■フェイズ07「リフォーム・オブ・キョウホウ」

 日本人が国を閉ざすことなく、むしろ世界に広く出ていったことで起きた悲劇があった。
 日本に存在しない疫病(伝染病)による災厄だった。

 日本人が進出した東南アジアには、マラリア、コレラなど熱帯、亜熱帯特有の疫病が存在した。また体力が低下したり、水や衛生環境が悪いと、かなり簡単に赤痢が流行した。
 こうした疫病は、現地に進出した日本人達を次々に侵し、かなりの数を死に至らしめた。18世紀に入っても、海外に出ている日本人の数は台湾への移民と現地での増加を含めても、日本人全体の2%程度でしかなかった。ただし、コレラが世界的に流行するのは1817年以後の事なので、当時の南方での一番の病気と言えばマラリア熱だった。マラリアは、マラリア蚊を媒介とするため、マラリア蚊が生息できない台湾から北ではマラリアは存在せず、故に耐性のない日本人の南方での死亡率は高かった。
 日本人はアフリカや中南米にはほぼ行かなかったため、アフリカの黄熱病や中南米の梅毒は数字に出てくるほどの悪影響は受けなかったが、このマラリアの存在が東南アジアでの日本人の増加を阻止し続けていた。赤痢なども恐ろしかったが、一番の障害はやはりマラリアだった。
 しかし、それでも日本人の海外への流れを止める事はできなかった。これは17世紀後半頃から、日本国内で人が増えすぎていた事も原因していた。
 何しろ、東南アジアに渡る日本人の数は一定以上常にいたし、日本人町の数は東南アジア全土に50を数えると言われるほど存在した。現地で農場を開いたりする者も多く現れ、現地人やヨーロッパ人など相手に商売をしている者も多かった。華僑や印僑に対して「日僑」という言葉もあるほどだった。
 また、当時はある程度マラリアへの耐性のある東南アジアの諸民族でも疫病は疫病であり、また大量の食糧入手が難しかったため、現地での人口は知れていた。故に日本列島を策源地とする日本人でも、東南アジアで相手を圧倒することができた。

 平和で食糧がある限り人は増え続ける。これは、人類文明における基本的な状況である。
 日本の農村部では、18世紀に入る頃から既に本能的な防御本能から晩婚化や出産率の低下が起き、既に堕胎や嬰児殺なども見られ始めていた。手持ちの食糧から、人口増加をコントロールしなければならない状況が訪れていた何よりの証拠だった。
 しかし主に都市部では、日本で食べ物が足りなければ海外から運べばよいという雰囲気も強くなっていた。特に商人達が主導した高カロリー食品である砂糖の奔流は、人々に楽観的な考えを助長させた。虫歯は、元禄時代頃からの都市部を中心に一般的に見られた。塩による歯磨きなどの予防策と近代的な治療方法も徐々に進み、享保時代には半ば大道芸だった歯抜き以外でも、ヨーロッパからの知識による専門の医者(歯医者)も登場している。
 とはいえ、都市部は人口拡大地ではなく、人の集まる場所だった。当時の日本の代表的都市には、江戸、京、大坂の三都市があり、合わせて200万人近い人々が住んでいた。特に江戸の街は、首都であるため官僚である武士が多く、加えて日本中の武士達が中央政府の意向によって強引に住まわされていたため、都市人口は100万人以上に達していた。
 しかし一カ所に人が集まると言うことは、伝染病(疫病)の発生率が高まることを意味している。都市では糞尿処理と上下水道の整備が一番の対策だが、江戸幕府が積極的に整備したのは上水道止まりだった。当時の日本人は糞尿は肥料として隈無く利用するため排泄物に関しての処理は進んだが、下水道を造ろうという意志があまりなかった。
 このため都市は、健康な大人が住むには便利で快適かもしれないが、子供や老人が生きて行くには見た目とは裏腹に健康面ではかなり過酷な環境だった。生粋の江戸っ子が少ないと言われるのは、そうした事情が根底に存在したためだ。
 ただし、それでも金さえあれば食糧が最も手に入りやすく、当時の人々にとって日々おなか一杯食べることは、最も健康に寄与する健康対策だった。しかも大都市では、砂糖や肉、卵、魚といった高カロリー食品が手に入りやすいため、都市の人口は拡大こそしても減少することはなかった。三大都市の都市圏、市街地も年々拡大している。沿岸部である江戸と大坂では、時代を通じて埋め立て地の造成はずっと行われていた。日本人達は、オランダ人の次に、もしかしたらそれ以上に土地を作ったのだ。

 18世紀前半頃の日本の人口は、3000万人程度だったと考えられており、さらに人口は緩やかに拡大しつつあった。
 砂糖の流入拡大が最大の原因だったが、新たな作物の誕生が人口拡大を助長していた。新たな作物とは、ジャガタラ芋(ポテト)、通称ジャガイモとサツマイモ(甘藷=スイートポテト)だ。どちらも栽培が比較的簡単な上に荒れ地でも育ちやすく、鳥害に遭いにくく、しかもジャガイモは寒冷地での栽培に適していた。蝦夷の食べ物といえば馬鈴薯(ジャガイモ)と乳製品いう見方は、18世紀中頃から広まっている。
 サツマイモは、その名の通り薩摩、九州南部の農業に適さない土地で最初に栽培が広まり、18世紀前半に江戸幕府の指導により一気に日本中に普及した。当初は救荒作物としての栽培奨励だったが、豊富に肥料を与えて手塩にかけて育てるとかなりの甘みが出るため、甘味に慣れ始めた日本人の間にも広まった。大都市で間食としての石焼き芋が最初に登場したのは、18世紀中頃と言われる。
 一方、半世紀以上にわたる材木の切り出しにより既に平野部の森林が消えつつあった蝦夷島では、日本人の主食である米の栽培が気候的に不可能だったため、広大な平地に人が暮らすには収穫量の少ない各種麦類に代わる新たな作物が必要だった。
 ここで注目されたのが、日本人に本格的に紹介されたばかりのジャガイモだった。
 時の将軍、八代将軍徳川吉宗(在位1716年〜45年)は、増えすぎた人口の拡散と蝦夷の開発を政府の政策として実行し、武士、農家の次男坊三男坊、さらには都市に流れ込んでいた農民を中心に開拓団を編成。麦、ジャガイモ、カブの栽培、豚、鳥、乳牛の飼育を中心に据えた、欧州式を取り入れた蝦夷開拓を強力に推進させた。
 ジャガイモは、古くは17世紀初頭にオランダ商人により日本に紹介された作物だが、当時は紹介されたに止まっていた。実質的には、1720年頃に吉宗への学術研究の成果を報告する中で紹介されたばかりの日本では最新の作物で、農政に熱心だった吉宗はすぐに栽培の研究に着手させていた。そして報告を元に広範な利用を考えていたとされる。
 蝦夷で取り入れられた新しい農法は、ヨーロッパで広く用いられつつあった資本集約的な三圃式農業が参考にされており、ヨーロッパでも最新に近い農作物を取り入れたのは、吉宗とその配下の先見の明と言えるだろう。何しろ当時のヨーロッパでも、農業の改革が行われていない地域は多々存在したのだ。荒れ地の開拓のため、ヨーロッパの大柄(重種)な馬の輸入も実施されたほどだ。この時の輸入馬と日本馬の混血が、今日のドサンコ、蝦夷馬の源流となっている。
 また新たな農業を行うため、オランダから農業の専門家が高額の報酬と引き替えに何名か招かれており、この後も行われる「お雇い異人」の先駆けともなった。
 もっとも当初は吉宗による蝦夷開拓計画は、日本人の保守的傾向から進展ははかばかしくなかった。既に平地の原生林のかなりが木材資源として伐採されていた蝦夷だったが、森林の消えた平原は依然として荒れ地が広がっていた。原生林が消えたため、マタギにとっては歩きやすい狩り場と言えたかもしれない。
 しかし1732年に享保の飢饉が起きると、俄に入植と開拓が進展する。
 ジャガイモは、その気になれば同じ畑で年に三回もの収穫が可能なほど短期間で育成できるため、食い詰めた農民を乗せた船が蝦夷に着いても何とか人口増加に対応することができた。また同飢饉では、サツマイモもその効果を日本各地で発揮し、流通網の充実とその他の賢明な政策による相乗効果もあって、飢饉の被害を最小限止めることにも成功した。
 かくして吉宗の時代に米以外の副食普及が進み、日本の人口は18世紀半ばまでに3500万人にまで増えていくことになる。

 ただし、吉宗の政策により一つの問題が発生する。
 江戸幕府が、米そのものを基本的な税金としていた事だ。
 米を武士の収入とする事は、日本で世界に先駆けて穀物の先物取引市場を作り出すことになったが、天候に直接左右される米価は先物相場を必要とするように常に不安定だった。
 そして米に代わる食料となるも、ジャガイモでは税として数えることにそもそも無理があった。小麦や大麦も今までは副食のため、米と同様に扱うには難しかった。畜獣についても同様だ。つまり蝦夷での人口増加と産業の拡大があっても、彼らから主な税金が取れないのだ。しかし蝦夷では、雪が比較的少ない太平洋岸の南部地域を中心にして人口は確実に増加しており、租税対策は急務だった。
 結局は、貨幣による徴税を用いざるを得ず、武士への俸給も名目上は米を基本としつつも、平行して貨幣でも与える形が作られることになる。そしてこの時の副産物で、蝦夷が全て幕府直轄領とされ、そこで得られる税収そのものを金銭の形で試験的に幕府の役人、武士に与えることになる。
 もっとも、日本全体での貨幣経済への移行は既に進んでいたので、武士もその流れにある程度乗る形ができた。米価に左右されない安定した収入、しかも定期的な査定により増加する可能性のある税収と収入は、武士にとってもプラスとなった。

 徳川吉宗の他の政策では、税収拡大を目的とした新田開発、大都市での消防システムの構築、治安維持システムの強化など様々な分野に及んでいる。珍しいものでは、海外からの書籍を広く購入させて幕府直営の図書館を作り上げた事と、さらには幕府直轄の翻訳所と研究所を開いたことだろう。当時ヨーロッパで発達しつつあった近代的な自然哲学(科学・医学)を取り入れようと試みたことは、高く評価できる。また図書館としての建造物も、耐火性、耐震性を考慮した上で石と焼き煉瓦を用いて作っており、煉瓦を使うことは当時の日本建築としては画期的だった。
 そして様々な政策の中で吉宗が重視した政策の一つが、武士への引き締めと軍備強化だった。
 徳川吉宗は、質実剛健の武人の君主として知られ、一種のスポーツでもあった鷹狩りを好んだ。一方では学術には興味を示しても、芸術面、文化面への造形は浅く、いわゆる朴念仁なところがあったとされる。農政を重視し芋の栽培を奨励したことから、「イモ将軍」と言う言葉が生まれたほどだった。
 そうした吉宗は、武士が華美に浸ったり、筆は立っても剣が弱い武士を嫌った。言い伝えられる鎌倉武士の姿が、彼の理想だったのだろう。このため武芸を奨励し、戦国時代において軍事演習も兼ねていた鷹狩りを復活させる。
 そしてさらに吉宗が注目したのが、水軍だった。
 日本は権現様(徳川家康)の開国政策以後、諸外国と広く交わり、様々な文物を交易によってやり取りしていた。しかし富を運ぶ廻船は海賊の被害に遭いやすく、幕府も早々に水軍を創設するに至った。しかし水軍創設から一世紀近くが経過すると、装備や訓練度がヨーロッパ諸国に比べて低下していた。装備については書籍や実際の武器を試験的に輸入してみて分かったことで、訓練度については自身が見学した演習で確かめたと言われる。
 江戸幕府が他国との争いを避ける政策を続けた賢明な判断の結果が、水軍の質の低下という別の弊害をもたらしていたのだ。
 実際、海賊の被害に対して幕府水軍の怯懦が目立っている報告が、商人から数多く寄せられていた。このため商人が直に雇った浪人(傭兵)が増えていた。また、水夫は過酷な職業のため、なり手が少ないのも質の低下の大きな原因だった。
 こうした事態を憂いた吉宗は、まずは武士全体に武芸の奨励という綱紀粛正を行ったとも言えるだろう。そして水軍の復活のために、人事面でもいまだ冷遇されていた戦国時代から続く水軍の系譜に連なり海でのノウハウを持つ人々を、幕臣として多く召し抱え禄(給与)も多くし、伝習所(養成所・訓練所)を大幅に拡大して一層大規模で専門的な人材育成を実施した。江戸の越中島だけでは足りないので、江戸湾口に近い横須賀にも伝習所が開かれ、瀬戸内の柱島、長崎近在の佐世保にも伝習所の分所が設けられた。造船施設も強化され、江戸湾の浦賀に近い横須賀に当時最新の技術を投じたガレオン戦列艦用の大型造船所を建設している。
 そしてこの時の規模拡大の副産物として、欧州で言うところの将校と兵を外見で分かりやすく見分けさせるため、戦国時代に広まった陣羽織が水軍の制服として採用されることになった。陣羽織は士官に当たる頭(士官)、船長、各大将(司令官又は提督)が着用し、色や飾りですぐに見分けられるようになった。この装束は、海兵に当たる海外駐留の武士達にも順次採用され、簡易化されたものが下士官クラスの制服にまでなった。そして大御所時代には、金糸を縫い込んだりして非常に華美なものへと発展する事になる。ヨーロッパでのコートやサーコートと似ていると言えるだろう。無論だが、戦国時代のような鎧を着用することもなくなった。このため、兜にかわって派手やかな帽子の着用も始まり、ヨーロッパのものを取り入れた軍用帽とでも呼ぶべき派手やかな帽子が使われるようになっていた。
 一方で、老朽化しても使われているような状況の軍船に関しても、参勤交代の緩和による諸大名からの拠出金と、税収の拡大に伴う幕府財政からの予算増額によって、水軍艦艇の刷新と増強、sさらには船そのものの改良まで実施した。当然ながら、搭載する武器(大砲)についても大きく改善される事になった。
 この時始めて、ヨーロッパで一等や二等クラスとされる規模の大型戦列艦が、日本でも建造されることになる。今までは、1隻に100門近い大砲を備え1000人もの乗組員を必要とする大型戦列艦は、予算、人員の都合もあって建造したくても、なかなかできなかったのだ。
 それでも大型戦列艦の数は、当時のブリテンやフランス、スペインなどに比べると依然としてささやかな数だったが、東アジアにまで大型戦列艦を持ち込むヨーロッパ列強は存在しないため、局所的な戦力、抑止力としてはそれで十分と判断された。幕府水軍の主な敵は航路上にはびこる海賊であり、敵は日本の交易船の航路となる場所のどこにでも存在し、これらに睨みを効かせることが重要だった。アジアに存在する海賊は、日系、中華系、その他東南アジア系、インド系、アラブ系など実に様々なだったが、基本的に戦力は知れていたし、沿岸海賊がほぼ全てだった。一部日系と中華系が例外だったので、主にこれに対処するのが幕府水軍の役割だった。
 あとは、国家同士の関係を維持するため、他国に侮られない戦力としてあればよく、そのためには小数の大型戦列艦と、それを操る精兵が多少居ればよかった。
 もっとも、三つ葉葵の黄金の紋を入れ各所に漆塗りや金箔を施した豪奢な日本製ガレオン戦列艦は、ヨーロッパ各国に相応の衝撃をもたらしていた。これは、ガレオン戦列艦は白人だけのものだという実体のない固定観念からきていたものだったが、世界の果てにある国に文明の精華である船があることで、以後幕府はヨーロッパからの注目を以前より浴びるようになる。
 当時、インド洋で熾烈な進出競争を繰り広げていたブリテン、フランスは、アジアでの外交的優位獲得の試金石として、偵察を兼ねて幕府への親善使節を乗せた自国の戦列艦を派遣したほどだった。
 そして吉宗も、訪問国への応対として自分たちも作ったばかりの戦列艦で返礼に赴いて日本の武威を見せ、吉宗を大いに満足させたと言われている。
 そして欧州に派遣された幕府の戦列艦のうち1隻が、ブリテンで滞在中にオーストリア継承戦争が勃発して巻き込まれてしまう。と言っても、戦争のためしばらくブリテンに留め置かれると同時に、ヨーロッパでの戦争に関する詳細な報告を日本にもたらすことになっただけで済んだ。
 そしてこの時の戦列艦からの報告を重視した吉宗は、以後定期的に幕府による欧州親善訪問という形で、ヨーロッパの生の情報を収集する体制を作り、同時にヨーロッパの優れた知識や技術を見聞するための使節も同行させるようになった。
 行ったことは、かつてのロシアのピョートル大帝に少し似ているが、相手より劣っていることを知ると言うことが、賢人に何を行わせるのかという典型例と言えるだろう。
 そして数々の改革を成功させ江戸幕府中興の祖と言われた吉宗は、満足して将軍職を禅譲。彼の行った様々な政策は後の世代に引き継がれ、一部が花開き発展することになる。


フェイズ08「エイリアン・コンタクト」