●フェイズ19:「終幕に向けて」

 「第二次マリアナ沖海戦」は、大方の予想を覆して日本の戦略的、戦術的勝利に終わった。
 連合軍の敗因は、日本が開戦時から最も強固に防衛している場所へ侵攻した事、連合軍の作戦準備と戦力が相対的に見て不十分だったことに尽きる。戦術面での日本海軍の戦術を読み違えた事と、何より日本海軍の異常なほどの積極姿勢を予測できなかった事を挙げる人も多いが、そうした点は戦場での齟齬、情報の錯綜などよく起きる事象の一つに過ぎない。日本海軍の奇跡の勝利と言われることもあるが、勝利と敗北には必ず原因があるのだ。ただし、アメリカ側の兵員の練度不足、経験不足は十分に敗因の一つに挙げられるだろう。
 サイパン島を巡る戦闘は4月10日までに完全に終息し、パラオとエニウェトクでは、双方の工作艦が懸命の修理作業を行っていた。
 そして敗北を少しでも和らげようとしたアメリカ海軍は、パラオ近辺に向けられるだけの潜水艦を派遣した。だが、日本側が《松型》駆逐艦を中心とする優秀なハンターキラーと、戦争中日本海軍しか保有しなかった磁気探知装置を搭載した航空機を多数含む航空隊(901または902航空隊)を投入して徹底した対潜掃討戦を実施したため、駆逐艦1隻大破の戦果と引き替えに3隻の潜水艦を失い損害の上乗せ、恥の上塗りをする結果に終わる。
 だがこれで戦いは本当に終わりで、それを告げるようにサイパン島では日米双方の戦死者を弔う簡易葬を行い、米軍が遺棄した燃料で火葬した。その炎は一昼夜以上も燃え続けたと記録に残されている。それだけ多くの戦死者が出たのであり、多くはアメリカ兵のものだった。そして日本軍が米兵すら火葬で弔ったように、マリアナでの勝者は日本軍だった。

 1945年4月の二度目のマリアナ諸島侵攻の失敗は、連合軍を遂に戦略的、政治的な袋小路に追いつめてしまう。
 これでもし5月に決行予定の「2nd D-day」が失敗すれば、欧州を失わない為に日本との戦争を、政治的要求から放り投げるしかなくなってしまうからだ。連合軍には、時間すら無くなりつつあったのだ。
 それ以前の問題として、既に日本と戦争をする理由が、少なくともヨーロッパでの戦いの為には不要となっていた。むしろ大きな負担だった。
 そしてこの時、連合軍にとっての日本の内政状況は、戦争を手打ちにするに際してそれなりの条件を備えていた。

 1945年2月のカルカッタ陥落の責任を取る形で、戦争を引き起こした東条内閣が総辞職した。そして、老練な政治家の鈴木貫太郎を新たな総理大臣とする内閣が成立していたからだ。
 鈴木内閣は、戦争継続内閣ではなく戦争終結内閣であり、二度目のマリアナ海戦の前に既に連合軍に対して接触も試みられていた。
 なお、堀悌吉が聯合艦隊司令長官を1944年11月に交代して参議官となっていたので、鈴木内閣の海軍大臣に抜擢されている。また軍令部総長には同期の山本五十六が就任し、海軍内から戦争継続派が排除されている点も注目に値するだろう。
 そしてアメリカの世論は、日本に対してナチスに対するほど敵意、敵愾心を持っていなかった。
 確かに、日本帝国は有色人種国家であり世界平和を乱す軍国主義国家で、チャイナを始め近隣を侵略していたため、それなりの敵愾心はあった。アメリカに宣戦布告したのも日本だし、西海岸の辺鄙な場所とはいえアメリカ本土を直接攻撃したのも日本だった。だが、アメリカが不要な血を流すほどの相手とはあまり考えられていなかった。この考えは、第二次サイパン戦の大敗で大きく台頭した。
 しかも、日本軍とりわけ「八八艦隊」は予想以上に強力であり、パラオ、インド洋、サイパン、二度目のサイパンとたびたび正面から戦ってはアメリカ海軍が破れているので、敵愾心を燃やすよりも士気が低下しているのが実状だった。
 日本海軍の活躍のため、日本軍と言えば「海の狂戦士(シー・バーサーカー)と捉えられるほどだった。
 アメリカ政府としても、アメリカが日本と戦争を開始したのは裏口からヨーロッパの戦いに参加するためであり、日本相手に苦戦を強いられて戦争スケジュールが大きく遅れている現状は、戦略的には本末転倒に近かった。
 加えていえば、アメリカ国民の日本に対する敵意の殆どは、突き詰めてしまえば「小癪な有色人種」もしくは「良く分からない不気味な有色人種」だからでしかなかった。
 そしてソ連邦軍の快進撃と連合軍の敗北の重なりという要素が、日本に対する戦争の終結に対する大きな岐路となる。

 一方、この頃ナチスの支配するドイツは、既にソ連邦赤軍の前に滅亡の縁に立たされていた。
 連合軍のノルマンディー上陸作戦の失敗後のてこ入れにより、東部戦線でのソ連邦軍の前進速度はある程度低下した。しかし「ある程度」でしかなかった。最大1500万人を数えるソ連邦赤軍を押しとどめられるだけのドイツ軍及び欧州の枢軸軍は、既に存在していなかった。
 だが、連合軍からのレンドリースが激減したソ連邦も、自らの大軍を維持することに四苦八苦していたので、進撃はスターリン書記長が望んだほどではなかった。1944年6月に連合軍と呼応した形の大攻勢でも進撃速度は十分ではなく、大規模な二重包囲作戦を実施した北部では、多くのドイツ軍の脱出を許していた。それでも1944年内に国土の殆どを奪回し、バルカン半島の解放(侵攻)も順調に進んだ。
 しかし1944年12月に、ドイツ陸軍最後の大規模反攻作戦(「バルジ作戦」)によって、ポーランド方面の最前線で精鋭3個軍が包囲殲滅されて後方の兵站拠点が破壊されたため、進撃速度の大きな遅延を余儀なくされていた。
 それでも1945年4月には、ドイツ本土に対する侵攻作戦が開始される。
 ドイツ軍は、ソ連邦軍を押しとどめるために西部戦線から根こそぎ、他からも引き抜けるだけ引き抜いて東部戦線に注ぎ込んだ。このためソ連邦軍は、攻め急いだところを各所で撃破され、ドイツ本土に極端に深く攻め入ることは出来なかった。東プロイセンの主要都市ケーニヒスベルグ前面では、民族の誇りを賭けた戦いが激しく行われた。しかし、ソ連邦軍が再び兵站線、補給線を確保した後、つまり2〜3ヶ月後に大攻勢が再開されれば、それはドイツ本土での本格的な戦いを意味しており、首都ベルリンが最前線となることがほぼ確実だった。
 このためナチス首脳は、ヒトラー総統にベルリンからニュルンベルグやミュンヘンなどへの租界もしくは遷都を勧めるも、ヒトラーは移動を極端な態度で拒絶。自らがベルリンから動くことはあり得ないと、周囲に喚き散らしたという記録が各所に見られる。

 一方、完全に攻める側となったソ連邦だが、スターリンは連合軍がフランス北岸に上陸するまでに、最低でもドイツ全土の占領を「いかなる犠牲を払おうとも」という言葉によって極めて強い態度で命令していた。この頃のスターリンは、ロシアの支配者では飽きたらず欧州大陸の支配者となる事を目論んでいた。つまりは、アメリカと並ぶ世界の覇権を競う地位を求めていた。
 このため、本来なら7月半ばに予定していたドイツ中枢部への攻勢再開を、一ヶ月前倒しにして6月中旬とした。当然ながら、前線での弾薬など兵站物資の備蓄は十分ではないし、後方の補給路も不完全だった。だがソ連邦という国家において、スターリンの命令は絶対だった。そして連合軍の動きを知ったスターリンは、さらなる攻勢開始日の前倒しを命令。ベルリンを目指す攻勢の開始日は、6月9日となった。
 だが流石に何もかもが不足したので、バルカン半島(主にハンガリー方面)の事は後回しにされ、アジア極東については完全に捨て置かれた。スターリンも渋々これを認め、何はなくともドイツ全土の占領を厳命した。連合軍に対してもレンドリースの大幅増加を求めるも、連合軍は自らの反抗作戦のため何もかもが不足していると説明し、ソ連邦向けレンドリースを増やすことはほとんど無かった。

 以上が1945年3月から5月までのヨーロッパ情勢であり、連合軍としては「2nd D-day」までに日本海軍を破ってサイパン島を占領している予定だった。場合によっては、日本との間に極めて有利な停戦を結んで、万全の体制で欧州反抗を挑む積もりだったとも言われる。
 しかし、日本海軍の半ば自殺的、もしくは野蛮に「殴り込み」と言われた激しい反撃によって太平洋方面での攻勢は大失敗に終わり、アメリカを中心とする連合軍は13万人もの将兵を僅か数日で失うことになった。しかも、再建したばかりの主力艦隊は事実上壊滅し、次世代の主力と目されていた空母機動部隊も半壊した。そして何より、強襲上陸作戦を行う戦力が将兵共々ほぼ完全に消滅していた。欧州で同種の機材、部隊が必要な連合軍にとって、日本に対する攻勢は欧州での目処が付くまで事実上不可能となったのだ。
 対して日本軍は、空母部隊と基地航空隊こそ壊滅に追い込んだが、戦艦はただの1隻も沈めることができず、宿敵の「八八艦隊」はいまだに健在だった。実際、日本が生還した艦艇を全て修理できる能力を既に無くしていたのだが、連合軍は気持ちの上で完敗したようなものだった。
 そして現実面では、欧州反抗がまだ叶っていない連合軍としては、対日戦は最低でも半年のスケジュール遅延を認めなければならない状態だった。
 このため連合軍は、対日戦について「2nd D-day」が一定の成果を見るまで完全に棚上げとして、基本的に半年の作戦遅延とした。
 そして日本に対しては、戦術的には通商破壊戦のみが強化されることになり、再びマリアナで敗退した艦隊のうち大型艦で稼働艦またはすぐに修理が出来る艦の3分の1が、急ぎ大西洋に回されていった。言うまでもないが、「2nd D-day」に作戦参加するためだった。
 余裕のない連合軍は、もはや日本海軍との雌雄を決するというある種贅沢な戦闘をしている場合では無くなっていたのだ。
 この証拠として、日本側の内閣交代に伴った形で、中立国などを介した接触が俄に活発化するようになる。つまり連合軍にとっての日本との戦争は、軍事から政治に大きくシフトしたと言えるだろう。こうした変化からも、獅子奮迅の活躍を示した日本海軍こそが実質的な戦争の勝者だった。

 1945年5月6日、ドーバー海峡の狭隘部に位置するカレーを中心とする海岸部に、政治的に後がない連合軍は強襲上陸作戦を決行した。
 「2nd D-day」もしくは「カレー上陸作戦」の開始だ。
 前回の「ノルマンディー上陸作戦」を遙かに上回る物量と兵力が投入され、その膨大な物量には今度こそ失敗するわけにはいかないという連合軍の強い決意があった。作戦には、1万機もの航空機が投入された。
 そして、既にソ連邦に滅亡寸前に追いつめられていたドイツに、連合軍の上陸作戦を押しとどめる力はなかった。
 1945年春頃から実戦投入されていた革新的な新型潜水艦(「IXX型」)も、開発などを急ぎすぎたため機械的な不具合が解決しきれておらず、加えて数が揃わなければ戦力とは言えなかった。カレー方面に多数設置されていた「大西洋の壁」を成す強固な砲台群も、事前の空襲と当日の戦艦複数からの艦砲射撃によって徹底的に粉砕された。迎撃不可能な弾道ロケット(A-4またはV-2)も、発射基地、部隊に対する徹底した爆撃で対処され、しょせんは兵器なので数がなければ扱いの難しさもあって嫌がらせ程度の脅威でしかなかった。
 しかも、本来なら「大西洋の壁」を形成している筈のドイツ軍の戦力の多くは、ソ連邦軍を押しとどめる戦闘に回され、一年前ノルマンディーの海岸であれほど猛り狂ったドイツ軍の姿を、上陸した連合軍将兵はあまり見かけることがなかった。上陸時の激しい抵抗は、親衛隊が守備していた地域で一部激しく行われるも、多くの地域では連合軍に土地を明け渡すような状態だった。
 それ以前の問題として、既にドイツ軍に連合軍の攻撃を止める意志があったのかも怪しい。多くのドイツ人が、連合軍が北フランスの海岸に上陸した事よりも、ロシア人が首都ベルリンに迫っている事を強く気にかけていたからだ。ヒトラー総統ですら連合軍は眼中にないらしく、共産主義者からベルリンを守れと叫んでいた。

 その後、カレーに上陸した連合軍の進撃も予測以上に順調で、ドイツ軍は連合軍の激しい攻撃を受けると簡単に後退していった。そして上陸から一ヶ月も経っていない6月4日、連合軍の予測よりもはるかに早くフランスの首都パリが解放された。同時期、ベネルクス諸国もほぼ開放されていた。
 この間ドイツ軍の激しい抵抗はほとんどなく、抵抗はドイツ国境方面でこそかなりの激しさだったが、それでも無理な防戦は行わなかった。
 西部戦線でのドイツ軍の動きは、ベルリンで虚しく怒鳴り散らしていたヒトラーの意志に反している場合が多かったが、そのドイツ人達は連合軍に早くドイツ本土に入ってこいとすら言いたげだった。
 そしてドイツ人達の危惧が、遂に現実のものとなる。
 6月9日に、ソ連邦赤軍の総力を挙げたドイツ本土侵攻が大々的に開始されたのだ。
 目標はもちろん帝都ベルリンの攻略だ。
 エルベ川沿岸までを二重包囲で包み込み、ベルリンを陥落させると共にドイツ東部を全て占領してしまうのが目的だった。
 この段階でのドイツ軍の主な戦いは、国家、民族の意地としてのベルリン防衛を例外とすれば、多くは国民と資産を西へと逃がすことだった。このためソ連邦赤軍の二重包囲の外側を侵攻する部隊は、ドイツ軍の激しい抵抗を受けて攻撃はうまくいかず、多くのドイツ人が西へと逃げのびていった。しかしヒトラーが残るベルリンは完全に包囲され、彼が命じた外からの包囲を解く攻撃も、ほぼ命令を無視した形で一人でも多くの国民をソ連邦軍から救う事に使われていた。

 そしてベルリン市街では激しい攻防戦が行われ、ソ連邦軍の一部がエルベ川に到達しようと言う頃、連合軍は急速にドイツ本土へと侵攻しつつあった。
 6月5日には早くもライン川を無血で渡河し、ドイツ軍の抵抗は一部親衛隊を除けば、連合軍が野蛮な行動を取らない限りあまり見られなかった。
 本来なら連合軍に対するドイツ軍の抵抗は、ドイツ本土方面でこそかなりの分厚さと頑強さを持っていたが、既にドイツはソ連邦、いやロシア人にドイツ全土を占領されない方策が何であるかを明確に理解していたと言えるだろう。今まで激戦が続いていた北イタリアでも、ドイツ軍は殆ど総退却の様相だった。
 そうした中、6月21日にソ連邦軍の発表によるベルリン陥落と、翌日にヒトラーの死亡が発表される。
 遂に、世界を暗黒へと突き落としたナチスが滅びたのだ。
 しかしドイツはまだ降伏したわけではなく、ヒトラーはベルリンで激戦が続く中で、次の総統にハンブルグにいたデーニッツ提督を指名していた。そしてそのデーニッツ総統は連合軍に対する即時全面停戦を持ちかけるも、連合軍内部で混乱が見られ、連合軍で短くも激しい議論が行われた。

 連合軍内での争点は、ドイツの行動は欺瞞で本当にヒトラーがベルリンと共に滅びたのか、という点だった。デーニッツ提督が総統を引き継いだというのは、交渉の手段ではないかと疑われたのだった。このため、基本的には全面的な無条件降伏以外を受け入れることが難しいと考えられていた。しかし、連合軍とソ連邦の微妙な関係、ソ連邦の動きに対する対応を考えねばならないため、議論が必要だったのだ。
 議論された中でもっとも妥当な案は、上にも挙げたようにドイツに対してソ連邦を含めた全軍に対する無条件降伏を求めることだった。しかしこれには条件がある。ソ連邦がドイツ全土を占領するかどうかと、ソ連邦がドイツに赤い政権をうち立てるかどうか、だった。黒いドイツを倒した後で、赤いロシアの意のままに動く赤いドイツが出来ては、連合軍としては目も当てられない事態だった。そして現状では、そうなる可能性が最も高いと考えられていた。ソ連邦軍は息切れしていたが、連合軍も急激すぎる進撃で主に補給面で息切れしていたからだ。
 別の案は、ドイツ側の申し出を受け入れて、ソ連邦以外の連合軍がドイツの停戦に応じるというものだ。そして、即時停戦と共にドイツ国境に向けて進みつつある連合軍をソ連邦軍の前まで進ませてしまい、既成事実でドイツを分割占領に持ち込んでしまうというものだ。今後ソ連邦との関係は極度に悪化するが、何を今更という意見も強かった。
 さらに過激な案は、ヒトラーとナチスが滅んだのだから、今度はドイツの残り滓を露払いとして、一党独裁で共産主義国家のソ連邦に対して自由と正義のための戦いを始めるべきだ、というものだった。
 最後の案については、一部の過激な軍人による個人的な案だったが、東欧諸国の多くが賛同した為、議論に含まれていた。東欧諸国の自由政府にして見れば、祖国が共産主義化しては意味がないからだ。
 そして連合軍が主にロンドンで昼夜を問わず議論を重ねている時、ソ連邦側からのメッセージが全世界に向けて発せられた。
 ヒトラーとナチスがベルリン陥落と共に消えた以上、ドイツの残存勢力は全連合軍に直ちに降伏するべきである、と。
 このメッセージの背景には、ベルリン侵攻でタダでさえ不足する物資を使い果たし、また予想以上に多くの損害を受けたソ連邦軍に、ただちにドイツ西部に進撃する力がない事を現していた。だからこそ、ソ連邦にとって最も優位な条件を持ちかけてきたのだ。その場でドイツ軍が降伏すれば、そのままドイツ西部に押し入ることも出来るからだ。
 そしてさらに、スターリンの明確なメッセージだった。連合軍に対して、ドイツと東欧を全て寄越せという盗賊の言葉だった。
 ある意味、連合軍に対するソ連邦の挑戦状でもあったとも言えるだろう。本来ならソ連邦は、ここで全連合軍と協議を経た上でメッセージを出すべきなのに、それをせずに独自行動に出ていたからだ。
 そしてドイツ、ソ連邦が外交というゲームの上でカードを切った以上、連合軍も早急に結論を出さねばならなくなる。そして連合軍が選んだ選択肢こそが、ドイツ側が提示したソ連邦軍以外の連合軍との即時停戦と、連合軍に対するドイツ軍の無条件降伏だった。
 6月29日、連合軍は自分たちも現ドイツ元首と認めたデーニッツ元帥との間に、ドイツ軍の無条件降伏と即時停戦に合意し、そして連合軍の進駐の約束が交わされた。そしてほぼ同時に、ドイツ軍を道案内としてドイツ領内を素早く通過して東進し、夜を徹して進んだ兵士達は一気にドイツ中部を流れるエルベ川を目指した。
 この状況にスターリンは怒り狂ったと言われるが、ヒトラー無きドイツ軍はソ連邦軍を一歩も西に進ませる気はなく、東部に残された同胞を救うことに専念していた。

 早くも6月30日には、連合軍の先遣隊がエルベ川に姿を表した。
 ここで連合軍とソ連邦軍は、極めて高い緊張の中で握手を交わし、ヨーロッパでの戦いは急速に終息へと向かうかに見えた。
 だがこの時点では、ソ連邦軍とドイツ軍の停戦もしくはソ連邦軍に対するドイツ軍の無条件降伏が成立していなかった。
 連合軍としても、ドイツにソ連邦に対する無条件降伏を求め動いていたのだが、ソ連邦軍が白旗を掲げたドイツ軍軍使を無視している事と、ドイツ側がやたらと進駐を開始した連合軍を自国領内に入れた為、ドイツ軍とソ連邦軍がまだ戦っている段階でドイツ軍に先導された形の連合軍がソ連邦軍と握手する事となったのだ。
 このため、ソ連邦側の連合軍に対する不信は極めて強かった。 ドイツ軍のソ連邦に対する無条件降伏は7月4日に成立し、欧州での戦闘は7月5日午前零時1分から発効したが、世界情勢が大きく変化した事は事実だった。

 ヨーロッパでの戦いの終焉に伴い、世界は戦争から政治の時間へと急速に移行していった。
 しかし、すぐに連合軍の首脳がベルリンに参集して会議を開く、というわけにはいかなかった。ドイツが落ち着くまでには数ヶ月が必要だし、何より連合軍とソ連邦との間に大きなわだかまりが出来ていたからだった。
 ドイツの占領と武装解除についても、連合軍はベルリンの共同占領を求め、ソ連邦はソ連邦軍によるドイツ全土の占領を求めていた。ドイツ以外でも、オーストリアについても連合軍が分割占領を求めるも、連合軍が来るまでにソ連邦軍がほぼ占領したため、ソ連邦側は侵攻した国による占領という建前を持ち出していた。同じ事を連合軍も行い、イタリア、ギリシア、アルバニア、デンマーク、ノルウェーの占領は、順次連合軍が行っていった。
 しかし、両者いがみ合っていても話しが先に進まない事は誰もが理解していたので、取りあえず自分たちの領分を確保した後になるが、9月頃を目処に首脳会談と今後の戦争展開についての話し合いを行うことになった。
 だが連合軍は、これ以上どん欲なロシア人に何かを渡すつもりは無かった。特にデューイ大統領の決意は固かった。それを現すかのように、ドイツの戦争が終わってすぐ、アメリカは切り札となる力を手に入れていた。
 7月16日にアメリカ、ニューメキシコ州のアラモゴルドにて、世界初の原子爆弾の実験に成功したのだ。
 そして新世代の戦略的兵器を手に入れたアメリカは、ソ連邦にこれ以上何かを渡してしまう前に、残る日本との戦いを政治的に一気に終息しようとした。

 7月26日、イギリスでチャーチル率いる与党が大敗を喫したその日、パリ郊外のベルサイユ宮殿に集まっていた連合軍首脳の連名で一つの宣言が発表された。場所の名を取って「ベルサイユ宣言」とされる宣言は、日本に対する無条件降伏以外の戦争停止を求める言葉だった。
 内容の概要は、以下のようになる。

 宣言内容
大日本帝国に対して戦争終結の機会を与える。そのために以下の条項の受諾を求める。

・日本政府による即時停戦の受諾。
・日本軍事力の全面停戦と降伏。日本政府によるその保障。
・日本政府の存続の保障。
・天皇主権の廃止。但し天皇の保全を認める。
・憲法の改定。
・民主化。
・日本陸海軍力の一方的制限。
・日本を軍国主義へと導いた勢力の除去と処罰。
・上記の上項目を達成するための裁判の開催。
・占領地域からの無条件撤退。
・朝鮮の独立。
・上記の項目全てを監視・監督するための日本本土への連合軍駐留。
・日本が有する植民地(委任統治領、満州地域含む)全ての連合軍による占領統治。
・「大東亜会議」の解散と無効化。
・東京での停戦条約の調印と講和会議の開催。

・ただし、「カサブランカ会議」での発表を白紙化するものとする。

以上、受け容れられない場合は、迅速且つ完全なる壊滅あるのみ。

 最後の「カサブランカ会議」での発表とは、いわゆる「無条件降伏」を差すもので、日本に対しては「第一次世界大戦後に日本が獲得した海外領土の剥奪」や「満洲、台湾、澎湖諸島の返還」など、非常に厳しい項目もあった。それを連合軍は全て白紙撤回し、この時改めて停戦と講和会議を求めたのだ。
 連合軍としては、大幅という以上の譲歩と言えるだろう。
 ただし、アメリカとイギリス、フランスによる会議であり、欧州各国はその後追認の署名を行い、一応は連合軍である中華民国には電話連絡の後に、かなり後で署名が迫られただけだった。そしてこの宣言に、ソ連邦は関与していなかった。ソ連邦は連合軍の歩調を乱す重大な背信行為だと米英を強く非難したが、連合軍はソ連邦は日本と戦争状態にないからだと強く反論した。加えて、同年6月にソ連邦が一方的に破棄を宣言した「日ソ中立条約」は、外交条約上でいまだ有効だとも説明した。
 なお、連合軍が日本に対して戦争終結のハードルを大きく引き下げた理由は、基本的にはソ連邦にこれ以上の獲物を与えない為、ソ連邦を東アジア情勢に関わらせない為だった。しかし一方では、ソ連邦が日本に急接近して連合軍との関係を「取り持つ」事を恐れていた。日本とソ連邦が手を結ぶことはあり得ないという意見も強かったが、完全に否定することも難しかった。ソ連邦は既に連合軍との関係を悪化させており、日本は当面の戦闘には勝利したが戦略的な不利は今後ますます酷くなる。
 そして数年前にドイツとソ連が手を結んだように、外交の世界では何が起きるか分からないのだ。
 だからこそ、頑なな日本を自分たちの側に呼ぶための「北風と太陽」に揶揄された手段こそが、「ベルサイユ宣言」だった。
 しかし、日本の反応は微妙だった。
 日本政府は、即日「考慮に値する」という声明を発表するも、全てを受け入れることは難しいという言葉も国内向け新聞への発表では並べていた。
 こうした微妙な言葉となったのは、日本国内の事情が影響していた。正しく状況が見えていない日本国内の様々な抗戦派は、インドでは負けたが太平洋では勝ち続けているからこそ、今回の連合軍の「弱腰」が出たのだと空虚に論じていた。だから、さらに軍事的勝利を挙げれば、さらに有利な条件を引き出せると論じていた。そして自分たちには「八八艦隊」や《大和型》戦艦があり、連合軍の艦隊など恐れるに足らずと気炎を上げていた。
 しかし、世界的視野でものが見える人は、この辺りが武器の納めどころ(=戦争終結の時期)だと理解していた。冷酷な者は、日本人により負けたことを理解させるため、連合軍からもう一撃欲しいぐらいだと考えていた。しかしそのもう一撃とは、極東全域からのソ連邦の全面侵攻の可能性が高かった。事実、ソ連邦の指導者スターリン書記長は、10月中に200万の兵を極東に移して日本に対する全面的な攻撃開始を命令していた。
 一方で連合軍が危惧した通り、ソ連邦と通じて戦争を何とかしようと動いていた人々もいた。この人々は、連合軍からより有利な条件を引き出すための政治的手段、ブラフ(脅し)の為に動いたと今日では考えられているが、この時点ではソ連邦側は言を左右にしていた。ソ連邦としては、一日でも長く日本が戦祖を続けてくれる方がソ連邦が何をするにしても都合が良かったからだ。一部では、日本と連合軍の橋渡しに動くべきだという意見すら既に出ていた。

 そして曖昧な返答を受けた連合軍だが、言葉通り「迅速且つ完全なる壊滅」を実施するための作戦を発動する。ただし真の目的は、日本に白旗を振らせる事にある。
 作戦名は「マッターホルン」。
 1945年に入ってから、急ぎ中華民国奥地の重慶に作られた「シャングリ・ラ(桃源郷)」という架空の名を与えられた「秘密基地」から「B-29 スーパーフライングフォートレス」を飛び立たせ、日本の都市に原子爆弾を投下するというものだ。
 重慶からの「B-29」による日本本土偵察は、既に1945年4月頃から開始されていた。6月からは九州の北部に対して、小規模な爆撃も実施されていた。しかし、現地には日本軍が既に多数の迎撃機を配備しており、アメリカ側の機体数が少ない事も重なって実質的な効果は殆ど無かった。ただし日本人への心理面での「攻撃」という面ではか、かなりの成果を挙げていた。日本政府が言うように日本が勝っているのなら、インドで負けたりしないし、ましてや日本本土が空襲を受ける筈がないからだ。加えて、アメリカ軍は機雷の投下も行っており、大きな効果を挙げてもいた。
 そして8月6日、アメリカ軍による第一撃目の作戦が発動されたのだが、作戦は失敗に終わる。
 アメリカ側は偵察や囮を含め、多数の機体を九州西部各所に送り込んだのだが、日本側は基本的に小倉(現北九州市)の八幡製鉄所を重点的に防衛していた。そしてアメリカ軍の目標も、彼らにとっての最大進出距離に位置する小倉だった。
 午前7時頃から日本列島に進入を始めた多数の「B-29」に対して、日本陸海軍の航空隊はそれこそ血眼になって迎撃を実施した。試作機までが飛び立ったという記録まである。しかしこの時の日本軍は、アメリカ軍が原爆を使おうとしているとは全く知らず、単に小倉を簡単に爆撃されては自らのプライドに関わるからだった。
 そして迎撃機の数がアメリカ側の予想よりもずっと多く、またこの日に投入された新型迎撃機も存在していた事もあって、アメリカ軍にとっては運悪くウラニウム型原爆を搭載した「B-29」は緊急待避も間に合わず随伴機共々撃墜されてしまう。撃墜したのは、迎撃戦闘機ではなく博多湾に偶然停泊して対空射撃に参加した海軍の防空駆逐艦だという説、博多と小倉の間に設置された大型高射砲の説もあるが、真実はいまだハッキリしていない。
 ただし幸いと言うべきか、原爆そのものは誤作動や破壊による炸裂という事態にも至らなかった。原爆は搭載機もろとも地上へと墜落し、墜落場所が海上だったため日本軍は真実を知ることもなかった。そして日本軍は、単に多数の「B-29」の迎撃に成功し、アメリカ軍の撃退に成功したと高らかに勝利宣言した。当然ながら原爆の事は一切触れられていなかった。
 このためアメリカとしては、顔に泥を塗られたばかりか、原爆が日本の手に渡ったかもしれないという強い懸念を持たねばならなくなった。日本が情報を隠している可能性が、十分以上に存在したからだ。このため次の作戦は少しでも早く行って汚名を注ぎ、そして日本に大きな衝撃を与えなくてはならなかった。
 かくして8月9日、今度は迎撃の甘い都市を候補から選び、さらに前回より時間もずらして作戦を実施した。
 原爆が世界で初めて実戦使用されたのは、長崎となった。
 街の中心部は一瞬で破壊され、街が細長い盆地状のため中心部の受けた被害は尚一層酷かった。死者の数は約7万3000人。ほぼ同数の死傷者も出していた。負傷者の多くは、その後原爆症や傷、火傷が元で死亡している。そしてこの被害を、たった1発の爆弾が実現したのだった。

 原爆は、日本人の間に大きな衝撃をもたらした。
 いくら自慢の「八八艦隊」で敵艦隊を撃退しても、たった1発の爆弾で都市が吹き飛ばされては、戦争を続ける意味は無くなってしまうからだ。
 原爆による被害の詳細が伝えられるまで気炎を上げていた人々の言葉もより空虚となり、日本政府はいよいよ停戦そして事実上の降伏に向けて動き出した。
 その後の鈴木内閣の動きは非常に早く、11日には日本側から「ベルサイユ宣言」受諾が申し入れと日本側の要求が打診され、連合軍からも13日に返答があった。日本側が連合軍に求めたのは、「国際法」を尊主し「事後法」を用いないことだった。そして事後法でなければ勝者の裁判が難しい連合軍は、返答に時間を要したのだ。公文書で残るので変な返答もできず、連合軍側は「万民の認める法と秩序に基づいて」とだけ回答した。
 そして連合軍占領下のエニウェトク環礁に、サイパン経由で特別機が飛んで日本側の意志が連合軍に伝えらえ、14日の御前会議を経て日本政府は「ベルサイユ宣言」受諾を決定。翌15日の正午、ラジオ放送にて全国民に「ベルサイユ宣言」受諾が発表され、日本の戦争も終わった。
 この特別機阻止のため急進的な日本軍部隊が動こうとしたと言われるが、事前に天皇の親書を持った説得があったため、結局阻止される事も無かった。
 日本軍は、戦争の最後を理性的に行動した。

 なお、「ベルサイユ宣言」の調印はソ連邦の動きを抑止するため極めて急がれ、1945年9月2日に警備上の理由という名目で東京湾上の戦艦《ミズーリ》上で行われた。先の戦闘で傷ついた《ミズーリ》は修理直後にこの任務を受けて、随伴艦を伴って東京湾へと乗り込んだ。
 そしてこの時日本海軍は、武装解除の準備及び警備のためという名目で、稼働艦艇の殆どを東京湾に集中した。集められた艦艇に戦艦や空母、巡洋艦、駆逐艦といった艦艇の大小の違いはなく、潜水艦や小さな護衛艦艇までもが集められた。期日が間に合うのなら、損傷したままでも動ける限り構わず持ち込んで並べた。この動きに連合軍では大きな緊張が走ったので、日本側は戦闘の意志がないことをかなりの努力を割いて説明しなければならなかった。
 そして東京湾口で駆逐隊がアメリカ艦隊を出迎え、東京市のお台場近辺に停泊する第一艦隊旗艦任務に就いていた戦艦《紀伊》の脇へと《ミズーリ》を誘導した。
 この日本海軍の行動は、自らの意地と心意気を連合軍と後世に伝えため行われた行動だった。また、戦争を戦い抜き日本を守った艦艇へのせめてもの手向けであり、最後の花道であったとの気持ちが強かったとも伝えられている。故に、各艦艇は乗組員達がピカピカに磨き上げ、損傷したままの部分には白い天幕を張るなどの「化粧」を施した。
 東京湾を埋め尽くした無数の戦闘艦艇の様は、まるで往年の大観艦式のようで、勝者と敗者が逆転したような光景の写真や映像が今日にも数多く残されている。日本海軍の主要艦艇をモノクロからの復元によらないフルカラーで見ることが出来るのも、後にも先にもこの時だけだった。
 そうして最盛期を思わせる「八八艦隊」の戦艦群を中核とする日本の大艦隊は、条約調印のため東京湾へと入ってきた戦艦《ミズーリ》を中心とする連合軍艦隊の度肝を抜くこととなった。


●フェイズ20:「後日談」