●日本の絶頂と衰退

 日本列島が浅間山の噴火に端を発した未曾有の飢饉から何とか立ち直った頃、ヨーロッパと世界を席巻したナポレオン戦争に自ら深く介入していった。この選択は、当初は完全な正解だと考えられた。
 また当時優れた為政者に恵まれた事も、日本の発展を大いに助けることとなる。そしてナポレオン戦争とウィーン会議の結果、日本(織田幕府)の版図は絶頂に達した。
 海外領土は、南方領土とされる地域が、小琉球(台湾)に始まり、呂宋(旧フィリピン)、東インド諸島(インドネシア)。しかも小琉球は、半ば日本本土化に向けて進んでいた。そして、補給拠点としての太平洋の島々がいくつか。それより南の南半球(南天)が、パプワ島、パプワ島の南にある南天大陸とさらに南東に位置する朱雀列島へと至る。北に目を向けると真北から北東にかけて大蝦夷(オビ川以東)、北西というより航路上のほぼ西にアラスカ。そのさらに先の太平洋の向こう側には、広大な蓬莱大陸の過半を占めるにまで拡大した蓬莱州が広がっていた。同じ新大陸では、南アメリカ大陸南端部の大足地方が、日本領域の最果てとして存在した。しかし最前線はさらに先であり、鯨油確保の捕鯨のためにさらにその南の南極大陸北端部にすら拠点を築いていた。またユーラシア中原のモンゴル、東トルキスタン、中央アジア全域に広がるジュンガル汗国も、既に日本の強い影響下にあった。実際ジュンガル王家や貴族と将軍家、大大名間の婚姻が幾つも行われ、対外的には日本の勢力圏もしくは一部とすら見られるようになっていた。使われている貨幣が、既に日本の「両」や両に連動する「お金」になっている事がその現れだった。
 アフリカ大陸やヨーロッパにはまだ寸土も触れていなかったが、アフリカ東岸のマダガスカル島には植民地と交易拠点を有しており、対外的にも日本の勢力圏と見られていた。
 領域全てを合わせれば、南蝦夷島を含めた日本列島の120倍以上の面積に達し、世界の陸地のおおよそ30パーセントにも及んでいた。南極を除いた場合は、三分の一ともなる。これは世界最大のユーラシア大陸のおおよそ1・5倍の面積、約4500万平方キロメートルにも及ぶ。
 アフリカ大陸にはマダガスカル島以外何に進出していないため、太陽の沈まない帝国とは言いにくかったが、面積的には間違いなく人類史上最も巨大な帝国の誕生であった。緯度が高い地域が多く人口の極めて希薄な場所も多かったが、数字上の巨大帝国だった事は間違いなかった。
 そして広大な領域から様々なヒト、モノ、カネが集中した日本本国は、空前の大国にのし上がった事で中華帝国化が進んでいた。
 各植民地も中華風に呼ぶ事が流行り、大蝦夷を北狄(ほくてき)、ジュンガルを西戎(せいじゅう)、蓬莱を東夷(とうい)、南天地域を南蛮(なんばん)と呼んだ。かつてヨーロッパを南蛮と呼んだが、この頃には完全に改められて当て字だった欧羅巴を略して「欧州」と呼ばれるようになった。代わりに、インドからヨーロッパの間のオリエント地域の事を、後に西戎と呼ぶようになる。
 一方、日本本土の総人口は、ウィーン会議(1815年)の時点で3600万人にまで回復していた。海外領域での日本人及び日系人の総人口も、蓬莱州の3000万人を筆頭に合計4000万人以上に及ぶようになっていた。日本語を話す人口は、商業語を含めてしまうとさらに1000万人以上増える。領域内の全ての人口を数えると、既に億の単位に突入していた。小琉球や呂宋、太平洋地域の多くも、言語面ではほぼ日本化しつつあった。
 これらの数字は、日本人だけでも当時のロシアを合わせたヨーロッパ人口の3分の1に匹敵しており、人口の上でも世界有数の大国だった。数字上では、当時の清朝、インド地域に次ぎ、ロシアを越える数字になる。しかも広大な土地に広がりつつあるため、急速な人口拡大が続いていた。しかも蓬莱中原など一等地を占めたのが日本人移民だったので、日本人の増加は急速だった。
 当時の清帝国ですら、四方全てを日本の勢力圏に囲まれた事に、内心大きな焦りを感じていたほどだった。またインド以外(アフリカは除外)で日本との植民地獲得競争に負けた形のブリテンの焦りも大きく、これがブリテンの反骨と産業面での革新的な発展を呼び込み、かの国を19世紀の世界国家の雄へと押し上げていく大きな要因となる。

 一方中心となる日本列島だが、ウィーン会議を挟んだ前後十年間を「文化文政の時代」や「化政時代」と呼び、大いに繁栄を謳歌した。
 1763年の「パリ会議」から続く日本黄金期を飾るに相応しい繁栄となった。
 日本はナポレオン戦争の間、ヨーロッパ列強の戦争特需で儲かっていた。フランスの大陸封鎖に連動した貿易でも大いに外貨を稼ぐと事ができた。自国の軍需景気により、国内の産業も発展し、商人達を中心に大もうけしていた。そして有り余ったお金は投資と投機に回され、蓬莱や大蝦夷、南天など日本圏内全ての開発を爆発的に増進させた。富と開発が次なる富と開発を生み出している状況に、日本商人達は笑いが止まらない状態だった。
 そして大陸封鎖の影響でだぶついた世界中の商品が、金のある日本へと一気に流れ込み、日本中の都市が後に泡沫的とすら言われる巨大な繁栄を迎えることになる。
 物産に連動して金銀も膨大に流れ込み、日本経済の中枢である大坂、京、博多には近代的な金融業が急速に発展し、投資と投機により肥大化した近代銀行が次々に誕生した。織田信長以来の日本の通貨だった「両」が、世界通貨の一つとして流通するようになったのもこの頃から始まっている。そして日本の両は、環太平洋や大蝦夷で採掘・採取され集められ、さらに余剰の銀を交換しても得られた膨大な量の金(Au)を基本とした金本位制の紙幣として、この頃に昇華を果たしている。しかもナポレオン戦争で、ヨーロッパに流通していた金の多くも日本に吸い上げられた形になったため、ヨーロッパでは日本でだぶついていた銀が後に流れ、銀を基本とした通貨制度が長らく続く原因となった。
 つまるところ、ナポレオン戦争から以後数十年の間、本当の意味での黄金の国ジパングが成立したと言えるかもしれない。
 ヨーロッパでの勝者であるブリテンですら日本本土の繁栄には達せず、また日本が集めた形になった巨大な資本力の前にブリテンは資金、資本の不足に悩み、自らの産業革命を、実体のない紙幣や証券、債権に頼るという綱渡りを行わざるを得なかった。
 この当時、世界の経済と金融の中心の一つが大坂などにあるとすら言われ、ヨーロッパのユダヤ商人や同時期にヨーロッパ西部で頭角を現した白人の銀行家達が、慌てて日本に進出したほどだった。
 日本での消費は都市住民のステイタスとされ、魅力のある各都市は人口は産業革命をほとんど迎えてもいないのに肥大化した。日本の持つ優れた世界ネットワークを使って、日本各地ばかりでなく世界中からも人々が押し寄せるようになった。この時期、博多、大坂、京、江戸には富に釣られて居留地や異人街が形成され、博多以外でも華僑による中華街が見られるようになった。
 訪日するのは、商人や旅行者ばかりでなく様々だった。フランス革命で雇い主を失った料理人達も、浪費すべき富を持つ日本の都市にやって来た。富と豊かさの前には、白人一般の人種差別は見なかった事にされたほどだった。定住を目的とした者まで流れてきた。日本の商業区や歓楽街、さらには貧民街が産業革命前の最後に激変したのもこの時期になる。日本列島での白人居住者の数も万の単位となった。
 19世紀の最初の四半世紀までに、海外から日本列島に流入した人数は50万人に及ぶとされ、そのほとんどが大都市や海外貿易港へと集まった。
 信長による建設当初巨大すぎると考えられていた首都大坂の大城郭の内部も、そのほとんどが市街地と化してしまった。余剰地が狭くなったため、都市規模の拡張の一環として海に向けての埋め立ても進められ、都市空間の確保が急がれた。
 街の一角を占める異人街には、 それぞれ立派な関帝廟、カトリック寺院、プロテスタント寺院、イスラム寺院、シナゴーグが立ち並んだ。大通りにある東西本願寺もそれぞれ日本最大規模のものが建設され、合わせて「石山」本願寺と俗称された。宗教に対する寛容さは、太閤織田信長以来の日本の伝統だった。
 大坂の総人口は、既に産業革命に入っていたロンドンより先に、人類史上初めて200万人を数えた。あまりの人口密度に、考え抜かれて作られた筈の都市機能は一部が麻痺状態となった。貧民街などの人口密集地帯では、劣悪な都市衛生となった。
 このため同じ大坂湾の神戸村に、新たな大規模な外洋型港湾都市が整備されたり、郊外型都市の建設が行われたほどだった。
 ただし大坂の街には、当時日本にとってのライバルと考えられていたブリテンの首都ロンドンに対して欠けているものがあった。ただし、木造建築主体と煉瓦建築主体の違いではない。当時の大坂では繁華街を中心に焼き煉瓦の建築も増えており、地震を予期した重厚な低層建築が多いことを除けば、その整然とした規模はロンドンを大きく凌駕している世界有数の大都市だった。この頃には、莫大な資金をかけた上下水道も整備されて、主要道路も石畳で舗装され、その上を無数の馬車が往来していた。主に貧民が行っていた馬糞拾いは、風呂屋の煙突と並んで大坂名物とまで言われたほどだ。近世的なエコロジーも行き届いた、空前の大都市としては清潔な街でもあった。
 そうした大坂の街に欠けていたのは、石炭を燃やして蒸気と煤煙を放出する近代工場の欠如だった。
 この点当時のヨーロッパ一般と大きな違いはなかったのだが、日本自身が次世代の世界帝国を目指すのであれば、産業革命と呼ばれる石炭と蒸気を用いた革新的なエネルギー革命が成されていない事は決定的な欠点と言えた。
 しかし世界中からもたらされる日本の活躍を伝える華やかな報道に当時の日本の民衆は酔いしれており、目の前の豊かすぎる繁栄がこれからも続く事を疑うことはなかった。

 しかし日本の為政者の一部は、ナポレオン戦争でのブリテンの実質的勝利の原因が何であるかを理解していた。日本にも、早期に産業革命を導入しなければならなかった。
 そこでウィーン会議終了と共に不要となった軍事費を必要最小限にまで削減し、浮いた予算のほとんどを国内の近代的な産業振興へと投資した。一部では、幕府が近代産業への投機すら煽ったほどだ。また日本の様々な制度の近代化、一部では西洋化も幕府主導で開始される。幸い、ナポレオン戦争の混乱により、ヨーロッパでの人材獲得は比較的容易だった。
 この幕府による一種の積極財政政策は、本来ならナポレオン戦争終了と共に発生する戦後の不景気を最小限に押しとどめ、日本列島は表面上の繁栄を継続した。徐々にだが、風呂屋以外の煙突からの煤煙も見られるようになった。
 しかし一方では、幕府の財政赤字額はかつてない規模に拡大した。不完全だった租税制度ではまかないきれない国費が戦争に引き続いて浪費されたため、一部の高利貸し(近代銀行へ脱皮中)は、そのあまりに巨大な国家債務に背筋を寒くした。それでも幕府は、日本経済が拡大している限り自らの財政赤字はいずれ解消されると考え、前進する事を止めなかった。余りにも巨体となった国家にとって、停滞や停止は「死」を意味するからだ。
 だが無理な前進は、急速な軋みをもたらす。
 幕府は、ナポレオン戦争での戦費拠出と日本近代化のための資金獲得のために、植民地各地に対して様々な増税を行った。このため、本国と植民地との温度差、植民地の反発を強めさせるようになる。特に人口の多い蓬莱州からの反発は強まった。
 ただし1820年ぐらいまでは、各地への増税は上手くコントロールされていたため、強い反発にまでは至らなかった。それに日本領の各地も日本の繁栄を享受していたため、あからさまに反発する事もなかった。ブリテンと違って蓬莱など有力地域でも、それぞれの地域に特化した産業革命の導入も前後して行われたため、現地住民の不満も若干低下していた。巨大化しすぎた日本の場合、重商主義など一点に全てを集中する開発や発展が不可能になっていからこその、蓬莱など複数拠点での開発促進であったが、そうした行動が織田信宗以後巨大化した織田幕府を百年近くも、比較的安定した状態で存続させていたのだ。
 しかし革新的とも言える改革の中で、ナポレオン戦争以後も国政を主導していた豊臣・徳川の関白と太政大臣が、1820年代のうちに続けて勇退そして死去していくと、暗雲がたれ込め始める。以後幕府中央で有力で有能な政治家が現れることがなく、国政は保守的で定見のないものへと落ちぶれていったからだ。そしてこの事は、国政を個人の力だけに頼っていた時代が過ぎ去りつつある何よりの証拠であった。
 また海外では、ヨーロッパ随一の大国に躍り出たブリテンの東アジア進出が顕著になり、日本はマラッカの港の共同使用権を貸し賃付きで与えるなど、外交面での退勢が目立った。
 また日本の一部の都市住民の間では、ヨーロッパで隆盛しつつある自由主義・国民主義の動きが広がりつつあった。特にフランス革命とナポレオン戦争によって示された国民国家という概念の浸透は広く、武士を中心としたそれまでの封建体制に大きな疑問が投げかけられるようになる。この事は、日本が豊かになった事による教育の普及が、大きな手助けとなった。大都市に無数に存在する喫茶は、そうした自由を渇望する人々のサロンとなった。
 一方日本の各植民地では、1830年代に入ると日本列島の産業革命のための増税と拠出、市場化するための無能化政策のため不満が高まった。不満自体は、日本列島に優先的に物産が集中されていた18世紀末から見られていたが、ウィーン会議以後1820年代半ばぐらいから顕著になっていた。そして人口や経済面でも巨大な勢力を持つようになった蓬莱州は、開拓の中での抗争と戦乱にもまれて住民個々の自立性も育っていた事も手伝って、独自の行動に出る向きが強かった。また実力だけが認められる新大陸では、武士(特権階級)の権威は実質面で低く扱われ、互いの反発を強める悪循環を繰り返していた。
 そして新大陸で自分たちが経済面でも圧倒的優位に立ったと蓬莱の民衆が感じていた事も、彼らの独自性と日本本国に頼らない姿勢を強めさせることになる。
 当然ながら日本本国(幕府)から弾圧や反発は強く、いっそう日本と蓬莱の反目は強まった。
 それでも今まで積み重ねてきた軍事力の差と表面上の豊かさから、各植民地の離反や独立戦争に至ることはなく、国内の不満も何とか抑えられていた。ブリテンの動きも、日本の巨大な版図と人口が持つ力から抑えることができた。
 しかし表面上の繁栄の上で全ての軋みが頂点に達しようとしていた時、突然の破局が訪れる。

 日本列島で1833年に発生した「天保の大飢饉」がその原因だった。
 幕府は大規模な飢饉回避のために、以前のように植民地からの大量の食料拠出と、棄民とすら言われた国内の強制移民を実行しようとする。強制移民の予定者数は、概算で5年間で約200万人。幕府は急ぎ準備を開始するが、飢饉を呼び込んだことと過去の政策の繰り返しこそが、硬直化の証であった。そして植民地、日本の民衆双方から、一斉に反発を受けた。
 なまじ豊かになっていた日本の民衆は、飢饉を防げなかった幕府(政府)の無策を糾弾し、植民地は本国の横暴を非難した。これを治められる者は、関白、太政大臣以下武士官僚の中にはいなかった。将軍も既に老齢であり、権威を示す以外の何かができる年齢にはなかったし、織田信治は理想主義的な啓蒙君主であり国政に口出ししなかった。
 そして巨大な民衆運動と植民地の反発は幕府の飢饉対策を破綻させ、日本列島では飢饉に対する恐慌で物価が異常に高騰して、中流層以下の生活の破綻が訪れた。当然、困窮する民衆の数は大きく増加した。それまでの好景気も、過剰な投機熱の総崩れも重なって一瞬で吹き飛んでいた。多くの債権が紙くずとなり、制御不可能なまでのインフレが発生した。
 同年秋に不作が決定的になると、都市を中心とした住民運動が激化した。幕府は軍を投入して鎮圧に当たるが、今度は民衆の不満が武士階級全体に広がってしまう。当然幕府はさらに弾圧と統制を強化するが、そして民衆が武士の世の中は終わるべきだと激しく抵抗した。武士の中でも、地方の下級武士を中心に改革へ賛同する者が増加。都市に様々なものが集中されていたため、地方での不満はさらに高まった。
 その中で民衆や下級武士が担ぎ出したのが、織田幕府の巧妙な政策によって半ば忘れかけられていた天皇だった。
 大坂時代全般において、天皇とは元号(年号)程度でしか覚えられていなかった。それでも多くの人には元号によって覚えられている存在であり、知識人の多くはかつて天皇がいかなる存在であったかを知っていた。しかもお伊勢参りなどでも、天皇とその権威は民衆の中に息づいていた。武士の中にも、真の権威といえば天皇だという認識があった。尊皇という考えも、学問として存在したほどだった。
 そして武士変わりうる権威となると、もはや天皇しかあり得なかった。何しろ完全な形式上であっても、将軍も関白も太政大臣も天皇の臣下に過ぎないのだ。
 かくして困窮した貧農、貧民が大挙蓬莱や南天に命からがら逃れていく中で、日本の都市部を中心に急速に世直し機運が撒き興っていった。
 そして日本で革命に向けての動きが出たように、ヨーロッパを中心にした世界各地でも革命の胎動が始まっていた。

●アメリカ独立と新大陸情勢