■フェイズ19「ビバ! インペリアリズム!」
19世紀後半以後の帝国主義とは、巨大化した国民国家が民族主義、文化、宗教、経済体系など様々な面での拡大のための膨張行動を現す。 膨張の目的は、新たな領土や天然資源の獲得と、膨大な自国製品を売りさばく市場を獲得するためで、手段としては主に国力又は軍事力を背景に他の民族や国家を積極的に侵略する事をさす。当然と言うべきか、最終的には植民地化が待っていた。このため「植民地帝国主義」という言い方をする事もある。 この典型的な条約が、1885年に開催された「ベルリン条約」だった。
「ベルリン条約」は、ベルギー王の行動が発端となってヨーロッパの国々がアフリカの分割を決めた会議であり、僅か十年で広大なアフリカ大陸は地中海を挟んだ北にあるヨーロッパ列強各国によって機械的に線引きされ、そして一方的に植民地とされた。 アフリカ以外の場所でも、ブリテン、フランスを筆頭に、少し遅れてドイツなどの国々による領土分割が急速に進んだ。そして世界を分割する側に、近代産業国家への脱皮に成功していた日本の江戸幕府も立っていた。 この頃日本は、対外的には「徳川朝=大日本国」とされていた。ただし東洋的意味合いでの「大」は独立国を現す称号なので英語表記の場合で「グレート」とは訳されず、単に「ジャパン」もしくは「キングダム・オブ・ジャパン」とされた。 そしてジャパンは、主に西ヨーロッパ諸国のグレートパワー(列強)以外にとっては、異質なグレートパワーの一つだった。日本以外で異質なのは、ロシア帝国、オスマン朝トルコ、清朝ということになる。他は独立させるに値せず、文明を広げるという名目の元で次々に植民地化されていった。例外は南米、中南米だが、これらの国々も終始欧米の侵略に怯えていた。 東南アジアでは、限定的な近代化と綱渡り外交に成功したシャム王国以外の国が実質的に消えてなくなった。 北東アジアは、日本、清朝、限定的ながら朝鮮があったが、やはり距離がネックでヨーロッパによる本格的な侵略にまで至っていなかった。しかし最も奥にある日本こそが、東洋世界唯一のそして当時世界屈指の帝国主義国家であった。 しかも日本は、積極的に侵略戦争をしない帝国主義国家としても諸外国から奇異の目で見られていた。
日本の江戸幕府は、君主である十五代将軍徳川慶喜が先頭に立った改革の効果もあって無難に運営されていた。日本の産業革命も、自国と植民地での爆発的な開発、大規模なインフラ整備などのおかげで、何とか第二次産業革命(=重工業の拡大)に移行しつつあった。しかも1879年には、北辺の地アラスカでまたも大金鉱が見つかり、日本が発展するための回転資金を豊富に供給するようになっていた。 また国家制度の改革自体も相応に進展して、司法制度の整備、近代的学制の導入も進み、1879年には遂に「大日本国憲法」も発布された。憲法は欽定憲法(君主が定めた憲法)で、国家の主権者は天皇にあるとされたが、主権者ではあっても統治については将軍が天皇に代わり取り仕切るとされた。もっとも、この特殊な統治体制を諸外国に説明する為、日本人達はかなりの苦労を強いられた。名目君主(権威)と実質君主(権力)の二つが並び立つ上に、その双方が共に血統によるものだからだ。 憲法の内容自体は、民衆の権利が少し弱い以外では先進世界標準の内容だったが、根本については江戸幕府と変わらない形が踏襲されていた。身分制度も武士とそれ以外という形で、明確に残されていた。ただし、10年後を目処に民生選挙(民主選挙)を行い衆議政局設置と憲法のさらなる充実を目指すとされた。これは、産業革命の進展に伴い平民(=民衆。国民ではない)に対するさらなるガス抜きが必要だと幕府が考えたのと、民衆の側の政治への興味が少しずつ高まっていた二つが作用した結果だった。 近代化と国力増大のための基礎教育の普及促進が、武士の時代を一層希薄化させつつあったのだ。この頃には、上からの改革も限界が感じられつつあった。 日本には、いまだに「国民」が存在しなかったからだ。 しかしいまだ伝統階級(武士達)が率いる日本は、世界の趨勢である帝国主義の道を進んでいた。
もともと日本は、19世紀半ばまでに領土面積的には近隣地域を中心として広大な植民地を有していた。 新日本、北氷州がその代表だ。どちらも面積は広いが不毛な土地が多い。だが、白人達が進出する前に日本人が歩き回り住み着いたため、ヨーロッパ(策源地)から遠すぎる事もあって、自然と日本の領土とする事ができた。そうした中でも北アメリカ大陸の新日本西海岸一帯は、有望な農地となる大規模な平原もあって、日本人にとっての新天地として急速に発展していた。 他にも100年以上前から東アジア地域の台湾、フィリピン(呂宋)へと進み、ブルネイ、スマトラといった大スンダ地域にも根を下ろしていた。江戸時代に全般に渡って、北辺の地からもたらされる毛皮、ブルネイなどからやって来るサトウキビなどが日本列島繁栄の一助となっていた。大洋州でも、パプア島と周辺島嶼にも進出が進み、既に領有宣言も出されていた。小さな島々にも十分以上の注目をしていた。 そしてこの頃は、ヨーロッパ諸国の動きに合わせて、南洋での植民地化をさらに押し進めていた。 ヨーロッパ諸国が彼らにとって遠すぎる地域となる南洋に興味を向けた理由は、次の拠点や植民地の獲得よりは、南方で採れるヤシの木のパーム油にあったと言われる。この頃ヨーロッパでは、産業革命に伴う爆発的な人口増加に対して植物油、油脂食料が不足しており、これを何とかするのが一番の目的だった。マーガリンという人工バターが産み出されたのも19世紀後半だった。また南洋の島々で採れるパンノキが万能食料として過剰に評価され、人々の南洋に対する植民地化熱を煽っていたとも言われる。 そうしてヨーロッパ列強は、まだ誰も領有権を主張していない地域に次々に旗を立て始めた。 これに先駆けるように、日本もせっせと船を派遣して旗を立てた。またこれまでの自分たちの探検行などで、ヨーロピアンが植民地化の根拠の一つとした「先占権」を主張して、太平洋の各地を支配下に納めていった。しかも日本には地の利があり、距離的にもヨーロッパ諸国が投射できる力が小さいこともあり、多くの領域を占めることができた。加えて、古くから行っていた鯨漁による日本人の痕跡が、領有権主張で大きな役割を果たした。 当然だが、日本が一定規模の軍と国力を有していたからこそだという点も非常に重要な要素だった。各地を巡回する葵の御紋を付けた鋼鉄の軍艦の存在は、それだけで大きな抑止力となった。 領域確定の過程では、ブリテンやフランスとは多少の取引が行われたが、南太平洋の一部を除く殆どに日本領を示す日の丸が翻った。この事にヨーロッパ諸国からかなりのやっかみもあったが、パーム油に代わる新たな食用油の登場とパンノキに対する早期の幻想崩壊から、すぐにもそれも沈静化した。それに太平洋は、ヨーロッパにとって全ての面で遠すぎた。 そしてこの過程で、ヨーロッパから見ての世界の最果て、北太平洋の南にポツンとあるハワイ王国も、江戸幕府は自らの勢力下であることを諸外国に認めさせた。 もともとハワイ王国には、古くから捕鯨などを目的として日本の船が立ち寄っていた。文化、政治面での日本の影響も強く、19世紀前半からは日本からの移民も本格的に流れていた。加えてハワイは、ヨーロッパから最も遠い位置にあった。このため、ハワイの宗主権について文句を言ってくる国も少なかった。1890年代中ば以後ドイツが一時期進出を企てたが、その頃には日本人による南洋での地盤も十分固める事ができていた。
しかし1885年にアフリカ分割が事実上終わり、ヨーロッパ諸国が本格的にアジア、太平洋に目を向けるようになると、俄然日本に注目が集まるようになった。 広大な植民地を持つ日本を、清朝同様、自分たちの獲物に出来ないかと考えるようになったのだ。文明化されているかどうかなどという理由は、相手が有色人種である以上は考慮するのは建前だけだったからだ。 ロシアは北氷州、アメリカは新日本を、ドイツはどこでもいいから欲しがった。フランスは「普仏戦争」の影響でまだ元気はなく、ブリテンは一見何を考えているのか分からなかった。日本にとって幸いなのは、ヨーロピアン達が抜け駆けや火事場泥棒を考えても、率先して日本に戦争を吹っかけようとしなかった事と、何よりヨーロピアンの中で牽制し合って連携しなかった事だった。
しかもこの頃の日本は、ヨーロッパ列強が迂闊に手を出せる国でもなかった。 工業化の水準はドイツに準じるほど進み、生産高もドイツに並ぶほどだった。何しろ、当時の日本には開発すべき場所が無数にあるので、日本本土ではいくらでも受注があるような状態な上に、日本政府である江戸幕府は依然として潤沢な予算を握っていた。 産業革命が進展したのも19世紀に入ってからだったので、ブリテンで既に起きつつあるような生産設備の更新の遅れなどの問題もほとんどなかった。当座の天然資源にも、足りない分は海外の勢力圏から持ち込めばよかったので、あまり不足を感じていなかった。古くから近世国家として繁栄し、そのまま近代国家に向かって大きな混乱もなく進んでいるので、国民所得もヨーロピアン列強並に高かった。人口も産業革命によって大きく拡大し、本国で6000万人以上を数えた。海外に十分な市場と人口を持っており、北米の新日本などは国内資本の投下先としても非常に有望だった。国家規模的には、ドイツ以上ロシア以下といったところだった。一人当たりの国民所得はヨーロッパ列強と比べると平均程度になるが、国の規模と人口、国家の存在する場所が欠点を十分に補っていた。 また帝国主義に必要不可欠な民族企業、民間資本だが、国内の資本蓄積も順調に進み、既に大規模なコンツェルン(財閥企業)が幾つも出現して、自分たちの中で熾烈な争いをしている有様だった。当時の日本では伝統に則る形で企業連合であるカルテルが中心だったが、重工業・軍需の住友、海運・小売業の三井、金融・穀物の鴻池など特徴を持った巨大企業が、日本の帝国主義を後押ししていた。これらの近代資本による自国勢力圏に対する勢力拡大も順調に伸びていた。積極的に動き回る奇妙な髪型をした有色人種は、東アジア、太平洋では一般的な風景だった。ヨーロッパ諸国に東アジアの事を紹介して通訳を行っているのも、日本人の場合が多かった。 そうした豊かさに反映され、日本の商船隊も大規模だった。自国でガレオン船を建造するようになった17世紀後半から二百年間、東アジアと北太平洋は日本の海だった。ヨーロッパから遠すぎる事もあり、いまだにブリテンですら深く食い込めていなかった。何しろ日本の近代における発展も商船隊抜きに語ることはできず、アメリカと似た経緯で進展した日本での産業革命の熟成に大規模な商船隊の存在は必要不可欠だった。アメリカでは鉄道が、日本では商船隊が物流の大動脈となっていた。東アジア、北太平洋航路は、ほぼ全てが日本人のものであり続けた。 そして列強として最も重視すべき国力の指標である軍備も侮りがたかった。 幕府水軍は、依然として列強第三位の大海軍であり、軍艦の80%以上は自国で建造していた。艦艇の質と戦闘力もヨーロッパからの技術輸入と自力での開発により、十分に保たれていた。陸軍の規模は限られていたが、それは日本が海洋国家だからだと認識されていたし、日本人自身も大規模な陸軍の必要性は感じていなかった。 孤立した国であるため、先端技術、国家制度の面で遅れている面はあるが、経済力、軍事力が十分補っていた。それに西欧諸国から言われる事の多い「遅れた」国家制度そのものも、ロシア帝国やトルコよりは進んでいた。近代改革を押し進めた将軍慶喜は、既に事実上の権威君主だった。洋服も着るようになった日本のサムライ達は、優れた戦士であると同時に優れた近代官僚でもあった。
こうした中で、日本の外交的な利用を一番に考えたのが、ドイツ帝国の宰相オットー・フォン・ビスマルクだったと言われる。だが彼は、ドイツにとって日本の利用価値が出る頃に無理解な新皇帝のために失脚してしまい、以後のドイツは日本とむしろ対立する方向に進んでいた。対立へと進んだのは、ドイツが新興の帝国で、強い膨張傾向を持っていたからだ。 そして日本を十分に利用していたのが、ヨーロッパ世界での競争にうち勝ち、世界で最も広大な版図を持つに至ったブリテン連合王国だった。 ブリテンは、日本の新日本領と北太平洋航路を通じて、アーシアンリングつまり世界一周の交通ルート、情報網を確保していた。しかも自分たちの側のルートの一部を日本人に使わせることで、ブリテンはほぼ無料で日本の持つルートを経費を掛けることもなく使っていた。利用頻度の点で、どちらに利があるかは明らかだった。 日本が新日本でアメリカに対向するため、ブリテンにあえて利用されている向きもあったが、主導権はブリテンにあった。 もっともブリテンの場合は、最終的に少なくとも新日本地域は自分たちで飲み込んでしまう積もりだと、当時から強く言われていた。飲み込むための動きも、確かに存在した。ブリテンは日本にとって、アメリカと同等かそれ以上に油断ならない存在だった。 しかし19世紀半ばからの半世紀の新日本の急速な発展と拡大が、事実上諸外国の侵略もしくは進出を阻んでいた。1890年で、既に新日本の総人口は1200万人を越えていた。20世紀に入る頃には、1800万人に達すると見られていた。この二つの数字だけで、新日本の発展速度が分かるだろう。 加えて人口や領域の広さもさることながら、所得水準もかなり高いため簡単に飲み込めるような場所ではなくなっていた。新日本の規模だけでカナダを大きく上回っていては、ブリテンが実力行使に出られないのも、ある意味当然だろう。それどころか、新日本の住民が開拓民特有の気質を持ち合わせ民兵となると考えれられ、ブリテンの方が逆に脅威を感じていたほどだ。 東のアメリカ合衆国は、1890年頃で総人口が6000万人近かったので依然新日本との差は大きかったが、新日本の総人口は既にメキシコに匹敵した。カナダの300万人に対しては、半世紀の間に人口格差が逆転していたことになる。人口の拡大は、ここ四半世紀の間に年間10万人以上平均で流れ込んでいる日本人を中心とする東アジア系移民が原動力で、動力船(蒸気船)の普及による移動の簡便化に伴い増加傾向にあった。他にも、アメリカからの原住民、黒人の流れも続いていた。自らの農地が得られるのならばと、厳しい審査を経た白人移民達も一定程度がカナダを経由して流れ込んでいた。 また、農地の拡大による爆発的な人口拡大が主な事と、移民による都市人口の拡大、世界的な医療技術の向上もあり、現地での自然人口増加率は3%近く世界のトップクラスだった。移民による若年人口が多いというのも、人口増加に対しては大きなアドバンテージとなっていた。 しかも江戸幕府は、現地の極端な市場化(植民地経営)を行わず産業育成にも熱心で、カナダからは域内で足りない分の鉄鉱石を輸入して、本格的な製鉄業まで行っていた。新日本内での莫大な需要に日本からの供給だけでは追いつかず、また日本から運ぶよりも日本側から企業が進出して現地で作る方が安上がりだったからだ。 加えて北部山岳地帯の石炭、南部沿岸の聖天近くの大規模な油田、大雪山脈各地で見つかった銅、若干の鉄鉱石など広大な領域であるだけに地下資源は豊富だった。大雪山脈各地での小規模なゴールド・ラッシュも、十年に一度は起きていた。金や銅と同様の場所では、豊富な量の銀も産出された。大雪山脈は、資源の宝庫だった。 そんな新日本を、江戸幕府は大切に経営していた。現地での自治を広げて民心のガス抜きを行う傍ら、軍備も手抜きはしていなかった。現地幕府水軍は、常に東太平洋最強の海軍だった。日本と新日本の航路も、常に最優先で保護されていた。本土の日本人に馴染みの薄い国境警備も、手抜きすることはなかった。新日本の国境警備隊は、街道を守る「防人」と国境を移動する「マタギ」と呼ばれ、日本の武士達の間からも精鋭部隊と見られ、幕府の煽りも功を奏して志願者も多かった。 しかも一方では、アメリカ合衆国そのものからの白人移民についてはブリテンとも協力して厳しい規制を設け続け、厳格な審査と宣誓が実施されていた。そうすることで、自分たちがテキサスの二の舞になる愚を避ける努力も続けられた。 当然アメリカから、移民規制解除の苦言が再三再四行われていたが、日本の幕府はアメリカのダブルスタンダードや人種差別を逆に非難して対向した。アメリカとの間にようやく敷設された大陸横断鉄道も、日本側の意図もあって使用が限られていた。 かくして北アメリカ大陸の西部、北西部は武力を用いることなく日本人の領域であり続け、江戸幕府の統治するところであり続けた。
一方日本のお膝元でもある東アジアでは、日本は自分たちの勢力圏の維持を第一に考えて行動しており、近隣諸国については見放すような行動を取る事が多かった。 日本から最も近い朝鮮王国は、日本の存在があるためヨーロッパ列強が北東アジア深くにまで入り込めず、いまだ中世のまどろみの中にあった。日本の江戸幕府も、19世紀に入ってからはほとんど無視している状態だった。主に清朝の属国という外交上の立場を表面上維持するためで、この点は東アジアの従来の外交を遵守している事になる。日本と清朝にとっての緩衝地帯が朝鮮王国で、朝鮮半島はそのために存在している事が重要だったからだ。 しかし清朝に対する日本の態度は、製品と技術を売る以外では、他のヨーロッパ列強とあまり変化なかった。1860年には日本が清朝から領土すらむしり取っていたし、上海には日本人居留地(租界)も認めさせていた。清朝の側も日本を依然中華世界の辺境の蛮国と見ていたので、協力や連携にはほど遠い状態だった。しかも年を増すごとに北満州、朝鮮開国を巡って両国の対立が深刻化しつつあった。両国の関係で緩和されたのも、新日本に対する移民の許可ぐらいだった。 東南アジアでは、諸外国に植民地化された地域に古くから住む日本人、日系人の救出こそ熱心に行ったが、現地の国々に対する外交ではかなり冷淡だった。向こうから言ってきた場合に限り、技術や知識を売ったり留学を受け入れたりはしたが、それぞれの国が余程自立する動きを見せていない限り、国単位での支援はほとんど行わなかった。せいぜいが、国が滅びるときに亡命者を受け入れたぐらいだった。 これも従来の東アジア外交の延長といえばそれまでだが、日本が自分たちの代わりの生け贄としてヨーロッパ諸国に獲物を差し出したと見ることもできるだろう。 また別の視点から見れば、日本が近隣諸国を植民地化しなかったのは、長期的には利益よりも面倒の方が多いと考えていたからに過ぎない。
ちなみに、英明な君主として知られた徳川慶喜だったが、自らの臣下に対する以上に近隣諸外国に対しても冷淡だったと言われることが多い。植民地経営での善政は、それが日本のために必要だという合理的な認識があったからだと言われている。 そうした視点から見れば、徳川慶喜はある意味帝国主義の時代に相応しい君主だったのだろう。