ヨーロッパ世界からは「東の蛮族」と見下され続けた。
 そして西暦1832年に、突如アスガルド帝国がユーラシア大陸北東部を日本から譲り受けると大きな変化が訪れた。

 アスガルド帝国は、ロシアそのものの後進性とロシアの辺境での弱体を見透かして、すぐにも拡張主義を取って戦争を行い、ロシアから広大という言葉すら不足するほどの領土を奪い取った。アスガルド帝国は清朝に対しても容赦なく、一気にユーラシア大陸の人口希薄地帯を奪っていった。
 アスガルド帝国の拡張主義はその後も続き、中華地域ではさらに広大な土地を奪い取り、サハ(シベリア)から中央アジア地域への浸透も実施し、そしてロシアとの対立も続けた。このためロシアのトルコに対する南進政策はとん挫し、多くの努力をアスガルド人に向けなくてはならなくなってしまう。
 しかしロシアとの対立は、アスガルド人からすれば当然の事だった。基本的にアスガルド人は伝統的に反キリスト教主義であり、ロシアはキリスト教の一派(ギリシャ正教)を信奉する国家な上に、彼らの民族的つながりが極めて強いスカンディナビアの国とたいていの場合対立していた。
 またアスガルド帝国にとってのロシアは、初めて国境を接するキリスト教国だった。このためアスガルド帝国は、国民の支持が得やすいこともあって、何かあればロシアとの対立状態を作り上げた。清朝は踏みつぶす相手に過ぎないが、白人国家は自己満足を満たすために殴りかかる対象だと説明すれば分かりやすいだろうか。

 そしてアスガルド帝国は、西暦19世紀において間違いなく世界最強の国家であり、国力、人口、工業力、そして軍事力、全ての面においてロシア帝国を圧倒していた。
 ロシアもロシアなりに国土開発を進め、人口の拡大は政策として押し進めてはいたが、ヨーロッパの大国と呼ばれる国々の中では最も産業の革新が遅れていた。しかも政治制度は、農奴が存在するという一事をもっても大きく遅れていると言え、実際皇帝(ツァーリ)による遅れた絶対王政が続き、農奴を抱えた貴族達も大きな権力を有したままだった。国家に臣民はいても国民はいなかった。農奴はいくらでもいても自作農は少なかった。コサックという例外はいたが、彼らの数はけっして多くはなかった。
 多くの列強が立憲君主制の国民国家となり、君主はいても権威君主となっている事と比べると、その後進性は明らかだった。国家自体も、人口が増えただけで貧しいままだった。裕福に見えるのは、国民の搾取を続ける貴族と皇族だけだった。
 故に産業の革新はまだほとんど始まっておらず、19世紀半ばの時点でも国内の鉄道敷設すら他国に比べて大きく遅れていた。この遅れの原因は、技術力もさることながら資本力や国民の民度も影響しており、特に資本力の低さは辺境開発に大きな悪影響を与えていた。

 これに対して、現地をフレイディア副帝領と名付けたアスガルド帝国は、精力的な現地開発を行っていた。莫大な投資を行って鉄道敷設を進め、鉄道を中心にして都市、工場、入植地、鉱山など国家として必要な全てのものを急速に作り上げつつあった。加工品の多くは本国からは帆船を使って物資を運ばねばならないので、その手間と時間、経費の高さを疎んだため、近在の産業国日本で多くの発注が行われたりもした。日本については、帰化を前提とした移民も受け入れた。
 なお、鉄道が発明されたのは西暦1814年(アスガルド歴764年)、アスガルド帝国においてだった。以後アスガルド帝国は、広大な自国領内の鉄道敷設を熱心に行い、早くもアスガルド歴784年(1834年)に自国内の帝都フリズスキャールヴと西海岸のギムレー間で大陸横断鉄道を完成させている。ホッカイアを得た事、ロシアとの戦争が始まった事が、鉄道の完成を数年前倒しで実現させることになり、本国中枢から西海岸に伸びる鉄道が、アスガルド帝国の長大な兵站を支える大きな力となった。
 そしてフレイディアという名の広大な領土を得ると、すぐにもフレイディアを貫く縦貫鉄道の敷設が開始された。1840年代のうちには、早くも満州地域の主要鉄道が開通していた。あまりの開発のため、清朝の皇帝が激怒したほどの開発の早さだった。そしてそのままの勢いで、ユーラシア大陸の奥地へと鉄道敷設を押し進め、ウラル山脈の側からの工事も急激に進められていった。フレイディアの発展は、鉄道発展の歴史と平行しているほどだった。
 そして西暦1862年(アスガルド歴812年)には、ロシアとの境界線にあるウラル山脈のフレイディル市(旧エカチェリンブルグ)までの開通をみている。
 フレイディア縦貫鉄道の建設は、西暦1836年に早くも調査が開始されていた。その後、平野部での敷設は素早く進められたのだが、山間部や大規模な河川での橋梁などでの難工事のため予定した通りには進まず、約25年の歳月をかけた末に完全開通した事になる。それほどの熱意を以て、この時期のアスガルド帝国は拡張を続けていたのだった。

 鉄道の完成によって、アスガルド本土から移民が続々と流れ込むようになる。ただし1860年代に入るまで、技術的な問題から蒸気船による大東洋の短距離横断が実現しなかったため、アスガルド本土からフレイディアへの移民拡大には、物理的な限界もあった。フレイディア奥地でアスガルド帝国人が増えるのは、フレイディア縦貫鉄道と蒸気船によるハワイを経由する北大東洋の往復航路が開かれる1862年以後を待たねばならない。
 このため1840年代から50年代半ばにかけてのフレイディア開発では、様々なものが不足した。その補填分を、近在で最も高い経済力、産業力、さらに民度、教育程度を持ち、かつて一部を有していた日本から得た。一時労働者としての日本人も重宝されたが、特にアスガルドへの帰化を前提とした日本人移民はさらに重宝された。無論、アスガルドへの完全帰化を前提とはしていたが、初期の社会資本建設、黒土地帯東部への農業移民として、積極的に受け入れられた。日本政府としてはあまり面白い状況ではなかったし、強大化が目立つアスガルド帝国への警戒感も強まったが、取りあえず金儲けが出来ることを当面は喜ぶことにしていた。
 一方でアスガルド帝国は、万里の長城を越えてくる漢族の移民、流民に関しては、清朝以上に厳しく制限していた。漢族は地続きのため際限なく流れてくることが強く警戒され、日本人は海を隔てている上に完全帰化を前提とした移民としての了解の上での移住という違いがあったためだ。また日本人は、江戸時代という安定した封建時代を経験したため、組織や政府に従順な傾向が強かったという点をアスガルド帝国は高く評価していた。
 そしてアスガルド帝国は、万里の長城辺りに監視のための軍隊を置き、許可無く越境する者は容赦なく追い返すか、酷い場合は射殺してすらいる。入り込んできた不法移民に対しても、国外追放や収容所送りなど極めて厳しく対処された。全て、新たな領土をアスガルド化する為だった。
 もっともアスガルド帝国による非漢族化政策は、満州、蒙古各騎馬民族から広く支持されての事でもあり、実際の取り締まりのかなりの部分を現地騎馬民族が自ら請け負っていた。フレイディアのアスガルド人は、かつてのモンゴル帝国の次なる後継者でもあったし、彼らは進出してくる漢族を酷く嫌っているためだった。

 アスガルド帝国による開発は、清朝から得た沿海州、満州北部を中心かつ起点に開始され、ロシアとの境界線となるウラル山脈東側まで隈無く進められていく。また北満州縦貫鉄道は1840年代に開通を見ているため、北満州での開発は非常に早かった。さらに港が一年中使える遼東半島から伸びる南満州鉄道の敷設も早く、1850年以後は実質的な最重要路線となった。
 なお、西暦1851年、アスガルド歴だと801年つまり9世紀の始まりという区切りの良い年の統計だと、既に約30万人のアスガルド人がフレイディア各地に移民しており、採算度外視で作られた数々のアスガルド風文物が、そこの主が誰であるかを無言のまま教えていた。
 アスガルド歴800年には、再び清朝とアスガルド帝国の戦争があったが、それもアスガルド帝国の覇権拡大を助長するだけに終わった。
 そして西暦1860年代に入ると、アスガルド本国での産業革命の進展とより簡便な交通路の開設が、巨大な移民の流れを作り出す。アスガルド大陸の大陸横断鉄道、蒸気船による大東洋横断航路、フレイディア縦貫鉄道という、今までとは次元が違うほど便利で快適、そして極めて短時間となった移動手段によって、一気にアスガルド人が旧大陸へとなだれ込み始める。移民の流れは年々拡大し、西暦1860年代は平均で毎年10万から15万人のアスガルド人がユーラシア大陸北部へと移民していった。
 物資の流れも急速で、フレイディア縦貫鉄道が開通してしまうと、かつてシベリアと呼ばれていた場所は、日本で言うところの雨後の竹の子のように鉄道沿線に都市が誕生していった。
 この状況は、ウラル山脈の西側にいるロシア人にはあまり見えておらず、しかも大陸奥地での出来事のためヨーロピアン達が詳しく知ることもなかった。このため殆ど誰にも邪魔される事なく開発が進められ、開拓と土木技術に秀でたアスガルド帝国にとっては、夢のような開拓と開発の時間が過ぎていく。
 この流れは年々拡大し、次の十年ではさらなる飛躍を遂げることになる。

 1870年のアスガルド帝国本土の総人口は、約1億7000万人。白人世界では最大規模であり、中華地域が混乱する状態のため名実共に世界一の人口国家と言っても良いぐらいだった。当時の人口規模的で比較すると、ロシアを除くヨーロッパ全体の80%にも達していたことになる。そして当時のアスガルド帝国本国では、産業革命の爆発的進展に伴う急速な人口拡大のため、多くの「人あまり」が起きていた。
 このため北アスガルドからフレイディアへの人の流れは凄まじく、毎年30万人〜50万人もの移民の波が押し寄せるようになる。アスガルド大陸から移民を送り込むための移民船も、次々に造られ年々巨大化していった。船の建材も、木から鉄へ、そして丈夫になった鋼鉄へと変化していった。アスガルド帝国本国内でも、大陸横断鉄道が何カ所も引かれるなど、東部から西海岸に向かう鉄道が異常なほどの発達を遂げている。本国の出発点となったギムレー、ブリーシンガメンなどの港湾都市も、重工業が発展すると共に移民の出発地ともなって巨大都市へと変貌した。おこぼれで、日本の海運や港湾、海運、各種産業までが発展した。アスガルドの船だけでは足りないので、日本の商船会社までが大東洋航路の移民船を複数運航させたりしていたのだ。
 フレイディア副帝領の遼東半島に作られた海の玄関口にしてフレイディア縦貫鉄道の起点となるギャッラル市は、瞬く間に総人口数十万の大都市となった。そしてフレイディア各地の開拓のため人々は移民し、鉄道沿線はすぐにもアスガルド人で溢れた。
 西暦1840年の開発開始から約40年で、現地での自然増加を含めて1500万人以上ものアスガルド人が占めていたほどだ(※日系移民は、古くからの住民を合わせても300万人程度)。アスガルド帝国内での人口飽和と強引な拡大の賜物だが、国家が総力を挙げた社会資本、交通網整備をしなければこれほど短期間で実現できなかっただろう。見渡す限り平原でしかなかった黒土地帯の東部は、数十年で蒸気トラクターがうごめく穀倉地帯へと変化していった。

 ロシア帝国も、ウラル山脈の向こう側の情勢が分かるようになってくると、負けずとウラル、ボルガ開発、辺境開発で巻き返しを計ろうとした。だが、西からは北欧帝国(スウェーデン)とドイツ(オーストリア)、東からはアスガルド帝国が圧力をかけるためうまくいかなかった。トルコですら、ノルド連合王国からの支援を受けて、コーカサスや黒海での巻き返しを計ろうとしていた。
 このため東部開発は資金不足に悩まされて思うように進まず、ユーラシア大陸奥地での開発では決定的な差が開いてしまい、フレイディア縦貫鉄道の存在がロシア人に極めて強い脅威を与えることになる。
 フレイディア縦貫鉄道の開通以後ロシアの態度は硬化の一途を辿り、フレイディア副帝領との軋轢が増えるようになった。このためアスガルド帝国も、本国からの続々と師団を送り込み、副帝領内でも屯田兵としての軍備増強が実施された。現地での自活のための工業の建設も本格的に行われるようになった。
 1862年の鉄道開通から僅か十数年で、200万ものアスガルド人が黒土地帯を中心に移民し、既にオビ川上流域の資源地帯では数十年かけて開発されていた重工業が稼働し始めていた。1870年代に入ると、年間50万人以上の規模で移民が続々とフレイディアへと流れ込みつつあり、ロシア中央では四半世紀で自分たちが圧倒されるという悲観的な予測がなされたりもした。
 このため圧倒的不利にならないうちに、領土奪回を図ると共に国家の縦深を確保する為の予防戦争を行うべきだという意見がロシア帝国内中枢で俄に台頭した。しかしロシア国内での鉄道網の不備、特にボルガ川以東での不備は問題視され、とにかく自分たちも鉄道を引くことを考える。しかし当時のロシアには金も技術もなく、仕方なくフランス帝国とライン王国を頼ることになる。だが伝統的にロシアの拡大を嫌うスウェーデン(北欧)、オーストリア(ドイツ)の妨害と嫌がらせもあり、またヨーロッパ世界がシベリア(フレイディア)奥地でのアスガルド帝国の実状を詳しく知らないことも重なって、ロシアの外交と鉄道敷設はあまりうまく進まなかった。ロシア人の話には大きな誇張が混ざっていると、ヨーロッパでは長い間考えられていたほどだった。

 これに対してフレイディア副帝領を治めるグラズヘイム副帝家は、本国からの移民拡大と国土の開発をより一層促進すると共に、境界線近くでの軍備増強も熱心に行った。フレイディア縦貫鉄道も1873年まに殆どの区間で複線に拡張され、海の玄関口ギャッラル市には本国からやって来た鋼鉄製の巨大な移民船が多数接岸するようになった。また、マンチュリアと改名された満州地域でのアスガルド人及び日本人移民の人口も激増し、フレイディアの開発と発展に貢献した。
 なおグラズヘイム家は、名前こそ違え古くから皇族(ステイグリム家)の一家であり、扱いとしては副帝家とされ、副帝領当主は皇帝以下、皇族の系譜に連なる公爵家や属領の王族以上とされていた。副帝領自身も準国家扱いの自治領とされ、外交、交戦権以外のほとんどを有しており、国際的には保護国又は自由国に近い位置となる。ただし副帝家の存在自体は皇帝と議会の双方の承認を必要としており、その気になれば本国が廃位する事も可能となっていた。また、総督府も別に設置されており、本国の意向を無視した事が出来るわけではなかった。
 それでも、グラズヘイム家はアスガルド人、混血のミッドガルド、日系移民、さらには現地の元蛮族などを巧く使いこなしており、統治は概ね良好だった。中央アジア地域への進出と事実上の侵略を半ば日常としていたため、小規模な衝突や戦闘は絶えなかったが、侵略による報償の形での出世競争が、かえって統治を円滑としていた。そしてその延長としてロシアとの対立があり、副帝領自身にとってはロシアが戦争を吹っかけようとしているのは、むしろ望むところだった。防衛戦争ならば、自分たちの裁量で始めることも出来るからだ。
 そして即位したばかりの第十代アスガルド皇帝のフレイソン三世は、帝国臣民の安寧を図るという名目でロシア帝国のウラル山脈近辺での軍備増強と挑発に強い警告を発する。同時に、副帝領に現地での戦争の全権が与えられ、当時のフレイディア副帝ロレンツは、軍の指揮官となるための大元帥の地位を得て副帝領の軍権を掌握。事実上の戦争準備に入る。
 これに対してロシア帝国は、アスガルド帝国こそが侵略的行動を繰り返していると強く非難。ヨーロッパ各国に理解と助力を求める。だがヨーロッパ各国の反応は今一つであり、スウェーデンなどはロシアの常套句が出たとしか見なかった。いかにアスガルド帝国といえども、何もないユーラシアの奥地ではロシアの方が優位と見られていたためだった。
 そしてロシア側が、戦争準備が整わず愚図ついている間に、副帝領は一族のロレンツ元帥を名目上の総司令官として、ロシア側の越境と副帝領内における掠奪や殺戮などの悪行に対する報復として戦端を開く。
 西暦1877年、アスガルド歴827年5月の開戦で、戦争の名は「ウラル・ボルガ戦争」と呼称されることになる。
 同戦争は、アスガルド帝国での新帝即位に合わせたものと見られる向きが強かったが、実際はアスガルド帝国議会と宰相サンデルのもとで帝国議会が承認したのであり、新帝即位がたまたま重なったに過ぎないとされる。当時のアスガルド帝国は、既に民政議会と民主憲法を持つ立憲君主国家へと完全に変化しており、既に皇帝や皇族が直接何かを行うという時代は過ぎ去っていた証拠でもあった。
 戦争は、民衆の意志を受けた国家が行ったと見るのが正しいだろう。しかし辺境である副帝領のフレイディアは多少例外であり、まだ個人が活躍する余地が残されていた。

 西暦1877年(アスガルド歴827年)に始まった「ウラル・ボルガ戦争」は、当初ヨーロッパ世界からはそれほど注目はされなかった。ロシア帝国でも、アスガルド帝国の脅威こそ叫ばれていたが、軍備については少なくとも兵力数の面で自分たちが優越しているという考えが強かった。このため小競り合い、せいぜい中規模の戦争以上に発展することはないだろうと考えられていた。また、当時のロシア帝国は総人口が約6500万人と、既にヨーロッパ随一の人口大国となっていた(※当時のフランス本国で約4000万)。数百年にわたる地道な開拓の成果だった。このため、簡単にロシアが敗北する事は無いという予測があった。
 対するアスガルド帝国のフレイディース副帝領のアスガルド人人口は、全てを合わせて約1500万。混血、日系移民など戦力として数えられる人数を合わせても2000万人程度な上に、領域広くに分散して住んでいた。しかもロシアは、アスガルド人の数を実際の半数程度と考えていた。この状況が、ロシア側の油断を呼び込んだと言えるだろう。
 しかしロシア帝国との境界線には、アスガルド本国から派遣された精鋭部隊を含めて3個軍団20万の兵力が常に配備されていた。鉄道の有無による近代化の差も既に大きく出ていた。完成したばかりの要塞も鉄筋コンクリート造りとなっており、既に前近代的な攻撃では対処が難しくなっていた。対するロシア帝国の開戦時の現地戦力は8万に過ぎず、軍自体の状態も前のシベリア戦争と大きな違いはなく、ロシア側に油断があったことは間違いない。しかもアスガルド帝国は、戦争を決意した段階で本国から2個軍団の派兵を開始し、副帝領では総動員が開始されていた。
 そして戦争開始後は、ロシア側が皇帝アレクサンデル二世が総指揮官となったため、アスガルド帝国側でも皇帝か皇太子が出陣するのではないかと言われるも、第十代皇帝フレイソン三世が命じる形で副帝領当主ロレンツ・グラズヘイムが名目上の指揮官になったに過ぎなかった。実際の現地での総指揮は、軍人として帝国元帥に上り詰めた平民出身のティールソン元帥が行っている。
 アスガルド帝国にとってのこの戦争は、既に国家元首が総指揮官となる必要性がない時代に入っていたことを示している。

 戦争自体は、敵野戦軍の撃滅というこの時代の一般的な戦争となった。近代戦争の特徴の一つと言われる総力戦をするには、双方とも現地での兵力と鉄道網が足りなかった。またロシア奥地は、塹壕を作ったりする戦争が出来るような広さ(狭さ)ではなかった為だ。
 当時のアスガルド帝国は、鉄道線と電信設備を重視し自国領内での整備には出来る限り力を割いていた。既に、ユーラシア大陸からアスガルド大陸を結ぶ電信網も整備されていた。帝都からウラル山脈において、従来からは考えられない速度での連絡すら可能となっていた。
 だが、主な戦場はロシア辺境でしかないウラル山脈、ボルガ川東部地域のため、軍隊の迅速な移動に必要な道路や鉄道が不足しており、近代的戦争をしたくても出来ないと言う物理的要素があった。広すぎる戦域のため、多連装銃(グングニル砲)が多数配備されるようになっても、騎兵が主要な役割を果たすことになった程だった。
 またロシア軍は規模こそ大きくなったものの、依然としてナポレオン戦争時代の軍制と装備からあまり進歩していないのに対して、アスガルド帝国軍は当時の最新兵器である後部装填式大砲、後装式軍用ライフル銃(小銃)を標準装備しており、科学技術、軍事技術面での違いは明らかだった。圧倒的弾幕を形成する多連装銃の装備数でも、計数的な差が開いていた。工業の差による生産力が桁違いの為、弾薬そのものの量にも大きな違いがあった。
 しかもアスガルド帝国軍は、戦争中も占領地に対して自国領から鉄道網を延ばしており、現地の鉄道網の少なさからロシア軍が途中から採用した後退戦術があまり機能しないという事態に陥っていた。
 そして時間が経つに連れて、アスガルド帝国軍の数は増えていった。本国からの増援に加えて、現地での動員が順調に進んで50万の兵力が鉄道によって前線に送り込まれたからだ。終戦までに前線に送り込まれたアスガルド帝国軍の数は80万に達し、ロシア側が動員して前線に送り届けた60万人を越えていた。ロシアには財政や鉄道網などの問題があるため人口ほど兵士の動員ができず、仮に動員が出来てもそれを前線に送り届け、さらに戦わせるだけの能力や物資に欠けていた。戦費についても、大いに不足していた。
 前線に送り込まれた軍隊同士の差も大きく、騎兵同士以外での戦闘では、アスガルド帝国軍の十字砲火に銃剣突撃するロシア兵という構図で動いた。しかも分進合撃したアスガルド帝国軍の行動が素早かったため、ロシア軍主力は後退戦術を実施しているにも関わらず、アスガルド帝国軍主力に捕捉されてしまう。
 ボルガ川東岸のクイビシェフ近くのブグルスランで行われた会戦(=「ブグルスラン会戦」)では、25万のアスガルド帝国軍に対して、アレクサンデル二世率いる17万のロシア軍が散々にうち破られた末に包囲殲滅され、壊滅的打撃を受けてしまう。ロシア皇帝は辛うじて後方に逃げ延びたが、戦争はこの戦いでほぼ決着が付き、アスガルド帝国軍がボルガ川東岸一帯をほぼ占領した時点で、ロシア側が講和を求める形で終戦となる。物流の大動脈でもあるボルガ川の制川権を失っては、ロシア軍にとって現地での戦争継続は不可能だった。
 だが、皇帝自らが戦った上で惨敗したため、ロシア帝国はその後しばらく内政的な混乱が起きた。さらに自らの体面とアスガルド帝国への恐怖からロシア政府の行動は後手後手に周り、その後もしばらく戦争は続くことになる。
 このため、決戦後も敗走するロシア軍を追う形でアスガルド軍の進撃は続き、主力部隊はボルガ川を渡河してボルガ川中流域のカザン、ゴーリキーへと進軍。モスクワまで約400キロと迫った。この距離は、近世型の戦争であるならば、ロシア側の野戦軍が壊滅した状態では、既に距離はなきに等しかった。さらに騎兵を中心とした別働隊は、アスガルド軍はボルガ川中流域から下流域にかけてを制圧し、さらにドネツ河目指して西へと進軍していた。アスガルド帝国は、大西洋に向けた海の出口をどさくさ紛れに得てしまおうという野心が芽生えていたのだ。
 そしてこの段階でオスマン朝トルコが動き始め、コーカサス地域の「奪回」に向けた軍の動員が本格化した。だが、ロシアが惨敗しトルコが介入し始めた時点で、戦争は完全にヨーロッパの戦争となった。このためヨーロッパ各国が干渉を開始し、ロシア側が講和を求めたこともあり、戦争はようやく幕を閉じる事になる。

 戦争期間は1年半で、実質的には二度の夏の戦いで全てが決していた。講和会議はボルガ川流域のゴーリキー市で行われ、完全な二国間会議となった。
 交渉の初期においてロシアは、ボルガ川一帯でアスガルド軍が渡河準備を進めている中で、広大な領土を割譲するか、莫大なアスガルド側の戦費を賠償金として支払うかの二者択一を迫られる。交渉を蹴っての再戦はあり得ない。モスクワが落とされ、より状況が悪くなるだけだから。
 だが、この時のアスガルド帝国側の賠償請求にはヨーロッパ各国から強い非難があり、講和がこじれる事による泥沼状態の戦乱の拡大を嫌ったアスガルド帝国も折れることになる。ヨーロッパ世界が過剰反応に近い反応を示したのは、単にアスガルド帝国がロシアを一方的に破った事ではなく、地中海への出口の第一歩を記しそうになったからだった。
 そしてその後、アスガルド帝国が今回もスウェーデン(北欧帝国)への仲介を頼んだため、ストックホルムで講和会議を仕切直された。
 結果、賠償請求は大きく下げられた形で講和条約が成立するも、ロシアはクィビシェフ市以東のウラル山脈全域、クィビシェフ市以南のボルガ川下流域東岸という広大な領土を失う事になる。賠償金は少なく済んだが、これはこの時のロシアに支払い能力がなく、また同時に多額の借款に応じられる国がなかったためでもあった。しかも割譲を免れたとはいえ、ロシアの手に残ったボルガ川西岸地区は、アスガルド帝国に半包囲された形で人質も同然の場所だった。
 しかし、コーカサスに至る地域をアスガルドが得られなかった事は、その後も両者の間に大きな問題を残し、その後も紛争の原因になっていく事になる。
 また賠償として渡した土地には、当時約350万人のロシア系住民が住んでいた。彼らに対して双方の政府は、どちらかの国土に移住するか棄教と帰化の二者択一を求める。移住の場合は、双方の政府が援助することも約束された。このため約80万人のロシア人がロシア帝国領内に移住し、残る270万人が新たにアスガルド人となる決断を下した。

 なおこの時一つの問題が起きた。アスガルド帝国への割譲地に住んでいたユダヤ人問題だ。数は約50万人で、アスガルド帝国は他と同様に棄教と帰化か援助金を与える形での領内退去を命令した。しかし彼らは、差別の酷いロシアを嫌って残留を望んだにも関わらず、アスガルドへの完全帰化と棄教を断固として拒絶した。ロシア側も、難癖を付けて受け入れを拒んできた。ロシア人としては、せめてこれぐらいの厄介事を押しつけなければやってられない、と言った所だったのだろう。このためアスガルド帝国は、ペルシャやトルコなどに受け入れを打診するも、全ての国や地域が強く拒絶してきた。
 このままユダヤ人の居直りが押し通るかと思われたが、この時のユダヤ人にとって相手が悪かった。蛮族よりも一神教を嫌うと言われるアスガルド人が相手だったからだ。
 この頃になるとアスガルド人も、アスガルド原住民のスクレーリングや日本人など一部民族に対するように、蛮族(有色人種)相手にはかなりの寛容さを持つようになっていた。キリスト教、イスラム教との妥協と共存も少しずつ進んでいた。国内には「近世の人頭税」と言われる宗教制度も作られていたが、極端に酷い制度ではなかった。しかしアスガルド人にとって、一神教の源流ともいえるユダヤ教は、この時ほぼ初体験の出来事だった。そしてユダヤ教を信奉するユダヤ人の頑迷さは、アスガルド人にとって許し難いものだった。そして全ての説得と脅しが通じないと分かると、歴史的悪行とも言われる一種の絶滅政策が国家規模で実施されてしまう。
 アスガルド人の統治に反発した全てのユダヤ人は、信教の自由を認める代わりに他宗教者との接触を禁じられる。そしてことごとくが旧シベリア奥地の「居留地」へと送り込まれ、過酷な環境での生活のため殆どが短期間で死に絶えることになった。とはいえこの段階で棄教した者も多く、全体の半数程度だったと言われる。
 しかしこれが噂を聞いたロシア人の間で「ポグロム」と言われ、「ホロコースト(絶滅政策)」としてヨーロッパに伝えられる事になる。近代より以前の時代で行われた事なら、極端に歴史に残ることも無かったのかも知れないが、この事件はその後も「悪の帝国」であるアスガルドの悪行の最たる事件として語られていく事になる。
 そしてこれ以後ヨーロッパ社会の一部で、根強い反アスガルド感情が生まれ、ヨーロッパ世界とアスガルド世界の対立が再び深まりを見せるようになっていく。ヨーロッパ経済に大きな存在感を持つ各地のユダヤ人達が、アスガルド人を明確に「敵」と認識したのだ。
 もっとも、前後してロシアでもユダヤ人に対する大規模な弾圧が実施されているし、ヨーロッパ各地での反ユダヤ人感情は根強いため、大勢に変化はなかったという説も強い。それでも、アスガルド人がヨーロッパ世界に踏み込んだ事を示す事象だと言えるだろう。

●フェイズ23「近代の幕開け」