●幕府の消耗と移民拡大

 ヨーロッパの「七年戦争」とそれに関連する世界各地での戦争において、日本は積極的に動くことができた。織田信宗の改革と織田信重の積極姿勢がもたらした連携無き連携プレーの勝利であったが、他にも理由があった。アジアでの海外貿易が、大きく黒字で推移していたからだ。このため日本は、フランスほど財政赤字に陥ることなく戦争を遂行する事ができた。

 この頃には、日本と清帝国との関係は、両者の長い外交努力によって修復されていた。そして清帝国は、ロシアの南下と東進を止めているのがジュンガルとジュンガルの後ろ盾の日本だと認識していた。故に、日本との関係修復をすべきだと判断したのだった。そして1689年に日清間で、広東とマカオでの限定的な交易が再開された。限定的だったのは、清が海禁策(鎖国政策)を行っているからだ。
 しかし明清革命の混乱で多くを得て、さらに自らの努力により国内産業も発展した日本に、清帝国領域からあえて得たいと思う物産はあまり多くはなかった。足りないものがあっても、多くは世界中の植民地から得れば事足りるものばかりだった。
 それに引き替え清帝国では、国内の安定に伴って民衆の豊かさへの探求が加熱していた。必然的に、世界各地の珍しい物産を持つ日本からの輸入が激増した。日本が太平洋各地で生産した砂糖(精製された白砂糖)は、日本での余剰分の輸出だけで莫大な利益をもたらした。清で珈琲が飲まれるようになったのも、中華地域で爆発的な人口拡大とそれに伴う経済発展が起きていた18世紀半ばぐらいからだった。その消費拡大のため、清では華南での生産では足りずに、輸入に頼るようになっていた。
 その人口爆発も、17世紀半ばの唐出兵で日本が印可芋と摩耶芋、蓬莱黍を持ち込んだことが原因していた。四川料理で紅辛子が使われるようになったのも、日本の侵略が発端となっている。中華地域が日本からもたらされる物産に興味を向けるようになったのは、皮肉にも日本の侵略が始まりだったのだ。
 そして18世紀の貿易は日本の大幅な黒字で推移し、清帝国政府が貿易統制を実施するも今度は密貿易が横行しし、海賊も頻発した。新たな倭寇を警戒した清帝国は、仕方なく日本側に事実上頭を下げて貿易規制を求めるほどとなった。大陸沿岸での共同での海賊討伐も行われた。
 一方で清帝国は、この頃から対ヨーロッパ(主にブリテン)へのお茶や絹織物、陶磁器などの輸出が好調だった。一部はマカオや小琉球を持つ日本に市場と顧客を取られていたが、それでもこの貿易利益が日本との貿易赤字を補填していた。
 要するにブリテンは、インドを得てアジア交易を大々的に行うようになったが、東アジア貿易ではひとり赤字が積み重ねていた事になる。何しろ日本との貿易も、日本が武器やガラス、その他加工品を求めることが少ないため、基本的に赤字で推移していたからだ。
 そして日本は、清帝国並びにヨーロッパへの貿易の好調とジュンガルなど世界各地への武器輸出によって、経済的繁栄に湧いていた。工場制手工業に中核を置いた産業も大いに発展した。
 またこの頃の関白補佐筆頭となっていた商部大臣に田沼意次があり、彼の献策した日本で何度目かの重商主義路線によって日本の貿易黒字と国内産業発展は順調だった。幕府内に賄賂が横行したと言われたが、繁栄を前にして大きく文句を言う者も少なかった。
 国内経済も活況を示し、日本人の手元には勢力圏はもとより世界中から様々な物産がもたらされていた。ヨーロッパ食文化が一般にも流入して、日本人の食肉消費量が大きく上向き始めたのも、この頃からだと言われている。また乳製品の消費量が増えたのは、ユーラシア各地の騎馬民族との交流活発化が原因だった。大名や富裕層などは、北イタリア風、フランス風、トルコ風などの文化や食べ物を取り入れて、日本文化も国際色豊かになった。しかも砂糖や様々な香辛料、調味料によって味覚も豊富となった。日本人は、様々な文化を通じて世界を意識するようになっていたのだ。
 しかし、いつまでも繁栄を謳歌する事はできなかった。

 度重なる戦争によって日本の領土は大きく広まったが、軍隊の維持と戦費のために貿易黒字の多くが相殺されていた。またジュンガルは、徐々にロシアに押されるようになっており、武器輸出よりも援助額の方が多くなっていた。またロシアンコサックの大蝦夷(ザシベリア)への断続的な進出と小競り合いは、日本軍に余計な出費を強要させ続けており、日本の国力をジワジワと疲弊させていた。
 特に当時のロシアの女帝エカテリーナは優れた統治者にして政治家で、シベリアと大蝦夷の境界線は日本の不利で推移した。しかし、日本、ロシア共に既に毛皮を刈り尽くした半ば不毛の土地にあまり興味はなかった。日本とロシアの争いは、主にジュンガル北部辺境に対するロシアの膨張が原因していた。そして1792年に「日本=ロシア協定」が結ばれ、ロシアに有利な新た境界線が設定されることになる。これは当時の幕府の外交的敗北だったが、日本とジュンガルにはロシア憎しの感情が増し、その後の日本のシベリアへの挑戦へとつながっていく。また日本の外交力の低さを見直させる大きな機会にもなった。

 そうした頃日本列島では、1783年に関東地方奥地にある浅間山が大規模な噴火を起こした。巻き上がった噴煙により、日本の東側全域で大規模な不作と大飢饉が発生した。連動して、日本経済も大打撃を受けることになる。
 そして飢餓と餓死から逃れるために、新大陸(蓬莱)、南天双方への大規模な移民の流れが突然発生する。日本経済は、移民事業以外が5年以上にわたり大きな停滞に見舞われ事になった。当然冥加金(税収)が大幅に減った幕府財政も困窮し、重商主義を推し進めていた幕府重心の多くが失脚。日本列島は大きな緊縮財政期に突入する。
 なお日本列島が大規模な飢饉に襲われたのには、火山の噴火以外にも様々な理由があった。飽和状態になるまで人口が増えすぎていた事と、この後にアイルランドでも発生した印可芋(ポテト)の病気による全滅があったためだ。
 当時日本列島内の総人口は、当時のほぼ飽和状態に当たる約4000万人に達していた。世界中からもたされる豊富な穀物などの物産と豊富な肥料、そして印可芋、摩耶芋の力の威力だった。総人口という点であるならば、これにさらに海外の日本人人口が約1000万人加わる。日本人の人口は、織田信長が覇権を確立した頃の実に三倍以上に拡大していた事になる。当時の日本は、同じような経緯で人口爆発が起きていた清帝国ほどでないにしても、間違いなく世界有数の人口大国となっていた。そして日本から溢れた人間が、少しずつ海外に移民するというのが当時の状況だった。
 しかし不作と印可芋(ポテト)飢饉により、事態は激変した。突然、日本本土では四分の一の人間が死すべき運命に立たされてしまったと言われたのだ。主要作物の米が当時換金作物や商業作物としての方向が強まっていた事も、この時の飢饉を助長していた。この頃の印可芋は、特に貧民の副食として欠かせない作物になっていたのだ。加えて大規模な不作とあっては、飢饉も当然だった。
 そして未曾有の混乱を未然に防ぐべく、幕府は強引と言うレベルを超えた政府主導の強制移民の実施を決定する。日本人自身も、飢え死にするよりはと移民を選択した。
 そして多数の喜悲劇を発生させるつつも、戦争にも似た日本の輸送力の総力を挙げた移民事業が実施された。
 結果として、帆船の時代では考えられないほどの人の移動が瞬間的に発生する。その規模は、過去百年間の大西洋での黒人奴隷の移動を越えるほどであり、相対的な規模として世界最短にして世界最大級の民族大移動だと言われることもある。
 1782年から87年の間に600万人、その後さらに十年間の間に約400万人もの日本人が蓬莱大陸(新大陸)や南天大陸、朱雀列島、東南アジア、南洋、南アメリカ大陸の各地へと移民していった。まさに民族の危機であり、未曾有の民族大移動であり、これを乗り切った当時の幕府の力量は、不当に低く評価されていると言えるだろう。また日本の最盛期だからこそできた荒技だったとも言えるだろう。
 そして移民を運ぶために大量の船が新たに建造されたため、一種の造船特需も発生して技術の向上も見られたため、マイナス要因ばかりだったわけではない。また移民の出発点とされた江戸とその周辺部が大きく発展したのもこの時期で、江戸は一気に総人口30万人を抱える日本有数の大都市となった。
 加えて移民船は、穀倉地帯の蓬莱西海岸や南天大陸からの帰路に多数の穀物を積載して帰り、日本列島の飢饉を緩和した。同時に、日本人による流通網全体が大きく躍進する副産物をもたらしており、日本のネットワークの拡大と強化に大きな役割を果たした。
 そしてこれにより、日本列島内の人口は一時的に3200万人にまで減少した。飢饉など様々な要因による死者の累計は、幸いにして50万人以下に抑えられたと考えられている。一方で、それまで総数1000万人だった世界各地の日本人移民数は、一気に約2000万人となった。蓬莱の総人口も、それまでの1500万人(日本人以外含む)から、自然増加も含めると約20年間でさらに1000万人以上も増加した事になる。急な移民によって、移民が殺到した各地でも大なり小なり食糧不足が発生したが、蓬莱西海岸や南天南東部は輸出や移出を目的とした広大な穀倉地帯であり、幕府がそれなりの対策を行ったために混乱や食糧不足は最小限となった。
 そして以後十年ほどの間に、新規の移民による新天地開拓が異常増進した。蓬莱大陸中部平原は広く開拓されて日本人が溢れるようになり、現地先住民との争いと同化を繰り返しつつ勢力と人口を大きく拡大した。そして生活のため食べるために、蓬莱大陸中原の主要民族へと急速にのし上がっていく。それまで過疎地だったミシシッピ川には、各地に都市が建設され連絡船までが通るようになった。
 またその後も日本列島からの移民の流れは続き、一種の移民ブームとしてさらに100万人単位の移民が、短期間で新大陸へと旅立っていく事になる。
 一方で、当時の技術で耕せる土地の限られていた南天や朱雀列島では、先住民に対する荒れ地への囲い込みを実施して新たな開拓地を強引に確保した。先住民を広野に放置し、さらにはほとんど滅ぼしつつの強引な開拓と入植が行われていった。この頃は自らの生存がかかっていたため、日本人達は他の民族に対して容赦なかった。日本人切支丹も同様に、白人と似たようなお題目を掲げて他民族を駆逐していった。他の地域の開発や入植でも強引な事が行われ、先住民族や場合によっては白人すら押しのけつつ、日本人達が強引に広がり根付いていく事になる。
 また日本各地での移民者には、十年間は冥加金(税金)を半分にするという制度が設けられたため移民がさらに増加。その後も継続的な移民が続くようになる。
 そして移民が続いたように、1790年代まで日本列島内での混乱も継続し、日本は海外への干渉能力を一時的に失ってしまう。

 そうした頃、1789年の夏「フランス革命」が発生した。
 これは世界で初めての市民革命だった。もし新大陸情勢が単一勢力により安定していれば市民運動はより盛り上がったという議論もあるが、北アメリカ大陸は日本、フランス、ブリテン、スペインにより分割されており、安定からはかなりの距離を置いていた。しかも当時の日本は、膨大な規模の計画移民を行っており、戦乱の火種になりかねない状態だった。
 そしてフランスでの革命は、新大陸情勢に関わりないような熱狂の中で進んでいく。
 当時日本は、ここのところずっと同盟関係にあったフランス王室の窮地に、何ら積極的対応を取る事ができなかった。また封建国家である日本が、市民革命を行ったフランスに組みすることも政治的に難しかった。
 しかしブリテンが、フランスのルイジアナに強い興味を示し植民地人をけしかけ始めると、フランスの側に立って蓬莱の兵力増強を再開した。現地の中部平原の日本人移民も白人に対する脅威を感じるようになり、義勇兵を編成し始めた。
 幕府の対応も早く、東ルイジアナのフランスと先人(これ以後の和名。先住民=インディアン)に多大な援助を送ると共に新折鶴の艦隊を増強して牽制した。
 この日本の行動は、結果的に当面のフランス利権を守る事になった。
 そして日本がまだ積極的な動きに出られない頃、フランスではその混乱の中からナポレオン・ボナパルトの台頭が興りつつあった。

●ナポレオン戦争と日本