●日本帝国とロシア帝国の対立

 1838年の革命によって、織田幕府は倒壊して日本帝国が成立した。政治形態は、天皇を名目君主とした立憲君主制で、独立当初から憲法と議会を有していた。そして国民に多くの権利を認め義務を求める国民国家であり、この時の変革によってようやく日本は近代国家へと進歩を遂げたことになる。しかし織田幕府時代から受け継がれた文物や制度も多く、織田幕府の残した巨大な遺産を組み直して、早急に新たな国家体制と領土の再構築を始める。
 独立後、様々なものの近代化と、それに伴う国内での混乱、外国の干渉などを経て、1860年代には再び世界の列強としての地位を確保していると見られてた。何しろ近代国家の基礎工事は長年続いた織田幕府がほぼ終えており、産業革命ですら織田幕府が自らの財政を傾かせてまでして整えていたので、新政府が行うことは国民国家としての体制さえ整えればよかった。状況としては、ドイツと少し似ているだろう。それともフランスに近いかもしれない。
 しかも織田幕府が残した領土は、蓬莱を失っても尚あまりにも広大だった。織田幕府は世界一の植民地帝国だったと、一言でくくれない程の巨大すぎる遺産だった。
 日本本土とされる領土は、北蝦夷島から始まって日本列島を縦断後に琉球を経て台湾(小琉球)までが本国と定義された。国土面積的には、約48万平方キロメートルとなる。この点は、一見土地面積は相応なのだが、当時の総人口6000万人という点と峻険な山岳地帯が多いことを考えたら、実質的に使える土地がかなり小さいと判断できる規模でしかない。利用できる平らな地面は、領土の三割しかないのだ。しかし日本には、無数の植民地があった。
 確かに織田幕府の有していた広大すぎる植民地のうち、最も豊かだった蓬莱大陸は独立した。南天地域に広がる南天連邦共和国、朱雀共和国も、1848年のヨーロッパの自由革命の影響を受けて日本からの事実上の独立を果たし、日本の天皇を名目上の君主とするも事実上の独立国となった。これに連動して、南天大陸の北にあるパプワ島が南天連邦の領土と認められた。
 また、日本革命時に馬来(マレー)半島とスマトラ島北部のアチェ王国がブリテンに奪われたが、戦略性の高さはともかく面積的には知れていた。それに東印度でほとんど唯一イスラム教徒が多いアチェは、日本にとっても長らく重荷の一つだった。それに当時の日本(織田幕府)は、ジャワとスマトラの間のスンダ海峡を使う事の方が多かったので、あまり損をしたとは考えていなかった。
 一方では、呂宋は直轄領だが、東印度(スンダ)は古くから属国もしくは属領であって、正確には日本帝国になっても植民地ではなかった。太平洋の多くの島々も蓬莱とフランスとで分割し合った形になっている。
 そして日本には、大蝦夷(おおえぞ)というユーラシア大陸北部全域を覆い尽くすほどの広大すぎる土地が存在した。
 しかも大蝦夷は、日本帝国時代に入ってからも隣接するロシアとの戦争で領土をかすめ取り、清帝国の弱体につけ込んで多くの割譲に成功していた。従来の大蝦夷地域だけでなく、シベリアの過半からカスピ海、ペルシャ、インド国境にまで至る広大な領域となっていた。草原と山脈、さらに北林(タイガ)と氷土(ツンドラ)が過半であったが、ジュンガル汗国を含めた影響圏の広さは日本列島の50倍以上の面積にも及んでいた。
 なお同地域は、ユーラシア大陸北東部の大蝦夷州、モンゴルから中央アジア地域にかけてのジュンガル汗国(トルキスタン)、旧ロシア領のシベリア(西大蝦夷州)に分かけられていた。ただし時代の進歩に対して日本人抜きには追いつけないジュンガル汗国は、事実上日本の衛星国となっていた。支配民族の数もモンゴル人を含めても200万人程度でしかなく、広大なジュンガル域内の人口を全部合わせても1500万人程度でしかなかった。とてもではないが、西方から虎視眈々と睨みを効かせるロシア人に太刀打ちできるものではなかった。
 それは現地日本人にとっても同じ事なので、清帝国からアムール川地域をかすめ取り、ついには満州北部を奪い取って自らの領域を確固たるものとしようとした。日本圏内からの移民も積極的に推し進めたし、ジュンガルの近代化も惜しみなく援助した。
 そして満州北部を得たのは、大蝦夷を一つにするための世界最大規模の鉄道敷設のためだった。

 満州北部を得るが早いか、世界中から資本と最先端の技術を集めて、大蝦夷鉄道の建設を開始する。建設当時は、日本の国運を賭けんばかりの力の入れようだった。
 工事は当時としては史上希に見る難工事となったが、全ての困難を強引に乗り越えて、瞬く間に鉄道は西に向かって伸びていく。そして敷設開始から僅か十年後の1878年に、ロシアとの国境のウラル山脈にまで至った。建設では、最新技術を用いても大蝦夷やシベリアを切り開くのは難しく、強引に連れてきた中華流民が使い捨てのような形で使役されるほどの、文字通りの突貫工事であった。ただし一部の区間(バイカル湖)では鉄道連絡船によって長らく結ばれ、完全開通はさらに十年以上の歳月が必要であった。だがユーラシア大陸北部を、いち早く鉄道が貫いた事実には違いがなかった。そして大鉄道を突貫工事で作った事に、日本がロシアを脅威と認識していた事が見えてくる。逆に、ロシアをヨーロッパに完全に押し戻す最後の機会だと、日本が意識していたと見ることもできる。
 当然ながらロシアの反発と干渉が見られたが、世界中が参加した鉄道建設への非難となるため、結局実質的な行動はほとんどできなかった。
 なお大蝦夷鉄道の敷設には、ドイツ、蓬莱が積極的に資本参加と技術提供を行っている。鉄道先進国二国の協力無くして、短期間での大蝦夷鉄道の完成はなかったであろう。ドイツと蓬莱は、資本参加によって自らの植民地化はともかく市場化を狙っていた。蓬莱に至っては、世界規模での鉄道と船舶による情報ネットワーク構築を狙っていた。そして招き入れた日本は、多少市場化される事ぐらいは折り込み済みだった。近代化して以後の日本は、大蝦夷が自分一人で抱えられない荷物である事を理解するようになっていたからだ。ただし、最終的な独立は仕方ないにしても、一国優位になる事は避けたかったので、多数の国に鉄道敷設への参加を呼びかけたのだ。大蝦夷を抱えきる気はなくとも、一番の権利者でありたいと日本は強く望んでいた。
 ただし、鉄道建設に参加しなかった国も多かった。もう一つの鉄道先進国ブリテンは、一部の民間資本が参加したに止まった。一部だったのは、自らが手にするには色々な意味で遠すぎることを理解していたからだ。それでも一部で参加したのは、宿敵日本が力を付けすぎることは不愉快だが、お金儲けを逃すわけには行かないからだ。それに多少なりとも世界の僻地での発言権も確保しておきたかった。
 これに対して複雑だったのがフランスだった。
 ドイツ帝国成立以後のフランスの外交方針は、ロシアを利用してドイツ地域に対抗しようと言うものだった。フランスにとってのドイツ立憲帝国は、重大な脅威だった。国土も人口も工業力、国力、軍事力の全ての面でドイツが上回っていた。しかしドイツ最高の政治家ビスマルクによって、フランスはヨーロッパでの孤立を余儀なくされていた。海外では日本とある程度のつながりが保たれていたが、日本は東アジアの大国なので、ヨーロッパ大陸ではほとんど役立たずだった。だが通常日本はフランスの味方であり、今回も他の列強よりも好意的な資本参加条件を提示していた。それがブリテンやドイツ、蓬莱を牽制するためとはいえ、最大限の好意を示していた事は間違いない。
 だが、ロシアに大きな脅威を与える大蝦夷横断鉄道の敷設は、フランスに大きな不利益をもたらすと考えてられていた。事実ロシアと伝統的に対立しているドイツは、日本人に積極的に協力していた。ドイツが参加した背景にも、ロシアの後背に巨大な対抗勢力を作るためだった。そしてロシアも対日、対ドイツ警戒を強めており、ここにフランスが鉄道敷設に参加することはしたくてもできなかった。
 しかも鉄道敷設に伴い、沿線各地や近隣の鉱山、都市開発が進展していった。そこに日本人が支配者として最初に植民した。続いて労働力として日系諸国から大量の移民がやって来て、さらに中華系住民が流民として流れ、そこをドイツや蓬莱が、日本と共に市場化していった。
 支配領域の商業言語と公用語の双方が、鉄道が延びる地域全てが日本語に染め直されていき、いつの間にか日本語は第一公用語となっていた。無論第二公用語としては、それぞれの地域で通用しているトルキスタン系、モンゴル系の言語が認められていた。ただし文字のない地域には、積極的に日本語(主にカナ文字)が持ち込まれていった。一方では、中華系言語及び民族は、徹底した同化政策を行う事で排除された。当然反発もあったが、そうした時は国内では強制を徹底し、国境線では移民及び流民の受け入れを停止した。また中華系民族の移民と出身地域との繋がりも徹底的に絶つ政策も実施し、中華地域全般にその事を流布した。大蝦夷を支配する日本人達は、移民は相応に歓迎するが中華系が中華系として溢れることに対しては、異常なほどの恐怖を感じていたよい例だろう。中華地域からの反発も発生したが、徹底的に無視もしくは対立してでも対応した。古来より万里の長城を越えた先は中華ではない、という論法まで持ち出された。
 一方で地図の上では広大な領土を持つジュンガル汗国は、近代国家としての力とまとまりを持たないため、国家としてはもはや日本以下の列強に利用されるだけの存在に成り下がっていた。だがそれも、マクロ視点からなら、白人支配領域のように植民地支配や人種抑圧されないだけマシといえただろう。少なくとも原住民達には、先祖伝来のある程度生活を守るだけの余裕が残されていた。

 なお大蝦夷や中央アジア地域で、日本の鉄道敷設と日本化が円滑に進んだ背景の一つに、同地域での長年の宗教政策が影響していた。
 ジュンガル汗国とモンゴル系地域ではラマ教、日本名で言うところのチベット仏教もしくはチベット密教が広く普及していた。一方の日本では、日蓮宗系の仏教が大蝦夷での布教活動を熱心に進め、その簡単な教義が教育程度の低い住民に受けていた。また日本とジュンガルは、支配の円滑化のために支配領域で宗教税を設定した。宗教税は、かつてのペルシャでのように、瞬く間にイスラム教を駆逐していった。各種仏教は、イスラム教よりも地域の伝統に寛容さを示した事も、好影響を与えた。モンゴル帝国の記憶を残していた中央アジア各地の先住民達も、かつての同胞が神の教えと通商を合わせて持ってきた事にそれなりに好意的だった。
 また、18世紀当時は、それほどイスラム教が中央アジアに広がっていなかった事も、再布教を容易にしていた。
 ただし日本人達は、宗教を駆逐するのが目的で宗教税や布教を行ったのではなかった。宗教の駆逐は副次的要素に過ぎず、イスラム教とセットのイスラム商人を排除して、日本商人が大蝦夷及びジュンガル地域を支配するのが一番の目的だった。
 もちろん一部の地域では、イスラム教徒の反発はあった。だが、それも村ごと根絶やしにするような事は19世紀までなら日常茶飯事で行われたし、イスラム商人の駆逐は特に徹底して行われた。情報がひどく限られた時代なので、問題もほとんど発生しなかった。商人による情報と流通を握ってしまえば、孤立化と再布教は比較的容易であった。そして約二百年の布教と支配によって、域内ではほとんどイスラム教は消滅していた。それほど生活が過酷ではない地域では、生活の利便性が宗教浸透には大きな力を発揮したという事になるだろう。
 そしてイスラム商人が駆逐されると、日本人が商業と情報を担っているという代え難い事実が、現地の宗教を商業言葉と共に確実に塗り替えていった。この点は、イスラム教が広まった時に似ている。
 またチベットのラマ教総本山も布教には熱心であり、日本人と二人三脚で中央アジアの宗教地図を塗り替えていった。
 そして一連の宗教変化の影響は近隣地域にも及び、ペルシャ北部ではイスラムを離れ、古い宗教だったゾロアスター教に戻る人々が増えた。またトルキスタンと同系列民族のいるアフガニスタン地方にも、北部を中心にジワジワとラマ教が広まっていった。その影響は、カースト制度に苦しむインドの北西部地域にまで及んだほどだった。一部では、インド北西部から中央アジアへの移民すら発生した。
 そして19世紀も後半に入る頃には、大蝦夷やジュンガルではラマ教と日蓮宗という仏教の一派が支配的宗教と化していた。これは商業における日本語の普及と日本からの優れた文物の浸透によって補強され、広大な地域に住む様々な民族を結ぶ一つの共通項として広まっていった。それぞれのコミュニティーを結ぶのが、それまでのイスラムではなく日本人の商業ネットワークと仏教(ラマ教)になっていたのだ。
 だが中央アジア各地に入り込んできた日本人は、入植した者はあまり気に入られることはなかった。技術を教えてくれる事はあるが、善人にしろ悪人にしろよそ者であったからだ。しかし日本人商人は彼らの生活に欠かせない存在であり、情報と文明の担い手でもあるため重宝された。技術者もある程度歓迎された。そして日本人の多くは都市住民として定着して、経済と情報、高度技術を牛耳るようになる。このため言葉、文字の日本化は大きく進んだが、中央アジア地域で日本人が極端に増えるという事はあまりなかった。日本が大きく増えた地域は、元から人口密度の低かった大蝦夷地域が中心となった。特にウクライナから伸びる黒土地帯で日本人が増えた。これに加えて、北満州が日本人の移民地域として伸びていく。
 そして鉄道が各地に引かれてくると、日本人による支配はより決定的となる。とはいえ、既に日本人と日本的なものに否定的な者は少なく、抵抗感も減っていた。
 それよりも、ロシアの周辺部ではロシア人に対する反発の方がはるかに強くなっていた。
 蓬莱と同様に、異なる文化、文明同士の衝突が団結を促していたのだ。


●露土戦争とロシア