●フェイズ13:「戦争の大転換」

 アメリカ中枢部が自らの参戦前に作った、憶測に基づいた自らの戦争計画は完全に破綻していた。
 当初の大まかな計画では、最初の24ヶ月、つまり丸2年で日本を降伏に追い込み、その後全力でドイツを押しつぶす予定だった。ルーズベルトとしては「マイ・ネイビー」で日本が誇る「88フリート」を粉砕してしまえば、日本との戦いは実質1年程度で終わると考えていた程だったと言われる。
 これほど楽観的な計画が立てられたのは、間違いなく白人優越の人種差別に起因していた。特に、日本を知らない者にとって、「八八艦隊」とその巨大戦艦群は数字上の事でしかかなく、心理面では大したことはない存在でしか無かった。
 同胞として恥ずかしい固定観念ではあるが、「所詮は有色人種」なのである。
 しかし現実は全く違っていた。確定的な未来と思われていた想定とは全く逆に、世界最強を誇る「筈」のアメリカ太平洋艦隊は日本の聯合艦隊にさしたる損害を与える事無く、完膚無きまでに撃滅された。結果、両軍の戦力格差は、日本海軍の「八八艦隊」をリヴァイアタンのごとき魔の猛獣とさせていた。1942年春以後、日本海軍が暴れるインド洋は、連合軍にとって手の付けられない状態だった。
 そしてもう一つの状態が、アメリカ軍による日本に対する反抗スケジュールに悪影響を与えていた。
 そう、大型艦艇の建造スケジュールだ。
 まずは概要を見てもらおう。

・戦艦:
 4万トン級:
《ヴァージニア級》戦艦 2隻  1941年夏に全艦が就役
《アラバマ級》戦艦 4隻  1943年春から夏に全艦が就役
 5万トン級:
《ミズーリ級》戦艦 6隻
4隻が1944年2月、5月、8月、10月に順次就役予定
2隻が1945年夏に共に就役予定
 6万トン級:
《オハイオ級》戦艦 8隻(+8隻)
1945年春から順次就役。1945年内に6隻が就役予定
1942年に追加された8隻は、1946年夏以後に順次就役予定
しかし大型建造施設の多くを塞いでしまう。
 他:
《アラスカ級》戦闘巡洋艦 8隻
最初の2隻は1945年6月、9月の就役予定。残りは1946年から順次就役予定

・大型空母:
2万7000トン級:
《エセックス級》空母 9隻(+8隻)
1943年12月 1隻、1944年内 4隻、1945年内に6隻が就役予定
4万5000トン級:
《ユナイテッド・ステーツ級》空母 3隻:1946年春以後就役予定
・軽空母:
《インディペンデンス級》軽空母 9隻:
軽巡洋艦から建造中に改設計。1944年内に9隻が順次就役。1番艦の就役は1944年1月を予定。能力不足が指摘されたが、追加改装も計画。

・重巡洋艦:
1944年春に入らなければ、新造艦の就役はなし。各種合わせて20隻を計画。1944内の就役予定は4隻だけでそれも後半。1945年春以後の就役数は大幅に増加予定。

・軽巡洋艦:
1942年春から《アトランタ級》4隻が就役するが、それ以後は1944年に入ってからの就役となる。各種合わせて50隻以上を計画するが、多くは1945年に入ってからの就役予定。

・駆逐艦・潜水艦:
第一次ヴィンソン計画艦は1942年までに順次就役。それ以後は、1943年に入ってから就役が本格化。スターク案(1941年9月成立)の計画艦は、ほとんどが1944年終盤以後にならなければ就役出来ない。

※( )内は1942年8月に追加建造が決定。

 以上、平時なら大規模すぎる以外で特に問題もなかった艦艇建造計画だったが、戦時では大きな影響を与えていた。そして戦艦や大型空母となると、工業力に優れたアメリカでも建造には限界があり、特に建造に手間のかかる戦艦の建造には時間の制約があった。パラオの戦いで日本海軍に惨敗しなければ、事態は大きく違っていた可能性も高いが、インド洋での大量消耗もあって事態は悪化を続けていた。
 1942年秋の時点で、アメリカ軍の稼働大型艦は殆どゼロだった。そして大規模な船団を伴った戦闘で、攻撃に出てくる敵大型戦艦の群を押しとどめなければ何が起きるかは、イギリス海軍がこれ以上ないぐらいの先例をインド洋で示してくれた。日本海軍は、ドイツ海軍とは違って十分以上の水上艦艇を保有していた。
 つまり、日本海軍に対して本格的な反攻作戦を行うには、十分な数の戦艦か、もしくは戦艦の群を撃退出来るだけの「別の戦力」を用意しなければならなかった。戦艦以外の「別の戦力」とは、対艦攻撃能力に秀でた空母艦載機とそれを運ぶ多数の空母という選択肢しかほとんどないのだが、アメリカの大型艦建造スケジュール上で短期間で多数の空母を揃えることは難しかった。日本海軍のように、地上配備の航空機に役割を負わせることも、既存の機体では極めて難しいと判断されていた。
 そして、当時のアメリカの大型艦建造施設は16箇所あるが、建造に手間のかかる大型戦艦が施設を塞いでいることが多かった。このためアメリカは、新規計画の軽巡洋艦を急遽軽空母に改装して建造することを決めたが、これも基本的には補助戦力であり戦力は不足したままだった。戦力として数が揃うのも、初期の建艦計画の関係から1944年下半期以後となる。そしてアメリカ海軍としては、建造の進んでいる戦艦の整備にも努力を傾けざるを得なかった。相手が持っているものを自分たちも持つというのが、軍拡の原則だったからだ。
 幸い、日本の新鋭戦艦の就役数は今後極めて限られているのだが、それでもアメリカがマリアナ諸島など日本の懐に本格的に侵攻できるようになる時期は、早くても1945年春と算定されていた。限定的な攻勢でも1944年秋頃となる。

 そして1942年秋から1943年春にかけては、連合軍の主要艦艇が最も少なくなっていた時期だった。
 アメリカ海軍の「ダニエルズ・プラン」の16インチ砲搭載戦艦5隻は大規模な近代改装工事中で、戦力外で唯一の新型の《ヴァージニア》は損傷修理中。それ以外に旧式戦艦が9隻あったが、日本艦隊と正面から対峙させられる戦闘力は無かった。
 新たな主力と目されつつあった空母に至っては、稼働する高速空母数ゼロ(※残存は大破状態の《エンタープライズ》のみ)という惨憺とした状態だった。補助艦艇の損失もほとんど埋められておらず、海軍全体の戦力は開戦時からだと40%程度に低下した状態だった。
 イギリスはインド洋での損失が堪えており、旧式の《アイアン・デューク級》を除くと健在な戦艦、巡洋戦艦は9隻。しかも修理中だったり整備中で、常時稼働出来るのは6〜7隻程度だった。
 艦隊随伴可能な高速空母は、古参の《ハーミーズ》と装甲空母の《ヴィクトリアス》のみに激減していた。巡洋艦などの損耗も酷く、北大西洋での船団護衛にも事欠く有様だった。
 要するに米英海軍を合わせても、当時の日本海軍よりも少ない数の戦艦と空母しか無かったと言うことだ。日本の参戦一年目がワンサイドゲームと言われるのも当然の状態だったのだ。
 そして1942年後半期から1943年前半期は、ドイツ海軍のUボートの最盛期であり、攻勢よりも主に北大西洋上での航路防衛を最も重視するべきだった。
 故に、海上からの攻勢など考えられない状態であり、行うにしても小規模な作戦が限界だった。

 このため侵攻作戦以外の戦略的な攻撃方法が模索され、当然の方法として通商破壊戦の強化が決められたのだが、こちらも1942年秋の時点ではまだ芳しくなかった。
 日本の主要航路に築かれた機雷原(機雷堰)を抜けるのが至難の業で、潜水艦は相手を沈めるより人知れず機雷に沈められる方が多いと言われる有様で、戦果の少なさ比べて損害が非常に大きかった。開戦から一年間に、太平洋方面で行方不明のままの潜水艦数は20隻を越え、投入数に対する損耗率は30%以上を示しており、作戦に必要な数が足りなくなるばかりか、潜水艦乗組員の士気低下すら起きた。
 しかも当時は、新型の《ガトー級》潜水艦はほとんど就役しておらず、既存の約90隻のうち40隻近くが旧式の小型という中での20隻の損失なので、損失数そのものも大きな問題だった。
 また、戦果が少なかった大きな原因だった潜水艦用魚雷の「不備」がようやく確認されたが、改良され配備が進むまでに時間が必要だった。それ以前の問題として、日本軍は東南アジアの島々と狭い海峡を利用した大規模な航路帯戦法で連合軍潜水艦を封殺しようとしているため、これを突破するためにも本来ならばどこか要所に対する侵攻と占領が必要だった。潜水艦の数を揃えても、安価な機雷で日本軍すら気付かないまま沈められては話しにもならなかった。
 そして日本の要衝を占領するには、大規模な水上戦力が必要不可欠だった。
 要するに、大型水上艦艇がある程度揃うまで太平洋方面では根本的に打つ手無しというのが、この頃のアメリカ軍の正直な状態だった。有象無象に量産されつつある護衛空母や護衛駆逐艦では、数の上では十分な戦力を用意できても、そもそも攻勢に使う戦力ではないし、仮に攻勢に使った場合、将兵の命を無駄にする可能性が高かった。
 一方では、日本の拠点と他の連合軍の拠点が離れているため、敵を消耗させセルのに効果的な航空撃滅戦も、インド戦線以外では非常に難しかった。しかも主戦線のインドは、アメリカにとって世界の裏側に位置しているという、兵站(補給)上での不利があった。
 アメリカ軍は、1942年夏ぐらいからオーストラリア北西部からインドネシアのティモール諸島方面に対して限定的な航空撃滅戦を仕掛けていたが、日本側が防戦以上行う気を持っていないため、現状ではむしろ戦況は連合軍の不利に推移していた。ビスマーク諸島のニューブリテン島からカロリン諸島(日本軍の防衛拠点のトラック諸島など)に対する攻撃は、主に距離の問題から嫌がらせ程度の攻撃しか出来ていなかった。ジリジリと、日本軍が来ない航路を使ってニューギニア島東部各地の拠点化も進めていたが、まだどこも工事半ばという状態だった。何しろ、戦略方針によって、アジア・太平洋に回されているアメリカ軍の数と戦力は余りにも少なかった。
 そしてイギリス軍の悲鳴に応じてインド洋で冒険を行い、これに大失敗していた。対日戦から対ドイツ戦に余分に向けた国力リソースの多くも、インドが危機になって窮乏するイギリスへの支援でほとんど相殺されていた。

 そして開戦以来の敗北の連続が、ルーズベルト政権に大打撃を与えることになる。この大打撃とは、1942年11月に行われたアメリカ中間選挙での民主党敗北だ。
 中間選挙では野党の共和党が勝利し、日本との開戦時に80%近くを示した大統領支持率も下がり続け、中間選挙の頃は50%台だった。そしてアメリカ現政権は、民主党が次の大統領選挙に勝つためにも、勝利を、出来るだけ選挙民に分かりやすい勝利を重ねなくてはならないと考えていた。特に重要な時期は、1944年の初夏と秋。ここで支持率を大きく伸ばす勝利をあげることが出来れば、次の大統領選挙に勝てるということだ。
 アメリカ合衆国の勝利自体は誰も疑っていないし、アメリカが勝つことは国力、潜在的軍事力から既に分かり切ったことだった。だが、アメリカの国内情勢の関係で、「誰が勝者となるか」と言う点が重要だったのだ。
 このため以後アメリカ政府の方針としては、当面はドイツをソ連邦軍で釘付けにし、日本をインドに足止めし、その間ドイツを戦略爆撃で、日本を通商破壊戦でジワジワと痛めつける事だった。その間自らは、総反抗の為の戦力を整えるのだ。
 しかし爆撃にしろ通商破壊にしろ目立たないので、選挙民を「飽きさせない」作戦も必要だった。そして日本軍に対してアクティブに出ることが難しいため、対象としてヨーロッパが選ばれた。具体的には、延期に次ぐ延期となっていた北アフリカへの上陸を、一刻も早く行う事だった。
 だが、戦争はアメリカ一国がしているわけではなかった。
 イギリスは、インド、中東救援のための補給路開設を目的とした戦力の投入を決めて、アメリカにも同じ事を求める。アメリカとしても、ペルシャ越えの対ソ援助ルートを再開したかった。そして両者の協議の結果、北アフリカ反抗作戦をさらに1943年3月まで遅らせて、マダガスカル作戦を優先することになる。アメリカ政府としても、成功の確率が高いマダガスカル奪回には相応の価値があった。
 しかし、もしくは当然と言うべきか、動き出すのは枢軸側、より正確には日本軍の方が早かった。何しろ日本軍は、いまだ勝ちに乗じて戦意旺盛だった。

 1942年11月11日、日本軍の大船団がついに雨期の終わったガンジス川河口部に出現した。同時に、日本陸軍航空隊を中心とした大規模な航空撃滅戦が、ガンジス川河口部で実施された。依然として、本国からまともな補給と増援を受けられていない在インドイギリス空軍は、総督府のあるカルカッタの空すらまともに守れない状態だった。
 しかもセイロン島からは、南インド全域に対する日本海軍航空隊による大規模な航空撃滅戦が展開され、なけなしの現地イギリス空軍は戦力を二分された上に、夏からの短期間ですりつぶされていった。
 インドの空での戦いは、ヨーロッパの他の戦場と比べると北アフリカでの戦いよりも小規模なほどだった。だが、連合軍がインドに戦力を送り込めない状況のため、全般的に戦力が限られている日本側が優位に戦闘を展開する事が出来ていた。「ゼロ」は、まだまだ魔力を失ってはいなかった。また、インド沿岸各所では、陽動を目的とした艦艇による艦砲射撃が実施され、主に軍事拠点に対する砲撃が実施された。都市を除外したのは、日本軍がインド民衆を敵に回すことを避けようとしたからだった。
 全ては、インドを封鎖してから本格的に攻め込むという、日本側の戦略の正しさを伝える状態だった。
 そしてガンジス川河口部に迫った大船団を、現地イギリス軍は止める手だてが無かった。日本軍が上陸しそうな沿岸部には陣地構築も行われていたのだが、鉄もコンクリートも足りない状態で、現地住民を動員した人海戦術による陣地は、日本軍が露払いとして送り込んできた旗艦《武蔵》が率いる《紀伊型》戦艦などの「八八艦隊」の戦艦群が放つ18インチ砲、16インチ砲の前にはほとんどが無力だった。

 日本軍は、デルタ地帯の複雑で軟弱な地形を避けるため、ガンジス川西部を流れるフーグリー河西岸に上陸した。数は第一波で2個師団。さらにすぐに2個師団が上陸し、その後も、シンガポールやペナンから待機していた部隊がピストン輸送された。最終的には2個軍(軍団)と予備部隊を含めた1個方面軍(軍)の7個師団以上の戦力が、主にガンジス川河口部、より正確にはイギリスのインド支配の象徴的な都市である、総督府のあるカルカッタを占領するべく展開する予定だった。
 日本陸軍インド方面軍は、粉砕された貧弱な敵陣地を横目で見ながらほぼ無血といえる状態で上陸し、一部ではインド住民の歓迎を受けながら、隊列を整えると続々と内陸部を目指した。
 日本軍が、ついにインド本土に侵攻したという情報はインド全土を揺るがした。そこに既にドイツから戻っていた過激な独立運動家のチャンドラ・ボースが「チャロ・デリー(デリーを目指せ)」激を飛ばし、インドの民衆に独立のための決起を促した。
 日本軍もしくは日本で戦争を描いている者としては、これで後はインド総督府のあるカルカッタを落としてしまえば、インド侵攻の戦略的な目的の殆どは達成されたも同然だった。
 日本にインド全てを占領するだけの国力、軍事力はないし、今後激しさを増すであろう連合軍、特にアメリカ軍の攻勢に備えるための防衛準備も急がなくてはならないからだ。強いて言えば、あとは中華地域に続くインドからの輸送経路を塞ぎ続け、中華民国に連合軍の援助物資を渡さない事ぐらいだった。
 そして日本が能動的に作れる戦略的環境は、このインド本土侵攻でほぼ最後だった。無理な事が分かっているので、上陸は出来ても補給が続かないであろうセイロン島からインド南部への侵攻は行われていない。後の日本としては、イギリスが窮地に追い込まれてアメリカはヨーロッパにかかりきりとなり、それでもドイツを攻めきれなくなる事を、完全、完璧に支援ルートを絶たれた中華民国が自ら講和を請う事を願うしかなかった。

 しかし、日本軍としては何もしないわけにもいかないので、東インド洋の封鎖が積極的に行われ、日本海軍は多大な戦果を得る代償として、相応の消耗を強いられた。それでも日本海軍の攻撃的な動きは続き、最も冒険的な行動として旧式の高速戦艦《金剛》《榛名》、重巡洋艦《鳥海》《摩耶》を中心とする高速打撃艦隊が、連合軍の哨戒網を北廻りで大きく迂回して、南アフリカのインド洋側に位置する重要港湾のダーバンに対して10月13日夜半に大規模な艦砲射撃を実施した。
 この砲撃による損害は、艦船の損害よりも港湾の被害の方が大きかったが、既にアメリカの生産力が回転し始めたこの頃だと、実質的にはそれほど大きな損害では無かった。だが、連合軍にとって寝耳に水であり、日本軍の積極性を示す一例として非常に大きな心理的衝撃を与えた。
 なおこの攻撃は、日本本土から直線距離で1万キロメートル以上も離れており、日本の攻撃の終末点ともなった。

 しかし、日本軍にとっての戦略的環境には、徐々に暗雲が立ちこめるようになる。
 まだ日本軍がカルカッタに迫る前に、日本の政治家、軍人の多くが楽観し、そして大いに期待していた東部戦線で、ソ連邦軍の大規模な反抗が始まっていたからだ。
 日本軍の方でも、日本軍がインド本土に上陸してから約三週間後、インドへの増援を準備していると考えられていた連合軍がマダガスカル島に侵攻した。
 マダガスカル島は、日本軍が入り江などを間借りする程度で、基本的に植民地警備軍程度のヴィシー・フランス軍しかいなかった。セイシェルからも遠いため、日本軍が攻め寄せた連合軍を空襲するようなことも難しかった。一方で、連合軍によるセイシェルなどの空襲が無かったのは、連合軍の側に小型の護衛空母程度しか母艦航空戦力が無かったからで、加えて大型水上艦艇がひどく不足していたからだった。
 日本側の同方面の連合軍に対する攻撃は、潜水艦複数が連合軍艦隊が南アフリカから出撃した頃からの通商破壊戦ぐらいで、日本側の損害の方が目立つほどだった。それでも輸送船複数と護衛空母1隻を撃沈していた。これはこれで、当時の連合軍にとっても大きな打撃だった。輸送船を沈めた結果、1個大隊の歩兵が沈んでいた。
 なお、マダガスカル島でのヴィシー・フランス軍の抵抗は微弱だが、それでも一部がしぶとく抵抗した上に基本的に大きな島のため、完全制圧には2ヶ月以上かかった。この時までに現地ヴィシー・フランス軍に、日本軍が事前に武器、弾薬を少量ながら供与していた事が影響していた。
 また、日本軍が「嫌がらせ」を目的として、小型潜水艦で雷撃したり、潜水艦による通商破壊戦を実施したことも、日本海軍が評価した以上に連合軍の作戦を大きく遅延させていた。

 そして1943年に入り、連合軍が本格的にマダガスカル島の基地を使用するようになると、連合軍の大型爆撃機(B-17、B-24など)がセイシェル諸島に姿を表すようになって空中戦も実施された。マダガスカル島や周辺部にも、日本の潜水艦は近寄りにくくなった。「P-38」戦闘機を伴った爆撃機が頻繁に空襲するようになると、セイシェルの航空隊も苦戦するようになる。同時に、連合軍の通商破壊戦が俄に激しくなったため、セイシェルへの補給も難しくなった。
 しかし勢いに乗る連合軍は、日本の防備が弱いと判明したセイシェル諸島の奪回を企図する。このために、改装が終わったばかりの「ダニエルズ・プラン」の戦艦の多くが動員され、「八八艦隊」の迎撃にも備えられた。
 だが日本軍は、セイシェルが自分たちにとって進みすぎた場所な事は最初から理解していた。日本海軍を率いる聯合艦隊司令長官の堀悌吉はその最先鋒で、日本軍は占領下にあったセイシェル諸島を「転進」という言葉によって初期の計画通りに放棄作戦を決定する。作戦決行は1943年3月で、陽動のために「八八艦隊」の戦艦群まで動員された。このため連合軍は、日本軍の増援もしくは激しい迎撃があるものと考え、慎重に行動することになる。
 最大で約5000名が駐留したセイシェルからの日本軍の撤退は、連合軍の艦隊の襲来直前に駆逐艦など高速艦艇を数多く動員した深夜の脱出行だったため、「奇跡の脱出作戦」などとも言われた。
 またこの時起きた戦闘では、護衛を務めていた日本海軍の精鋭水雷戦隊(第二水雷戦隊)が、侵攻しつつあるアメリカ軍の巡洋艦を中核とする優勢な先鋒艦隊を夜間雷撃戦で完膚無きまでに壊滅させ(「セイシェル沖夜戦」)、日本海軍の精強さを連合軍に印象づけるものともなった。
 だが、日本軍のセイシェル撤退によって連合軍の東アフリカ航路は息を吹き返したし、順次東アフリカ沿岸に連合軍の哨戒機や爆撃機、さらには戦闘機が隙間無く配備されるようになる。このため日本軍の東アフリカ沿岸やアラビア海での通商破壊戦も実質的に幕を閉じ、連合軍の戦力と物量が大幅に増え始めた事も重なって、1943年下半期に入ると中東もしくはインドに注がれる戦力が以後大きく膨らんでいく事になる。

 一方のインド戦線では、1942年12月6日にイギリス軍と総督府が逃げ出したカルカッタが、無血開城の形で陥落した。東洋が西洋に対して示した、非常に分かりやすい勝利だった。総督府や国民会議はデリーへと待避したが、インド全土に大きな衝撃が走ることになった。衝撃はイギリス連邦全体にまで広がり、連合軍全体でも「日本軍のインド侵攻以上の作戦」の決行を求める声が高まる事になる。
 かくして実施されたのが、初期の予定から半年も遅延した1943年3月の北アフリカ侵攻だった。
 これら多くの事件が続いた事から、1942年晩秋から1943年春までの期間こそが、第二次世界大戦が転換した時期だったと言われる事が多い。

 しかし各地の戦線と戦略的環境は、密接に繋がっているようで、繋がっていない場合も多かった。基本的に日本とドイツは互いにスタンドプレーばかりしていたし、連合軍側のソビエト連邦ロシアも基本的にはスタンドプレイヤーだった。他の連合軍から見て戦っているのか怪しい中華民国も、一応はスタンドプレイヤーという事になる。強く連携していると言われるイギリス、アメリカも、時として自らの勝手で行動した。
 また逆の意見として、日本が主侵攻地域としてインドを選択した為、中途半端にヨーロッパとアジアの戦況が連動したとも言われる事がある。さらに別の意見としては、1942年秋から翌年春にかけては、両者が拮抗したため一見複雑な状態に見えていただけというものがある。
 おそらくどの意見も、それぞれの側面から見た場合正鵠を射ていたのだろう。
 かくして戦争の天秤は、1943年春を境に連合軍に大きく傾いていく事になる。その際たる事件こそが、連合軍の北アフリカ侵攻だった。

 1943年春の時点での連合軍にとっての問題は、この次をどうするかだった。
 アメリカ政府としては、北アフリカや東インド洋での反攻作戦程度ではアメリカの世論は大きく動かなかったため、もっと派手な、それこそ早期の欧州総反抗を一日でも早く実施したいと考えていた。だが、アメリカ政府としては、作戦期日は気象条件など様々な観点から、1944年6月か9月が最も好ましかった。
 しかし、十分な大型艦艇が揃わない以上、日本に対する攻勢は中規模以上のものは半ば自殺行為だった。攻め込んだ途端にバッファローの群れのように「八八艦隊」が押しよせ、全てを沈めてしまう可能性が高いからだ。
 選択すべき戦場はヨーロッパだが、欧州総反抗は時期尚早というイギリスの強い反対もあって、当面は北アフリカもしくは地中海方面しかなかった。なお、イギリスが時期尚早と言ったのは、少なくともイギリス自身からすれば間違いない事実だった。1942年初夏からインドが混乱状態で、秋以後はインド洋が封鎖されたため、インドから兵力を持ってくるどころか増強しなければならず、インドの資源を自らの戦争に使うことも難しかった。加えて、日本軍との戦闘でも大きく消耗した。
 このためイギリスの戦争遂行能力は一時的に大きく低下し、その分アメリカの支援や援助に頼らねばならなかった。そしてインドというイギリスにとっての国家の根幹が揺らいだため、アメリカに頼ったと言っても十分ではなく、イギリス自身の戦闘力は低下した。加えて政治的にも、貸与という名の借金が増えて喜ぶ国はどこにもない。
 1942年夏以後のイギリスとしては、インドとインドに通じる海の道を何とかしたいというのが、切実な戦略的要求だったのだ。

 かくして連合軍は、依然としてヨーロッパ方面に大量の戦争資源を投じる事になる。跳梁するUボートを封殺し、ヨーロッパに対する戦略爆撃を拡大できる限り拡大し、そして「柔らかい下腹部」であるイタリアを目指した。だがドイツ軍は、1943年春の時点でヒトラーが弱腰だった間を利用した軍中枢の行動によって中東からの完全撤退を決定し、戦力を素早くチュニジアに再配置していた。ロシア戦線が大きく後退し、日本軍も東へと退いた以上、
中東に中途半端な兵力を置いていても無駄になるからだ。
 加えて、本国から北アフリカに増援も多数送り込まれ、1943年夏になってもチュニジアの戦場で戦闘を続けなくてはならなかった。
 ここでの連合軍の苦戦は、何とか息を吹き返したエジプト方面のイギリス軍が、この時点ではまだ戦力を充実させていない事が影響していた。ドイツ軍は、戦闘技術や経験の不足するアメリカ軍を優先的に攻撃すればよく、制空権獲得競争でも西側のアメリカ軍を主に相手取れば良かった。このため、夏頃までの戦闘はドイツ軍有利に展開できたのだった。
 だが夏が過ぎる頃には、北アフリカの連合軍はどの方面でも兵力を大幅に増強し、ドイツ軍のミスも重なってドイツ軍の撤退を余儀なくされていった。チュニジアでの戦いは、1943年9月15日にシチリア島などに撤退できなかったドイツ軍の降伏によって幕を閉じる事になる。
 そしていよいよイタリア本土の一角であるシシリー島(シチリア島)侵攻だが、この頃連合軍内でもう一度議論が戦われた。フランス北西部への上陸作戦を行うべきだという意見の是非を問うことだった。単に頭数なら十分揃っているので、シシリー作戦用の艦隊と上陸機材を回せば、一気にフランスに上陸することは十分に可能というものだ。だが、ドイツ空軍の問題が、最後まで積極論を肯定させることがなかった。
 シシリー上陸作戦は、ソ連邦軍の反撃作戦の成功に焦るように1943年11月に開始される。
 上陸作戦に際しては、空軍は陸地で賄えるため航空母艦はほとんど不要で、イタリア海軍の活動状況から戦艦もたいして必要ではなかった。だからこそ、連合軍は心おきなく強襲上陸作戦を行うことが出来たのだった。

 地中海での戦いをクリアした連合軍は、戦争リソースの配分を一部変更する。まずはインドを本格的に奪回するため、アメリカが対日戦に投じる比率を増やしたのだ。この時点でイギリスは、インド内での血みどろの戦いを決断出来ていなかったが、インドにも一定以上の戦力を傾けるようになる。
 しかし、インドに戦力と物資を回すのには一定の時間がかかるため、日本軍に対する戦争姿勢は、もうしばらく攻勢防御状態に据え置かれた。インドでは現状維持が心がけられ、ガンジス川流域での睨み合いに近い戦闘が散発的に続く事になる。しかし東アフリカ航路が再開して以後、インドに送り込まれる連合軍も格段に増え、特に航空隊は強化され、セイロン、カルカッタ双方の空では航空撃滅戦が展開され、もともと国力や生産力に劣る日本が、徐々に不利になりつつあった。
 日本軍の総合的な戦闘力とは、本来ならば連合軍の片手間で押しとどめられる程度のものなのだ。これを覆していたのが巨大戦艦群、つまり日本の誇る「八八艦隊」を中心とする日本海軍だった。局地制空権を維持して突撃してくる巨大戦艦群は、戦略を戦術でひっくり返すだけの局地的破壊力を備えていた。

 日本のことは次節に譲るとして、まずは奥州を見ておこう。
 そう、ドイツに対する総反抗が、1944年6月6日に遂に発動されたのだ。
 連合軍は、総力を挙げてフランス・ノルマンディー半島に強襲上陸作戦を敢行し、世に言う「ノルマンディー上陸作戦」もしくは「史上最大の作戦」や「D-day」とも呼ばれる大作戦の発動だった。
 第一波上陸部隊だけで16万人を数え、アメリカ軍、イギリス軍、カナダ軍、自由フランス軍など様々な軍隊が4つの上陸予定地点に対して強襲上陸を仕掛けた。彼らの後ろには、イギリス本土に犇めく数百万の大軍が続く予定だった。
 作戦には600隻の艦艇と7000機の航空機が投入され、4000隻を越える上陸用舟艇などが兵士達を海岸まで運んでいった。支援の艦砲射撃任務のために、太平洋から戦艦や重巡洋艦のかなりも回された。
 しかし作戦発動時期については、時期尚早という反対意見が作戦の検討段階から多かった。中でもイギリスのバーナード・モントゴメリー将軍は、6月発動を強硬に反対していた。イギリス軍の多くも、6月ではなく9月を主張した。イギリス首相のチャーチルも、「連合王国に二の矢はない」とアメリカに対して何度も難色を示したと言われている。
 しかしヨーロッパ北部では、太陽が昇っている時間は6月の方が圧倒的に長く、6月と9月では2時間以上の差が出てしまう。上陸後の戦闘でも制空権が絶対に必要な事を考えれば、6月の作戦決行の方がはるかに都合がよかった。海面状態も、9月より6月の方が穏やかな可能性が高いし、天候不順の可能性も低かった。そして実質的な主力となるアメリカは、作戦予定日の制空権の維持こそが作戦の成否を握っていると譲らず、6月6日の作戦発動となった。
 迎え撃つドイツでは、中東にまで進撃して国民の英雄となったロンメル将軍の意見が、ヒトラー総統の意向により大きく採用され、連合軍を偽の防衛作戦情報で欺瞞しつつノルマンディー海岸一帯で待ちかまえていた。ドイツ軍の多くは、ノルマンディー方面ではなくカレー方面こそが本命だと信じている者が多かったが、ロンメル将軍の読みは完全に当たる。
 また、連合軍が北アフリカ作戦からノルマンディー上陸作戦までを急ぎ足で実施した為、目立たないも小さな準備不足が各所で積み重なっていた。特にフランス北部、ベネルクス地域の交通網に対する爆撃の不足が、ドイツ軍の部隊移動を円滑なままとしていた事は大きな失策だった。
 問題点の多くについては、全般的に戦争を有利に展開している連合軍は気付かず、それがロンメル将軍の読みの正しさと共に、作戦当日全てさらけ出されてしまうことになる。(※連合軍の「小さな準備不足の積み重なり」の多くは、戦後の研究で明らかになったものだった。)

 乾坤一擲だった連合軍の上陸作戦は、最初の48時間で完全に失敗してしまう。
 海岸線では、連合軍の予想より強力な戦力に迎撃され、海岸を連合軍将兵の血で染め上げた。上陸地点後方で行われた空挺部隊による大規模な降下作戦は、ほとんど失敗した。空挺部隊の作戦では、師団長が捕虜になると言う失態も見られた。
 そして、作戦地域の少し後方に待機していたドイツ軍機甲師団の突撃によって、作戦初日の夕方までに半数の橋頭堡が完全に破壊されて多くの死傷者が発生した。死傷者の数は、初日だけで上陸した全将兵の三分の一にも達した。このためノルマンディーの海岸は血の混ざったオレンジ色に染まり、連合軍将兵は味方の死体を積み上げてドイツ軍の攻撃を防いだと言われる。
 まさに「死者と、これから死ぬ者」の世界だった。
 時間と共に焦りを強めた連合軍総司令部は、翌日予定を繰り上げて第二陣の一部を強引に上陸させ、初日にも匹敵する攻撃を海岸一帯で繰り広げた。やり直しのきかない作戦であり、引くわけにはいかない戦場だったからだ。
 だが戦艦、巡洋艦を中心とする艦砲射撃部隊は、弾薬補給の必要から全力発揮はもはや叶わず、艦艇の中には砲身内筒の摩耗により砲撃能力を喪失した艦艇も初日に続出していたので、時間の経過と共に総合的な砲撃力は低下していった。このため駆逐艦までが艦砲射撃に動員された。航空隊も、制空権の確保は問題なかったが、疲労による事故、稼働率の低下などで戦力は少しずつ低下した。しかも天候までもが、多くの時間で裏切っていた。
 ドイツ軍の抵抗も激しく、上陸後に必ず必要な人工港「マルベリー」の一つが、ドイツ空軍の決死の攻撃により目的地目前で破壊されてしまう。海岸に取り付いた部隊も、基本的に遮蔽物が少ないため、ドイツ軍に比べて遙かに酷い損害を受けた。それでも連合軍は沖合から次々に増援を送り込んだが、負傷者が出ても沖合の艦船に引き返すことが難しいため、通常の戦場に比べると酷い戦死者率となった。この中で、早期に機械化部隊を投じたイギリス軍が善戦して最も橋頭堡を拡大したが、逆にドイツ軍の親衛隊の機械化部隊の海岸堡突入を誘発してしまい、より多くの犠牲を出してしまう結果となった。
 その後も血で血を洗うと言われるほどの激戦が続くも、橋頭堡の確保に失敗して混乱が収拾出来ない連合軍は、犠牲に耐えかねるように6月10日に作戦の中止を決断。上陸している生き残りの兵士を救助する作戦に変更された。
 この時連合軍は上陸した将兵の約半数に当たる10万人以上の将兵が戦死したが、その後の事を考えると犠牲を無視してでも作戦を強行して続けるべきだったという説も根強い。だがノルマンディー海岸の健常者は5万人を切って増援も既に不可能となり、作戦自体の破綻は確定的だったため、10万の将兵を救った事を評価する意見も大きい。

 ノルマンディー上陸作戦の失敗は、連合軍に極めて大きな衝撃を与えた。
 万全を期した筈の世紀の反攻作戦だった筈が、ドイツ軍に跳ね返されてしまったのだから当然だろう。しかも上陸機材と上陸作戦用の部隊の殆どを失った為、その後すぐに作戦再興する事も難しかった。強気な者は9月の再発動を唱えるも、もうノルマンディーが使えない以上、今度はそれこそカレーにでも上陸しなければならない。そしてカレーは「大西洋の壁」とドイツ宣伝省が宣伝したように、ノルマンディーよりも強固に防衛されているので、より高度な作戦準備が必要となる。だからこそ、安易な作戦は選択できなかった。続けて失敗するようなことがあれば、戦争そのものを失う可能性があるからだ。
 だが、9月を逃してしまうと、次の作戦可能な時期はほぼ1年後となってしまう。秋から春にかけて北の海での大規模上陸作戦など、失敗するために行うようなものだからだ。
 このため連合軍は、作戦の根本的な建て直しを余儀なくされた。そして当面はイタリア方面での作戦を強化し、戦略爆撃を一層強める以外の手だてがなかった。
 ソ連邦への援助を強化して進撃を促すという手もあったが、既に強い野心を見せているソ連邦にヨーロッパ全土を占領させることは、連合軍の総意として受け入れられる事ではなかった。特に、各国自由政府は、一日も早い連合軍のヨーロッパ反抗を望んでいた。ソ連邦により共産党政権が作られてしまう事を、殊の外警戒していたからだ。
 また別の場所では、連合軍の反抗を望んだ勢力が存在した。
 アメリカ現政権と小数与党となっていた民主党だ。
 6月の総反抗失敗のため、現政権と民主党の支持率は大きく低下。このため各地の予備選挙で敗退を喫してしまったからだ。
 そしてアメリカ中枢部の思惑が、日本への早期の反抗を決意させることになる。


●フェイズ14:「絶対国防圏」