●諸国民の春とドイツ統一戦争

 1848年2月、フランスで「二月革命」が発生。フランス国王だったルイ=フィリップは亡命して第二共和制が成立した。
 これに端を発して、ヨーロッパ各地で自由主義革命が発生する。ウィーン会議の頃に恐れられていた事が、遂に現実のものとなったのだ。
 そして3月、ベルリン・ウィーン三月革命が発生する。
 この時革命勢力には勝算があった。1839年には日本で、あれほど強大と思われた封建体制の織田王朝(織田幕府)が呆気なく崩壊して、古代王家を権威君主とするも国民による立憲君主国家が誕生していた。東洋における名誉革命とでも呼ぶべき変化だった。そして隣国フランスでは、完全な共和制国家が再び成立した。新大陸でも、アメリカ合衆国に続いて、有色人種によって蓬莱連合が成立した。二国は、完全な民主共和制国家だった。新大陸の他の地域でも、そのほとんどが民主共和制国家として独立を達成した。
 つまり自分たちの行動と考えこそ世界と歴史の主流であり、その流れを止めることは誰にも出来ないと考えられたからだ。
 しかも彼らの手には、世界中の自由主義の同志から多数の資金援助や武器援助が存在していた。同士の数も多く、多くの者が貧しさ故に自由を求めていた。これが他に一攫千金を得られる新天地でも有れば違っただろうが、世界は既に開発し尽くされていた。今さら新たな金山が突如出現するというような幸運はほとんどあり得なかった。
 自らの力で、自由を勝ち取る時だったのだ。

 そしてヨーロッパ中央部での革命の動きは、立憲君主国家成立を目指すハンガリー住民によって引き起こされ、その後オーストリア帝国各地とドイツ地域に波及した。
 革命運動は主に低所得労働者によって行われていたが、徐々に加熱する戦闘に市民は警戒感を増した。各政府も本腰を入れ初めて鎮圧を開始。それでも運動の大きさから、大きな変化が見られた。
 特に大きな変化は二つあった。
 一つ目の大きな変化は、オーストリア帝国からハンガリー共和国が分離独立した事だ。これはハンガリーの独立運動勢力の勝利であるが、オーストリアの諸民族による民族自治の要求が一部具現化されたからでもあった。民族自決と自由主義のエネルギーが一点に集中し、それにすでに退勢を迎えていたオーストリア帝国が対応できなかった事から起きた事件だった。
 なお、混乱の中でウィーン会議で活躍したオーストリアの宰相メッテルニヒが失脚し、若きフランツ・ヨーゼフ1世が新たなオーストリア皇帝となった。この段階でオーストリア帝国は、完全独立と共和国宣言を行ったハンガリーに対して、ロシアに援軍を求める。
 しかしロシアは、オーストリアの申し出を謝絶する。自由主義革命の発生と共に、シベリアと中央アジアの境界線に俄に日本軍とジュンガル軍が増加したからだった。これは当然日本が意図的に行った事で、表面上はいつもの小競り合いの延長としての警戒のためとされたが、事実はヨーロッパ中央部に民主的な反ロシア的国家を作ることにあった。また既に国民国家へと昇華していた日本にとっては、単純に自らと同じ道を歩む国を増やすという意図があった。しかもハンガリーは、ヨーロッパにあってアジア系民族を祖とする民族(マジャール人)を中心とする国であり、日本にとって支援する価値があると考えられていた。
 ただし日本の領域の南天地域の南天大陸と朱雀列島でも自由を求める動きが加速し、日本がこれ以上ロシアに対して強く出ることはなかった。

 この時日本は、織田幕府第三の拠点だった「南天」の扱いに苦慮していた。南天各地は、蓬莱ほど独立への圧力は強くなかったし、国力と人口が小さいため日本列島とのある程度の連携を求める向きが強かった。
 しかし織田幕府二百五十年の間に現地の開発を行ったのは、日本列島から実質的には棄てられた人々とその末裔だった。具体的に言えば、貧民・貧農と中途半端な切支丹とそして幕府から切り捨てられた武士、大名達だった。浪人の数も多い。一時期は流刑地にもされていた。
 当然ながら日本列島に対する負の感情は強く、重税や圧政に対して反発を強めていく。蓬莱独立と日本革命に前後して独立しなかったのは、単にヨーロッパ列強に対抗できる力がなかったからだった。しかも日本の新政府は、自らも国民国家となった証の一つとして、さらには遠隔地に対する懐柔策として、自らの独立直後に自治を与えていた。
 しかも蓬莱の独立と安定に伴い、事態も変化しつつあった。そしてこの時のヨーロッパでの自由主義革命は、南天の人々に独立の意思と機会を与えることになった。
 そしてこの時、今後の影響力確保と引き替えに、南天大陸と朱雀列島に対して比較的アッサリと独立を渡してしまい、ロシアへの圧力を弱めることもなかった。
 日本人の手には、南天地域を失ってもなお、広大という言葉すら不足する大蝦夷があったからだ。そして大蝦夷を守るためにも、ロシアへの圧力を弱めるわけにもいかず、南天と大蝦夷を天秤に掛けた末に大蝦夷を選択したと言えるだろう。

 ロシアの出兵謝絶を受けて、日本政府はハンガリー共和国の独立を承認した。蓬莱連合は、最初から独立に賛同していた。アメリカは蓬莱との対立はあったが、国是の上から続かざるを得なかった。そして第二共和制となったフランスが独立を承認するとヨーロッパ諸国もこれに倣い、ハンガリーとオーストリアは分裂する事になった。
 ただしオーストリア帝国が半分に割れただけであり、それまでオーストリア帝国の二つの主要民族(ドイツ人、ハンガリー人)以外の独立や自治はほとんど認められることはなかった。ハンガリー共和国でも、当面はマジャール人の支配が続いた。ただし例外地域が一つあった。オーストリアの勢力減退の影響で、アドリア海に面したヴェネチアが独立を復活させたのだ。ただし、ハンガリー独立支援のためとしてオーストリアとの戦端を開いたサルディニアが求めたイタリア統一への道は遠く、あくまでもヴェネチア共和国の復活(再独立)であった。これは、国内の多民族性を恐れたというよりも、サルジニアを始めとするイタリア諸勢力の干渉を恐れたためだった。オーストリアとハンガリーの分離により、どちらにとってもイタリア人が重荷となったのだ。またヴェネチアがイタリアに合流しなかったのは、自らの経済的結びつきからウィーンとの関係を維持したかったからである。

 同じ頃、ドイツ及びプロイセン地域では、プロイセン国王ヴィルヘルム4世の許可により、「フランクフルト国民議会」が開催された。フランクフルトで開催されたのは、同市がドイツ最大の商業都市として機能し、ドイツ市民の街という性格を持っていたからだ。
 なお会議は、当初独立のあり方を議論するための会議であり、今後のドイツ連邦の方針を決めるための会議ではなかった。少なくとも、ドイツ地域の主導権を握りつつあったプロイセンはその積もりだった。民衆に対する一種のガス抜きのつもりだったのだ。
 しかしハンガリーの独立が、いらぬエネルギーを与えてしまう。
 そしてハンガリーと北部の周辺民族を切り離したオーストリア帝国が会議に大きく首を突っ込んでくる事で、事態は大きな変化を起こす。
 国民会議では、国土の半分失ったオーストリアが、皮肉にも民族問題面に身軽になったため、主に南ドイツを中心に支持勢力を拡大した。オーストリア自身も、新たな統一ドイツ誕生に向けて積極的な姿勢を示した。
 そしてこの会議では、ドイツ統一にオーストリア帝国も含めた「大ドイツ主義」と、プロイセンを中心とした枠組みでドイツの統一を図ろうとする「小ドイツ主義」が激しく対立した。会議当初はプロイセン国王をドイツ皇帝とする小ドイツ主義者が優勢だったが、プロイセン国王フリードリヒ4世は会議を軽視して欽定憲法発布への動きを見せる事で民衆を失望させた。
 そしてハンガリーの独立が確実になると事態は急変し、一転して大ドイツ主義者が優勢となった。しかもオーストリアの国軍がプロイセンによる会議への武力介入に対して牽制の動きを見せたため、会議は混乱の中で継続されることになった。しかも二つの国が本格的に関わった事で、ドイツ民族のさらなる注目も集めるようになった。
 そして翌1849年、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、国民議会に対して帝冠拒否を宣言する。民衆から肯定の座をもらうなど、あってはならない事だったからだ。
 逆に、オーストリアの国威巻き返しを図るフランツ・ヨーゼフ1世は、民意によるドイツ皇帝となることに強い意欲を示し、さらには欽定憲法ではない憲法制定すら公の場で約束する。これで会議は決まり、フランツ・ヨーゼフ1世はドイツ人の民意を受けてドイツ皇帝に即位する事になった。
 しかしプロイセンは、新たに誕生するドイツ帝国への参加を拒絶。ドイツ北部の幾つかの国々も、表向きはプロイセンではなくドイツ関税同盟に従う形で参加を拒絶した。北部の多くが経済的に豊かなため、貧しい南部との統合を嫌ったからだった。それでも中部ドイツと南部ドイツの多くが、ドイツ帝国と名称すら変更したオーストリアへ合流した。ドイツ人の期待が、オーストリアに集まるようになった。オーストリアとライン川上流域(フランクフルト)を中心にして関税や通貨に関する統一への動きが早くも見られ、ドイツ中部の国の多くがドイツとして一つに向かい始めた。暫定首都には取りあえず既に様々なものが揃っているウィーンが選ばれたが、国民会議としてはフランクフルトに民主議会と新たなドイツ皇帝のための宮殿を造る積もりがあった。
 そして一部には、このままドイツは南北に分断された形になるのではとも思われた。一方では、外から見た場合は統一に向かっているように思え、それがドイツに幸運をもたらす。
 ドイツ人の強大化を殊の外危惧するフランスとロシアが干渉を開始したのだった。

 当時第二共和制フランスの大統領となったばかりのナポレオン三世は、自らの政敵の多さから安易な外国叩きと外征に傾いた。ロシアは、依然として日本に国境の東側から押さえつけられていたが、それでも東欧に兵を進めた。とにかくドイツ民族が一つになることは、自らの国家安全保障上でなんとしても阻止するべきだったからだ。
 両国は軍隊を準備して、ドイツへの侵攻する準備を急ぎ進めた。一方では、会議に否定的なプロイセン皇帝への政治的アプローチも積極的に行われた。そして対外脅威が、ドイツ人の民心を本当の意味で一つに傾ける。
 プロイセン国王も現実的となった対外脅威を前に遂に折れて、ここにドイツ連合帝国(当初の正式名称は、オーストリア・プロイセン・ドイツ連合帝国)の成立を宣言した。
 合わせて、ドイツ民族が一つとなって、スラブ、ラテンの脅威に立ち向かう戦争を行うとの宣言が出された。
 俗に言うところの「ドイツ統一戦争」の始まりだ。
 この戦争では、国土と地理条件からフランス軍が(ライン川地域の)プロイセン軍を攻撃し、ロシア軍がオーストリア領内へ侵攻した。各地で戦闘が発生するが、精強なプロイセン軍は革命の余波で統一が取れないフランス軍を撃退した。オーストリア軍も、ドイツ各地からの応援もあって中途半端な規模だったロシア軍の撃退に成功した。
 動員された戦力は、フランス、ロシア共に予算など様々な都合から5万人程度で、対するドイツ側は多数の志願兵、義勇兵が膨れあがったため数において圧倒し、またプロイセン軍の精鋭だけでも十分に対処できる相手だった。
 そして第二共和制だったフランス軍は、ドイツ領内を越えたところでプロイセンに大敗を喫する。しかも敗退から敗走に転じ、プロイセン軍を中心にしたドイツ連合軍が、フランス領内に逆侵攻した。
 しかし大統領だったナポレオン三世は、ここで叔父ナポレオンの故事を持ち出してフランス市民を鼓舞した。定見が定まらない他の政治家を差し置いて陣頭指揮を執り、パリ防衛戦を実施して一定の勝利を掴んだ後に、パリ市民を守るためにドイツ(プロイセン)との講和を実現した。
 それでも彼は敗者となって、講和会議終了と共に大統領を辞任する旨を発表。しかし民衆は、大統領よりもその取り巻きの無能と保身を糾弾。その後のクーデターと第三帝政へとつながっていく。
 なおこの時フランスは、アルザス・ロレーヌ地方の割譲こそ受け入れなくてはいけなかったが、巧みな交渉のおかげで莫大な賠償金の拒絶には成功。その後彼の手によってフランスの復活が図られていく。

 なおオーストリア・プロイセンによるドイツ連合帝国は、1871年に両者の姻戚関係によって帝室が一つに合体した。憲法、議会も一つとされ、新たに首都をベルリンと定めた巨大なドイツ民族国家が成立する。これがドイツ帝国、通称「ドイツ立憲帝国」である。
 首都として最終的にウィーンが選ばれなかったのは、ウィーンは次の段階であるヨーロッパの首都として置いておくためだとドイツ民族の多くが信じた。実際は、実利面でウィーンがドイツ帝国の中心として相応しくないからであった。オーストリアならドナウ川を中心に帝国を作れるが、ドイツ民族の首都ではそうもいかないからだ。また商業の中心であるフランクフルトが選ばれなかったのは、単に当のフランクフルト市民の反対が強かったからに過ぎなかった。また位置的な面だけならオーストリア領内のプラハも候補として上がったが、チェク人の街をドイツの首都とするわけにもいかなかった。
 なおこの時の変化は、帝室が象徴化された大きな証であり、この時の自由主義革命の流れでドイツの民主化が進み、対外戦争で国民国家としての一体感が醸成された事が影響していた。
 ただし域内には圧倒的多数となったドイツ人以外に、チェク人、ポーランド人、ルテチア人(+ロレーヌのフランス系)など多くの周辺民族を含んでおり、初期の革命に前後して多くの人が新大陸を目指すことになる。そして多くは、既に飽和しているアメリカではなく、新天地の溢れる蓬莱へと流れていった。この中には、オーストリア帝国側に住んでいた、旧オーストリア帝国住民だった多数のユダヤ人も含まれていた。

(※この世界では、日本人が北米西岸各地とオーストラリアに早々に移住・開発しているので、この時期に太平洋沿岸各地でゴールドラッシュは起きず、ヨーロッパ人の移動(移民)はありません。)


●開戦前の新大陸情勢