●天下統一

 当時日本では、織田信長の台頭に前後して戦国大名の淘汰と巨大化が進展していた。またすでに一世紀近く続いた戦乱の時代に日本人全体が飽き始めており、日本統一を求める機運が上昇していた。巨大化した戦国大名達は、そうした時流に乗ることが出来た者達だったと言うことも出来るだろう。
 1570年頃は武田信玄、上杉謙信、毛利一族、そして織田信長などが最も日本統一に近いと言われた。中でも当時日本の政治・経済の中心である近畿地方を押さえた織田信長の勢力拡大は著しく、1573年には信長の手により室町幕府が滅亡させられた。そして出る杭は打たれるという日本的な格言に従って、日本の有力諸侯は信長包囲網を形成するも、それすらもはねのけて信長の勢力は拡大の一途を辿った。何しろ他の諸侯とでは、経済力と近代兵器の装備率が違いすぎた。帆船を大量導入していた毛利水軍も、大量の大砲を搭載した大型帆船を用いた信長海軍に大坂湾で壊滅的な打撃を受けてしまったほどだった。この時の戦闘が宣教師の手によりヨーロッパにも伝わり、日本のガレオン船を「オダ・ガレオン」と呼ぶようになる。
 彼の覇権は、1580年の本願寺勢力(浄土真宗)との和解により決定的となり、後の戦闘は信長自身にとってはほとんど野球のリーグ戦での消化試合に過ぎなかった。既にライバルたる上杉謙信、武田信玄は没しており、事実上日本最大の勢力を誇った宗教を抑えた事が決定打だったからだ。安土城建設は、彼の勝利の象徴とすら言われた。
 しかも信長は、自らの勝利と今後の展望を考え、日本人による海外探査と貿易拡大を積極的に押し進めるようになっていた。また日本からの輸出するべき物産の開発と大量生産を奨励した。また京、堺、安土などの国際都市の整備も熱心に行い、日本に訪れた人々も織田信長こそが次の日本の王であると認識するようになる。
 彼の権勢の大きさは、1582年(天正十年)6月に前年に続いて催された京の都での大規模な軍事パレード「続・京都御馬揃え」に象徴されていた。
 この時彼は、複数の配下を日本各地に派遣して、全方位的な天下統一事業を行うまでに勢力を拡大していた。にも関わらず、半ば道楽のような軍事パレードに二万人もの完全武装兵を派手やかにパレードさせて見せたのだ。
 この時のパレードは、主君に援軍要請を出した羽柴筑前守秀吉が、援軍要請の手紙の最後に一筆を入れたことが影響していると言われていた。
 「ここは一発、京の都で上様のご威光を天下に示した上で進軍してくださりませ。さすれば毛利などは、戦わずしてそのご威光に屈するでありましょう」と。
 なおこの頃、中国方面に羽柴秀吉、越後方面に柴田勝家、関東に滝川一益が各地の武将と戦っていた。また四国侵攻の準備に丹羽長秀(+神戸信孝)があり、予備として嫡子の織田信忠、明智光秀もあり、それぞれの軍団が基幹部隊だけで1万5000人程度、降将や在郷諸侯を合わせた侵攻部隊はどれも3万人規模を持っていた。また彼自身が率いる親衛隊とでも呼ぶべき兵力も別に存在しており、信長の持つ国力は総人口800万人、常備兵力は20万人に達していた。この数字は、当時のヨーロッパ諸国の多くを凌駕しており、総人口だけでも日本の半分、ヨーロッパ大陸全体の一割に相当する力(総人口と経済力)を持っていたことになる。
 つまりは既に戦国大名では太刀打ちできないことを意味しており、数年を経ずして彼の日本統一は達成されると予測された。
 そして予測は全く裏切られなかった。
 京の町で盛大な軍事パレードを行った親衛隊を率いた信長は、先発させるももたついていた明智光秀を山陰方面に派遣する。そして自らも山陽方面に続く事で、元からの羽柴秀吉の軍団を併せて8万人もの大軍をもって宿敵毛利に総攻撃を実施した。すでに織田との講和を考えていた毛利は、決戦もせぬままたまらず信長との和睦(和平)を求める。これを調略を得意とした羽柴秀吉が仲介した事もあり、毛利氏は周防、長門、安芸の三国への減少とそれぞれの国を毛利三川が分かれて治めること、石見銀山、博多での貿易権の全面譲渡、そして九州及び四国侵攻での先陣を行う事によってようやく信長に許されることになる。
 ほぼ同時に、多方面からの侵攻を受けた越後の上杉は、越後半国の保証と引き替えにやむなく和睦を受け入れた。この時織田は上杉を簡単に滅ぼすこともできたのだが、上杉の持っていたかつての関東管領職を権威として利用する事で、今後の関東、奥州征服を円滑にしようという織田側の意図があった。
 そして同じ年の秋、四国が瞬く間に平定された。なまじ長宗我部によって四国がほぼ統一されていたことが、逆に信長の侵攻を容易くしていた。多方面から十万人以上の大軍で攻められた長宗我部は、まともな抵抗もできないまま、瞬く間にもみ潰された。
 翌年1583年の春からは九州への進撃も開始され、明智、羽柴両将による分身合撃と島津以外の信長への臣従によって九州の勢力図も年内に塗り代わってしまう。なおこの時の総大将は、中国攻めから交替して明智光秀が就いている。そして島津の薩摩、大隅の所領安堵による和睦によって、あれ程荒れていた九州での戦いも呆気なく決着が付いた。
 残すは関東・奥州の平定だったが、その年は内政の充実と外交による離反工作が重視された。さすがの織田家も、戦費と兵站物資の調達が間に合わなかったためだ。勢力圏も、短期的に広がりすぎていた。
 また当時関東には北条氏が最大勢力として存在したが他の武将も多く、奥州はさらに雑多な状態だった。取りあえず外交で分裂させて勢力を二分させてから、一気に押しつぶそうとしたのだ。この外交上でかつての関東管領の肩書きを持つ上杉の名を利用できたことは有利に働き、関東と奥州は信長派と反信長派に二分されるようになる。そして反信長派の中心的存在が、それまで織田と一応の同盟関係にあった関東の雄である北条氏だった。戦わずして伊豆、相模半国への減封と言われては、一度は戦うことを決意しなければならなかった。また信長は、既に同盟関係が不要となっていた徳川氏の離反を期待していたと言われているが、徳川氏は織田との関係をそれまで通り続け、その後も大きな問題は起きなかった。外交巧者とされる当時の領主徳川家康が、外交でミスをするわけがないというのが現在での定説である。
 そして1584年春、日本中に見せつけるかのごとく、20万人もの大軍が日本各地から関東を目指した。総大将は織田信忠。既に家督を譲られていた信忠は、羽柴秀吉を筆頭家老として従え圧するように関東に大軍を進める。戦いは既に始まる前から決していた。
 一方奥州では、伊達家の家督を継いだ伊達政宗が、奥州諸侯の中ではほとんど初めて戦国大名としての一面を示して急速に頭角を現した。また伊達家は、織田とのつながりを用いて各地に積極的に出戦。北方交易で蓄えていた富と軍事力で、短期間で勢力を拡大した。また伊達家は織田の関東遠征にも参加。信忠や秀吉にも謁見し、その後畿内にとどまっていた信長にも謁見して新たに得た領土も加えた上での所領安堵を得ている。さらに正宗自身が信長からの高い評価を受け、その後伊達家は北方探査と交易の優先権を得てさらなる飛躍を遂げることになる。また彼は、関東遠征での功績により伊達家の領土を大幅に拡大する事にも成功していた。
 しかし当時の織田信長の関心は、関東や奥州にはなかった。彼は堺など旧石山本願寺近くにその身を置き、新たな天下布武の拠点づくりを始めていたのだ。
 これが大坂城の築城である。
 新たな巨大都市を一から建設するこの大事業は、当時まだ入り江や中州が多かった大坂平野の中心部を徹底的に改造する大土木工事ともなった。人夫10万人以上が常に投入され、建設開始から3年で一定の形を形成するようになる。規模の大きさを現すものとしては、河川の大幅改修工事そのものが都市の防衛と地域の開発を兼ねていたこと挙げることができる。この時、内陸部で入り組んでいた大和川と淀川がほぼ真っ直ぐ海に向けた形にすげ替えられ、その内側は重厚な堤防としての役割と城郭としての土塁役割を兼ねるものであった。据えられた石造りの幅広い橋梁にも丈夫な門扉が建設され、朱雀門、玄武門とされた中央城郭より先に建設された巨大な城門は、訪れる者全ての度肝を抜いた。
 また広大な敷地内に設けられた都市区画は、無数の水路(堀)によって効率的な物流網が確保されており、堺と京、博多、そして安土から多くの商人を移住させる事で短期間に都市の建設を達成している。
 そしてこの時得られた高い土木技術は、その後日本各地に伝えられ、日本人達は雄壮な城塞を次々に作り上げ、町を道を橋を築き上げていく事になる。
 大坂の建設を本国につぶさに報告したイエズス会宣教師のヴァリニャーニの手記には、天地創造のようだという趣旨の言葉を見つけることができる。
 また大坂の街造営には異国情緒溢れる異人居留区も作られたのだが、その中核には本格的な西洋建築の大きなカトリック教会も建設された。一見これは、それまでの信長同様にキリスト教への保護政策のように見えた。しかしその翌年、『宗門法度』が信長の名により発布される。そこでは、日の本では宗教の自由は何人であれ犯すことが出来ないとされた。いわゆる「信教の自由」が世界に先駆けて布告されたのだ。だが一方では、門を叩く者以外に強引な宗教勧誘を行う事が禁止された。また宗教に関わる者が政治に深く関わった場合、武器を持った場合、人道にもとる行い(殺人、強姦、強盗、人身(奴隷)売買)をした場合、それぞれ最高死罪を以て罰すると決められた。人に教えを与える者には、俗世に関わることなく自らにも厳しくなければならないとしたからだ。この法度(法律)は、神は信じるものだが、宗教者は敬われるものだという日本人的考えから、問題なく受け入れられた。
 そしてこれにより積極的な宗教活動は日本域内では禁止されたに等しく、以後キリスト教の布教は大きな減退に見舞われる事になる。要するに立派な教会は、彼らの鳥かごだったわけだ。しかし宣教師達もただで泣き寝入る気はなく、今度は西洋の優れた文物や学問を餌に、日本人を自主的に教会に呼び込もうとした。これが後に西洋風大学へと発展していく事になる。
 なお大坂の街には、大きな人工の入り江を持つ港湾部が建設されたが、その一角には巨大な造船所がいくつも建設され、日本中の富と資材を集中した一大プロダクションセンターとなっていた。
 目的はむろんアジア交易の覇権確立のためである。
 また、西洋人に来てもらうばかりではなく、日本人の側から積極的に出ていくための準備でもあった。



●対外戦争