■フェイズ08:「近似値としての歴史概略(紀元前から9世紀まで)」
ここでは、少し十倍日本が史実日本の歴史の可能な限りの近似値を歩む、とした場合の歴史の概略を別の視点から見ていきたい。
我々の世界での日本の古代国家の勃興は、3世紀前半頃のいわゆる「邪馬台国」の時代ぐらいから始まっていると言われる事がある。 そしてその後、邪馬台国との連続性は横に置くとして、4世紀半ばまでに奈良盆地を中心としてヤマト王権が誕生し、日本に統一王朝(国家)が誕生する。 と言っても、この頃はまだ関東にまで権威は殆ど広がっていない。関東地方まで広がるのは、少し後の前方後円墳や「はにわ」で有名な古墳時代の事だ。またこの頃は、朝鮮半島の主に南部、南西部と親密な関係にあった。
十倍の面積を持つ日本列島はどうなるだろうか。はたして、統一国家が形成されるだろうか。 単純に考えても、距離が開きすぎ、面積が広すぎ、さらに勾配が半分とはいえ地形障害が依然として多い。この為、古代に日本全体を支配する統一王朝を成立させることは非常に難しい。特に中華王朝のような平原に広がる国家は難しい。 仮に見本とするなら、ローマ帝国になるだろう。何しろローマ帝国は、地中海沿岸のかなり複雑な地形が占める地域を版図としていた。 だが、古代日本列島は、支配民族の方が少ない。 蛭子や蝦夷と呼ばれていた、広い地域に数多く広がっている縄文人の末裔達を、弥生人の末裔達が全て従わせることも難しいだろう。それ以前の問題として、縄文系の人々の数が絶対数としてかなり多い筈だ。 そして統一王朝が誕生する頃までに、十倍の面積を持つ日本各地で弥生人や縄文人の地方王朝が誕生する事になるだろう。そしてそれぞれの規模が大きくなるため、距離や地形障害もあって統一をさらに遠くさせる筈だ。 後のヤマト王権への出雲の国譲りも起きていないだろう。
また、日本の沿岸部の平野は氷河期時代は山間部の一部で、縄文海進の時代(温暖期)に一度多くが海面下となり、その後ようやく河川によって沖積平野の形成が始まった。 こうして出来た初期の平野は、面積が限られているばかりか湿地だらけで、人の手による地道な開拓を行う必要性があり、巨大な国家が作れる場所が限られている。関東平野の東部が典型例だ。 奈良盆地が日本の中心となったのには、当時の地形的な理由が存在しているのだ。 交通網、情報網に関しては瀬戸内海があるので、九州北部から西日本一帯にかけての情報・技術の平準化は比較的容易いが、だからといって統一できる条件の一つにしかならない。何しろ北九州から関東平野までの距離だけで、スペインからバルカン半島ほどもある。その上地形障害が多い。 文明だけが伝搬して、それぞれの地域で別の国が成立して栄えるのが自然な成り行きだ。場合によっては、フェニキアのような海洋国家が生まれているかも知れない。
しかし、十倍日本に住む人々には、統一は無理でも出来る限り「日本」という共通の価値観を持たせたいところだ。統一できないのならば、ヨーロッパでのローマ帝国とラテン文字のような一体感を持たせるものが可能な限り欲しい。また文化、文明の発展の為にも、統一王朝出現による安定期とその前後の戦乱期が交互に並ぶのが好ましい。
それでは、今までのことを踏まえた上で、我々の世界に近い場合の十倍日本での歴史の流れを見ていこう。
(※あくまで「我々の世界に近い十倍日本」を提示するだけであって、本コンテンツの本題ではない。)
●日本概史
・紀元後〜4世紀頃まで
・西暦に入る頃から、小さな国(古代国家の原型)が西日本を中心にして各地に多数出来るようになる。中には、中華地域に朝貢に訪れた国もあり。
・古代国家は、西に行くほど先進的。大陸に近い北九州が最も発展し、東海地方辺りからは縄文系が増え、農業を始めるたとしても文明程度は東に進むほど低くなる。
・2世紀頃、出雲国が日本初の神政(神権)国家を建設。日本各地に大きな影響を与える。日本神話の原型が誕生し、その後「神道」が日本の共通項の一つとなっていく。
・2世紀中頃〜3世紀中頃まで、筑紫島にヤマト王権の原型が成立(※所謂「邪馬台国」)。祭祀的な君主(姫皇子=卑弥呼)のもとで一定の安定期を迎える。
・筑紫島の王朝が、大陸から受けた金印から「倭国」と呼ばれるようになり、「大倭国」とも呼称する。しかしヤマト(大和)が正しい国名で、日本社会で「邪馬台」とは呼ばれず。
・その後、巨大な統一王朝は存在せず、争いの絶えない不安定な状態が1世紀以上続く。そして徐々に、西日本各地に地域国家が成立していく。
・4世紀中頃、ミズホ王権がが九州を統合(南部除く)。 ・ヤマト王権は敗北して東に逃れる。 これを「国分け」と呼ぶ。 これ以後、筑紫島は安定。しかし南部の隼人との抗争は続く。
・5〜6世紀
・その後ヤマト王権は、西日本各地を転々としつつ移動を重ねる。高い文明と武器を持つため、滅びる事はないが定住先は見つけられず。
・東に進んだヤマトは、途中で日本海側の出雲に進出しようとするも、すでに巨大化しつつあった現地国家イズモ国(出雲国)に撃退される。 南下して瀬戸内の吉備でも足場を作れず。一時伊予に定住し、一部はそのまま伊予に残る。そこで瀬戸内の一部海賊の協力が得られるようになる。
・ヤマト王権、海賊(海洋民族=安曇の一部)の助けを借りてさらに東進。
・ヤマト王権、伊勢湾方面から奈良盆地に入ってようやく落ち着いて、現地に先進文明をもたらすと共に、その後勢力を急速に拡大。
・5世紀前半、筑紫のミズホ(=瑞穂)国は朝鮮半島進出を強化。現地国家との関係を深くする。出雲への対向のため、良質の鉄資源の獲得が目的。
・出雲、製鉄と宗教(神道)の力により周辺部に勢力拡大。瀬戸内海まで進出して吉備と統合して国力をさらに拡大し、関門海峡の権利を九州のミズホ(=瑞穂)と競うほどとなる。
・出雲は勢力を拡大するが、距離と人口の問題から筑紫、近畿への進出は出来ず。
・ヤマト王権は、大陸から遠いことと製鉄などの遅れのため、東に対しては有利だが西に対しての不利な状態が続く。出雲とは同盟関係を結ぶが、関係は不安定な状態が続く。しかし勢力の拡大は続き、次第に大国化していく。その間神道がヤマト領内に徐々に浸透。
・ミズホ(=瑞穂)国は、大陸からの技術を一番に受けられる恩恵を活かして、日本での先進国家として発展。中華帝国を真似た日本最初の条坊都市を造る。
・出雲、筑紫の瑞穂国の対向からヤマト王権との関係を継続。
・古代国家の統合が進む。
・筑紫のミズホ、内乱の後に「瑞穂国」と名乗る。
・古墳時代に、関東(濃尾平野)以西の各地の王権が成立。 (主に、瑞穂、出雲(吉備)、大和などが並立)
・各地に巨大な前方後円墳が出現。最大級のものは、最長1キロメートルに達する。
・7世紀
・7世紀前半、近畿の大和国は国家体制を整え、国力も大きく拡大。
・広州(武蔵野)にも農耕文化(主にひえ、あわの畑作と初期的な牧畜)が十分に浸透して、先住系(縄文系)の豪族が割拠し始める。成立した縄文系古代国家による「広州戦国時代」が到来。戦乱の中で政治制度、軍事制度が急速に発展。中央集権よりも、各部族、氏族による独自の封建体制が萌芽していく。
・そして戦乱は西の大和にまで波及。
・大和、混乱収拾のために派兵などを行うも国力消耗。
・大和の混乱に、瑞穂、出雲も介入。
・日本内での勢力争いのため、朝鮮半島への影響力は低下。瑞穂(→百済)、出雲(→高句麗)だけが接触を持つに限る。大和は大型船を建造して直接大陸へと向かい、中華王朝との繋がりを持つ傾向を強める。
・7世紀後半、百済の滅亡で大陸からの軍事的脅威が増した為、戦乱を棚上げして日本初の連合軍結成。「日本」としての一体感が初めて形成される。
・戦乱で巨大化、洗練化された強力な軍隊を用いて、海陸双方からの朝鮮半島への進軍で一度は勝利。しかし唐が本気となって大軍を派遣して日本を撃退。日本は朝鮮半島の橋頭堡を全て失う。しかし唐に、日本に侵攻するだけの力はなし。
・7世紀後半、唐の脅威に怯えた形で軍備の増強と国力拡大の機運が拡大。日本各国は領土拡張を図る。その後は、双方の間で外交が活発化。
・瑞穂は対唐用の軍備を増強しつつ南部地域(隼人)を併合。出雲は吉備と正式合併して中国地方を統一、さらに四国に進出。茂呂人の途鎖(トサ)国と交戦。大和は東への領土拡大を実施して最も勢力を拡大。唐に対抗するための国力拡大を目的として、日本列島での古代国家の統合が進む。
・大和では大規模な政変も発生。百済からの亡命者の援助によって、先進的な国家を形成。
・広州(武蔵野)では、封建階級となる野武士の原型の「郎党」が出現。日本初の職業軍人の集団となるため、対向上、大和も軍備を増強。浜名湖近辺に東夷府を置き、徴兵した兵士で守備。
・唐は高句麗への攻撃を優先して、日本はほぼ無視。
・日本各地と唐の関係は改善。
・日本各地は遣唐使を開始。
・8世紀
・8世紀、日本各地に中華王朝を模した巨大な条坊都市が各地に成立。 (瑞穂の飛鳥京、出雲の天平京、大和の平城京、平安京)
・大和は国家の巨大化の中でも、中心部は安定。積極的に遣唐使を派遣して文化、文明力も強める。大和に対向して、瑞穂、出雲も盛んに遣唐使を出す。しかし各国共に政治目的は薄く、優れた文物の獲得が目的。
・各国は仏教を外交の手段と考えるが、国教になったのは瑞穂のみ。他は神道を信仰。特に出雲は、先に日本全土に浸透させることに成功した神道の影響力によって国力も拡大。仏教は、その後東進して広がっていく。広州では仏教が浸透。
・大陸との交流のため、日本列島内で仏教の外交機関化が進む。 ・瑞穂、出雲は対中華軍備が足かせになって国力拡大は停滞。 ・8世紀末、大和の坂上田村麻呂が広州(武蔵野)を平定。さらに東の奥州に住む未知の存在の蝦夷と接触を持つようになるが、遠すぎるためこれ以上の東征は実施されず。外交的接触に止まる。
・広州の豪族統治は非常に難しく、距離の問題もあるため古代型の中央主権体制では完全に統治できず。古代封建制を残した形となる。
・一方、大和からの移出で、広州の技術、文化の大幅な向上が見られる。
・奥州にも先端技術の一部が流入。奥州では牧畜が進む。
・奥州で先住系の古代国家の形成が進む。
・以後大和の日本統一運動は、国力増強を図りつつ西に向かう。
・9世紀
・戦乱の時代。「古戦国時代(第一次戦国時代)」到来。
・各国は国家体制を強め軍備を増強。
・各国の都は防衛に不向きのため、戦闘用の軍事要塞が発達。
・戦乱は、国力で圧倒する大和の優位で進む。広州で動員した郎党(職業軍人)が活躍。「武士」と呼ばれるようになる。大和固有の職業軍人は、側に使える事から「侍」と呼ばれる。
・出雲と瑞穂が同盟して大和に対向。
・出雲と瑞穂、瀬戸内海の制海権は何とか守る。
・大和、日本海側に大規模に侵攻。
・9世紀中頃、大和が出雲を下して瑞穂を政治的に従わせて、ついに日本統一を完成。東部でも現地国家を平定しつつ奥州の半ばまで進出。
・日本初の中央王朝の成立(約一世紀間続く) ・対外的に、初めて「大和帝国」を名乗る。
・また日本の国家の頂点という意味も兼ねて「上帝(オーヴァー・ロード)」と称する。当時、唐は混乱状態のため、「皇帝」すら下に置くという意味の称号に対して中華地域からは特に反発は出ず。朝鮮半島の新羅は強く反発して、断絶状態となる。新羅と大和はもとから交流が薄いため特に影響はなし。
・この頃、日本で描かれる竜の手は、自らの優位性を示すため6本指とされる。
・出雲が握り続けていた神権が上帝の名で日本帝国の元に統一される。ただし出雲大社ではなく、伊勢神宮が日本の神道の中心地とされる。
・「日本」という言葉はこの頃に出現したが、以後日本全体を示す言葉になると同時に、日本人、日本社会の統一性を示す言葉ともなる。
・西暦800年代半ばより以後1世紀ほどは、日本全体で安定が続く。(パックス・ヤマト)
・安定期の中で、貴族や寺社の荘園が発達。広州の開拓も大幅に進展し、現地豪族が再び力を付ける。
・国内の人口拡大もあって、大和の藤原氏が奥州に開拓と移民を実施。
・同時期、蝦夷(奥州北部)でも日本中枢からの技術的影響を受けて国家形態が発展。蝦夷国と呼ばれる。
・奥州では藤原氏と蝦夷国が対立。その中で藤原氏は、現地で勢力を拡大しつつも日本中央からの自立を強めていく。