■フェイズ05「ノーザン・テリトリー」

 17世紀末頃、とある日本人達の一団は、蝦夷から北氷海(オホーツク海)沿岸奥地に足を踏み入れた時、小川の底に大量の砂金を発見した。また原住民達が金に希少価値を置いていない事を知ると、他にも砂金があるのではないかと考えた。かくして日本でゴールドラッシュが発生し、多数の日本人が世界の果てとも言えそうな北の大地に押し掛けた。
 しかしそこには、日本人より先に到達している近代文明人がいた。
 ロシア人だ。
 ロシア人の一部(コサック)は、ヨーロッパ中心部で高値で取り引きされる高級毛皮となる獲物を求めて、ひたすらユーラシア大陸北辺を東に進んでいた。
 そして1648年、北氷海沿岸にオホーツクと呼ばれる居留地ともいえない小さな拠点を建設した。
 日本人が本格的に北氷海に足を踏み入れたのは1670年頃なので、単純に見ればロシア人に優先権があるように思える。しかしユーラシア北東部に至ったロシア人は、この頃毛皮を求めるごく僅かな人々だった。しかもほとんど定住はせずに、移動しつつ毛皮となる獲物を狩るのが主な行動だった。対する日本人も、最初は森林資源調査のための僅かな人々の姿だけだったが、日本人は冬以外は簡単に現地に至る手段を持っていた。このため森林の商業伐採が始まると各地に進出するようになり、一部では漁業拠点(鯨漁)の拠点も作られた。木材を伐採してもらうため、原住民とも積極的に接触した。冬に食料を備蓄する倉庫など、拠点の建設も行われるようになる。
 そして何より日本人を集まったのが、黄金を目的としたものだった。
 当時見つかった砂金の量から、ゴールドラッシュは長続きしなかったが、それでもその後も継続的に大陸北部入り込む山師が出て、その後時折金山、金脈を見つけていった。ここでの金は、当時の日本経済への安定的貨幣供給のため重要な一翼を担った。また一時的にかなりの量の金が流入したため、銀の量で量る貨幣が中心だった日本人社会に金貨(小判)を本格的に流通させる一つの契機ともなった。
 またロシア人そしてオランダ人などの白人に毛皮が高値で売れることを知った日本人達も、各地で毛皮となる獣の狩りを始めた。毛皮や皮は、天下太平の中で裕福となった日本人にもよく売れるようになる。しかも一度金儲けとして価値が認められると、多数の日本人が北の僻地へと入り込んでいった。ラッコの毛皮ででぼろ儲けした商人も現れたりした。
 加えて日本人には、ロシア人より簡単に船を出すことができたので、瞬く間に各地に拡散していった。
 ユーラシアと北アメリカ大陸の海峡を通過したのは、1643年のロシア人探検家デシネフだとも言われるが、海峡として正式に「発見」したのは1728年のベーリングとされている。だが日本では、1703年に海峡を発見した人物の名を取ってシャクシャイン海峡とされている。シャクシャインはアイヌ語で本当はサンクスアイヌと言い、名前そのものも日本での大和武尊命(ヤマトタケルノミコト)のような英雄名つまり偽名だった。だが、日本人商人を案内したそのアイヌ人の名しか伝わっていないため、日本の地理では現地の海峡をシャクシャイン海峡と呼ぶ事になった。蝦夷屋長兵衛という商人の名を用いて長兵衛海峡と呼ぶ事もあるが、山師だった蝦夷屋長兵衛という人が本当に居たのかの根拠が薄いため、日本人は自らの土地の正当性を明確にするにはシャクシャインの名を用いるしかなかった。
 千島半島やその付け根近くにある北利尻島も日本人が先に見つけ、ベーリグンが来るまでに日本人又はアイヌ人が小数ながら住み着くようになっていた。

 話しが少し逸れたが、北氷海、千島半島、シャクシャイン海峡を挟んだ両大陸のそれぞれ北端部、その間にあるアレウト列島には、ロシア人が本格的に進む前に毛皮と金に目が眩んだ日本人が溢れていった。北部に比較的良質の石炭が見つかった樺太も、近隣での燃料供給地として徐々に発展した。そこから先に進んだ人々は、北氷海に流れ込む黒竜江(アムール川)へも進んでいった。
 もっとも、黒竜江一帯(=外満州)は当時清朝の実行支配下にあったため、商取引以上の日本人の進出はできなかった。例外は、交易のための居留地として認められ建設された、黒竜江河口部の海女港だった。ここには毛皮、木材を買い付ける日本人のため、17世紀末に居留地と港が清朝の許可によって設けられるようになっていた。
 海女港での材木取引により、日本人との取引を当て込んだ上流での開発と伐採が進み、日本が蝦夷で簡単に取れる木材を取り尽くした18世紀中頃に大きく拡大するようになる。
 一方のロシア人との関係だが、友好的な場合とそうでない場合の二つの場合があった。
 ロシア人から見れば、南や東から現れた日本人は、自分たちの獲物を横取りしようとする邪魔者だった。対する日本人から見ても、それは鏡返しの状況でしかなかった。
 ロシア人の方は、全般的な数の違いのため日本人と渋々取り引きして物産を手に入れていたが、日本人がロシア人ではなくオランダ人との取引を重視するようになると、ロシア人の反発が強まった。
 武器を用いた危険な交流に発展し始めたのは早くも17世紀末の事であり、対する日本側も最初は狩人や冒険商人達が個々に対処していたが、徐々に規模を拡大させていった。
 初期の日本人とロシア人の衝突では、概ね日本人が数で圧倒していたが、ロシア側はコサックと言われる騎馬民族的スタイルを持つ人々が多く、大柄で寒さに強い馬を使うため、日本人側が局所的に不利になることもあった。
 日本人は、ロシア人から奪った馬の繁殖も考えたが、ロシア人の雄馬は去勢されているため、せいぜいが日本馬とロシア人の牝馬による交配が精一杯だった。しかも当時の日本の畜産には、品種改良という概念そのものが欠落しているため、交配による雑種の繁殖も当時の日本人達が思ったよりうまくいかなかった。このため当面の数の主力は、中華系商人から日本馬よりも大柄で現地の気候にも合っているモンゴル馬を買い入れて対処するしかなかった。現地のトナカイ(馴鹿)が使われることもあった。
 しかしロシア人との衝突で、日本人が知った技術があった。馬の蹄に蹄鉄を付ける事と去勢するという事だ。
 日本人は、古くは弥生人の頃から馬を用いていたが、馬の効率的運用に関してはヨーロッパ社会の方が遙かに進んでいた。また歴代政府が石の道など造らなかった事と、日本馬の中には蹄の堅い種類もいたので、せいぜい草鞋を履かせる程度で家畜として使役できた。
 なお、江戸時代初期の日本馬は、全般的に小柄だった。足が太く首が短いだけで極端に劣るわけではなかったが、西洋の大型馬(重種)に比べると比較にもならず、アラブ種やサラブレッド種と言われるスタイルの良い馬と比べると格段に足が遅かった。
 騎馬戦をする上で速度はそれほど重要ではなかったが、大柄な方が何かと使い勝手は良かった。多数の荷物(重装備の人間)を背負ったり引っ張ったりできるからだ。戦闘以外でも、鋤を引くにしても森林資源の不足から日本では馬よりも牛が重視されつつあり、それだけ日本馬は力が足りていなかった。また馬は牛よりも繊細な生き物なので、畜産技術が弱い日本では尚のこと牛の方が重宝された。
 そして日本人達が、自分たちも使える馬に出会えるまでまだかなりの時間が必要だったし、ヨーロッパ人達も技術についてはあまり教えてはくれなかった。
 だだし、この頃の日本人にとって幸運な事に、ユーラシアの北部で見かけるロシア人の馬はごく限られていた。
 そして基本的に日本人の方が数が多く、毛皮だけでなく、木材資源、黄金、鯨漁と様々な産業で進出しているので、多様性や方向性そのものが違っていた。ロシア本国という策源地が遠い事も、ロシア人に不利に働いた。
 そうしてユーラシアの果てまで来たはずのロシア人は、徐々に現地に興味を失い、また利益が薄くなったため徐々に姿を見せなくなっていった。
 ロシアを西ヨーロッパ地域に匹敵する国に改革しようとしたピヨォートル大帝(在位1682年〜1725年)も、コストがかかる割に利益の薄いシベリア奥地(北東部)開発よりも他に努力を傾ける傾向を強めた。ロシア人が再びユーラシア大陸北東部への進出に積極的になるのは、エカテリーナ二世(在位1762年〜96年)の登場を待たねばならなくなる。
 その間ユーラシア北東部、日本人が「北氷州」と名付けた場所での勢力を広げ、夏川(レナ川)での夏場の材木業、産金業、毛皮獲得のための畜産業など広げていくことになる。
 日本人がバイカル湖に到達したのは、ロシア人に遅れること約半世紀後の18世紀初頭で、しばらくはレナ川流域からエニセイ川流域にかけてとバイカル湖近辺が、日本とロシア、さらにモンゴル、満州などの現地騎馬民族との自然境界線となった。

 一方、ユーラシア大陸以外での日本人の進出だが、将軍島と呼ばれるアレウト列島西端の島への進出が最初になる。
 日本人は、ここにラッコ(の毛皮)を求めて北の海も航行できる日本製の丈夫なガレオン船によってたどり着いたのだが、彼らが浅い海面で見たのはラッコの群や鯨ではなく、琉球や東南アジアで見かけた少し風変わりな生き物を数倍にした生き物で、中型の鯨ほどもある海獣(※ジュゴン科のほ乳類)の姿だった。
 ラッコを求めた狩人を乗せた船は、取りあえず新鮮な食糧獲得のため試しに殺して食べてみたが、大きすぎるため殺した後に船に引き上げるのが大変だった。狩りは、弱って無抵抗な時の鯨を狩るような要領で行わなくてはならないが、そのとき進出した船は捕鯨船ではないため、引き上げるときの苦労だけが印象に残ったと記録されている。
 なおこの頃北辺に進出した日本人達は、日本本土と違って獣、特に海の獣の肉を食べることに抵抗はなくなっていた。食べることが、生き抜くために必要だからだ。とはいえアザラシの肉はあまり美味しくないので、やはり鱈などの魚と鯨が好まれた。そして新たに見つけた巨大な海獣は、ジュゴン同様に美味しいことが分かった。このため現地での食料源と商業利用の双方を考えて周辺を探し回ってみたが、将軍島の広い浅瀬にしか生息しないことがすぐにも分かった。その場所は巨大な獣の唯一の海の生息地であり、浅瀬のため他の大きな肉食魚類、水棲ほ乳類(鯱など)が入れない恐らく最後の楽園だった。そしてこの限られた環境は、天然の海の牧場に他ならなかった。獣は肉が美味しいことで分かるように草食性で、その浅瀬は太陽の光を浴びた海藻が生い茂っていた。
 そしてここで日本人達は、この珍しい海の獣の独占を企てる。
 「氷海竜(ヒョウカイリュウ)」と仰々しく命名したうえで幕府に皮や骨格標本が献上され、幕府お墨付きの独占権も得る事が出来た。これにより見つけた狩人、それに連なる商人、そして利権の元締めともなる幕府以外は、巨大な海獣に手が出せなくなる。
 これは海での大型獣である鯨漁をしていた者達への対向として行われた行動でもあったが、この時の一部日本人の行動がこの希少な海の獣を無軌道な乱獲から救うことになった。
 権利を得た人々は、肉、脂肪、皮と多くの利用価値のある氷海竜を、年間少しずつ狩って商品として日本に持ち込んだ。そして希少価値そのものを売り物として、比較的少ない労力でかなりの利益を上げることも出来た。
 しかし四半世紀ほどで乱獲して数が激減すると、本格的に海の牧場、養殖場としての運営が始まる。彼らの食べる昆布などの海藻の繁殖や、海藻の繁殖を妨げるウニなどの駆除(漁業)すら継続的に行い、氷海竜自体も毎年獲る数を厳密に制限し、密漁を防ぐために監視所や船を常駐させるようになった。こうした限られた条件を作り上げる事は、江戸幕府に生きる日本人にとってはお手の物だった。
 彼らの努力は報われ、毎年数十頭の氷海竜が狩られるも、その数は徐々に回復して19世紀には2000頭近くにまで回復することになった。
 この氷海竜猟はその後も延々と引き継がれ、20世紀後半に入りワシントン条約の規制対象とされ特別天然記念物になるまで、日本では希少な高級食材として食べ続けられる事になる。
 なお、こうした制限猟は、他の生き物でも日本人の間で取り入れられるようになり、結果としていくつかの種類の生き物を絶滅から救う働きを残すのはもう少し先の話しである。

 話しが逸れたが、日本人達は別に哀れんだり希少価値を見つけて生き物を保護したわけではない。多くは単なる偶然か、自らの長期的利益を考えての事だった。それにこの頃日本人が主に欲しがったのは、ラッコ(の毛皮)だった。
 日本人達はラッコの群を追いかけてアレウト列島を東進し、ついにアラスカ半島つまり北アメリカ大陸に至った。至った時期は18世紀初頭で、そこには先住民のイヌイット(乾人)以外の人類の姿はなく、まだ白人達が手を付けていない場所であることを知った。つまりこちらにはロシア人はいないので、毛皮は獲り放題というわけだ。
 その後日本人達は、数を増やして毛皮狩りを精力的に行い、海岸沿いのラッコばかりでなく内陸の北極狐やその他の様々な北米大陸北西部に住む獣の毛皮を求めて彷徨った。竜魂川と名付けた川も遡ってみたし、海峡を北に廻ってみたりもした。しかし現地は夏の一時期を除いて雪と氷に覆われる大地であり、日本人が取りあえず求めた毛皮やアザラシはともかく、それ以外のものに乏しかった。南岸では森林資源は十分に活用できそうだったが、ここから日本列島までは遠すぎた。そうして遠くに来すぎたことを実感した人々は、その後東もしくは南に進む速度を徐々に低下させる事になる。
 それでも日本人達は、約半世紀かけて大御所湾にまで到達し、開けた場所に到達すると恒久的拠点を建設した。それはブリテンの探検家ジェームズ・クックよりも、十年ばかり早い到達であった。
 毛皮の枯渇に伴い遠方へ遠方へと足を進めた人々は、徐々に太陽の角度が高くなり気候が穏やかになっていることを実感し、ラッコの生息しない場所のため興味を失いつつあった。だが今度は内陸の森林でそれなりに有望な毛皮になりうる獣を見つけたので、緩やかな足並みながら進むことを止めなかった。この時狩人達が見つけたのが、ダムを造るビーバーだとされる。巨大な灰色熊(グリズリー)も、猟銃を抱える歴戦のマタギ達にとっては、ちょっと大きなヒグマぐらいの感覚でしかなかった。
 また日本に近い太平洋では鯨を刈り尽くした人々が、徐々に新大陸沿岸へと進んできていたことも、日本人の新大陸前進を後押ししていた。
 そうしてたどり着いたのが、西海岸北部の大御所地方だった。大御所とは当時の日本人の間では将軍職を退いた元将軍の事を指し、大御所とはこの場合徳川吉宗の事になる。それは彼の晩年頃に、大御所と名付けられる地域が「発見」されたからだった。

 今までの北辺地域より温暖ながら霧の多いそこには、これまでとは少し違う先住民族が住んでいた。ヌートカやクワキュートルなどといわれるアメリカ先住民族、いわゆるインディアンとのファーストコンタクトだった。
 現地のインディアンは、かつてのアイヌのように狩猟採集をしながらも、現地の豊富な自然資源のおかげで定住生活を営む人々だった。このため日本人達は、一緒にきたアイヌ人を交渉に当てる方が良かろうと考え、進出初期の頃はおおむね物々交換で様々な文物や情報を得ることができた。
 そして最大の成果は、まだこの辺りに白人がだれ一人来ていないという事だっただろう。
 しかし新大陸への到達は、日本人達に次なるドラマを体験させることになる。



フェイズ06「ゲンロク・エイジ」