■フェイズ13「ウェスタン・アメリカ」

 ウィーン会議が終わった頃、北アメリカ大陸でユーラシア大陸に住んでいた人々が知っている場所は、多めに見ても半分程度だった。白人人口は800万人半ばで、多くは東部沿岸かセントローレンス川流域、五大湖東部沿岸、せいぜいアパラチア山脈辺りに住んでいた。ミシシッピ川の西に広がる大平原は、樹木が少ない平原なのでとうてい農業に向いた土地だとは考えられず、ナポレオンは自国の数倍の面積がある広大な土地を僅か1500万ドルでアメリカに売却したほどだった。フランスが、ヨーロッパでの優勢を得るためにアメリカの関心を買うのが目的だったとはいえ、あまりにも安価な売却値だった。
 しかし産業文明の発展とヨーロッパからの移民の拡大と共に、大草原の価値が大きく変化していく。
 1776年にアメリカ合衆国が独立したとき、推定白人(ブリテン移民)人口は約260万人だった。ウィーン会議の頃で、約840万という数字が残っている。しかしウィーン会議から約半世紀後の1861年の「南北戦争」が始まった時、白人の数は独立頃の10倍以上の2750万人に増えていた。半世紀で総人口は三倍になっていた事になる。このうち、1840年から1860年にかけてヨーロッパから北アメリカに流れてきた移民の数は、約400万人と言われている。他にも350万人の黒人奴隷と、数が分かっていなかったインディアンが数十万人住んでいたと考えられている。
 そしてロッキー山脈(大雪山脈)の西側には、東アジアの果てから移民してきた日本人達が多数住むようになっていた。

 アメリカ合衆国の歴史は、北アメリカ大陸中央部での「開拓」という名の「侵略」の歴史だった。独立当初から以後一世紀の間、ヨーロッパのグレートパワー(列強)を恐れる程度の小国だったアメリカ合衆国だったが、一方では原住民や周辺国に対しては極めて横暴な国だった。そう言う時代だったといえばそれまでだが、移民の国、実力だけが全ての国であるだけに、行動もストレートで限度がなかった。
 教科書などに出てくる程度で、この時期の行動の概要を追ってみよう。

 1830年 インディアン強制移住法の制定
 1836年 テキサスのアメリカ系移民がメキシコから独立宣言
 1838年 チェロキー族の「涙の道」(〜39)
 1845年 「マニュフェスト・デスティニー(明白な運命)」発表(領土拡張の賛美)
 1845年 テキサス共和国を州としてアメリカ合衆国が併合
 1846年 「アメリカ=メヒコ戦争」(〜48)
 1848年 メヒコ、テキサスのアメリカ併合を承認
 1848年 日本領加州で「ゴールド・ラッシュ」発生

 多少不公平だが、アメリカの侵略に関するこの頃の概要を抜き取ると、だいたい以上のようになる。そして上記のように事件だけ並べてしまうと、アメリカ合衆国が血も涙もない差別主義国家にして強欲な侵略国家にしか見えてこない。
 しかし大平原の向こうにそびえ立つロッキーの山並みで、アメリカの前進は停止する。山の尾根の向こう側は、アメリカが独立する頃から東洋人の支配領域とされていたからだった。
 そのことをアメリカの移民の子孫達が明確に自覚したのは、加州で見つかったという莫大な黄金を求め、西部への道無き道を進んだ時だった。莫大な黄金を求め、大草原のインディアンや凶暴な野獣を排除して苦難の道を進んだ彼らは、彼らがロッキーと名付けた巨大な山脈へと足を踏み入れ、ちょうど最初の大きな峠を越えようとしている時に急造の関所に出会った。
 そこにはインディアンとは違う、インディアンよりもずっと身なりの整った小さな東洋人達が、奇妙な姿ながら組織だった動きをしていた。
 周辺の道は未舗装ながら整備され、峠には小さな砦と言える建造物と木造の柵と門があった。物見櫓には傘状のかぶり物をした兵士が配され、兵士はやや旧式の銃と小振りな曲刀で武装していた。槍または長い棍棒を持つ門番もいた。事務所らしき建物には、妙な髪型と妙な形のサーコート(かみしもまたは陣羽織)を着た人物もいた。見たことももない模様の旗や幟も各所に揚がっていた。話している言語も、全く理解出来なかった。紛れもなく、今まで見たこともない異文明との出会いだった。
 アメリカ人達は、最初は現地色の濃いメヒコ領内に入ったのかと考え、おまえ達は敗北者だと叫ぶも、すぐに全くの見当違いだった事を知る。その柵の向こう側には、日本人のテリトリーが広がっていたのだった。
 現地には、辛うじてイングリッシュ、スパニッシュが分かる程度の通訳(通詞)もいたので大きな問題も起きなかったが、そこは一部ロシア人以外の白人の一般人が大挙して入る初めての東洋人のテリトリーだった。

 加州のゴールド・ラッシュで新日本に入った白人の数は、5年間の間に合わせて約10万人と言われている。主に海路で入り、一部の金のない者が危険を冒して陸路を進み、最盛時には一年間で4万人が加州に入ったとされる。
 しかし、現地がヨーロッパのルールが通用しない東洋人ばかりの場所だと言うことが分かると、砂金取りが終わると同時に多くの白人が立ち去った。それでも、お金がなかったり他に行くアテのない白人は現地にそのまま残らざるを得ず、約半数の5万人程度が加州へ仕方なく根付く事になる。街道から加州を目指した者の中には、新日本が人種差別が禁止されている有色人種の土地だと知った為、入ることを止めた人々の集落のようなものが形成され、加州を後にした人々によってさらに人口が増えたりもした。
 また、加州から東部沿岸などに戻ってきた人々によって、東洋人に支配されている加州の実状と奴隷や差別がないという噂が徐々に広まったため、黒人(解放奴隷)やインディアンの流れが細いながらも出来るようになる。また中には、開拓農民となるために、あえて日本人達の中に入っていった者達もいた。人々の話で、未開拓の土地が多いという話しも多く聞かれたからだ。他にも、伝導のための牧師や神父や、人種差別嫌う今で言うリベラリストがあえて新日本入りした。
 またその後も、加州のさらに奥地と北部の霧森の奥地でも規模を縮小したゴールド・ラッシュが起きて、櫻芽の縮小再生産といえる情景を再現させた。その後も大雪山脈の各所で金や銀が見つかったため、その都度各地でお祭り騒ぎとなった。その都度白人達も、日本人達に混ざって金を掘り漁った。
 しかし巨大山脈の向こう側は、どこも日本人の土地だった。
 西海岸の加州、霧森、聖天などの主要な港湾都市には、幕府水軍の軍艦が碇を降ろして軍隊も常駐していた。小さいながら日本型城塞の役所もあり、日本刀を差し丁髷をした役人達が整然と取り仕切っていた。税も徴収されていたし、黄金取りをした人々にも許可証の発行と納税のお触れが出されていた。警備のための人員も都市部を中心にかなりの数が駐留し、そして法を破った者は日本人だろうと白人だろうと分け隔てなく罪状に応じて公正に罰せられた。有色人種が白人を罰する事に白人達は反発したが、続々と増強されていた幕府軍の存在もあり、反逆や独立などという行為に及ぶことも出来なかった。アメリカ政府が江戸幕府に対して初めて接触したのも、加州での現地白人の犯罪に対してだが、法と秩序、そして武力を持つ相手に今までのような横暴な振る舞いは通じなかった。戦争でメキシコを破って意気上がるアメリカだったが、犯罪者の引き渡しのために国境まで軍や保安官を派遣する以上のことは出来なかった。
 経済活動を運営しているのもほぼ全てが日本人であり、砂金や農地目当ての貧しい白人の入り込む余地は、まだ開拓されていない原野や山間部にしかなかった。
 そして加州に広がる原野での主役も、間違いなく日本人だった。中には原住民を取り込んでいる場所、一緒に暮らしている場所もあったが、白人はほとんどいなかった。南部の聖天にいけばスパニッシュ系の住人が若干数いたが、数は少なく多くは原住民との混血も多かった。

 なお加州での最初のゴールド・ラッシュが終わった頃の新日本の総人口は、当時の櫻芽奉行所が把握している限りでも概算で既に130万人に達していた。
 1833年が約3万、1838年が約30万人と一気に十倍に膨れあがった。そこから15年で、さらに4倍近くになっている計算だ。このうち白人が5万、確認されている原住民が6万人なので、全体の90%以上が日本人と言うことになる。130万人という数字は、当時の南米大陸の大草原(パンパ)よりも多いぐらいだった。
 天保の大飢饉で日本からの移民が爆発的に増えたが、その後も日本列島から新大陸への一定の流れは続き、毎年総人口の0.1%程度に当たる3〜4万人の日本人が新大陸の土を踏んでいた。やって来た多くが、日本では「いらない」人々だった。継ぐべき土地や財産のない男、嫁ぐべき先のない女、仕官先のない浪人、南方で夢やぶれた者、村八分、ごろつき、犯罪者、食い詰め者、一部の差別階級、そう言った人々が主体だ。人を運ぶ交通網が整備された事と、日本人社会が誕生した事で、人の流れも自然と出来ていったのだ。
 またゴールド・ラッシュの間には、日本本土及び日本の勢力圏の各地から合わせて15万人が移住目的以外で押し寄せ、半数程度はそのまま現地に居着いた。
 そして加州北部の中央平原は、北米大陸屈指の肥沃な土地だった。しっかり開拓して灌漑農業を行えば、北部では米が、南部では綿花が、それ以外でも小麦や柑橘類などを中心に一般的な作物ならたいていのものは豊富に実った。既に1840年頃には、捕鯨業から沿岸部での漁業に転向した人々によって魚、魚肥も現地で豊富に供給されていた。開発途上の土地で育てられた家畜による肉の供給も、初期の頃は農作物よりも豊富だった。東南アジアで砂糖や香辛料を積んだ船も、気が付いたら普通に港に入ってくるようになっていた。あらゆる工業製品、加工品も時間と費用さえかければ、日本列島から確実にやって来た。
 このため現地での食糧の自給が達成されると、現地生まれの子供の数も一気に増え始めた。1850年頃でも、既に現地生まれでも元服(成人=満14才)している若者の数も数多く出ており、子供の対人口比率も総人口全体の三分の一近くに達していた。しかも人の溢れる日本からの人の流れは拡大傾向にあり、現地での人口爆発は止まる様子もなかった。
 新たに開拓される村が次々に誕生し、農場、牧場が凄まじい勢いで増え広がっていた。総督府といえる奉行所のある櫻芽の人口は、1855年の時点で既に5万人に達していた。湾口にある高坂も太平洋の玄関口として発展して、大型帆船が停泊できる波止場や岸壁が整備されていた。地方都市である霧森の林蔵、南部の聖天も既に人口も既に1万の単位と、日本本土の並の城下町以上の規模と賑わいとなっていた。また北部の霧森では、奥地に麦(小麦)の栽培に適した広大な平原が見つかったため、農業移民が増えて開発が急速に進みつつあった。
 新たな技術である鉄道を引く計画も始まり、1850年には高坂と櫻芽の間での工事が開始されていた。
 1856年には、奉行所も大規模で立派な建造物に立て直され、日本本土の並の城郭よりも立派な天守閣がそびえた。櫻芽城は洋風の星形城塞ながら、日本最後の五層天守閣がそびえ立っている和洋折衷の近世的建築物だった。
 その姿は、豊富な黄金により一気に豊かになった加州の財力と、幕府の現地での権威を無言のままに伝えていた。爆発的な加州開発のため、加工品、中間資材などの需要が日本本土で多いに増え、日本本土での大規模な景気拡大と産業発展も発生していた。ゴールドラッシュ以後は、今までの移民とは少し違う開発のための人足(労働移民)の流れも年間数万人に及ぶようになっていた。

 なお、新日本奉行所で発布された法度(現地法)には、日本本土と違う点があった。
 最も大きな違いは、日本人以外の住人が多いため身分制度を変えている点だ。通常は「士農工商」と今に伝わる身分制度が江戸時代に取り入れられたが、新日本では日本本土以上に「武士とそれ以外」という曖昧な枠組みが法によって緩められていた。これは日本人以外も日本の統治下に組み込むための変化であり、江戸幕府なりの苦心の現れだった。
 またもう一つの違いが、武器所有となる。現地では限られた都市部や農村地帯以外では、危険な獣が多く盗賊などに対しても自衛が必要だった。場合によっては、人種間の諍いに武器が必要な場合もあった。このため、武士以外にも一家の家長は、奉行所に登録すれば武器の所持が認められていた。村落単位だと、さらに多数の武器を蓄えておく事もできる制度も設けられた。後者は、開拓民を屯田兵として有事に動員するための制度でもあり、新日本の武装状況は戦国時代真っ青と言える状態だった。武士達も、自衛のために刀剣よりは各種銃を携帯するほどだった。
 似た様な状態は日本の他の勢力圏でも見られたが、急速に開拓者が増え幕府の庇護もなく初期の段階を過ごした人々が数多くいたため、自存自立の考え方が最も強いのが新日本だった。
 このためか、ゴールド・ラッシュで白人が多数やって来ても、さして気にしなかったとも言われている。また逆に、黄金を巡る諍いで住民達が敢然と立ち向かったため、あまり白人が居着かなくなったとも言われている。

 一方、日本人支配領域の中での原住民(=インディアン)だが、基本的に加州の大平原と霧森の辺り以外は居住に適した場所が少ないため、もともとの数が限られていた。しかも他の地域と同様に、日本人が持ち込んだ各種疫病によるパンデミック(=感染爆発)を引き起こして、18世紀後半に人口の大減少を起こしていた。部族や小集団によっては全滅という事も珍しくなく、日本人が本格的に溢れ始める頃には、完全なマイノリティー(少数派)に落ちぶれていた。もっとも日本人は、ラテン系の白人移民のように自分たちの中に取り込むか、同化政策を行う傾向が強く、相手が余程反抗的態度を取らない限り、虐殺や荒野への放逐、それに類する行動は少なかった。このため、太平洋岸各地の平原で日本人社会の中で暮らすようになった原住民も少なくなかった。またこの頃は、山岳部に日本人があまり入り込まなかったため、パンデミックを受けた以外では今まで通りの生活を続けている場合も多かった。
 一方では、日本人がアングロ系白人ほど原住民を差別したり忌み嫌わない事を原住民の側が知ると、山脈を越えて文明の利器を得に来る事が年々増えていった。銃、火薬、刀、金属製品、穀物、木綿や羊の衣料品など様々なものが、砂金やバッファローの毛皮などとの物々交換で売り買いされた。
 とはいえ日本人も徐々に奥地に開拓のために入り込み、「邪魔」した場合は排除に躊躇しないため、友好的といっても程度の差でしかなかった。

 しかし西海岸(太平洋岸)での東洋人の動きに神経を尖らせたのが、アメリカ合衆国だった。
 最初にアメリカ合衆国政府が日本人を意識したのは、1848年の「アメリカ=メキシコ戦争」だった。加州の日本人商人達が、隣接するメキシコに武器や物資を有償で提供していたためだ。しかも、初めて加州に至ったアメリカの役人は、現地の港にアメリカすら保有していないガレオン戦列艦が浮かんでいるのを見て大いに驚いた。日本の加州が、騎兵隊程度で安易に侵略できる場所でないことを知ったのもこの時だった。あわよくば、後方に待機させていた小数の騎兵隊での加州の蹂躙を考えていたと言われるが、そんなことをすればどうなるかという事を、現地の日本の武装が教えていた。
 その後は、主にロッキー(大雪)山脈の東端の峰々が境界線となった上に、アメリカも大平原の開拓などまだ考えも及ばなかったため、特に衝突することはなかった。アメリカ中枢の一部は、既に太平洋への出口と拠点が欲しいと考えていたと言われるが、現地が既に文明を有した有色人種が居るとなれば話しは別だった。手に入れるにしても、腰を据えて切り崩していかねばならないからだ。
 その次にアメリカが日本人を意識したのは、同時期に起きた加州のゴールド・ラッシュにおいてだった。
 アメリカ政府は、テキサスの再来を考えてアメリカ人に加州でのゴールド・ラッシュを煽ってみたが、現地から上がってきた報告に騒然となった。既に現地は百万人以上の東洋人が溢れ、簡単に開拓できる余地がない、というものだったからだ。しかも東洋人の軍艦も軍隊も十分配備されており、境界線には武装した関所も設けられているという周到さだと知ると、ろくに白人(スパニッシュ)が住んでいなかったテキサスのように火事場泥棒できる相手ではないことを理解した。しかも、黄金によってメヒコより遙かに豊かになったという事は、資本に伴う様々な文物を伴うことを意味しており、侵略の難しさを示していた。加えて新日本と名付けられた現地は、遙か太平洋の反対側にある江戸幕府と呼ばれる日本王国(日本政府)の統治下にある植民地であり、江戸幕府は大型戦列艦すら有するヨーロッパ諸国に匹敵する強国だとあっては、一筋縄でいく相手でないことは明らかだった。
 その後も続いた新日本各地でのゴールド・ラッシュは、アメリカ人の興味をいたく刺激した。せめて黄金だけでも手に入れようとしたが、日本人達は自分たちの社会に還元するばかりで、アメリカをほとんど相手にしなかった。当然だが、アメリカ人が勝手に宣言した「モンロー主義」が通じる場所とも思えなかった。
 そして、当時北米東部に住んでいた白人、特にアングロ系、ゲルマン系白人にとって、住み難い場所となっている新日本に移民したがる者は小数派だった。小数のスパニッシュしか住まない土地だったテキサスとは、新日本は根本的に違っていた。しかも北アメリカ大陸中央部に広がる大平原そのものの広大さと、日本領の境界線ともなっている巨大山脈が天然の要害となって立ちふさがり、容易に白人を寄せ付けなかった。しかもその道中の大平原には自分たちが追い立て反抗的なインディアンが犇めいているとあっては、危険を冒そうという人は小数派であり続けた。
 陸を安全に進むための解決方法は鉄道の敷設だったが、大陸横断鉄道となる長大な距離の鉄道敷設には莫大な資本と労力が必要だった。そして現時点ではメリットが少ない上にリスクも大きすぎるため、建設のための出資をしようと言う東部の資本家はごく小数派だった。政府にそんな金はなかった。また太平洋側には船で行くという方法もあったが、当時はまだ帆船を使っても陸路より経費と時間がかかる上に、北太平洋は日本人商船の絶対的勢力圏だった。アジアの一部とオセアニアを除けば、アカプルコより南に進むヨーロピアンの船はごく小数の貿易船しかいなかった。しかも日本人達は、既に蒸気を噴きあげる船すら自力で建造し始めていた。
 そして船という点で日本人が圧倒しているため、日本列島や東アジア各地の日本領から新大陸には毎年数万人の日本人が押し寄せていた。北米大陸の太平洋岸での移民競争では、ヨーロピアンが圧倒的という以上に不利だった。

 中東部の白人達がフロンティアと考えていた「ウェスタン・アメリカ」は、紛れもなく「ニュージャパン」であり、ロッキー(大雪山脈)は、東西文明の境界線だったのだ。


フェイズ14「インダストリアル・レボリューション」