●世界分割完了と蓬莱の対外膨張

 ウィーン会議から自由主義革命の時代を経た後のヨーロッパ世界では、大国もしくは列強と呼ばれる国々は、非常に限られるようになっていた。
 これを蓬莱大陸での統合戦争からしばらく経った、1870年代で見てみよう。
 この頃ヨーロッパで列強(The Great Powers)と定義される国は、ブリテン連合王国、ドイツ帝国、フランス共和国、ロシア帝国、末席に統一を終えたばかりのイタリア王国があった。これらに次ぐ国もないわけではないが、いずれも列強と呼ぶには力足らず、役者不足だった。かつて大航海時代を席巻したスペイン王国、地中海世界に覇を唱えたオスマン帝国は、領土の減少に比例するかのように大きく衰退していた。ゲルマン民族から離脱したハンガリーは、人口規模はそれなりだったが大国と呼ぶには不足するものが多すぎた。しかも急速に国内のユダヤ系富裕層の影響力が強まり、国内からの反発が相次いでいた。それぞれ一時代を築いたオランダやポルトガルも、すでに過去の栄光にすがるだけとなった。オランダに至っては、ウィーン会議でほとんど全ての植民地を失った上にベルギーに独立され、相応の経済力と豊かさを持つだけのヨーロッパの小国に落ちぶれていた。他の中小国も似たり寄ったりだった。相応の領土(国土)と本国人口を持ち、工業化と国民国家化に成功した国だけが列強足り得たのだ。この例外は、工業化と国民国家化の双方で遅れているロシア帝国ぐらいだろう。
 ヨーロッパ以外の列強は、極東の端っこで300年間にわたってぬくぬくと国を育てている日本帝国と、蓬莱大陸に新たに誕生した蓬莱連合共和国だった。しかもこの二国は、国の根幹を成す日本人達が過去の地球全土を舞台にした陣取り合戦を半ば偶然の形で勝ち抜いたため、飛び抜けて広大な国土を誇っていた。当時の日本は大蝦夷を有していたので、世界の陸地の5分の1という世界最大の版図を持っていた事になる。アジアには清という名の人口面での巨大国家もあったが、その巨体もあって身動き一つ出来ていないのが実状だった。巨大な人口は、産業革命や自由主義革命という変革に対しては、大きな足かせとなっていた。
 そして、国民国家を作り上げ工業化を実現した国家が次に必要としたのが、自らが好き勝手に使える市場にして工業原料供給地、つまりは帝国主義時代的な植民地だった。
 各国の帝国主義的動きはドイツ帝国成立の1850年頃から始まり、ブリテンとフランスが手を携えた形で作られた1869年のスエズ運河開通によって植民地帝国主義時代が本格的に幕を開けた。
 しかもこの時代からは、鉄道と蒸気船という血流網と電信という神経が、世界規模での巨大国家の成立を可能とするようになっていた。

 開幕時点でリードしていたのが、ブリテンと日本、フランスだった。しかし日本は一足早く各地で色々と行いすぎたため、既に帝国主義的停滞期もしくは衰退期に入っていた。本国は国民国家として再生できたが、列強から自らの利権を守る行動や各地を軟着陸で独立もしくは自立させる事で影響力を保持する行動が主となっていた。また産業面では産業革命が一通り行われていたが、それよりも金融面、商業面での特化が目立ち、過去の蓄積のおかげで比較的裕福な国ながら、蓬莱やドイツのような力強さには欠けていた。
 一方で強引に帝国主義路線をばく進したのが、世界に先駆けて産業革命を開始したブリテンだった。
 フランスにはカナダという自国用の入植地が古くからあったが、ブリテンは過去の争いで新大陸の拠点をほとんど失い、最大の拠点インド地域は富をもたらす植民地ではあっても入植地ではなかった。以前は北アメリカ(蓬莱)東部「十三植民地」があったが、それも独立された上にその独立した国までがなくなってしまった。当然と言うべきか、有色人種の国に移民したがる者は少数派だった。それにブリテンには、世界最先端の工業国であるだけに、入植地だけでなく市場としての植民地も必要だった。様々な原料や資源を入手する場所も必要だった。そしてその多くが、日本人の手で運営される場所となっていた。そうした点からもブリテンはインド経営を重視したが、やはり入植地が欲しかった。
 一時ブリテンは、南天大陸に対してかなりの興味を向けたが、アロー戦争以後になると警戒心を強めた日本人同士が、地域を問わず一致団結する傾向を強めたため付け入るスキがなかった。ドイツ人を焚きつけようとしたが、自分たちと同じように日本人達に睨まれるとさっさと別の地域に目を向けていた。面倒を嫌ったからだ。
 もっとも、南天大陸にしろ朱雀諸島にしろ既に日本人で溢れかえっているので、ブリテン人のための入植地に相応しいとは言い難かった。加えて、蓬莱や日本の軍艦が頻繁に南天地域など太平洋各地を訪問するようになっては、流石のブリテン人も引き下がるしかなかった。
 食料供給地としてはアルゼンチンの平原(パンパ)が利用できたが、既に半白人国家として独立している上にヨーロッパ全域からの移民受け入れ地としても機能しているため、ブリテンが抜け駆けする事は難しかった。砂糖の巨大供給地となっていたブラジルも同様だった。ラテン大陸は、ヨーロッパ共通の食糧倉庫だった。
 そうした中でブリテンが重視したのが、アフリカ南部で唯一温帯気候が存在する大陸南端のケープ植民地だった。丁度アメリカ独立の頃にケープを手に入れた事もあって、まさに渡りに船であった。
 蓬莱にアメリカが滅ぼされるとケープ進出の動きは加速され、ブリテン系及び英語を話せる人々は、1860年代以後はケープを目指すようになる。
 ただし一部のアイルランドからの移民は、ブリテン領のケープを目指すよりも、主にラテン大陸を目指すようになった。ケープが簡単に楽天的な入植地になりうる場所ではなかったし、移民してまでブリテン人に支配されたくも無かったからだ。物好きなアイルランド人は、自作農になるという希望を胸に蓬莱にも向かった。
 しかしブリテン本国は、自国内の貧民の逃れる先を作っておかなければ内政不安が起こりやすいと考えた。内政不安は、世界帝国へと進むことが難しくさせるので、南アフリカの開発と入植を熱心に行った。現地でも開発有望な地域に住んでいた原住民(黒人)は根こそぎ追い出すか滅ぼされ、ほぼ完全に駆逐されていった。生き残った者も奴隷にして売り払うか、カラハリ砂漠などの不毛な土地に追い払われた。移民を渋る自国民に対しては、まずは罪人の流刑などで辺境開拓を強引に進めて、後の大規模移民の土壌造りをした。
 このため、19世紀後半の半世紀の間にアフリカ南端部は急速な白人化が進み、地域によっては20世紀に入るまでに住民の8割以上が白人となった。現地の白人人口も、半世紀で500万人を数えるようになった。域内で残っている黒人も、殆ど全てが奴隷だった。
 これを口さがない者は、コーヒーが白くなるまでミルクを入れる行為だと揶揄した。
 そしてインドのカルカッタ、ケープ植民地のケープタウン、エジプトのカイロを結ぶ三角地帯、所謂「3C」がブリテンを世界規模の大国とする最重要の外郭地拠点となった。この流れは、1875年のスエズ運河確保と、1877年のインド帝国成立によって決定的となる。
 これに対してフランスは、ナポレオン三世の死によって第三共和制へと移行したが、帝国主義路線は継続された。継続して、本国の対岸から大西洋に面した西アフリカ(サハラ)方面の進出を重視するようになった。これに本国とカナダをリンクさせた自らの帝国、フランス政府呼称の「北大西洋国家」建設を推し進めた。
 しかしモロッコ問題で、モロッコの自主独立を訴える蓬莱連合と、影響下を強めようとしたフランスは衝突してしまう。前後して蓬莱はアフリカへの進出を強めると共に、モロッコ近在に勢力を持つスペイン、フランスとの関係を悪化させるようになる。
 19世紀半ばに民族統一に成功したドイツは、重工業を中心とする国内産業の大きな発展に伴い急速に膨張していた。しかし、オーストリアとプロイセンという二つの軸が国内に存在しているため今ひとつ団結に欠けており、そうした国内問題を解消する側面もあって、ドイツ統一直後から海外進出に積極的だった。
 アフリカなど世界各地への探検や探索も積極的に行い、アフリカの一部では古い時代の利権を主張していたポルトガルなどからはそれらを形式的に購入するなどした。そして、かつて奴隷海岸や黄金海岸と呼ばれた地域で急速に勢力を拡大して、結果としてアフリカ中央部の多くを押さえた。特に人口の多いナイジェリアを押さえた事は、ドイツ国内では大きな成果とされた。ナイジェリアは、ドイツにとってのインドとなるだろうと宣伝された。
 一方でドイツは、マダガスカル島の利権を巡って日本と衝突し、現地に形式上で残っていた王国を援助するなどの動きを見せた。だが、古くからマダガスカル島に進出していた日本に、結果的に獲得競争で敗北した。マダガスカル島近在の可憐諸島も、18世紀初頭から進出していた日本人の手に帰した。ちなみに、この島に生息したドードーは、17世紀に世界周航した日本人に持ち帰られて「見せ物」として辛うじてその後も生き延び、以後日本人が世界中の珍獣を集めて見せ物(近代動物園のはしり)の起源となったと言われている。現在でもドードーのように原産地で絶滅しても、日本勢力圏のどこかで生きているという生物がいくつか見られる。そして日本人の手により絶滅から逃れた辺境の動物が多かった背景には、日本列島の住民が仏教の教えからくる習慣と伝統から、海外進出以後も家畜以外の肉を食べなかったためと言われている。
 話が少し逸れたが、マダガスカル島情勢の裏でブリテンがドイツを後押ししたが、これはケープを拠点としてインド洋を自らの帝国の海としようとして日本の進出を嫌ったためだった。またヨーロッパ列強の一般感情として、アフリカは自分たちのものだという考えも存在していた。
 結局ドイツは、ポルトガル領を経由してアフリカ大陸東部のケニア、タンザニアと呼ばれる地域を得て、そこを中継拠点の一つとしてアジアへの進出を強化する。また一方でハンガリーを経由してトルコとの関係強化を重視するようになり、中近東からインド洋、そしてアジアに出る政策も押し進めた。さらにそれよりも早く、日本を中心とした列強間の政治的間隙を突いて、北東アジアにおいて朝鮮半島を得ることに成功する。
 そしてドイツを先陣とするヨーロッパ諸国の帝国主義的な東アジア進出は、朝鮮半島がドイツに、インドシナ半島がフランスに、マレー半島、アチェ(カリマンタン北部)がブリテンに完全支配されていった。
 この間日本人達は自らの領域防衛を懸命に行い、また巨大すぎる大蝦夷利権は蓬莱やドイツを巻き込むことで自らの取り分を保持し続けた。また勢力圏内の日本化政策もより積極的に行うようになり、呂宋はほぼ完全に日本語圏にする事に成功していたし移民と開拓も熱心に行われた。現地国家の影響でヒンズー教徒が殆どを占めるようになった東印度でも、都市部を中心とした公用語と商業言語は日本語が占めるようになった。
 これ以外の国でも、スペイン、イタリア、ポルトガルが、アフリカで植民地を獲得した。その際たる国が、最初に大航海時代を切り開いたポルトガルだった。しかしポルトガルの場合は、国力と人口の小ささもあって奴隷交易以外に植民地の使い方ができない有様であり、小国特有の余裕のない強欲さを示していた。
 そうした状態に入る前に、さらに植民地獲得競争に首を突っ込んできた列強が、日系最大の国家となっていた蓬莱連合だった。

 統合戦争を経てアメリカを合併した蓬莱連合は、戦後そのエネルギーの多くを国内開発の充実に注ぎ込むが、一方では急速に海外への関心を強めるようになった。
 蓬莱は既に、アジアでは日本との協調外交によって大蝦夷利権の一部を得ていたし、中華進出の拠点である上海には広大な租界を確保していた。太平洋でもアレウト列島、ハワイ諸島からサモア島にかけての島嶼の全てを、有するか勢力圏に置くようになっていた。カリブ地域にも、積極姿勢を示していた。
 蓬莱の総人口は既に一億人を優に超えていたので、国内安定後の市場獲得に向けた動きが自然に積極的となりつつあったのだ。しかし蓬莱国民の一般的な感情としては、別に植民地や市場が欲しいとかは思っていなかった。それよりも、白人に駆逐もしくは植民地化される前に、自分たちの手で未開地域を何とか手助けしたい、という感情の方が強かった。先民系民族などは、世界中の先住民族を白人から守り自力で守れるように指導する事は、先達となった自分たちの崇高にして神聖な義務だとすら考えを強めていた。
 そうした感情を、都市部の資本家と国家が利用したというのが、蓬莱が急に海外進出を行い始めた経緯となる。帝国主義という厳しい時代が、おめでたい事を言っている余裕をあらゆる国から奪っていたとも言えるだろう。
 統合戦争後の蓬莱は、世界各地に探検隊や探査隊を積極的に派遣するようになった。政府が援助金や報奨金を出したため、民間の探検隊が世界中に散らばっていった。民間団体も多くの資金を募金で積み上げて、勇敢な者達を世界の果てに送り出していった。探検者や冒険者の数も、統合戦争での栄光を忘れられない元従軍兵を中心に、有り余るほど存在した。国家が統合された時のエネルギーが、そのままの状態で外へとほとばしった形だった。
 市場化が難しい北ユーラシア(ジュンガル)の領域深くに、古代国家調査のような学術目的で入るような探検隊もあった。北極地域も隅々まで探検され、領土にできるところは全部飲み込んでいった。蓬莱の正確な国境が確定したのも、統合戦争後の事だった。また、冒険心を満たすために、南極大陸奥地を目指した勇敢な冒険隊もあった。食用以外の目的で、南極のペンギンを最初に文明社会に連れ帰ってきたのも蓬莱人だった。
 しかし蓬莱が主力と位置づけたのは、アフリカ大陸を目指した探検隊だった。既に環太平洋の過半は、捕鯨産業の発展などもあって開拓し尽くされていたからだ。
 当時アフリカは、一部を除いて多くの地域がどこかの国の領土や植民地というわけではなかった。先住民の前近代的な国家も、まだいくつか見られた。エジプトやモロッコ、エチオピアのように頑張っている国もあった。
 かつてポルトガルが大陸の沿岸全てを領すると言った時期もあったが、19世紀中頃のアフリカは依然として「暗黒大陸」と言われていた。過酷な自然環境と猛獣、未知の疫病が蔓延する不毛の土地に等しかった。価値があるのは、地中海沿岸などの一部の土地を除けば、奴隷としての原住民族ぐらいだった。奥地に進むことは、先住民ですら死を意味するほど過酷な大地だった。
 しかしそこにこそ、蓬莱のつけ込む隙間があった。
 同時期ヨーロッパ諸国でもアフリカに対する探検や探索が進んでいたが、規模と数において蓬莱が圧倒した。ヨーロッパ諸国が文句を言うことも多かったが、探検隊、商人、軍隊、入植者と先んじて送り込んでしまえば、帝国主義の時代は領土化と同義であった。
 そして1885年までに蓬莱が大規模な拠点を築いた場所の一つが、かつての黄金海岸の付け根に当たるカメルーンと呼ばれる場所だった。蓬莱にとって幸いな事に、当時白人の拠点がなく、また積極的に自らの勢力圏だと主張する国がなかったため、蓬莱の進出がかなったのだった。また蓬莱の主張を通さねばならない事情がヨーロッパ諸国に発生しつつあった事も、蓬莱にとっては好都合だった。
 しかし蓬莱の行き過ぎた探索と探検、そして現地民族のクリアランスに対してヨーロッパ諸国が一斉に反発した。
 反発の発端は、蓬莱がアフリカ各地に多数の探検隊を放った際に起因している。しかも蓬莱は、アフリカ各地に残る国家、王朝に対して積極的に接触を持つようになり、様々な文物や知識を与えることでヨーロッパ諸国の反感を買った。現住民に対して正しい商取引を行う事や、本当の事や高度な知識を伝える事は、白人達にすれば論外の行動だった。
 決定的となったがの、コンゴ情勢だった。
 コンゴ地域には、コンゴ王国という国が古く(14世紀)から続いていた。同国は16世紀にキリスト教を受け入れるも、力の差からアフリカでの奴隷供給の一大拠点となっていた。コンゴ王国自身も、名目のみの存続に等しくポルトガルの属国化していた。ポルトガルの勢力圏だったコンゴ(+アンゴラ)とモザンビークを先祖に持つブラジル人がいかに多いかが、全てを物語っているだろう。
 そして蓬莱の「心ある人々」は、現地住民のクリアランスを画策した。
 1868年、蓬莱の探検家川口浩(※統合戦争時は戦時大佐で戦後冒険家となった)ら「川口浩探検隊」は、勇敢にもコンゴ川を遡って遂にコンゴ盆地へと至った。その後、ビクトリア湖を経てアフリカ東岸に出て蓬莱に帰国した。その旅程で仲間と従者(総数400名)の6割を失うも探検を成功させて、蓬莱への帰国後に大々的に報じた。暗黒大陸の奥地に新天地有り、と。
 そして彼らは帰国後に資金と仲間を募って会社を設立し、さらに危険を冒して奥地に入り込んだ。その時、原住民の国や黄金都市を見つける代わりに、遂に1872年、二つの大河の奥地で巨大な金鉱とダイヤモンド鉱山を見つけるに至った。
 ただしそこで流石の蓬莱人も欲望に目が向いてしまい、当初目的だった沿岸部の現地民族への文明伝搬(クリアランス)は、白人に内緒で若干の文物を与えただけで、結局は探検のための人員協力をさせるためのバーター取引に近かったと言われる。何しろ10名ほどの探検隊以外の従者全てが、現地で集められた者達だった。先住民に対する取引でも、ちょっとした文明の利器や酒、甘い食べ物が多用された。結果的にしている事は、白人と大きな違いはなかった。せいぜいが、人種差別と奴隷を肯定するか否定するかの違いだった。前人未踏の場所では、当時の技術力ではその程度のものしか持ち込めなかったとも言えるだろう。
 そして当時の近代国家間のルールでは、最初に新たな土地を見つけた国がその主権を主張できた。つまりアフリカ東部奥地は蓬莱領となっと主張できるのだった。実際川口探検隊は、そこら中に蓬莱の旗や記を残していった。
 当然とばかりに、その後は蓬莱によるコンゴ川流域の開発が精力的に進められ、ポルトガルを押しのけるようにアフリカの奥地へと蓬莱人は突き進んでいった。
 現地住民のクリアランスも、蓬莱側の「善意」により積極的に進められるようになった。

 1884年、ついに蓬莱の移民や進出者からなる人々は、現地のマタンバ王国など先住民の多くを抱き込む形で、白人からの干渉排除を目的として独立を宣言するに至る。これがコンゴ連合国の建国だった。
 当然ながらヨーロッパ列強から強い反発が起こって、国際問題に発展。反発の強さを前に蓬莱も態度を軟化させざるを得なくなり、アフリカに関わる全ての国々が参加しての国際会議が開催された。
 会議は音頭をとったのが当時三度目の首相の座にあったビスマルクだったためドイツで開催され、これが先に書いたアフリカの分割を決定した「ベルリン会議」となった。
 会議は1885年に行われ、コンゴの独立(蓬莱領化)をめぐる対立収拾が図られるとともに、列強による「アフリカ分割」の原則が確認された会議となった。この会議には、会議の発端となった蓬莱と、マダガスカル島の権利を主張する日本も参加した。
 この会議で蓬莱は、コンゴ領有を諸外国から承認されるも、自らが主張した領土よりもかなり小さな地域の支配権を獲得するに止まった。また制度や民度不十分として自主独立も認められず、あくまで蓬莱領として承認されるに止まった。ここでとばっちりを受けたのが、近在のアンゴラ沿岸を有していたポルトガルで、コンゴ川南岸と奥地の利権のかなりを蓬莱に持って行かれることになった。
 そしてこの会議以後、列強によるアフリカ進出と線引きが一気に加熱する。
 以後、20世紀に入るまでの僅か15年の間に、残された現地住民による自主独立地域はエチオピア、モロッコ、エジプトだけとなっていた。しかもエジプトは既にブリテンの軍門に降ったに等しい状態であり、モロッコは蓬莱とフランスの進出合戦の舞台へと変化しつつあった。かつて地中海沿岸に覇を唱えたオスマン朝は、20世紀に入る頃までは何とかリビア地域を保持していたが、ほとんど西戎(オリエント世界)に押し込まれていた。アフリカ各地の非文明的な現地国家の殆どは、列強の侵略と進出により滅ぼされていた。
 蓬莱が勢力下に治めた土地では、現地住民の自治政府や王国が存続している事になっていたが、近代化からは遠いところにいるため、全てが自治国や保護国の扱いであり、諸外国列強も蓬莱の植民地と認識していた。日本が領有宣言していたマダガスカル島にあった現地王国も、王国や王家は残されていたが同様の扱いとなった。
 そしてアフリカ分割の発端となった蓬莱だったが、色々な所に足を伸ばしていたので、広大なコンゴ以外にもコンゴからカメルーンに至る中央アフリカ、西アフリカのトーゴ、南西アフリカとしえ区分されていたナミビア地域を得ることになった。
 なお蓬莱がナミビアに行ったのは、そこが白人の手が薄かったのもそうだが、当初は北隣のアンゴラにかつて白人に長らく抵抗した現地国家があると考えられていたからだった。また奴隷海岸と並んでアンゴラ(+コンゴ)が奴隷貿易の拠点だったことも影響していた。出来うるならば抵抗していた人々の末裔を見つけ、現地住民による新たな出発ができないかと画策した者による詳細で根気強いな探検こそが、結果的に蓬莱にナミビアをもたらしたのだった。事の発端となったコンゴ探検の最初の理由と、皮肉ながら同じであった。
 またトーゴを得た経緯も、少しばかり複雑だった。ブリテンに抵抗を続けていたアシャンティ連合王国の一つエドウェソ(族)王国の皇太后ヤア・アサンテワを支援するために、1875年に作った拠点が発端となっている。
 1874年に、ブリテンがアシャンティ連合王国の首都クマシとエルミナ城を陥落させる事件があり、蓬莱の一部の者が隣接するトーゴへの強引な進出を始め、蓬莱国民の多くもこれを支持。大量の募金を得た支援団体は、傭兵を募って勇躍現地で活動を開始する。その後現地は、白人優越主義と人種差別反対で対立するブリテンと蓬莱の最も熱い係争地となった。
 そして蓬莱領とされたトーゴと隣のブリテン領アシャンティ(後にガーナと改名)は、ベルリン会議が開かれるまで争いの場となった。現地に進出した蓬莱人が、隣から逃れてきた現地住民をかくまったからだ。ヤア・アサンテワも最終的にはトーゴを経由して蓬莱に亡命し、その後長らく抵抗運動を行っている。
 ただしブリテンと蓬莱の現地での争いは、あくまで民間レベルの抗争と位置づけられた。またベルリン会議で国家間で取引が行われたため、結局それぞれの進出地域を植民地とすることで落ち着かざるを得なかった。蓬莱人の一部には、時間をかけて現地人をクリアランスしたいという意図はあったのだが、時代がそれを許さなかった。
 他にも、争いが伴うところも多数あった。
 ブリテンとドイツは、互いのアフリカ大陸縦断計画に従って何があるのかもよく分かっていないようなスーダンの僻地で対立した。エチオピア王国に対しては、蓬莱が積極的に支援したり近代化の援助を行ったため、周辺に進出したブリテン、イタリアとエチオピアが度々衝突する事になった。またモロッコを巡っては長年フランスと蓬莱の対立が見られたし、その南にあるスペイン領リオデオロは、19世紀も終末に差し掛かった頃に蓬莱が戦争で得たアフリカで最初の土地となった。
 なお、蓬莱がリオデオロを獲得した戦争の原因は、アフリカでの問題にあったわけではなかった。
 問題はカリブ海地域で起こった。

 蓬莱の国家防衛上で重要と考えられたカリブ海は、既に古くからヨーロッパ各国によって植民地支配されるかスペインから独立しており、蓬莱の入り込む隙間は早くから無くなっていた。16世紀の頃から、カリブ海地域はヨーロッパの砂糖製造地帯だった。
 しかもカリブ諸国と蓬莱の関係は、有色人種同士という事もあってか比較的良好だった。そしてカリブに残されていたヨーロッパ勢力の大きな植民地の一つがスペイン領のキューバであり、キューバは蓬莱領であるフロリダ半島の先に位置する国防上でも重要な場所を占めていた。
 そうした経緯もあり、蓬莱とスペインの関係はあまり良好とは言えなかった。アフリカ西部の植民地問題でも衝突していた。
 そしてスペインの各地での統治失敗につけ込む形で、無理矢理戦争に突入する。これが1898年に行われた「蓬西戦争(蓬莱=スペイン戦争)」になる。
 しかし蓬莱側の戦争理由は明白だった。
 1895年から起きたキューバでの原住民の独立運動により、世界最大の民主国家にして日本人を中心とする多民族国家である蓬莱にとって主に感情面で支援する理由となりえた。しかし国が動いた事は、当時からしても常識からは外れていると言えた。
 このためスペインと蓬莱の争いが加熱するまでは、ヨーロッパ諸国は蓬莱の行動を内政干渉だとしてかなり強く非難していた。蓬莱という巨大な有色人種の新興国家がスペインという白人国家を敵としたため、ヨーロッパ列強からの警戒と反発は強かった。友好的だったフランスですら、蓬莱に対する警戒を強めた。
 しかし蓬莱と実際争うという国は現れなかった。
 当時ブリテンは、ケープ南部でオランダ移民とブーア戦争を戦っていたため、介入すべき戦力と余裕がなかった。フランスは、カナダに飛び火しない限り結局は音無の構えだったし、正直カリブやスペインのことなど知ったことではなかった。カリブの価値である砂糖産業は、既に国内で十分にまかなえた。実利の問題として、蓬莱との友好関係を維持する方がはるかに重要だった。何しろ蓬莱は、フランスがブリテンと対抗するために必要な貿易相手国だった。アフリカでの争いがあるのに、これ以上蓬莱との関係を悪化させるわけにはいかなかった。ロシアはドイツと北ユーラシア連合に完全に封じ込まれており、ヨーロッパ以外へのリアクション能力はなかった。他のヨーロッパの中小国に、遠くから小声で文句を言うという以上の行動がとれるわけもなかった。何しろ相手は、総人口が一億人を超える大国なのだ。潜在的な軍事力も、統合戦争での怪物ぶりから疑う余地がなかった。
 結局、軍事を伴った外交的介入できるだけの余裕を持っていた列強は、ドイツと日本しかなかった。
 そして日本の近在にはスペイン領のグァム島があったが、日本人にしてみればほとんど忘れていた場所だった。
 当然何の準備もしておらず、戦争が起きても戦闘は発生せずに現地スペイン総督が降伏したため、物理的な介入もできなかった。またこの頃日本は、自国領域を守る以外で列強と争う気を持っていなかった。ましてや蓬莱を白人国家が並んで非難しているとあっては、同じ有色人種国家として応援するのが日本の「民意」だった。
 つまりドイツが、蓬莱とスペインの戦争に介入してくることになる。しかもドイツも、新大陸地域に一つぐらい橋頭堡もしくは植民地を持っておきたいと考えていた。このため開戦前から、スペインに助力するか蓬莱と共にスペインを叩くかの天秤を図っていた。
 そしてドイツの選択肢が、双方の政府の仲立ちによってスペインと蓬莱から領土をかすめ取ることであった。まさに帝国主義的であり、ヨーロッパ的詐術の最たる例と言えるだろう。またこうした行動を取ったところに、当時のドイツが既に安定期に入っていた事が見て取れる。現にアフリカ分割競争では、相応の地位を占めていた。
 かくして蓬西戦争が、蓬莱連合の圧倒的という以上の状態で展開され、順当にスペインが惨敗した。カリブ海ばかりか、スペインの全ての海外領土に蓬莱の軍艦と海兵隊がやって来て旗を立て替えていった。蓬莱軍が攻めてこなかったのは、スペイン本土ぐらいだった。
 ドイツが仲介しハンブルグで行われた講和会議では、スペインはカリブのキューバ、プエルトリコ、アフリカのリオデオロ、太平洋のグァムというスペインに残された殆ど全ての植民地を失う。残ったのは、誰もが存在を忘れていた一部の小さな島々だけだった。
 なおドイツが仲介料としてスペインから得た場所はプエルトリコ島で、以後ドイツにとっての砂糖生産地と新大陸への橋頭堡となっていく。
 そしてこの戦争を最後に、列強による世界分割はほぼ完了した。
 世界はヨーロッパ、ラテン大陸そして日本人のテリトリー以外では、独立国を探す方が難しいという状況に陥ってしまう。そして最後に残された列強が進出すべき場所が、当時半死半生となっていた清帝国の支配領域だった。


●中華衰退と汎太平洋主義