●新大陸到達
1595年、伊達政宗は3年間の準備を経て準備された大型ガレオン船3隻を中心に8隻の艦隊を編成。腹心の片倉景綱が総司令官となり、3000名の部下を従えて一路未知の海へと出航した。 船倉には、交易が主な目的でないため屯田兵的な道具が多く積載された。また航海の規模が分からないため、通常よりも多い往復で一年分もの水と食料も積載されていた。また馬や水牛、豚、鶏なども飼料と共に積まれており、米や麦など多数の種籾も数多く積載されていた。他にも鉄を精製するための道具、釘や金具、大工道具、日用雑貨もかなりの量が積まれていた。当然ながら鉄砲や大砲も装備されており、事実上の武装移民船団であった。 そして海の難所と言われる北太平洋航路を少し南寄りに進んだ伊達船団は、予定より早く未知の諸島に到達する。天測の不備と偶然のもたらす幸運から、後のハワイ諸島に到達したのだ。 まったく未知の言葉を話すが姿形は南方で見た人々であり、原始的な生活を送っている島々だった。そこで伊達船団は何とか友好的な接触に成功し、彼らが珍しいと判断した当地の日持ちする物産と、彼らの持ついくつかの品々を交換。また食料と水を補給し、さらに東を目指した。またこの時、現地の人々に日本の優れた技術の幾つかも教えられ、ハワイでの稲の栽培もこの時を起源としている。 なおハワイ諸島はその後航海技術の改善から日本人が立ち寄ることはしばらくなく、未知の島々と言われるようになる。 そして航海を始めてから83日後、霧深い大地の連なりを発見。西洋名ノース・アメリカ大陸、和名「蓬莱大陸」への到達だった。そして伊達艦隊が到達したすぐ先には、大きな入り江もしくは内海が確認され、艦隊は奥へと進んでいった。沿岸部にはまとまった平地が確認できなかったためだ。 そして内陸に入ってから適度な浜と河川の入り江近く平地を見つけると、そこに拠点の建設を決意。伊達浜と名付けられ、艦隊の半数が現地に逗留。半年間かけて総出で開発を行い、一部を残して帰還する事になった。 なおこの時現地住民(インディアン=東夷もしくは蓬莱民)との初めての接触が行われた。そこで物々交換で多数の文物を得ることに成功する。中には大量の穀物(とうもろこし)や獣の肉も含まれており、当面現地での自活が可能となった。その対価として彼らが持ち寄った多数の文物が渡された。現地の彼らは日本人が考えていた以上に文明程度は低く、蝦夷にいるアイヌ程度の民でしかないと判断された。 ただしその後、原住民は物々交換に顔を出さなくなる。様々な部族や集落と友好的な接触を持つようになったのに、おかしな事態だった。そこで翌年春、不審に思った伊達浜の日本人達が彼らの集落を訪ねてみると、そこには白骨化した死屍累々の山が残されていただけだった。 いったい何事か、宣教師どもの言った悪魔が本当にいるのかと騒ぎになり、俄然警戒態勢が強化された。しかし周囲は平穏そのもの。警戒し疑いつつも日本人達は現地を離れることはなく、その後南方から戻ってきた艦隊が再び寄港する頃には、最初の収穫物を僅かながら得ることに成功する成果を挙げた。 なお白骨の山は、日本人達が持ち込んだユーラシア大陸で強化されたありふれた疫病が作り上げたものだ。特にインフルエンザと天然痘の威力はすさまじく、免疫のまったくない新大陸の人々を次々と滅ぼしていった。ただし日本人は、かなりの間このことに気づくことはなかった。 一方大型ガレオン船を中心とする艦隊主力は、伊達浜で一ヶ月ほどの逗留後に南下を再開した。うち1隻の高速帆船は、そのまま日本への帰路に移った。何事も速度を求める信長政権ならではの冒険的行動と言えるだろう。 そして3隻となった艦隊は、新大陸中央部の大きな湾を発見。半島の先端部に坂が多かったことから、そこを多坂となづけた。そして文明人らしき痕跡が見つけられないため、そこに標識を設置するとさらに南下を続けた。 そしてさらに南下してようやく文明人の足跡を発見した。ロサンジェルス(現:東京)と呼ばれるイスパニアの小さな港町に到着したのだった。そこが、ノヴァ・イスパニアと呼ばれる、広大という言葉すら不足するイスパニアの新大陸副王領の北端部であった。 ここで伊達艦隊は、イスパニアとの貿易を申し込む。ただしロサンジェルスにいたごくごく僅かな数のイスパニア人では何もできないため、現地役人は南下した先にあるアカプルコへの寄港を求めた。イスパニアが比較的下手に出たのは、数年前にハポン(日本)にアジアでの戦争に敗北した事、現地を訪れた艦隊が大型ガレオンを持つ強大さだった事が理由だった。実際の武力を前にしては、人種差別も神の権威も関係はなかった。少なくとも相手は本物の悪魔ではなく、意思疎通が可能で思っていたほど好戦的でもなかったからだ。 そして伊達艦隊はその後カリフォルニア半島を南下して、アカプルコに至る。 そこで彼らは持っていた日本刀や鉄砲、火薬をいくらか売却してメキシコの銀を直接得ることに成功した。そしてこれをもって日本への帰投を決意。いったん伊達浜に戻って帰国予定の人員と船と合流すると、もう一度アカプルコに寄港。そこで風を待って一気に呂宋にまで至り、1597年日本へと帰投。その海路は、十年ほど前にイスパニアが開拓した航路だった。これで日本人は、新大陸に至る最も効率の良い往復航路を手に入れた。 そしてこれ以後、日本による新大陸開発が本格化するようになる。