●ヨーロッパ情勢と日本

 先にも書いたが大坂時代を迎えた頃、ヨーロッパではドイツ地方を中心にして「三十年戦争」が勃発した。ヨーロッパの主要な列強が全て介入した泥沼の戦争が、ドイツ地域を中心にして長期間展開されていた。
 戦争はキリスト教の間での宗教戦争の様相もあったため、休止期間を挟みつつも三十年間に及び、1648年に開催された世界初の近代的国際会議となった「ウェストファリア会議」によって一応の終結を見た。
 この戦争によって、ドイツ中心部は大きく荒廃した。総人口の三分の一が、何らかの原因で死亡した地域も存在したと言われた。事実ドイツ中部の人口は激減して土地は荒廃し、痛手から立ち直るのに半世紀以上の時間を要した。軍事費の大きさのため、各国、各諸侯が軍を常時維持せず、多数の傭兵達が各地で破壊と略奪、人間としての害悪全てをまき散らした結果だった。この戦争での日本の影響は、一部の国との交易が行われた程度となっている。ただし多数の鉄砲などの武器が輸出されているので、影響が小さいとは言えないだろう。
 一方この戦争は、ヨーロッパでのメインプレイヤーの交替期となった。
 イスパニアは、本国での飢饉や疫病などの国家規模の大災害が敗北と重なって完全に世界帝国の座から滑り落ちた。変わって、イスパニアからの完全独立を達成したネーデルランドの全盛期となった。当時のネーデルランドは、ライン川河口部という好立地により、ヨーロッパの商業の中心であり先端産業の集積地だった。ネーデルランドの先進性は、その国旗が最も有名だろう。その後のヨーロッパの国々の国旗の半分近くが、オランダ国旗をモチーフとしている。
 また、後の世界の趨勢を左右するイングランドとフランスも大きく隆盛し、当時ヨーロッパ最先端の経済及び産業地域だったネーデルランド連邦と、いち早く近代国家として再編成の終わったイングランド王国は、海上覇権をかけた戦いへとのめり込んでいく。英語で「ダッチ」を使う蔑称の数々が、その名残として今も残っている。
 ただし全てはヨーロッパ中央部での事であり、争いそのものには東アジア、太平洋には関わりがほとんどなかった。
 問題はむしろ、海外に広く進出していく国々と日本の関わりであった。
 当時日本は、マラッカ海峡より東から始まり、サンフランシスコより西にかけての海上覇権と経済覇権をほぼ確かなものとしていた。一部はマラッカから印度、インド洋に向けて浸透しており、またイスパニアの衰退に伴いノヴァ・イスパニアへの進出を狙ってもいた。メヒコ湾やカリブ海にすら興味を示していた。ただし、香辛料や香料の取れる東印度(インドネシア)を除いて、年に数隻来る程度のヨーロッパ勢力が相手では、日本の競争にすらならなかった。
 しかも1640年には、東南アジアで息切れしていたネーデルランド連邦と日本の織田幕府の間では対等な通商条約が結ばれ、マラッカ、バタヴィアでの友好的な交易体制が確立されていた。また衰退が始まっていたイスパニアは、新大陸や南天大陸に進出し始めていた日本人キリスト教徒を介して日本人との友好的なつながりを重視するようになっていた。
 そしてネーデルランドの敵はイングランドであり、イスパニアを衰退させたのが主にフランスだった。またフランスは、ルイ14世の時代にネーデルランドとも戦争を行っていた。日本は、ヨーロッパ地域以外でヨーロッパのパワーバランスを取るための勢力へと変化しつつあった。
 一方イングランドは、ネーデルランドと世界の制海権を賭けた戦いを行うと同時に印度進出を強化していた。
 当時印度は、イングランドとネーデルランドのホットゾーンとなっていた。何しろ東印度諸島(インドネシア)には日本人が溢れていて、簡単には手が出せない場所になっていたからだ。それでも初期はネーデルランドが日本に何度か挑戦したが、けっきょく妥協するしかなかった。軍事技術ではネーデルランドに多少の優位があったが、とにかく数が違いすぎた。しかし香辛料獲得を諦めたわけでなく、自然と印度へと目を向けるようになる。そしてネーデルランドは、イスパニア(+ポルトガル)からセイロンを奪うことに成功した。
 一方印度亜大陸では、イングランドがマドラスを1668年にポルトガルより得て、橋頭堡を確保した。そして1651年から三度に渡る「イングランド・ネーデルランド戦争(英蘭戦争)」において、イングランドは勝利を掴む。ネーデルランドは膨大な戦費のために経済破綻して、また国民国家であったイングランドとの決定的な地力(徴税能力、兵員・船員供給能力など)の違いから世界の航海覇権を失ってしまう。それでもネーデルランドは、セイロン、ケープなどの植民地は長らく保持し続け、マラッカに陣取る日本との友好的な交易をより親密化させるようになる。
 また17世紀後半になると、フランスもガンジス川流域に勢力を伸ばすようになり、今度はイングランドとフランスが世界各地で争うようになった。
 そして1689年から1815年にかけては「第二次英仏百年戦争」とも呼ばれる、世界の海上覇権を争った長期間の戦争を世界各地で展開する。
 ちなみに、1689年から1697年かけての北アメリカ(蓬莱)大陸での「ウィリアム王戦争」、1701年から13年にかけての「イスパニア継承戦争」、1702から13年にかけての「アン女王戦争」、1744年から48年の「ジョージ王戦争」、1755年から63年の「フレンチ・インディアン戦争」、1756年から63年の「七年戦争」、1757年の印度「プラッシーの戦い」(第1〜3次カーナティック戦争(1744年〜63年))の以上が、第二次百年戦争前半の主なヨーロッパ以外での戦いである。さらにこの後、「フランス革命戦争」、「ナポレオン戦争」、「アメリカ独立戦争」と戦乱は続き、ウィーン会議が終わるまでイギリス・フランスによるヨーロッパ及び世界の覇権を賭けた争いは続く事になる。
 一方日本の織田幕府は、一人太平洋及び東アジアでの繁栄を謳歌していた。
 ヨーロッパ列強は自分たちの争いで忙しく、日本どころではなかった。日本が余程アクティブでない限り、ヘタにちょっかいを出す相手ではなかった。何しろ日本は本国人口も大きく、アジアで唯一近代的な軍備を持つ国家だったからだ。ヨーロッパでは、「海のロシア」や「東のトルコ」と言われることもあったほどだ。この時期シベリアで対面したロシアンコサックなどは、「海のタタール」とも呼んだ。
 しかも、互いの国家同士の接触時点で、既にかなりの先端軍事力を持っており、ヨーロッパ勢力との度重なる接触と争いのおかげで、技術レベルもいつの間にか並ばれるようになっていた。誰も好き好んで、不利な戦争を仕掛けるような馬鹿なまねはしたくないのは当然だろう。むしろ自分たちの力関係に応じて、必要な力とものを手に入れるため、日本とはある程度の友好関係の維持こそが少なくとも向こう半世紀は最良と考えられていたほどだ。
 また日本の近隣には、清帝国という巨大な人口を持つ大陸国家が成立したが、17世紀は終盤に入るまで建国に伴う近隣への拡張と国内での混乱が続いていた。しかも日本の度重なる干渉の影響で強い鎖国政策を採ったため、海上での覇権争いでは競争者にもならなかった。もし清帝国が海上覇権争いに名乗りを上げていれば、それは日本と清の間での百年戦争が始まった事だろうと言われている。
 しかし清帝国は、巨大な人口を持つ自国領域の経営で手一杯であり、せいぜい地続きの場所に影響を増やす程度でしかなかった。
 なお、そうした清帝国が影響を強めようとした地域に中央アジア地域があった。


●北方情勢